魚眼レンズみたいに丸くなった地平線がどこまでも続いていた。上空3000メートルから見下ろすブリテン島には、もはやかつての都市の形跡は無く、ひたすら緑だけが広がっていた。
そんな広大なパノラマの中でルーシーが右目の眼帯を外すと、その下に開いた眼窩が虹色に輝き、彼女の視界の中で、まるでグリッドが描かれるように地上に半透明の線が伸びていった。彼女はそのグリッドから座標を読み取り、任意の場所にポータルを造り出すことが出来るらしい。
どういうことかと説明すれば……
3年前の魔王退治で右目の視力を失った彼女は、確かに視力は失ったけれど眼球自体がなくなったわけじゃないので、なんとか視力を回復出来ないかと試み、代わりに霊障を視ることが出来るという現代魔法を編み出していた。
彼女の言ってる霊障とはアストラル体のことで、どうせ元々アストラル界は目で見るような場所じゃないので、やろうと思えば出来るんじゃないかと試行錯誤を続けていたら、出来るようになっちゃったそうである。
なんというか、パーティーメンバーだった時も天才肌だと思っていたが、鳳が去った後はもはやチートレベルで、本当は彼女のほうが転生者なんじゃないのかと思うくらいである。
ともあれ、彼女は右目でアストラル界、左目で物質界を同時に視ることによって、アーカーシャに記述された情報体としての世界を『視』ることが出来るようになったらしく、それによって自分の住む世界の正確な空間座標を割り出すことが出来るそうである。
何か凄そうなのは分かるが、そんなことが出来て何の得があるの? と思うかも知れないが、そこはそれ、彼女が空間魔法のエキスパートだと言うことを思い出して欲しい。
鳳もポータル魔法を使えるが、彼は自分が行ったことがある『街』にしかポータルを作れなかった。
しかし、彼女は自分が知っている場所なら、どこにでも作ることが出来る……つまり、一度も行ったことが無くても、たった今、目で見た場所ならポータルを作れちゃうわけだ。
すると、高い場所から遠くを見てそこまで飛ぶ、ということを繰り返せば、ある意味彼女は地球上どこへでも瞬間移動することが出来る。そしてそれを更に効率よくするのが先の霊視であり、これによって彼女は例えば夜間や水中などの殆ど視界がない状況でも、問題なく世界を視ることが出来るようになった。
だから例えば鳳やウリエルが彼女を空高く連れ出せば、高度3000メートルからならおよそ200キロの範囲が見渡せる計算であり、200キロ先なんて常人には殆ど点にしか見えないのだが、彼女なら問題なく『視』て飛ぶことも可能というわけである。
「なんて言いますか……あなた方が
「俺もそう思います。ギヨームじゃないけど、おまえが神かって言いたくなる」
「えへへへ、二人共褒め過ぎだよ……もっと言って」
ルーシーは目尻をだらしなく下げながら、調子のいいことを言っている。しかし、調子に乗りやすい反面、自信が足りない性格も健在のようで、
「この上認識阻害の魔法にも長けているとか……ミッシェル様にも驚かされましたが、あなたは彼の上を行きますね」
「いやいやいやいや! とんでもない! あの人になんて、私は遠く及ばないよ!?」
「そうなのですか? 私には違いが分からないのですが……」
「大体、私がこの力を得られたのも、私が知らない精神世界のことを教えてくれたのもミッシェルさんだからね。新魔法を作る時に相談に乗ってくれたのもあの人だし、私の無茶なお願い聞いてくれたり、頭が上がらないのです」
「ははあ……彼はあなたのお師匠様だったのですか」
「そのうちの一人ですね。彼女には師匠があと二人いる」
そう考えると、三人の偉大な師匠に可愛がられてここまで育ったわけだから、ある意味彼女の最大の武器はその愛嬌だったのかも知れない。
「皆様、紅茶をお淹れしましたので、どうぞお召し上がりください」
そんな会話を交わしながらワープを繰り返すこと数回、ルーシーのMPが切れてしまったので休憩に入った。彼女の魔法は強力だが、強力故にやっぱり消耗が激しいらしい。彼女は鳳ほど最大MPに余裕はない上に、彼みたいに無尽蔵にMPをストックできるわけでもないので、回復は時間と薬に頼るしかなかった。
幸い、カフェインでそれなりに回復するのと、鳳が能力を取り戻したお陰で、効き目がありそうな草をすぐに見つけることが出来たのだが……しかし、どうしてイギリスにこんなものが自生しているのだろうか。アムステルダム辺りから紛れ込んだのであろうか。そんなことを考えつつ、彼は一人で周辺の魔族を掃討しつつ散策をしていた。
話は前後するが、鳳たちは現在、ギヨームたち反乱軍の本拠地であるシェトランド諸島を目指していた。
自分は神でもなければ操られてもいないと確信した鳳は、ギヨームの目を覚ますためにも、反乱を鎮圧するためにも……ついでにちょっと頭に来たので、殴り込みをかけに行くことにしたのだが、わざわざこれから殴りに行きますよなんて断りを入れるのはヤクザでもしないと思い、当然のごとく奇襲をかけることにした。
となると、まずはどうやって敵の本拠地に乗り込むかだが、相手は島に陣取っているから、当然鳳たちが海、それもフェロー諸島のある西からやってくると思っているだろう。だからその裏をかいて、スコットランド北端から島内に直接ポータルで飛んでしまえば、相手に戦闘準備されずに済むと考えたのだ。
因みに、たったの四人だけで奇襲をかけようとしているのは、天使たちが戦力として役に立ちそうもなかったからだ。どうも神に操られているらしき天使たちは、堕天使の姿を見るだけで正気を失うらしく、そんなのを連れて行ったところで混乱を来すだけだし、交渉の余地を無くす危険性すらあった。
かと言って、この戦いにジャンヌ隊を巻き込むわけにもいかず、サムソンは怪我をしておりミッシェルは戦闘向きじゃないので、たまたまイギリスに来ていたこともあって、そこから少数精鋭で乗り込むことにしたのだ。
奇襲メンバーは鳳、ルーシー、アリス、ウリエルの四人で、攻守のバランス的にも最適と思えた。ただ、先の通り、天使は神に操られている可能性が高いので、最悪の場合ウリエルが暴走することもありうる。その時はルーシーの空間転移で脱出させる予定であった。
そうなると前衛を一枚失うことになるが、それでも油断しきってるギヨームに一太刀入れることくらい、わけないだろう。ケーリュケイオンを取り戻した今、鳳は全ての古代呪文が使える。ならば最大火力でぶっ飛ばすまでだ。
********************************
「……てなことを考えてるんだろうな、今頃」
シェトランド諸島中央、メインランド島の入り組んだ港に、今すべての堕天使たちが集結していた。ギヨームはざわつく人混みを避けて、少し離れた丘の上からその喧騒を眺めていた。堕天使たちはこれから、鳳不在のフェロー諸島へ奇襲をかけるつもりで、士気高揚のために酒盛りをしていたのだ。
彼らは決死の覚悟で、天使たちに最後の決戦を挑むつもりだった。本来なら、もう少し時間をかけて説得するつもりだったが、鳳が力を取り戻した上に、考える限り一番厄介な人物が召喚されてしまった今、ここが落ちるのも時間の問題である。だからその前にやることをやらなきゃならなかったのだ。
言わずもがな、鳳たちの奇襲はとっくにバレていた。ルーシーのポータルを乗り継ぐというレーダーにも反応しない完璧な奇襲を、どうしてギヨームたちが先に気づいていたのかと言えば、それこそ普通ではありえない現象が幾度も起きているからだった。
ルーシーには劣るかも知れないが、実はギヨームの空間認識能力も非常に高いのだ。カナンの村でアスタルテに挑み、一度死にかけたことで得た強力な空間の歪みを検知する能力だけなら、もしかするとルーシーを超えているかも知れなかった。
彼はこの能力で、見えない水平線の向こう側を知覚し、あまつさえ空間の歪みを利用して標的を撃つなどという芸当を行ってきたのだから、そんな彼のすぐ近くでワープポータルのような空間の歪みを生み出す魔法を連発していたら、ここで何か変なことが起きていますよと宣伝しているようなものだった。
そして断続的に起こる時空震から、ギヨームはルーシーが召喚されたことを察知し、となると当然、鳳がケーリュケイオンを取り戻したことも予想がついた。すると、次に鳳が考えそうなことといえば奇襲しかなく、実際に時空震が自分の方に近づいてきていることから、自分たちに残された時間は少ないと考えたわけである。
鳳が来たら確実に戦闘になり、そして自分は負けるであろう。だがギヨームはそれを楽しみにしていた。
そんな彼が紫煙をくゆらせながら丘の上で黄昏れていると、酒盛りの輪の中から一人の堕天使が彼の方に向かって歩いてきた。コウモリ羽の堕天使アザゼルである。彼とはこの流刑地に流されてからの長い付き合いだった。彼がまだ天使だった頃、二人はコンビを組んで多くの魔族を葬ってきたのだ。そんな彼が堕天使になったことで、今回の事件が起きたのだが……
アザゼルはギヨームのそばまで歩いてくると鼻を摘んで不快そうに言った。
「タバコは体に悪いからよせと、いつも言っているだろう」
「これ以上長生きするつもりはねえんだよ。もう前世より長いくらいだ」
タバコを吸い始めたのもこの流刑地に来てからだった。刑務所の中では物々交換が基本だから、一本二本と数えられるタバコは貴重だった。ギヨームはその空間認識能力と斥候スキルとで物資調達力が高かったから、いつも彼の手元にはタバコが溢れており、彼はそれに惜しげもなく火をつけた。
アザゼルはそんな彼の相棒として小言を言ったり、一緒に物資調達を手伝ってくれたりする、兄貴分みたいなものだった。だがそんな彼は、ちょっとしたミスからギヨームの目の前で魔族になってしまったのだ。
ギヨームはそれを後悔すると同時に、神への憎悪を更に膨らませた。だから彼はこの反乱の最後を見届けたいと思っていたのだが、鳳を相手に時間稼ぎをする人物も必要だろうと、一人だけ島に残ることにしたのだ。
「悪いな、一緒に行けなくて」
ギヨームがそのことを謝罪すると、アザゼルは首を振り、
「いいや、寧ろ私の方こそ君を巻き込んですまないと思っている。本来、これは我々と神の問題だった。君が気に病むことではない」
「俺も同じ神に挑む者だから、巻き込まれたなんて思ってないさ。それに俺は、数多くの魔族を屠ってきたという罪がある」
「それも罪ではない。君は何も知らなかったのだから」
二人の間で沈黙が流れる。丘を駆け上るように風が吹き抜け、楽しそうな酒盛りの声を届けてくれた。アザゼルはそんな仲間たちの方を見ながら、
「……君は本当に、彼が神だと思っているのか?」
ギヨームは中指で吸い殻を弾きながら、
「正直、可能性はゼロに近いと思ってるね。あれが本当に神なら、戦闘力はともかく、普段の行いが間抜け過ぎる」
「だったら、戦う必要なんてないのではないか? 私もフェロー諸島で彼と少し話したが、ちゃんと話が通じる相手だと思った」
一人だけ島に残り、鳳の足止めをするというギヨームのことを、アザゼルは不安に思ったのだろう。降参を勧めるようなセリフに、しかしギヨームは首を振った。
「だが、ゼロじゃない。神の居場所、目的、その存在が明らかにならない限り、信じるわけにはいかないだろう。おまえは、神に操作されていた時の自分のことを覚えているか? その時、どんな気分だった?」
「ふむ。あまり覚えてはいないな……ただ、理由もなく堕天使が憎かった」
「俺は、あいつのことを気に入ってるんだよ。理由もなく」
無表情の堕天使にしては珍しく、アザゼルは少し顔を綻ばせた。
「そうか……君は本当に仲間を信頼しているんだな。だから盲目的に信じるだけでは駄目だと思っているのだろう」
ギヨームはその言葉に何も答えなかった。
と、その時、太陽に雲が掛かったかのように、急に頭上に影が差した。見上げればそこにはクジラのような巨大な生物が浮かんでおり、それは優雅に尾ひれを振りながら、ゆっくり泳ぐように彼らの上を通過していった。
空中要塞メルカバー……堕天使たちによって名付けられた、今回の作戦の切り札だった。酒盛りが終わったら、彼らはあれに乗って天使たちの待つフェロー諸島に向かうことになっていた。
因みにそのメルカバーも元天使……この刑務所でアザゼルたちと同じように、魔族と戦っていた堕天使であった。それが長い年月をかけて進化を遂げ、今となってはあんな姿になっている。元となった天使の人格は既にない。
神はなんて罪深いものを創り出すのだろうか。そんな言葉がどこからともなく風にのって聞こえてくる。ギヨームはまたタバコに火を付けると、線香を立てるようにそれを地面に突き立てた。