光の扉を抜けた先には、見上げるほど巨大な一本のリンゴの木が立っていた。その中間には小さな小屋が、麓は広場になっていて、そこにウッドテーブルと家庭菜園が見える。以前は城の裏庭に続いていたはずが、今回はいきなりメアリーの住むツリーハウスの目の前に出てきてしまい、鳳は少々面食らった。
だが、思い返してみれば、あの時は城の裏ステージみたいな不思議な空間から移動したはずだから、今回とはまた条件が違った。ここがどこにあるのか分からないが、城の外に陣取る帝国軍が発する威嚇射撃や鬨の声は聞こえてくるから、これらの空間がどんな風に繋がってるのかは、多分考えるだけ無駄だろう。
ウッドテーブルではランプが灯っており、その仄暗い明かりがテーブルの上に並べられていた料理を照らしていた。さっきまで食事をしていたのだろうか? 冷え切ったシチューと食べかけのパンが転がっている。見れば料理皿は二組あり、もしかしてアイザックと鉢合わせてしまったかと警戒したが、幸い周囲にはもう彼の姿は認められなかった。
緊張を解いて広場の中ほどに進んでいくと、頭上のツリーハウスからゴソゴソと誰かが動く気配がした。
「誰かいるの……?」
鳳たち4人が近づいていくと、ツリーハウスからひょっこりとメアリーが顔を覗かせた。二つ結びの金色の髪の毛が、まるでシルクのように重力によってサラサラと滑り落ちる。その神秘的な紫の瞳は、この暗がりでは真っ黒に見えた。ぼーっと浮かぶ白い顔は緊張感からか強張っており、もし彼女と知らずに突然出くわしてしまったら幽霊と見間違えたかも知れない。
「俺だ、メアリー。鳳白だ。覚えているか?」
鳳は彼女の姿を確かめると、はしごの下まで駆け寄って声をかけた。
覚えているか? と聞いてはみるが、会ったのはたった一度きり、あれから三ヶ月も経っているのであまり期待できないと思っていたが、
「あー! ツクモだツクモだ!」
メアリーは木の下にいるのが鳳であるとすぐ気がつくと、強張っていた表情をほころばせ嬉しそうに、ハシゴを使わずぴょんと飛び降りてきた。そしていきなり飛び降りて来てびっくりしている鳳の胸に飛び込むと、背中に手を回してギュッと彼のことを抱きしめた。
「また会えたわね。今日はどうしたの?」
彼女はそう言って、彼を見上げながら、これ以上ないくらいの笑顔を見せた。
「良かった。俺のこと覚えててくれたようだな。忘れてたらどうしようかと」
「当たり前よ。つい最近のことじゃない。そんなに物忘れはひどくないわ」
どうやら、メアリーは鳳のことをはっきりと覚えていたらしい。それにしても懐きすぎなのは、彼女の日常がそれくらい刺激に乏しいからだろう。三ヶ月と言えば鳳からしてみれば結構な時間に思えるが、考えても見れば、彼女はこの中に300年も閉じ込められているのだ。ほんのついさっきと言っても過言ではない。
しかし相手が小学生みたいだとは言え、好きになった相手と同じ顔をした少女である。鳳はほんのりと顔を赤らめながら、彼女の視線から逃れるように顔を背けた。するとそんな二人の密着具合に嫉妬するようにジャンヌが二人の間に割って入ると、
「もうっ、女の子がはしたないわよ。離れなさいっ!」
っと言って、メアリーのことを引き剥がした。するとメアリーはそんなジャンヌのことを見て、怯えるような目つきに戻ると、鳳の背中に隠れながら、
「あ、あの時の怖い人も一緒だ……」
「誰が怖い人よっ! 失礼しちゃうわね」
ジャンヌはプンプンと怒りながら、反射的にそう答えたが、すぐにあの時自分が何をしていたかを思い出し、
「ああ、そう言えばそうだったわね……でも、あの時は仕方なかったのよ。神人を倒さなきゃ、白ちゃんが殺されちゃいそうだったし……私も必死だったから」
「メアリー、このおじさんは顔は不気味だけど、怖いおじさんじゃないんだよ」
「誰が不気味よっ!」
鳳がフォローになってないフォローを入れると、おっかなびっくりといった感じではあったが、メアリーはおずおずと彼の背中から出てきた。
「そ、そう……そうよね。ならいいんだけども……私もちょっとナーバスになってたから……きゃあっ!!」
彼女がそう言って相好を崩した時だった。
突然、遠くの方から、ドンッ!! っと大きな爆発音が響いてきた。鼓膜がビリビリと震え、腹の底から響くような振動が、ズンと体を突き上げた。
すわ、攻撃が始まったのか!? とも思ったが、続けて聞こえてきた兵士たちの鬨の声がすぐに収まったところからすると、まだ戦端が開かれたわけではないようだ。恐らく威嚇射撃だろう。
メアリーはその音に驚いて、まるで雷を怖がる子供のように耳を塞いで地面に座り込んだ。その怖がり方が尋常じゃないからどうしたのかと思ったら、彼女はしゃがんだままの姿勢で鳳の裾を引っ張りながら、
「ねえ……さっきから一体、外で何が起きてるの? 今日は朝からずっと大きな音が聞こえてくるけど……」
「君は何も聞かされてないのか?」
メアリーはコクリと頷いた。鳳はチラリとウッドテーブルの食器に目をやった。食事は二人分……きっとさっきまでアイザックが居たんだろうに、彼は何も言わなかったのだろうか。その無神経さに腹が立った。
「アイザックはなんて?」
「特に何も……ちょっと城下でトラブルがあって大騒ぎになってるけど、演習みたいなものだって。ここにいれば安全だって……でも、そんなこと言いながら、すごく寂しそうな顔してたから、気になっちゃって……ツクモは何か知ってるの? きゃあっ!」
話の途中でまた大きな音が鳴って、彼女は耳を塞いでうずくまった。彼女は怯えきった表情で、
「ねえ、もしかして……この城に魔王が攻めてきたのかな? だったら隠れなきゃ」
そんなセリフをつぶやきながら真っ青になっていた。
まさか、魔王なんているわけないのに、ここまで怯えてしまうのは、きっとこの空間から出られないせいだろう。考えても見れば、外の音だけが聞こえて、何が起きているのかわからないのはとんでもなく怖いことだ。
鳳はすぐに彼女に何が起きているか話そうとした。しかし、外で戦争が起きようとしていると言いかけたところで、その言葉を飲み込んでしまった。ここから出れない彼女に、そんなことを言ってどうなるんだ? 余計に不安がらせるだけじゃないか。
多分、アイザックもそう思って何も言えなかったのだろう。外の世界を知らない籠の鳥に、自由を教えて何になるのか。きっと彼女は外の話を聞く度に、その冒険に思いを馳せると共に、傷ついてもいたはずだ。鳳は歯がゆくて奥歯を噛み締めた。
と、その時、メアリーはそんな鳳の背後にいる残りの二人を見ながら、
「ところで、そちらの二人は? さっきから見かけない顔だなって思ってたけど」
メアリーがそう言って二人の方を指差すと、鳳が説明するよりも先に
「久しいのう、メアリー。儂のことをまだ覚えておるか?」
「え……? だあれ、あんた……あたし、知らないわよ?」
すると老人は少し残念そうな、それでいて穏やかな慈しむような表情で、
「覚えておらぬか。そうか……そうかも知れん。お主と最後に会ったのは、それはもう随分と昔の話じゃ。お主はまだ幼く、儂もまだフサフサじゃった。お主は儂のヒゲを気に入って、よくブチブチと引き抜いておった。お陰で暫く化膿して痛かったわい」
「そ、そうなの……? ごめんね。1年や2年前のことなら覚えてられるけど……」
「よいのじゃ。それよりもメアリーよ。お主は外の世界のことを知りたいと言ったが、その言葉に偽りはないか?」
大君に突然そんなことを言われてメアリーは戸惑った。しかし彼女は確かに、外で何が起きているのか知りたかった。だから特に何の気もなくこう返した。
「ええ、もちろん知りたいわ。教えてくれるの?」
「いやそうではない」
老人はそんな彼女に首を振ると、
「儂はお主に外の世界のことを教えに来たわけではない。実はお主のことを、外に連れ出しに来たのじゃ。昔、お主の父君に頼まれてのう……」
「え……? あたしのお父さんに??」
メアリーは目をパチクリさせて、隣に佇んでいた鳳の顔をマジマジと見つめた。恐らく、それが嘘か本当か聞きたいのだろうが、鳳にはそれが分からない。肩を竦めてみせると、彼女は眉をひそめて複雑そうな顔をしながら、
「あたしはお父さんのことを何も知らないわ。あなたが知ってるというのなら、どういう人なのか聞かせて。今、何をしているの?」
すると大君はほんの少し困ったような表情をしてから、
「死んだ……」
と簡単に一言返した。
「そう……」
「だいぶ前の話じゃ。父君は、お主がここに閉じ込められていることを気に病んでおった。出来れば外に出してやりたいと。同時にヘルメス卿がお主をここに封じた理由も理解しておった。故に、儂に言ったのじゃよ。もし、お主が望むのであれば外に出してやれと……」
「本当に……外に出してくれるの?」
「ああ、もちろんじゃとも」
大君がそう請け合うと、メアリーは一瞬だけパーッと瞳を輝かせた。だが、すぐにその表情が曇ったかと思うと、どこか後ろめたそうな顔をしながら、鳳、ジャンヌ、ついでにギヨームの顔色を窺うような目つきで見えてから、
「でも、勝手に出てっちゃっていいのかな? アイザックに何も言わずに行くのは悪い気がするわ」
「彼に言えば必ず止められるじゃろう。彼に言われて考えを改めるのであれば、ここに残るのが良いじゃろう」
家督を継ぐということは、その意思を継ぐということだ。立場上、アイザックが彼女を自由にすることはないはずだ。
大君の言葉にメアリーは眉根を寄せて押し黙った。きっと後ろめたいだけではなく、ここから出るということに不安も抱いているのだろう。彼女の視線が鳳の視線と交錯する。彼は何か切っ掛けになるような言葉を掛けてやりたかったが、すぐには何も思い浮かばなかった。
と、その時、蚊帳の外だったギヨームが、
「おい、爺さん」
と言って何かの袋を放り投げた。大君がそれを受け取り中を開けると、ズシリとした袋の中からジャラジャラと銀貨が転がり出てきた。
「テーブルの上に置いてあった。多分、路銀のつもりだろう」
「左様か……」
メアリーは老人からその袋を受け取りながら、
「これは、アイザックが置いていったの……?」
「じゃろうな。ヘルメス卿は儂が来ることを、ある程度予見しておったのじゃろう……そして、お主が出ていくことも」
「そう……アイザックは、もうここには来ないつもりだったのね」
鳳たちがここに来る前に、彼女はアイザックと一緒に居た。きっとその時、いつもとは様子が違うことに彼女も気づいていたのだろう。アイザックは外の様子を何一つ彼女に話さなかったようだが、これだけ盛大に色んな音が聞こえてきていては、何が起きているかは彼女だってある程度想像がついているだろう。
鳳はなおも迷っているメアリーに向かって言った。
「いこう、メアリー。多分、次にここを訪れる者がいるとすれば、それはアイザックでも俺たちでもない。きっと魔王の手下に違いない」
魔王じゃなくて、本当は外にいる帝国兵の誰かだろうが……彼女に危害を加えるだろうという点では、どちらも変わらないだろう。だから今、彼女を連れ出すしかないのだ。鳳は腹が決まった。彼女を助けたい、そう思った。
彼がそう言うと、メアリーはほんの少し考えるような素振りをしてから、
「……わかったわ。多分、もうここにいるのは危険なのね」
「そうかもな」
「なら、私を外に連れてって。本当は……ずっと外の世界に憧れてたの」
彼女のその言葉を待っていたかのように、老人は手にした杖を高々と掲げると、まるで天の神様に向かって祈祷を捧げているかのように、厳かな声で高らかに宣言した。
「理非曲直。理は有限、時は無限。永劫回帰。始まりは終わり、終わりは始まり。マイトレーヤよ、我は願う、永劫の未来においてこの楔を断ち切り給え」
その時……鳳たちのいる空間を、何かが通り過ぎた。
水槽の中で断層のように泡が立ち上るように、地震が起きて津波が発生する時のように、あちら側とこちら側を分ける線のような何かが空間を走査していった。誰もがぼんやりと何も考えず沈黙を保っているとき、天使が通り過ぎたと形容することがあるが、そんな感覚が鳳たちの胸に去来し、それが過ぎ去った後には、彼らは根こそぎ体力を奪われたような虚無感に襲われた。
目眩がして視界が暗転する。貧血にでもなってしまったのだろうか?
まるで自分のじゃなくなったみたいに膝がガクガクし、よろめきながら何とか体勢を立て直すと、鳳はついさっきまでいた大きなりんごの木の下ではなく、薄暗い地下牢の中に立っていることに気がついた。
無論、そこには見覚えがあった。メアリーに会うために開いた、あの光の扉があった牢屋だった。
どうやら老人が何かをした瞬間、あの空間から元の場所に戻されたらしい。それも一瞬で。周囲を見渡すと、ジャンヌにギヨーム、老人、そしてメアリーが居た。
老人は、彼女をあの場所から連れ出すことに成功したのだ。
「時間を無限に加速することで、結界が張られる以前の状態に戻したのじゃ。今はもう、あの空間に繋がる扉は存在しない」
もう元には戻れないと聞いて、メアリーはほんの少し寂しそうな顔をした。
「そう……でも、仕方ないわね。本当は持ち出したい物もあったんだけど」
「それは申し訳ないのう。儂も少し気が急いていたようじゃ……」
老人のその言葉はどうやら本当らしかった。どれくらい今回のチャンスを待ちわびていたか知らないが、それが成就した今、彼はほんの少しばかり気もそぞろになっていたようだ。
牢屋の周辺はしんと静まり返って薄暗く、鳳たちは完全に油断していた。しかし、トラブルはそんな油断した時にこそ起こるものである。
「そこに誰かいるのか!?」
鳳たちは元の牢屋に戻ってきた時、そこが城の中であることを完全に忘れて安心しきっていた。そんな弛緩した雰囲気の彼らに、何者かの
本来なら敵の接近など許すはずもないギヨームは舌打ちすると、身を屈めて空中からピストルを生成した。老人は慌ててピュイピュイピュイっと口笛を吹き始める。
だが、その術式が完成するより先に、鳳たちのいる場所に繋がる通路の先から人影がひょっこりと現れた。人影はまさかこんな場所に誰かが潜んでいるとは思いもよらなかったのか、ビクリと体を震わせ、腰に佩いた剣に手をやった。
その瞬間……人影の機先を制するようにギヨームが飛び出したのだが、
「待って!」
そんな彼を押し止めるように、ジャンヌが一瞬だけ早く彼の前に躍り出た。
突然、進路を絶たれたギヨームがバランスを崩してたたらを踏む。
カンカンカン!! っと盛大な足音が牢屋全体に響き渡って、老人の認識阻害の魔法は完全に無駄に終わってしまった。
万事休す。人影の向こう側から、バタバタと数人の足音が近づいてくる。
「勇者様! どうかされましたか!?」
見えない壁の向こう側から、兵士たちの声が聞こえてきた。
しかし、鳳たちの前に現れた勇者と呼ばれた人影……カズヤはその声に答えるために振り返ると、
「なんでもない! ちょっと足を踏み外しただけだ」
「大丈夫ですか? 怪我はございませんか?」
「ああ、ありがとう。こっちは異常なしのようだ。お前達は引き続き、城内の警戒に当たれ!」
「かしこまりました」
カズヤに命令された兵士たちはそう返事して去っていった。彼はその後姿を敬礼しながら見送った後、ゆっくりと鳳たちの方へと向き直った。
目の前に、3か月前に別れてそれきりだった仲間がいる。久しぶりに再会した彼はどこか草臥れて見えたが……その顔つきは、精悍な大人のそれに変わっていた。