暗がりに浮かび上がった光る球体の向こう側には、魚眼レンズで覗いた感じような感じに無機質な部屋が広がって見えた。その壁は金属で出来ていて、色鮮やかな線が縦横に伸びており、その線の一つ一つにはシルクプリントみたいな記号が添えられていた。恐らく病院の廊下みたいに、それぞれのラインが順路を示しているのだろう。縦横に伸びているのは、そこが無重力状態であるからに違いない。
「間違いないわ。ここは播種船の中よ」
鳳が内部の様子を窺っていると、背後からジャンヌの声が聞こえた。彼女が言うには16年前、彼女たちはこの中で目覚めて、カナンが作ったポータルで神域に向かったらしい。その出口はオーストラリアに直接繋がっていたから、こんなワームホールが東京にあることは知らなかったようである。
しかもその出口が鳳の実家(がかつてあった場所)とは……昔の人たちが、どうしてこんな場所にワームホールを作ったのかは気がかりだったが、いつまでもここで尻込みしているわけにはいかないので先に進む。
慎重を期したいところではあったが、ここに地上への出入り口があることは、播種船の管理者たるエミリアたちも知っていることだろう。でなければ、あんな派手な天使用トラップを作るわけがないのだから。そして当然、そのトラップを天使が抜けてくることも想定内だったはずだ。
鳳がワームホールを潜るやいなや、播種船内にはビービーとやかましい警告音が鳴り響いて、室内のあちこちでまた赤い目のような無数のランプが点灯した。銀弾を発するドローンの迎撃に、鳳は咄嗟に対応しようとしたが、入った先の気圧はともかく、それまであった重力がいきなりなくなってしまったから、彼は踏ん張りが利かずに空中にプカプカ浮いたまま身動きが取れなくなってしまった。
このままでは蜂の巣にされてしまう……と鳳が焦っていると、するとタックルするようにサムソンが飛び込んできて、彼を足場にして舞い上がり、天井を駆けてドローンの群れへと突撃していった。
無重力なんて始めての経験だろうに、一瞬にして感覚を掴むその適応力に驚いていると、続けてギヨームが飛び込んできていきなり銃を乱射し、その反動で明後日の方向へすっ飛んでいっては壁に激突して悲鳴を上げた。
「のわわああーーーっ!!」
どうやらこっちは無重力の戦いには向いていないようである。四番手にジャンヌが飛び出してきてサムソンの援護に向かう後ろで、鳳は空中をクルクル回転しながら腰のゴスペルを引き抜き、光弾を飛ばして二人に援護射撃した。
「無反動なんてずりぃ! 俺にもそいつを寄越せよ!」
「これは俺専用なの! だからミカエルに作ってもらえって言ったじゃないか」
鳳たちが言い争っていると、のそのそとアリスが這い出てきて、体が宙に浮くという状況を把握しきれず、何故か内股で身を固くしながら取り敢えず結界を展開していた。そして最後にルーシーが、両手でバランスを取るように体勢を整えながら出てくると、暫く考え込むような仕草をみせてから徐に眼帯をめくった。
すると突然、鳳たちの体がスーッと壁へ吸い寄せられていき、まるでそこだけ重力があるみたいに彼らは着地した。
「おわ? なんだこれ?」
「こないだの重力魔法の応用だけど……なんかいい感じになった?」
「おまえは天才だ!」
ギヨームは嬉々として援護射撃を開始した。鳳もアリスに二人を守るように指示してから、サムソンたちの加勢に向かおうとした。とは言え、彼が出る幕など殆どなかった。部屋内のドローンはあらかたサムソンとジャンヌが制圧してしまっていて、撃ち漏らしは手早くギヨームが片付けてしまった。
部屋は円筒状の通路みたい所で、突き当りにハッチ式のドアが見えた。その向こう側からも機械の制動音が聞こえてくるので、後続はまだまだやってきそうだが、逐次投入される戦力などまるで怖くはなかった。
無人兵器は人的コストという点では最強だが戦術がない。今のパーティーを阻めるほどの力はなく、露払いにもならないだろう。だが、そもそも鳳たちはここに戦争をしにきたわけじゃない。このドローンが守っているであろうエミリアや、播種船の量子化人間たちに用事があるのだ。早めに彼らに気づいてもらって、このドローンを止めてもらいたいところだったが……
「おい、どうする? 進むにしてもどっちへ行きゃいいんだかさっぱりだぜ?」
「おまえら最初ここにいたんだろう? どこに何があるか覚えてないのか?」
「ここにいたって言っても、すぐにポータルで移動しちゃって、本当に通過点でしか無かったのよ」
「仕方ないな」
鳳はため息交じりにそう呟くと、壁や天井に縦横無尽に引かれているラインに目をやった。部屋には出口が複数箇所あったが、ラインは全てそのいずれかへと向かっているので、最初に思った通り、それは目的地へ誘導する標識で間違いなさそうだった。
問題は、ラインに添えられている文字が省略されていて、何を意味しているかがわからないことだが……鳳はBRGかHQの文字が添えられた線のどちらかが正解であろうと見当をつけた。
BRGとは多分ブリッジの略で、船の艦橋へと繋がっている可能性が高く、もう一方のHQは司令室、ヘッドクオーターだ。そしてHQの方は白色で描かれ、他の線よりも一回り太くもあったので、恐らくこっちの方が本命じゃないかと思われた。
その旨を仲間たちに伝えると異論はなく、一行は白色の線を辿っていくことになった。プロテクションの魔法をかけたジャンヌが先行し、主砲のギヨームとルーシーが続く。その後を鳳とサムソン、最後尾にアリスと続く。
先行したジャンヌたちは、隣の通路に出るなりまたドローンと出くわし交戦しているようだった。銃声が断続的に続いていたが、間隔が長くなっているので、ドローンの数自体はどんどん減っているのだろう。このまま先に進むのは容易いと思われた。鳳は彼らに合流すべく先を急ごうとしたが、その時なんとなく違和感を感じて、ふと立ち止まった。
本当にこの先に進むべきなのだろうか?
船内がどのくらい広いかわからないが、正直、敵の手応えがなさすぎて、時間さえかければいずれ司令室にたどり着くのは間違いないと思われた。そして、そこにエミリアが待っているのだろうが……では、カナンはどこにいるのだろうか?
ミッシェルは、この先にカナンが待っていると言っていたが、ここはどこからどう見ても宇宙船の中であり、エーテル界ではない。それに、世界が滅ぶ可能性があるとも言っていたが、そんな気配も微塵も感じられない。
具体的に、何をどうしたら世界が滅んでしまうというのだろうか? もしかして、このドローンと戦ってはいけないのだろうか? しかし、先に進むには倒していくしか方法はないし……
一旦、戻るべきか? 振り返ってワームホールを覗き込むも、特に変わった様子は見受けられない。
「どうしたのだ、勇者? 置いていかれるぞ」
「……いや、なんでもない。すぐ追いかけよう」
鳳が悩んでいると、先に進もうとしていたサムソンが追い抜きざまに話しかけてきた。鳳はまだ少し迷っていたが、先に進むと決めたのは自分なのだと思いだし、考えすぎだと自分に言い聞かせて先に進んだ。
隣室もワームホールのあった部屋と同じく、円筒状の殺風景な通路だった。白線は一直線に部屋の奥のハッチを目指しており、鳳たちは空中遊泳をしながら次の部屋へと向かった。
ギヨーム一人だけが壁に張り付いていたが、他のメンバーはアリスも含めてすぐに無重力に順応したらしかった。特にサムソンはどこに目がついてるんだ? と言いたくなるくらい、縦横無尽に動き回っており、ギヨームに射線に出るなと度々怒鳴られていた。
奥に進むほどドローンの数は増えていったが、それでも最初の部屋を超えることは無さそうであった。歯ごたえのない敵を倒しながら、鳳たちは白線を頼りに部屋から部屋へ、ハッチからハッチへと移動し続けた。
一つ一つの部屋の大きさはまちまちで、中には一辺が数百メートルくらいありそうな巨大な空間もあれば、日本のワンルームマンションみたいな狭い通路もちらほらあった。それが迷路みたいにあちこちに繋がっていて、どうしてこんな構造になってしまったのか不思議でしょうがなかった。
部屋と言っているがどれもこれも通路でしか無く、人が住めそうな個室はどこにも見当たらなかった。あまりの生活感の無さに、本当にこの中に人間が存在するのかと不安になったが、考えても見ればここの住人は量子化された人間なのだから、個室なんてものは必要ないのだろう。
そう考えると、電脳空間みたいな場所がどこかにあって、彼らに気づいてもらうにはそこにアクセスするしか方法はないのではないか。この白線を辿った先にそれがあればいいのだが……そんなことを考えながら、細長い通路を通過していた時だった。
それまで、ビービーとうるさかった警告音が突然止んで、辺りが静寂に包まれた。急に静かになったせいか、耳鳴りがキーンと鳴って妙にソワソワした。警告音と共にドローンまで停止し、先頭でそれを蹴散らしていたジャンヌが肩透かしを食ったようにつんのめっては、空中を回転していた。
そして鳳たちが警戒するように壁を背にして周囲を見回している時、突然、彼らの目の前に半透明のホログラムが浮かび上がり、一人の女性の姿を映し出した。それはメアリーを少し成長させたようなそんな人物……
間違いない、エミリアがそこに立っていた。
『船内が騒がしいと思えば、侵入者なんて驚いたわ。まさか生きている人間とまた会えるなんて……あなたは、もしかして、ビリー・ザ・キッドね?』
「おまえがエミリアだな。こうして会うのは初めてだ」
エミリアは突然の来訪者に戸惑っているようだったが、そこにギヨームがいることに気づいて、まずは彼に話しかけてきた。
『ええ、そうね……あなたにとっては大した時間は流れてないのでしょうけど、私の主観時間ではあまりにも時が経ちすぎていて、すぐにはあなただって気づかなかったわ。それにしても、どうしてあなたがここにいるの?』
「そりゃ、おまえに会いに来たに決まってんだろ。ちょっと話が聞きたくてよ」
『いいえ、私が聞きたいのはそういうことじゃなくって、どうやってここに来れたのかってことなんだけど……それに、後ろの人たちは? その人たちも亡命希望者なの?』
「亡命? いや、そんなつもりはないんだが」
『え? それじゃあ、あなたは何しにここへ来たのよ。量子化して私たちと一緒に来るんじゃないの?』
「だから、話を聞きに来たって言っただろ。それから、おまえに会いたいって奴を連れてきたんだよ。誰だと思う? きっと驚くぜ」
『はあ? あなた、何を言って……』
エミリアはギヨームの背後にいる鳳たちのことを警戒しながら見つめている。鳳は、その懐かしい姿に思わず目頭が熱くなったが、懸命に涙を堪えながら、どうにかこうにか言葉を発した。
「エミリア……俺だ。なんて言っていいか分からないけど……久しぶり」
『……誰?』
彼女は怪訝そうに鳳の顔を見つめている。彼は呼吸が乱れそうになるのを抑えながら、
「俺だよ。鳳白だ。小中学と、同じ学校へ通っていただろう? 覚えているか?」
鳳がそう言った瞬間だった。ホログラムの彼女の表情がみるみるうちに険しいものへと変わり、エミリアは目を見開いて鳳の顔を凝視した後、一拍置いてから叫んだ。
『どうして! あなたがここにいるの!?』
「どうしてって……」
『今すぐ船から降りなさい! 早くっ!!』
その反応が唐突すぎて、鳳たちは面食らってしまった。鳳は、どうして自分のことを拒絶するのかと若干傷ついたが、そう言えばギヨームともども彼女も鳳が神なんじゃないかと疑っていたことを思い出し、
「あー、そういや、おまえも俺のことを神じゃないかって疑ってたんだっけ? ギヨームから聞いたけど、その辺のことはもう解決してるんだ。今日はそれで色々話を聞きたくてここまで来たんだけど」
『違う! そうじゃなくて……いいから今すぐ船から降りて!』
「いや、だから、そうするにはまず話をだね? アロンの杖のこともあるし……俺たちも元の世界に戻らなきゃならないから、ここまで来たんであって……」
『その元の世界に戻れなくなるから、早く降りろって言ってるのよ!!』
緊迫した表情で、彼女はそんな言葉を叫んでいる。内容が内容なので、鳳たちは戸惑いながら顔を見合わせた。せっかくの幼馴染との再会だと言うのに、何故、彼女はこんなにも切羽詰まったように彼のことを拒絶するのだろうか。鳳が首を傾げていると、彼女は焦れったそうに口角に唾を飛ばしながら続けた。
『ツクモ、聞いて。この播種船は、現在、銀河系を離れて、別の星系を目指して航行中なの』
「はあ……それで?」
『ビリーと最後に通信をした直後、この船はまた天使の集団に襲撃を受けたのよ。私たちはドローンを使ってそれを撃退したけど、執拗な神からの攻撃に、これ以上、地球軌道上に留まるのは危険と判断し、船を発進させたの。
播種船という名前の通り、この船の目的は、このままじゃラシャによって滅んでしまう地球上のあらゆる遺伝子を、どこか別の星系にある移住可能な惑星に運ぶこと……その候補は決まってなくて、これから私たちは宇宙を旅しながらそれを探すつもりなの。私たちはもう量子化された人間だから、時間は無制限に使えるから』
「うん……?」
『焦れったいなあ! だから、この船は他の惑星を探すために、太陽系を離れ、銀河系も離れて、今現在ボイド空間を亜光速で航行中なのよ! つまり、この船と地球との相対速度は限りなく光速に近いわけ!』
その言葉を聞いた瞬間、鳳の顔がみるみる青ざめていった。大量の冷や汗が額から吹き出し、寒くもないのに唇がブルブルと震えだす……その表情がまるで死人みたいだったから、仲間はみんなギョッとして彼の顔を覗き込んだ。
そんな鳳に、ルーシーがおっかなびっくり声をかける。
「鳳くん……? どうしたの? 気分悪いの?」
「今すぐ、入り口の部屋にポータルを繋いでくれないか!?」
鳳は彼女の肩を乱暴に掴んでそう叫んだ。勢い余って二人の体がクルクル回転し、彼女は背中から壁に激突した。ルーシーはケホケホ咳き込みながら、
「ちょっ……離して。一体どうしちゃったの? 急に」
「今は話してる時間も惜しいんだ。とにかく早急にポータルを作ってくれ!」
「無理だよ。こんなどこもかしこも似たような場所じゃ、最初の部屋のイメージなんて出来ないよ。それに、今はカウモーダキーを持ってないから」
「しまった……そういうことか!」
鳳は何かに気づいたように舌打ちすると、くるりと回転して来た道を戻り始めた。途中で仲間のことを思い出し、振り返って早く来るよう彼らを手招きしてから、今度はもう振り返らずに行ってしまった。
残された仲間たちは突然の出来事に面食らって顔を見合わせたが、とにかく彼の様子から何かまずいことが起きていることを理解して、すぐにその後を追い始めた。ジャンヌが並びかけて問いかける。
「一体どうしちゃったの、白ちゃん? 何がそんなにまずいのよ」
「ウラシマ効果だ。知ってるだろう?」
「ウラシマ効果?」
ジャンヌがぽかんとしていると、彼女らと並走するように、ホログラフのエミリアが音もなくスーッと近づいてきて言った。
『特殊相対性理論よ。物質は光速を超えられない。だから相対的に光速に近い速さで動いている慣性系では、時間が止まって見えるって現象。要するに、あなた達のいた地球と、ここはもう時間の流れがまるで違うのよ』
「時間の流れが違うって? 具体的にどれくらい違うんだよ?」
追いかけてきたギヨームが焦れったそうに問いかける。
『ビリー、あなたと最後の通信を交わしてから、私の主観時間で1億3千万時間以上が経過しているの』
「……わからん! それって何日だ?」
『およそ1万5千年よ』
「1万5千年!?」
その桁違いな数字を聞いて、全員が押し黙ってしまった。この船に乗り込んでからまだそれほど時間は経っていないが、それは自分たちの主観的な感覚であって、今頃地球ではどれほどの時が過ぎ去っているのか想像もつかないのだ。
わかっていることはただ一つ、ここに一秒でも長く留まっていてはまずいということだけである。もしかすると、既に元の世界に彼らの帰る場所は無いかも知れない。そんな可能性が脳裏を過ぎって、ギヨームは青ざめた。
「どうしてそんな物騒な出入り口を地球に残してきたんだよ! まだ俺が来るかもって思ってたからか? だったらせめて、入り口に警告文を残すなりなんなり出来たんじゃないのか?」
『何の話? 出入り口って……そもそも、あなた達はどうやってこの船に入ってきたの?』
「どうって、ポータルが……この船に繋がるワームホールを潜ってきたんだが」
『そんなものがあるなんて、私は全然知らなかったわよ』
「なんだって!? そんな馬鹿な!」
ギヨームが絶句している横で、鳳が悔しそうに呟く。
「おそらく、カナン先生だ。俺たちがいつかここへ来ることを見越して、先生があの入り口を残しておいたんだろう。わざわざミッシェルさんまで派遣して、一番やっかいなルーシーの能力を封じることまでして……」
「なんでそんなことをする必要があるんだよ!?」
「わからん! わからないけど……ミッシェルさんは、最後に俺たちに引き返すよう警告してくれていたんだ。それを聞かずに進んだのは俺だ。俺のミスだ……」
「……まだ、元の時間に戻れないって決まったわけじゃないんだろう?」
「それも分からない……ルーシーの能力が万全なら、あるいは奇跡を起こせたかも知れないが、俺の力じゃ到底無理だ」
「どうすんだよ?」
「とにかく、今は急ぐしかない」
一行はそれきり会話もなく押し黙った。
何しろどこもかしこも似たような風景だったから、自分たちがどこを通ってきたのかはすぐには思い出せなかった。幸い、船内のことを把握しているエミリアが同行してくれたおかげで、壊れているドローンを辿って比較的速やかに移動することは出来た。だが、そうして早く走れば走るほど、自分たちがどれだけ無邪気に奥まで侵入していたかを思い知らされて嫌気が差した。調子に乗ってこれだけの距離を進んでる最中に、一度でも不審に思って引き返すことを選択していたら、また結果は違ったろうに、今はそれが悔やまれてならなかった。
「おい、見ろよ! 穴が小さくなってやがるっ!!」
やがて最後の曲がり角を曲って、前方にワームホールが見えてきた。それは最初に来たときよりもだいぶ小さくなっていて、いつの間にか人一人が通るのがやっとの大きさになってしまっていた。
恐らく、潜るならこれが最後のチャンスだろう。カナンはここまで計算していたのだろうか。これでは後ほんの少しでも遅れていたら、もう元には戻れなかったはずだ……いや、もしかすると彼は、この播種船に残りたいなら、そういう選択肢もあると言っているのかも知れない。
「急げっ!」
鳳は、ワームホールの手前で立ち止まり、最後に一度だけ振り返った。そんな彼の横を仲間たちが通過して、次々とワームホールへと飛び込んでいった。
部屋には鳳とエミリアの二人だけが残されていた。1万5千年の時が過ぎたと言っていた彼女にはもう体は無い。握手するための腕も無い。
『行って』
ホログラムの彼女の表情は真っ白でどんな感情も映し出していなかった。鳳の頭の中も真っ白でどんな言葉も思い浮かばなかった。思えば、あの日あの時、彼女を救えなかったという後悔から、この旅は始まったように思える。彼女に一言謝りたいと、ただそれだけの願いだけで、ここまでやってこれたのだと、そう思える。
「ごめん」
その彼女が目の前にいると言うのに、彼にはもう、そんな一言くらいしか言う時間がなかった。彼は彼女に背を向けると、体を捻るようにしてワームホールの中へと飛び込んでいった。彼女が最後に見たのは、彼の足の裏とつま先だった。彼女は彼の姿を忘れないように、いつまでもその場に留まって、じっと虚空を見つめ続けた。
人類があてのない旅に出て1万5千年。まだ旅は始まったばかりだった。