光が溢れる白い世界の中で、純白よりも白い人影が現れた。ルシフェルとザドキエル……鳳たちをこの世界に連れてきて、そのまま消えてしまった二人が、ようやく最後の瞬間になって姿を現したのだ。
そんな得体の知れない二人を前に、鳳は最初警戒していたが、すぐにこんな何もない場所で身構えたところで意味がないだろうと思い直し、寧ろリラックスしながら二人が近づいてくるのを待っていた。
影は鳳の前まで歩み寄ってくると、まるでポラロイド写真のようにジワジワと色が滲み出てきて、やがて二人の姿がくっきりと浮かび上がった。荘厳な6対12枚羽を背負った彫刻のように美麗な天使ルシフェル。そしてがっしりとした体格で、威厳を湛えた力強い目をしたザドキエル。二人は鳳の前に歩み出ると、申し訳無さそうに頭を下げた。
「お久しぶりです、ヘルメス卿。さぞかし私たちのことを恨んでおいででしょう」
「恨む?」
鳳はそんな二人に向かってぽかんとした表情で、
「正直、色んなことが次々に起こってしまって、恨むもクソもないですよ。俺はなんでこんなことになっちまったのか。これは避けることが出来たのか。そもそも、避けるべきだったのか。わからないことだらけで、それを知るまではどんな感情も湧いてきません。ただ……一つだけ聞きたい。あなた達はこの世界を救いたかったんですよね?」
「それはもちろん」
「なら、なんで滅んでいるんですか? ……いや、俺がついうっかり滅ぼしてしまったという方が正しいような気がするんですけど……ミッシェルさんがあの時止めてくれたのは、こうなることをあなた方から聞いていたからなんですよね? つまり、俺があのまま播種船に向かえば、滅びの時を迎えることを、あなたたちは最初から知っていた」
「ええ、そうです」
「どうしてなんですか? 知ってたんなら避けられたはずでしょう? これじゃあなたたちが積極的に世界を滅ぼしたようにしか思えない」
鳳が早口に糾弾するような言葉を口にすると、二人は目を瞑って暫くの間押し黙っていた。この沈黙はなんのつもりだろうかと不審に思っていると、鳳は自分が息を荒げていることに気がついた。どうやら、恨んでいないと言っておきながらも、自分はあまり冷静では無かったようだ。
彼がそんな自分に対して諦めたように溜息を吐くと、それを見たルシフェルは無機質な瞳で機械的に鳳の疑問に答えた。
「それは、こうしなければ、あなたと会うことが叶わなかったからなのです」
「俺に会う? 俺に会うために、世界を滅ぼしたっていうんですか?」
「そうです。世界を救うには、こうする必要があったのです」
「……ちょっと、わかりません。何がなんだか。とにかく、話してくれますか?」
ルシフェルは厳かに頷き、
「私たちはオリジナルゴスペルを使い続ければ、いずれこうなることを知っていました。こうならないように、神を止めようとして、こちらの世界に渡ってきました。神は、人間に作られた機械ですから善悪の区別がつかない……故に、人間に求められるままその力を振るい続け、その結果、世界が滅びてしまうことに気づいていないと、そう思っていました。
ですが違ったんです。既にお気づきでしょうが、神は人間の願望を叶える機械であることは確かですが、その対象は魔族だったのです。するとオリジナルゴスペルを使い続けることは、魔族にとっては都合が悪いはずです。ところが神はそれを使い続けていた……何故か?
実はそれこそが神の目的だったのです。神は人類の終着点がこうなるよう、オリジナルゴスペルを使い続けていた……神は最初から、我々人類を滅ぼそうとしていたのです」
それはまったく想定外で、鳳はすぐには目の前の天使が言っている言葉が理解できなかった。対象が人類ではなく、魔族であったとしても、神はその願いを叶える機械のはずである。それが積極的に世界を滅ぼそうとしていたとは、どういうことなのだろうか?
「おっしゃるとおり、神は人間の願望を叶えるために存在しました。その対象は我々ではなく、魔族……怒りと憎しみに支配された人々の求めに応じ、人類が強者生存のラマルク型の進化を遂げるようにサポートしていたのです。
しかし、強者生存型の進化というものは、実はすぐに限界を迎えてしまうのです。何故なら環境適応を無視する限り、生態系が変わる度に強さの基準が変わってしまうからです。
例えば、氷河期で求められる強さは、間氷期で求められる強さとは全く別物です。厚い毛皮に覆われた生き物は、熱帯雨林では生きていけません。どちらが強いのか? と問われても比べようがないのです。こんなことは時代を考慮しなくても、平時でもよく起こりえます。例えば、水棲魔族と北海の魔族とでは、どちらが強いでしょうか。彼らは戦う機会すらなかったでしょう。
こうなってくると神は強さというものの定義を、何度もし直さなければならなくなります。北海とインド洋の間に住む魔族を利用して間接的に強さを測ったり、純粋に筋力や破壊力を測定したり、生命力がタフさだと考えれば、その耐久度を測ったり。色々ありますが、最終的には一つの結論に達するのです。
即ち、強さとは相対的なものである。なら、人類が単一の生命体になってしまえば、最強であることに変わりないではありませんか。つまり、一人を選んで、後は全て滅ぼしてしまえば、そこに最強の人間が現れる……神はそうして人類の夢を叶えたのです」
鳳は開いた口が塞がらなかった。
「まさか、そんな……そんな理由で、神は人類を……いや、宇宙そのものをぶっ壊したって言うんですか?」
「そうです」
「そんな、無茶苦茶な! 普通、そうなる前に止まるでしょう!? もしくは、本当にそれでいいのか、もう一度人類に選択を委ねるはずだ!」
「ええ、そうです。おそらくそうした機会は何度もあったでしょう。ですが、神が願いを叶えるべき対象は魔族だった。彼らにはもう理性がなく、求めるものは常に純粋に力だった」
「それで、本当に滅ぼしちゃったんですか……? そんな、馬鹿げてる!」
鳳の憤懣やる方ない叫びに、ルシフェルも同意するように頷いた。そして彼は思いがけない言葉を口にした。
「ええ、そうです。そんなことは馬鹿げている。人類の願望を叶えるために、その人類が滅んでいては本末転倒です……だから神は考えたのでしょう。もう一度、最初からやり直せないかと」
「……やり直す? まさか、過去に戻ろうってことですか?」
そんなことが出来るはずがない。鳳が首を傾げていると、ルシフェルは演技っぽく周囲をぐるりと見回してから、
「この世界は最後にアズラエルという魔族を選び出し、最強の彼女が一人生き残るという結末を迎えました。その彼女が何十万年も生き続けたことに、きっと今頃神は満足していることでしょう。ですが、その最後の人間もついに滅び去り、この宇宙にはもう世界そのものを見つめる観測者はいなくなった。
故に空間も時間も意味がなくなり、宇宙は崩れ去り、物質は全てエネルギーと化しました。つまりここには今、空間の広がりはなく、どんな次元も存在せず、ただ高いエネルギーがあるだけです。これが何を意味しているかわかりますか?」
鳳は黙って首を振った。
「ビッグバン直前の宇宙と同じ状態なのです。今ほんのちょっとでもこの熱的平衡状態が崩れれば……つまり自発的に対称性が破れれば、宇宙はまたビッグバンを起こします。神は、そうなるように、いくつもの並行宇宙を破壊し、その余熱を集め続け、ここに宇宙の種を作り上げたのです」
「やり直すって……つまり……」
そういうことなのか? 鳳が唖然としていると、ルシフェルは厳かに頷いて、
「そうです。宇宙はこれから138億年かけて、同じ世界を作り直そうとしています。ビッグバンが起こり、直後に無限の並行宇宙が生まれ、その殆どは閉じてしまうでしょうか、いくつか生き残った世界のどこかに、またあなたが生まれ、そして神が誕生する……人類は長い闘争の果てにラマルク的進化を選び取り、また我々天使と、1千万の再生する人類が用意される。しかし、その結末は見てきた通り、破滅です。そして神は世界を諦め、また最初から宇宙をやり直す……それが何度も繰り返されてきたのです」
「先生はこの終末が、過去に何度も起きたって言うんですか?」
鳳がそう尋ねると、ルシフェルは彼の持つ杖を指差して、
「あなたの持つその杖や、オリジナルゴスペルと呼ばれるものは、いつ、どこから出てきたものなのでしょうか。少なくとも、それは私が作ったものでも、神がどこかで見つけてきたものでもありません。なのに、何故か神はその存在を知っていました」
「これは、このまま次の宇宙にも引き継がれるってことですか……」
鳳は自分の持つ杖を見ながらホッと安堵の息を吐いた。もしそうならば、この杖の中に吸い込んだ仲間たちも助かると言うことだ。彼はふと思いついて、
「もしかして……この世界の播種船には俺の遺伝子は無かったはずなのに、こっちの世界で復活できたのは、この中に俺の情報が残っていたからなんですか?」
するとルシフェルは首を振り、
「いいえ、違います。あなたの遺伝子情報は播種船の中にちゃんと残っていました」
「え? でも、エミリアは存在しないはずだって……俺は、中学の時に死んだって言ってたらしいんですが」
「ええ、彼女の言っていることに間違いはありません」
「……じゃあ、俺の親父が、俺の遺品から遺伝子を抽出して登録したとか?」
ルシフェルはその問いには答えず、代わりにこんなことを言い出した。
「その理由を、これからあなたは知ることになるでしょう。そして、それがあなたをこの場所にお呼びした理由でもあります」
「……どういうことです?」
「これを……」
ルシフェルがそう言って指を鳴らすと、鳳たちの周囲を覆うように透明な球形の膜が現れた。よく見れば、その球体の上に張り付いた2つの点が、クルクルと気ままに動き回っているのが見える。
「これはただのイメージですが、これがこの宇宙の本当の姿だと想像してください。私たちにはこの全ては見えていませんが、このように3次元空間内に広がっている宇宙の外側には、アーカーシャと呼ばれる二次元の膜があって、私たちの本性はその膜に記述された情報だと考えられます。
そしてそのアーカーシャには2つの精神世界、エーテル界とアストラル界が張り付くように同居しており、私たちの思考はその2つの世界で処理されてから、物質界に反映されるように出来ています。これが、人間の正体だと考えられるのです。
ところで今、この物質界が崩壊し、宇宙の広がりは閉じて一つの点になろうとしています。すると、その外側に張り付いていた膜も収縮して一箇所に集まってきて、その上に張り付いていたエーテル界とアストラル界、そして物質界が一つになります。
今が、この状態だと考えてください。物質界にいるあなたと、エーテル界の私たちがこうして話をするには、このタイミングを待たなければなりませんでした」
「そういうことですか……だから先生は俺が播種船に行くように仕向けたんですね? ミッシェルさんを使って」
「ええ。彼はそんなことをせずとも、死ねば2つの世界は合一されるのだから、あなたが天寿を全うするのを待てと言いました。しかし、それでは遅すぎるのですよ」
「遅い? 早いんではなくて?」
鳳と早く会話をするのが目的なら、終末などを待たずに、彼が寿命で死んだほうが遥かに早いはずだ。だから何のことを言っているのか分からなかったが、
「我々の目的は、ここであなたと対話することではなく、あなたに世界を救って貰うことなのです。そして、それを実現するには、殆ど時間的な猶予が無かったというのが正しいでしょうか」
「どういうことです? 俺が世界を救うって……いや、そもそも、どうして俺なんですか? この状況で、俺がやれることなんて、何もないと思うんですが……」
「ええ、今、現時点では、確かに我々にやれることはありません」
何しろ世界は既に消滅してしまっている。この状況から巻き返せるとは思えない。
だが、ルシフェルはそこにこそ世界を救う唯一の光明があるのだと言った。
「ですが、これから宇宙は再生されます。138億年かけて、また人類が誕生し、社会を作り、国が興り、そこにあなたも生まれてきます。そのあなたなら、神を止めることが可能ではありませんか?」
「……え?」
「今となってはその存在は機械を超越してしまっていますが、元々神とは、あなたの父親が作り出した人類初の汎用AI・DAVIDシステムのことです。この機械に、人類は強者生存のラマルク的進化を願い、今回の破滅は始まってしまいました。あなたならば、それを止められるのではありませんか?」
確かに、同じ世界が繰り返されると言うのであれば、その可能性はある。だが、それには条件が必要だ。
「ただ、そのためには、あなたが今の記憶を持って生まれ変わり、このことを思い出さなければなりません。つまり、次の世界にあなたの記憶を継承するために、今この終末に、あなたの肉体が必要だったのですよ」
「先生たちは、俺が次の世界に記憶を持ち越す方法があるって言うんですか?」
「如何にも」
ルシフェルは大仰に頷いた。鳳はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「そもそも、あなた自身も既に前世の記憶を持って生まれ変わるという経験をしているではありませんか。この世界には肉体の存在する物質界の他に、精神界であるエーテル界とアストラル界が存在します。死後、人の記憶は精神界に記録されており、後の世界で遺伝的に近い人物として復活することがある。放浪者と呼ばれる人たちが存在したわけです。
この仕組みを使い、これから誕生する新たな宇宙に予めあなたの記憶を記述しておけば、138億年後にあなたが生まれた時、その記憶を継承することが出来るかも知れない」
「つまり、先生たちは、これから誕生する新たな宇宙に、今のこの俺の記憶を……アーカーシャの情報を予め移し換えてしまおうって言うわけですか」
「そうです」
「どうやって?」
「ウトナピシュティムを使います」
まさかここにあの播種船の名前が出てくるとは……鳳が意外に思って聞き返すと、
「いいですか? ウトナピシュティムは現在、ここ地球から遠く離れた銀河を限りなく光速に近い速さで航行中です。そのせいで、この場所とウトナピシュティムとでは時間の流れが違ってしまい、今現在あなたのいるこの世界は消えそうになっていますが、あちらは何事もなく宇宙を旅しているはずなのです。
ウトナピシュティムもここと同じ宇宙に存在するはずなので、我々の目には既に消滅してしまっているように見えるのですが、その乗組員からすれば、何事もなく今も宇宙を飛び続けているのですよ。
不思議な話ですが、要は、こちらの数秒間が、あちらでは何百年、何千年どころか、何億年という長さにまで引き伸ばされてしまっているんです。それは一体、どのくらい違うのでしょうか? この世界は今、全ての空間が破綻し、物質が消滅しようとしています。時間とは空間の一形態のことですから、空間が消えようとしているこちらとあちらでは、時間の流れる速さがほぼ無限に違うことになってしまう……
するとウトナピシュティムが航行中の宇宙は永久に消滅しないことになる。同じ宇宙にあるはずなのに、これは矛盾じゃありませんか?
つまり、ウトナピシュティムがある宇宙とこの宇宙は、既に別の宇宙になってしまっているのですよ。あちらの宇宙はこちらから見ると、マイナスのエネルギーに包まれ、既にこの宇宙から引き離されてしまっている状態です。
故に、これからこの宇宙が消滅しても、あちらの宇宙はこれまで通り何事もなく時間が流れ続けることになる。
ところで、2つの世界は元々同じものだったのですから、あちらの宇宙の果てにあるアーカーシャも、ここと同じ記憶が記述されているはずじゃないですか。
これからこの宇宙は崩壊し、新たな宇宙が誕生した時、アーカーシャにはまだ何も記述がされていません。しかし既に別宇宙となったウトナピシュティムの宇宙には、この世界の情報がそっくりそのまま残っています。それを、なんとかして移し換えられれば、あなたはまた新たな宇宙に誕生することが出来るはずです」
「どうやるってんです?」
「あなたはついさっきまでその播種船にいました。その時のワームホールが、まだ残っているんですよ。それは人が通れるほど大きくはありませんが、情報のやり取りをするだけなら問題ありません。
ただし、そのためには、新たな宇宙が始まった正にその瞬間に、ほんの刹那の一瞬でもいいので、このワームホールが残っていなければなりません。
それには向こうの宇宙に有り余っている、マイナスのエネルギーを使って維持することが出来ますが、ただ一つの問題は、観測者が必要だということです。
なので、あなたには、ここに残って、この世界の終わりと、新たな世界の始まりを見届けて貰わねばなりません。この2つの世界を繋ぐワームホールは、あなたとエミリアさんの縁が繋いでいるのですから」
「つまり俺はただ見てればいいんですね?」
「はい……そしてアーカーシャの書き換えが終わったあと、私たちは消滅します。申し訳ございません……これであなたの命を救うことが出来れば、100点満点だったのですが……」
鳳はカラカラと笑った。
「気にしないでください。いずれ人は死ぬんですし、俺は死ぬのには慣れてるんで」
「そうですか……」
「俺としては、世界が救われて、また人生をやり直せるならそれでいいですよ。ところで……もしも世界が救われたら、俺はまたアナザーヘブン世界の妻や仲間たちと会えるのでしょうか?」
するとルシフェルは少し迷いの表情を見せたが、すぐに気を取り直した風に、
「すでにお気づきかも知れませんが、これからウトナピシュティムが長い旅の果てにたどり着くのが、惑星アナザーヘブンなのです。そこであなたは復活を遂げ、あなたの奥様たちと出会うでしょうが……その時のあなたと今のあなたが同じであるかと言われると、私にはなんとも……」
「そうですか……でも、俺が新たな世界で神を止めることが出来れば、彼女らにはもう迷惑はかからないんですよね? 俺は、家をあけたままここまで来てしまったから……」
「ええ。その時は我々があなたの前に現れることもないでしょうから」
「そうですか……それは、ちょっと残念ですけど……」
鳳がそう言って視線を下げると、それまで黙っていたザドキエルがスーッと彼の前まで歩み出て、手を伸ばしながら言った。
「それを……」
「え?」
「私にケーリュケイオンを貸してもらえないだろうか。その中にいる君の仲間と、私の弟子を、必ず君のもとへ送ると約束しよう」
「そんなことが出来るんですか?」
「わからない……だが、何もしないでいるよりはマシだろう。君を見ていて私も思った。私も最後まで、足掻けるだけ足掻いてみせよう」
「そう……ですね。それじゃあ、おまかせします」
ザドキエルは杖を両手で大事そうに受け取った。鳳はそれを見て、ふと思った。あまり面識がないから今まで気づかなかったが……この老天使は、かつて一度だけ邂逅したことがあるヘルメスと似ているのではないか……?
「そろそろ時間のようです。終わりが、始まります」
鳳がそんなことを漠然と考えていると、ルシフェルが言った。
時間という概念が、ここでは意味があるのかどうかわからないが、要するにいつまでもこうしているよりも、やることをやってしまおうという、別れの言葉の代わりなのだろう。
鳳は薄く笑ってみせてそれを別れの挨拶にすると、手を差し伸べて二人の手を順番に握った。二人の天使は握手を交わした後、ほんの一瞬だけ名残惜しそうな表情を見せたが、間もなく何も言わずに光の礫となって消滅した。
辺りは静寂に包まれており、何も見えなかった。
真っ白な空間はただ真っ白で、どこまでも続いていた。
いや、ここにはもう空間はなく、従ってどこまでもなんて続いていないのだろう。
自分がどうなるんだろうかという不安は全く無かった。全く無いと言えば嘘になるが、塵芥と化し、何も残らないのは、日本人の死生観としてありがちなことだ。だからそれほど怖くなかった。
ただ、最期の瞬間を迎えることよりも、やり残してしまったことの後悔の方が大きかった。必ず帰ると誓った妻たちに、別れの言葉を告げる暇もなかったこと。瑠璃たち人類に希望だけを与えて、結局は何もしてやれなかったこと。そして仲間たちを巻き込んでしまったこと。最後に、エミリアとやっと会えたというのに、ちゃんと謝れなかったこと。
『シーキュー……シーキュー……シーキュー……』
その時、どこからともなく、声が聞こえてきた。あまりにも静寂がすぎるから、最初は耳鳴りかと思ったが、
『シーキュー……シーキュー……こちら、エミリア・グランチェスター。鳳白、応答せよ。繰り返す。こちら、エミリア・グランチェスター。鳳白、聞こえていたなら返事をして』
「エミリアか!」
目の前に白い点がぽつんと浮かんでいて、それが彼女の声に合わせて振動していた。鳳が咄嗟に返事を返すと、その点はピタリと止まり、数秒の後にまた動き出した。
『ツクモ。まだ、この穴は繋がっているのね?』
「ああ、色々事情があって、こっちの世界とそっちはこれから別々になるそうだけど」
『ええ、ルシフェルから聞いたわ……本物の、神話の中の悪魔が出てきて驚いちゃったけど……いえ、驚くまでもないわね。カインから話は聞いてたもの』
「そうか。なら、これから何が起きるか、もう知ってるんだな?」
『ええ……そして、あなたがどうなるかも……』
そう言う彼女の声が沈んでいた。それは恐らく、彼女はこれから鳳が死ぬことを、正しく知っているからだろう。正直なところ、本人はもうなんとも思っていないのだが、やはり目の前で人が死ぬと思うと気分が落ち着かないのだろう。鳳はなんだかそんな場面に立ち会わせてしまって、申し訳ない思いがした。
それを謝りたい気持ちもあったが、いまはもっとやらなければならないことがあった。
「そうだ、エミリア……もしも君に会えたら、ずっと言いたいことがあったんだ」
『……なに?』
「本当に、すまなかった」
鳳はそう言って頭を下げた。彼女は鳳が何を言っているのか分からず、暫くの間黙りこくってから、また同じことを聞いた。
『……なに?』
「中学の時、嫌がる君を先輩に紹介したことだ。あの時の俺はまだ子供で、おまえが先輩みたいな大人と付き合ったほうがいいんだって、馬鹿なことを考えていた。それが、あんな結果になるなんて……先輩への復讐も果たしきれず、ずっと、そのことを後悔してきたんだ……」
『そう……そのこと……』
するとエミリアは溜息を吐いて、思わぬことを言い始めた。
『その話ならビリーから聞いたわ。でもね、ツクモ、私にはそんな記憶はないのよ』
「記憶が……ない?」
『うん。私の記憶の中では、あなたは私を先輩になんか紹介していないわ。それどころか、夏に無理やり海に誘われそうになっていた私のことを、あなたが助けてくれたのよ。おかげで私は助かったけど……ただ、そのせいで、あなたは先輩連中に露骨に意地悪されるようになって……そして……』
「殺されたのか?」
鳳の問いに、エミリアは暫くの間沈黙していた。きっと、嫌なことを思い出していたのだろう。彼女はやがて諦めたように、
『ええ……あなたが殺された後、あなたのお父様が大層お怒りになられて、学校どころか世間は大騒ぎになったのよ。噂では先輩たちは家族もろともひどい目に遭わされたって話だけど……自業自得だから今は何とも思っていないけど、その代わりに、怒りに囚われたあなたのお父様が、その後、神をあのように作ってしまわれたのよ。それが、この世界の悲劇の始まりになってしまった』
「ふーん……やっぱり、親父が神を作ってたんだな……そこまでは予想通りだけど、俺の世界ではその後、人類全体の総意としてラマルク的進化を選択したはずだけど、そっちでは親父が決めちゃったのか?」
『ええ、そうよ』
「そうか……」
鳳は、自分は父親に愛されていないと思っていたから、その父親が彼の死に対して尋常ならざる怒りを見せたことを意外に思った。彼は本当に、鳳の死を悼んでいたのだろうか……それはそれとして、
「でも良かったよ」
『……え? なにが?』
「君が、ひどい目に遭わなくって。そうか……この世界の俺は、君のことを守ったんだな。守ることが、出来たんだな……」
それは鳳がいつも夢に思い描いてきたことだった。あの時、もっとああしていたら、こうしていたらと、後悔する度に思い描いた願望と同じだった。だから彼はふと思った。
「そう言えば先生は、この世界が何度も繰り返されてきたって言っていた。俺は、その繰り返しの世界を思い出さなかったけど、もしかして、この世界の俺は思い出して、それで君のことを助けたのかな?」
エミリアもその考えに思い至ったらしく、
『だとしたら、世界がこうなってしまったのは私のせいじゃない。あなたはちゃんと記憶を取り戻していたのに、私のことを庇ったせいで、あなたが犠牲になって神を止めることが出来なくなってしまったんだわ』
彼女の声が震えている。
『ツクモ……もしもまた中学の頃に戻れたとしたら、今度は私のことを見捨てて。仮にそれで私が死んでも……あなたが傷ついたとしても、世界が破滅するよりはマシだわ』
しかし、鳳は首を振って、
「いや、世界がこうなってしまったのは、君のせいじゃない。俺が失敗したからだ。だから俺はまた中学に戻ったとしても、何度でも君のことを守ると思うよ」
『でも、そんなことしたら……!』
「どうせまた、ここに戻ってくるだけさ……聞いてくれ、エミリア。きっと失敗は一度や二度じゃないんだろう。俺が覚えていないだけで、俺の世界の神を作ったのは多分俺なんだ。そしてアナザーヘブンという惑星でこの旅が始まったのも、君を助けることが出来なかったって後悔があったからなんだ。君は見捨ててくれって言うけども、多分、そんなことをしたら俺は自分が許せなくなる。そして何度でも同じことをすると思う。どうせ同じことの繰り返しなら、だったら、二人が生き残る世界を求めたっていいじゃないか。
どうして人は人を虐げようとするんだろうか。他人を思い通りに出来ないことに、怒りを覚えるのだろうか。そんなことをするために、俺たちは知恵を獲得したわけじゃないだろうに、まるで俺たちは苦しむために自我を手に入れたように思える。他人が自分勝手に振る舞うのなんて、そんなの当たり前のことだろうに。それが許せないなら、自分も同じことをやられても仕方ないじゃないか。他人を力で支配したところで、同じことの繰り返しだ。どこかで断ち切らなきゃならないなら、俺は今度こそ自分自身を許せるように、努力しようとそう思うよ。
だからまた、君を助けるチャンスをくれないか。絶対、二人で生き残る未来を勝ち取ってみせるから。それまで待っててくれないか。何千年、何万年、何億年先になるか知らないけれど」
彼女からの返事はない。
「……エミリア?」
その時、周辺の雰囲気が変わって、白はただの白では無くなり、まだらな白になっていった。決定的な何かが終わり、そして始まろうとしていた。鳳は、ああそうか、これでようやく本当に自分の旅が終わるのだと漠然と思った。辺りは白く、どこまでも白く、果てしなく白い中で、鳳はそう言えば、自分の名前も白だったなとどうでもいいことを考えていた。
白い光が視界を染めていく。辺りには何も見えず、もう聞こえず、自分の体の感覚も無くなり、意識が遠のいていく。ようやくこれで、本当に死ぬのか……長かったような、短かったような……でもこれは終わりではなく、始まりなのだとしたら、一体自分はどこへ向かおうと言うのか。人は、どこへ向かおうとしているのだろうか。暴力的な光の中で、わけも分からぬまま意識が途絶える。
そして138億年の時が流れた。