ラストスタリオン   作:水月一人

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聖杯の行方

 イギリスとフランスが植民地戦争に明け暮れていた18~9世紀、ドイツは今一つ目立たず影を潜めていた。二国に比べてドイツの近代化が遅れたのは、やはり30年戦争の影響が大きかった。

 

 戦争によって国土が荒廃したというのももちろんあったが、それよりいくつもの小国が群雄割拠していたドイツで、2つの宗教勢力が対決したという事実のほうが重かったろう。ヴェストファーレン条約で一応の決着を見たとは言っても、お互いに思想のわだかまりは残り、相変わらずドイツはカトリックとプロテスタントで南北に分かれてしまっていた。

 

 この状況に終止符を打ったのは、プロイセン王国で首相に就任した鉄血宰相ビスマルクだった。皇帝に祖国統一の夢を託された彼は力強く国を率いると、普墺戦争、普仏戦争と続けて大国に勝利し、長い時を越えてついにドイツの地は統一を果たした。

 

 その後新帝国は、大陸の覇権をかけて拡大しようとするフランスを牽制し、オーストリアを含む複雑な同盟網を築き上げてフランスを孤立させることに成功。この功労者は帝位を継いだ後継者と政治的に対立し最後は更迭されてしまうが、これ以降、ドイツは列強に肩を並べる存在となる。

 

 そして19世紀末から20世紀初頭にかけて、ついにドイツは世界をリードする科学強国に躍り出るが……そんな中で第一次世界大戦が勃発してしまう。

 

 1914年。現ボスニアのサラエボで、オーストリアハンガリー帝国の皇太子が暗殺される事件が起こると、かつてフランスを封じ込めるために作り上げた複雑な同盟網が機能し、条約によって縛られていた欧州列強は雪崩式に二陣営に分かれて戦わざるをえなくなった。

 

 こうしてなし崩し的に始まった戦争は、いまや世界を巻き込む大戦争に発展してしまった。そんな中でドイツはシュリーフェン・プランを引っ提げて隣国フランスへと侵攻を開始する。

 

 当初はドイツ優勢の戦況が続いたが、何しろお互いに塹壕を掘ってジワジワと進むという近代戦は、どの国にとっても初めての経験で、決着は中々つかずに4年もの長きにわたり膠着状態が続いてしまう。その状況が変わったのはアメリカの参戦が大きかったが、一説によるとスペイン風邪の流行が致命的だったとも言われている。

 

 スペイン風邪などという不名誉な名前がついてしまっているが、この病原菌の出どころはスペインではなく、遙か彼方の中国だった。現在猛威を振るっているコロナウイルスと同じような経緯で流行を始めたスペイン風邪は、最初アメリカに渡ってから、連合国諸国へと伝染していった。

 

 その連合国はフランスで塹壕を掘って戦争なんてものをしているのだから、不衛生な塹壕の中であっという間に伝染病が蔓延してしまい、当然、戦争をしている相手の同盟国にも感染っていった。しかし、連合国も同盟国も戦争をしているわけだから、当然自分たちに不利な情報を相手に知られるわけにはいかないから黙っているしかない。そんな中で、中立だったスペインだけが、何かおかしな病気が流行っているぞと騒いでいたから、スペイン風邪などという不名誉な名称を押し付けられてしまったらしい。

 

 それはさておき、こうして疫病までもが蔓延する中で、長引く戦争に兵士も民間人も疲れ果ててしまい、ドイツ国内には厭戦気分が広がっていた。そこへアメリカの参戦もあって、ドイツ軍は負けが込み始めると、ついに帝政は倒れて国民は敗北を受け入れるようになっていく。

 

 こうしてドイツは開戦以来一度も国土を脅かされることなく敗戦するのだが、その後に待っていたのは平和ではなく、過酷なフランスからの賠償請求だった。

 

 ドイツとは違って、ずっと国土を蹂躙され続けていたフランスの憎しみは強く、彼らは戦後ドイツが二度と立ち直れないように完膚なきまで叩き潰そうと躍起になった。ドイツ国民が何十年かけても払いきれない賠償金を吹っ掛け、返済のために必要な工場を武力によって接収してしまった。

 

 これではドイツは返済どころか生きていくことすら出来ないだろうと、米英が仲裁してなんとか賠償の目処が立ったかと思いきや、その米国を震源地とした世界大恐慌が発生して全てが破綻してしまう。国民はトランクいっぱいの札束でパン一個すら買えないというようなハイパーインフレを前に成すすべも無く、ただ涙を流しているしかなかった。

 

 こうしてどんどん追い詰められていったドイツ国民は、米英資本主義への憎しみを増大していき、ナショナリズムの高揚からファシズムへと傾倒していく。そんな中で支持を失っていた当時の政権は、共産党と組むよりはマシであるとナチ党と連立政権を組み、そしてアドルフ・ヒトラーを首相に任命してしまうのであった。

 

********************************

 

 ベルクホーフはドイツ南部ベルヒテスガーデンに建てられたアドルフ・ヒトラーの別荘だった。彼の生誕地オーストリアのリンツにほど近い風光明媚なこの山岳に、彼はお気に入りの別荘を建て、戦時中多くの時間をここで過ごしたと言われている。

 

「ハイル・ヒトラー!」

 

 そんなベルクホーフの大きな書斎に、ドクロのマークを付けた親衛隊の男が入ってきた。彼は豪華な書斎机に座る総統閣下に、帽子を取って恭しく敬礼すると、ずり落ちそうになった丸メガネを慌てて指で押し上げた。この男こそ悪名高き親衛隊のトップ、ハインリヒ・ヒムラーであった。反ナチ勢力とユダヤ人を残酷に殺したことで有名だが、自身は処刑の場面に立ち会えないほど小心であったと言われている。

 

 そんなヒムラーは総統の前に歩み出ると、もったいぶった仕草で手提げからシルクのスカーフを取り出し机の上に置いた。中には何かが包まれており、ヒムラーが震える手で包みを開いていくと、その中から漆黒の四角い箱が現れた。

 

 総統はそれを一目見るなり驚いたように立ち上がり、机の上に両手を突いて上から覗き込むようにして眺めはじめた。

 

 それは一見すると黒曜石をカットしただけのただの綺麗な四角い石にしか見えなかった。しかし真っ黒な石をよく見れば、その中から何かがにじみ出てくるような感覚がし、これがなにかの器であることが感じ取れた。彼はそれを確かめると興奮気味に言った。

 

「この霊障、魔力の波動……間違いない。これは私が求めていたものだ。ついに見つけたのだな!?」

「はいっ! 魔術師の予言通り、やはりあのユダヤ人たちが密かに隠し持っていたようです。強制連行後、屋敷を徹底的に調べ尽くして発見しました」

「そうか、君の耄碌した友人もたまには役に立ってくれたな。彼は魔力は失ってしまったが、記憶の方はまだ失っていなかったようだ」

 

 ヒムラーは友人を侮辱されたことで、ほんの少しムッとしたが、すぐにいつものように総統にだけ見せる媚びた笑顔で続けた。

 

「総統閣下がそうおっしゃっていたと伝えれば、きっと喜びます。ところで閣下……あなたに探せと言われたこの器。ユダヤ人たちが密かに祀っていたこれは一体何なのでしょうか。奴らが大事にしていたものだから、金目のものであることは間違いないでしょうが」

「ふむ……そうだな。我が霊力を信奉し、神秘を重んじる君になら特別に教えてやろう。ユダ公が大事にするものと言ったら相場が決まっている。金と信仰だ。そんな奴らが金を捨ててでも守ろうとしたこれは、つまり奴らの信仰にとって不可欠なものだと考えられる。君はなんだと思うかね?」

 

 ヒムラーは焦れったそうに、

 

「わかりません」

「私はこれが失われたアークだと知っている」

「アーク……聖櫃ですって!?」

 

 ヒムラーの目が驚愕に見開かれ、彼は自分が無造作に運んできたそれに、まるで押されたかのようにストンと尻もちをついてしまった。総統はそんな部下の間抜けな姿を見てニヤニヤ笑いながら、

 

「失われたアークは巡り巡ってキリストの手に渡ったのだよ。その後、東ローマ帝国で管理されていたが、その帝国が滅んだことで誰にも行方が分からなくなっていた。それを君の友人が言うように、ユダヤ人共が密かに回収して隠していたのだな。奴らの信仰では来る終末の日、それが彼らを守ってくれることになっているから不思議ではない」

「閣下はそれが本物だとおっしゃられるのですか?」

「ああ、間違いない……君には感じられないのか? この器からにじみ出る、神霊の気配が」

 

 そう言われたヒムラーがまじまじとその器を見つめても、そこには何も見えなかった。だが、アドルフ・ヒトラーの目には、その器の中からまるで湯気が立ち上るようなオーラが立ち込めているのが見て取れた。

 

 何故なら、彼は本物の予言者だったのだ。

 

「……我々、アーリア人は神の子孫だ。故に不思議な力を持って生まれてくるものがいる。中世に度々起こった魔女騒動がその証拠だ。近年、トゥーレ協会に入った私はそこで本物の魔女と出会った。そして私は彼女との交流の中で目覚めたのだよ。私には未来の記憶があるのだ。その記憶のお陰で、若い頃戦場で命拾いしたこともあった。実はこうしてドイツ第三帝国の総統にまで上り詰めたのも、その記憶があったお陰なのだ。

 

 だが、そんな私にもどうしても避けられないものがある。破滅だ!

 

 実は私の記憶では、どうやっても我々はこの戦争に勝てないのだ。そして私が死んでも生き残っても、その後訪れる世界は破滅する。戦後、暫くは平和が続くだろう。だがすぐ資本主義者と共産主義者が対立を始め、持つものと持たざるものの格差は広がり続けていく。やがて節度を失った資本主義者は自らの体を改造し始め、家畜の臓器を移植しだし、ついには脳すらも移植しはじめる。こうして人であることすらなくなった持つものと持たざるものとの間の対立は深まり、ついに破滅が訪れる。我々が人間であるための最終戦争が2つの陣営の間で始まってしまう。ユダヤがこの戦争を引き起こす。持つものである彼らが、伝説の通りこの世を支配するべく、戦争を起こすのだ! そして救世主が降臨する。

 

 ラストバタリオン!!!!!

 

 ラストバタリオンがやってきて、力強くこの最終戦争に終止符を打つ。そしてユダヤの千年王国が始まってしまうだろう……だが、私がそうはさせない。こうして私がアークを手に入れたのだから、これを使って私が救世主となるのだ。私が救世主となりアーリア人を導き、世界は秩序を取り戻すのだ。人々は正しい進化の道へと戻り、古代の力を取り戻す。カルデア人であった頃の不死なる力を取り戻す。そして我々は神の人へと進化する。ゴッドメンシュが世界を支配するのだ」

 

 尻餅をついたヒムラーは未だそのままの姿勢で、総統の取り憑かれたような演説をいつしか恍惚の表情を浮かべながら聞き入っていた。

 

********************************

 

 現実のヒトラーが予言者であったかどうかはさておき、彼の神通力を示す逸話には事欠かないようである。まあ、現在絶賛独裁中の各国の指導者たちにも、大抵そういった逸話がつきものなので、彼のもその類と思われるのであるが……

 

 終戦間近、連合国がベルリンへと近づいてくる中、士気高揚のための宣伝を孤軍奮闘続けていたゲッベルスは、せめて不安がる国民を元気づけてくれと、最後の演説をヒトラーにお願いした。

 

 この頃にはすっかり弱気になっていたのか、演説を嫌がっていたヒトラーであったが、最後まで彼についてきてくれたゲッベルスに強く要求され、その敬意を示すことにしたらしい。

 

 この時の演説を、既にナチスを見限っていたであろうベルリンの人々が、どれほど聞いていたかは分からないが、この時ヒトラーは雑音と途切れ途切れの放送の中で、ラストバタリオンなる言葉を連発している。それが何なのかは未だによく分かっていないが、追い詰められたヒトラーが妄想でも見たのだろうと言うことで大方の意見は一致している。

 

 ゲッベルスもこの時の演説を聞いて、こりゃもう駄目だと思ったのだろう。それ以降、彼がヒトラーに演説を求めることは無かったようだ。彼はその後、総統地下壕でヒトラーの最後を看取ってから、自身も家族と心中する。

 

 良い悪いはともかくとして、ヒトラーという強烈なキャラクター性もあって、第二次世界大戦中のナチスドイツの人気は衰えない。日本も枢軸側に立っていたことから、あの時ああしていたら、こうしていたら、連合国に勝てたのに……という仮想戦記はこれまでにいくつも作られてきた。

 

 実際、今話題のキーウに寄らずにモスクワを目指していたら、その後の展開は変わっていただろうが、かと言ってそれでソ連が即降伏するとは思えないので、やはりスターリングラードで負けたことから考えても、この戦争が最初から無謀であったのは間違いないだろう。

 

 こうして東部戦線で工業力の限界を示したドイツ軍は、翌年にはもう攻勢に出られるほどの力は残っていなかったようだ。そしてその後アメリカの参戦によって東西から挟み撃ちにされたドイツは、あっという間に降伏への道へと突き進むことになる。

 

 ところで、一時は飛ぶ鳥を落とす勢いであったドイツが、こうも一気に傾いてしまったのは、アメリカの参戦が大きいことも確かだが、人知れずエニグマ暗号の解読に成功していたアラン・チューリングの功績が大きいだろう。

 

 幼少期、自閉症だったチューリングは数学に特異な才能を示すと、大学卒業後には暗号を解読する仕事に従事することになった。

 

 当時、第二次大戦中、ドイツはエニグマと呼ばれるローター式暗号機を使っていたが、この暗号を解くのは当時は不可能だと思われていた。イギリスの同盟国ポーランド軍がこのエニグマ暗号機を鹵獲し、解読装置を作り上げていたが精度が悪く、殆ど使い物にならなかった。

 

 しかし暗号解読に類稀な才能を持っていたチューリングは、仕事に取り掛かるとあっという間にこの解読装置を改良してしまった。このおかげで実は開戦当初から、イギリスは既に情報的に優位に立っていたのだ。この時の改良版が終戦まで使われ、ドイツはずっと暗号が解読されていたにもかかわらず、最後までそれに気づかなかったというのが、あの戦争の真実だった。

 

 他にも彼の理論がフォン・ノイマンに先駆けて、世界初のプログラム式コンピュータを生み出し、1948年には当時存在していなかったコンピューターチェスのプログラムを既に書いていたりもするのだが、これらの輝かしい功績の数々は、彼が死んでからもずっと秘匿され続けていたのである。

 

 何故か?

 

 もしもエニグマ暗号が解読されていることを知られたら、ドイツは使用する暗号を変えてしまうだろう。すると敵の通信を傍受出来るという優位性は失われてしまう。だからイギリス政府は絶対にこのことを世間に知られるわけにはいかなかったのだ。

 

 更には、暗号解読で知り得た情報をいつも有効活用していては、相手にバレてしまうだろう。そのため、暗号解読に従事していたチューリングは、次にドイツ軍がどの街を攻撃するか知っていながら、街が政府によって見捨てられるのを黙って見ているしかなかったのである。次に攻撃される街には、同僚の家族がいる事もあったらしい。それでも彼は口を閉ざしているしかなかった。

 

 そしてこれだけの貢献をしながらも、その内容が内容だけに、彼が表舞台で表彰されることは無かった。戦時中に勲章を貰っているのだが、家族すらそのことを知らなかった。挙句の果てには、戦後情報省の暗号解読アドバイザーを勤めていたようだが、なんとその時に同性愛者の嫌疑をかけられて、保護観察下に置かれてしまう。そのせいで仕事を失い、彼は生活にも困窮していったのだ。

 

********************************

 

 大衆的なスカイブルーのセダンを一人の女性が運転していた。その2ブロックほど後ろを、黒塗りの2台の高級車が、もうさっきから何時間も追いかけてきていた。彼女はとっくに気づいていたが、それでどうするつもりも無かった。こんな田舎の一本道で、あんな下手な尾行が気づかれないわけがないのだ。ならば彼らの目的は一つ。我々が見張っているぞということを、彼女に知らせるために違いなかった。

 

 ジョーン・クラークは憮然とした表情で車を停めると、目の前に建つ小ぢんまりとした家を見上げた。世間の後ろ指を恐れてこんな田舎に引っ込んでしまったが、本来ならアラン・チューリングほどの男が田舎に隠れ住むなんてあってはならないことだと彼女は思っていた。

 

 ジョーンはチューリングの元婚約者で、戦時中同じ暗号解読の仕事に従事していた。エニグマ暗号を解いたあの機械を作ったときも同じで、そして政府がその機密を漏らさないために、一般人を犠牲にしていたことももちろん知っていた。

 

 彼女らはその仕事の最中に婚約をしたが、上手くいかなかった。チューリングが同性愛者であることをカミングアウトしたのが原因とされている。彼女はそのことを気にしなかったそうだが、彼のほうが気にしたようだ。二人はなんというか、姉妹のように仲が良かったらしい。

 

 そんな彼女が玄関のドアをノックすると、最初は陰気そうな家政婦が出てきて彼女のことを門前払いにしようとした。多分、そうするように言い含められているのだろうが、ジョーンがしつこく名前を告げて彼に取り次いでくれと願い出ると、家政婦は渋々家の中へ帰っていき、代わりに今度はチューリング本人が出てきた。

 

「やあ、ジョーン。久しぶりだ。訪ねてきてくれて嬉しいよ」

「お久しぶり、アラン。あなたは少し痩せたみたいね」

 

 彼女は彼に案内されて家の中に入った。家の中は薄暗くてカーテンは全部閉められていた。彼女がそのことを気にしていると、チューリングは人の目が気になるからだと答えた。彼のことを誂うようにジロジロ覗き込む連中がよく来るらしい。彼はそう不愉快そうに言ったが、彼女はそれを彼の妄想だろうと思っていた。

 

 久しぶりに会ったチューリングは本当に痩せこけていた。日がな一日、こんな日の当たらない部屋で心労を抱えて、付き合いがあるのはあの陰気な家政婦だけでは食欲もわかないのだろう……彼女はそう思ったが、彼の書斎に通されるなり、すぐにその考えは間違いだと気付かされた。

 

 彼の書斎には、なにやら見たこともない装置がずらりと並び、部屋の真ん中にはまるで教卓みたいな台座があって、その上に見たこともない不思議な真っ黒い箱が置かれていた。箱からは配線が何本も伸びていて、部屋に鎮座する無数の装置へとつながっていた。

 

 彼女がこれは一体何なのだろうと眺めていると、チューリングが話しかけてきた。

 

「それで、ジョーン。今日はどうしたんだい? もちろん、僕を訪ねてきてくれたんだろうけれども。君のような女性が、僕のような世間の笑いものに会いに来るのは、世間体も悪いだろうに」

「自分を卑下するのはやめて、アラン……あなたは誰かに後ろ指を指されるような人生を送っていないわ。あなたがこんな目に遭うなんて、そっちのほうが間違ってるのよ」

「そう言ってくれて嬉しいよ。もちろん、君に会えたこともだ。ただ、少し意外だったのでね。どうしてこんな突然訪ねてきたのかな」

「そう、そうね。実は今日は一つ提案があって……ううん、お願いがあってあなたに会いに来たのよ」

「お願い?」

「ええ、本当は女の私がこんな事を言うのは相応しくないと思うのだけど……」

 

 ジョーンはそう言ってから言葉を溜めるようにちらりとチューリングの顔を見た。その常に笑顔が張り付いたような無機質な瞳からは何の感情も窺えなかった。彼女は多分こんなことを言っても無駄だろうと思っていたし、本当はそうすることに消極的でもあったのだが、最後の望みとばかりに彼に一つの提案を持ちかけた。

 

「実は、その……もしよかったらなんだけど、昔あなたと交わした婚約を、もう一度やり直さないかしら?」

「……どういう意味だい?」

 

 彼女は勇気を振り絞るように早口に続けた。

 

「あの時は二人共まだ若かったし、戦時中でそれどころでもなかったから、自然と別れてしまったけれど、ずっと後悔していたのよ。本当ならあの時私たちが結婚していたら、あなたは今こんな生活を送っていなかったんじゃないかって。それで考えたんだけど、もしもあなたが嫌じゃなければ、私たち、やり直せないかしら? 私はあなたのことが本当に好きだし、もし私たちが結婚をすれば、あなたに掛かっている嫌疑もすぐに晴れると思うのよ。そうしたら私たちは、また大手を振ってロンドンを歩けるわ」

 

 チューリングは少しの間ポカンとしていたが、

 

「そうか……君はそんなことを考えていたんだね。自分を犠牲にしてまで、僕を助けてくれるなんて」

「犠牲だなんて思ってないわ。私たち、本当に仲良しだったでしょう? あなたがもし私のことを抱く気にならないって言うなら、それはそれでいいのよ」

「いや、そうじゃない。そんなことはないんだ。でも……ごめん。君の提案に乗るつもりはないよ」

「そう……」

 

 ジョーンは落胆するように下を向いた。しかしチューリングの方は努めて明るい表情を浮かべて、

 

「実は、そんなことをしなくても、僕たちはもうロンドンでお茶をすることも出来るんだ。君はこの部屋に入ってきた時からこの黒い箱を気にしていたけど……実は、僕は世間の目から逃れて、とある機関から受けたこの仕事をずっと続けていたんだよ。それが今日、ついに終わりそうなんだ」

「そうなの? ……ところで、それはなんなの?」

 

 彼女が尋ねると、彼は子供みたいに本当に嬉しそうに笑って、

 

「これはベルリンに突入した赤軍が総統地下壕で見つけたものなんだ。赤軍はその価値が分からず、遅れてやってきた連合軍に渡したようだけど、その後、ナチスが残した資料の中から、ヒトラーがそれを聖杯だと考えていたことが判明したんだ」

「聖杯……」

「ああ、ヒトラーのオカルト趣味は知られていたからね。当初それはバカバカしいと捨てられそうになったんだよ。ところが、万が一を考えてそれを分析機にかけたところ、それが奇妙な電磁パルスのようなものを発していることがわかったんだ。

 

 それは特定の電圧をかけると、特定の電気信号を返してくる。一見してランダムだけど、法則性がありそうなその電気信号がなんなのか? そこで僕にお鉢が回ってきたんだよ。

 

 僕はこの箱が示す様々なパターンから、これがヒトラーが言うような聖杯ではなく、アークではないかと考えた。アークと言っても契約の箱の方じゃなくて、ノアズ・アーク……つまり、ノアの方舟さ」

「ノアの箱舟?」

「そうとも。この箱に電圧をかけると、様々な電気信号を返してくるが、大別するとそれはいつも4つのパターンに絞られていた。このパターンABCD4つの組み合わせが何を示すのか……最初は僕もわからなかった。だが、最近発表されたハーシーとチェイスの実験から、もしかしてそれが生命の遺伝子ではないかと考えた時、この謎が解けたんだ。

 

 君は知ってるだろうか? 驚いたことに、僕たちの体はたった4種類の遺伝子の組み合わせから作られている。その情報が、どうやらこのアークの中に記録されているようなんだ。

 

 僕はいろんなパターンの中から、単純な植物やラットの遺伝子を発見した。まだ、誰にも解読されていない遺伝子の情報が、この中から見つかったんだよ。この中には他にも様々な生物の情報が記録されている。そして恐らく……人間もだ!

 

 これは恐らく、地上のあらゆる生命の遺伝子が記述された神の記憶ボックスだ。この中には、まだ知られていない遺伝子の正確な情報が、全て記録されているんだよ。正にノアの方舟と呼ぶに相応しい器だ。これが世間に公表されれば、世界はひっくり返るぞ!」

 

 チューリングは恍惚の表情を浮かべて箱を凝視している。ジョーンはそんな彼のギラギラした瞳を横目で見ながらため息を吐いた。

 

「そう……そうなの……これはノアの方舟だったのね」

「そうだ! これが発表されれば、僕の名誉も回復する。今はもう戦争中じゃないから、大事な研究を隠す必要はないんだ。これが発表されたら、ノーベル賞も夢じゃないぞ。そうしたら、またロンドンだって大手を振って歩けるさ。君と」

「無理よ」

 

 ところが、自分の発見に興奮するチューリングに対して、彼女は即答した。いきなり否定を返された彼が驚いて聞き返す。

 

「どうして?」

「こんなことを世界に公表するなんてことが、出来るわけ無いでしょう? 私たちが作られた存在だったなんて……もしもそれが知れれば、世界はまた戦争に逆戻りしかねないわよ」

「そんなことはないさ。僕たちを作り出した存在が神だとしたら、僕たちは神の下で平等だったってことが示されるだけじゃないか」

「違うわ、アラン。私たちが仮に神に作られたのだとしても……平等であってはならないわ。そう考える人たちがいるのよ」

 

 その時、家の玄関の方からドスンという大きな音が聞こえて、続けてあの陰気な家政婦の悲鳴が上がった。ドスドスとチューリングの部屋へ向かってくる複数の足音が聞こえてきて、彼は顔面蒼白になった。

 

「逃げなきゃ!」

 

 彼が叫ぶも、彼女は落ち着いたように首を振って。

 

「無理よ……あなたは知りすぎたのよ」

 

 ドンドンとドアに体当りする音が部屋いっぱいに広がって、まもなく、簡単な蝶番で留められただけのドアは吹き飛んでいった。埃が舞って両腕で顔を覆っているチューリングに男たちが飛びかかってきて、あっという間に彼のことを組み伏せてしまった。

 

「あなたにこの仕事を依頼したのは、政府ではなく秘密結社イルミナティ。世界を牛耳る金持ちが集まって作った300人委員会という組織なのよ。彼らは最初からこれの価値を知っていて、自分たちの利益のために、あなたを陥れこの仕事に従事するように仕向けた……当然、この秘密を自分たちだけのものにするためにね」

 

 彼はハアハアと荒い息を吐いて彼女のことを見上げている。彼女は彼から気まずそうに目を逸らす。侵入者たちはそんな彼女に敬礼をして、

 

「クラーク博士、このことは絶対内密に……」

「嘘だ! 君が僕を売ったというのか!?」

「売ったんじゃない! 助けに来たのよ。でも、手遅れだった……」

 

 ジョーンは悔しそうに下唇を噛んでいた。

 

「あなたは天才よ。こんなにも早く仕事を完遂してしまうなんて。さぞかし、300人委員会は喜んでいるでしょうね。そして目的を達した彼らにとって、あなたは邪魔な存在になる……」

「また僕は歴史の闇に葬り去られるのか?」

「連れて行け!」

 

 侵入者たちは後ろ手に縛り上げたチューリングを乱暴に引きずっていく。彼は抵抗すること無く、彼女の顔を見上げたまま呆然と引きずられていった。彼女はそんな彼を見ていることが出来ずに背中を向けた。

 

 アラン・チューリングは同性愛の嫌疑をかけられた後、警察に監視され、意味のない治療を受けさせられ、謂れのない中傷を受け続けた。それが原因かどうかはわからないが、その2年後に、彼は青酸中毒でこの世を去る。

 

 青酸カリを塗ったりんごを食べて死ぬという、非常に奇妙な死に方をした彼は自殺と判断されたが、彼の母親だけは最後まで、彼が実験を失敗したのだと言い続けていたという。

 

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