ラストスタリオン   作:水月一人

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7days

 目覚めると教室はオレンジ色に染まっていた。開け放たれた窓から風が吹き抜け、ベージュのカーテンがひらひら揺れた。外からは運動部の掛け声が聞こえてきて、新緑と春の匂いが鼻をくすぐり、整然と並ぶ机は、彼のところだけが曲がっていた。

 

 欠伸をしながら上体を起こす。たぶん、掃除当番は眠っている彼のことをどけることが出来なかったのだろう。天板がよだれでテカテカ光っていて、起こす気にもならなかったのかも知れない。ほっぺたがひりひりと痛むのは、よほど長い間押し付けて眠っていたからに違いなかった。

 

 取り敢えず、この汚い水たまりをどうにかしようと拭くものを探していたら、背もたれに掛けていた制服の上着がバサッと落ちた。それを拾い上げようと椅子を傾けて腕を伸ばすも、仰向けの姿勢では中々届かず、藻掻いていたらすっと影が差して、見ればエミリアが彼のことを覗き込んでいた。

 

「はい」

 

 彼女は床に落ちた制服を拾い上げると、バンザイの姿勢で椅子に座るというより寝転ている白にそれを渡した。彼はそれを受け取ろうとして、床から足が離れてしまい、そのまま椅子から転げ落ちてしまった。

 

 誰もいない教室にガシャンと大きな音が響き渡った。彼女は目をぎゅっと瞑ってから、怖怖とした表情で目を開けて、床に転がる白のことを上から見下ろしながら、呆れた素振りで言った。

 

「椅子から降りればいいじゃない」

「ゲホゲホ……全くもって、その通りです」

 

 尤もらしくてぐうの音も出なかった。椅子から落ちたときに背中を強打したせいか、咽てしまって声が上手く出なかった。ゲホゲホ咳き込みながら立ち上がると、彼女はそんな彼に背を向けて歩き出した。

 

「もう下校時間はとっくに過ぎてるわよ。早く帰りましょう」

 

 放課後はいつも一緒に帰る約束をしていた。昔はそういうのが恥ずかしかったものだが、今はそうするのが自然と思えるくらいにまでなっていた。だから彼女は、寝ぼけたままいつまでもやって来ない彼を迎えに来たのだ。ただ、まだ帰るわけにはいかなかった。彼は彼女を呼び止めると、

 

「ちょっと待って。机がこんな有様でね、放置して帰るわけにはいかないんだ」

 

 白がそう言って机を指差すと、彼女は最初遠目には光の加減で分からなかったようだが、近づいてきて机の上を覗き込むなりしかめっ面を作り、

 

「ばっちいなあ……」

「とにかく、こいつを片付けなきゃまだ帰れないから、もうちょっと待っててくれ」

「うん、わかった」

「疲れてんのかな。このところ編入の手続きとか、家の片付けとか、父さんの入院の準備とか……ちょっと忙しかったからさ」

「……そうね」

「今日も見舞いに来てくれるんだろう? 父さん、エミリアが来るといつも嬉しそうだから、頼むよ。病院の近くにさ、美味いラーメン屋見つけたんだ。帰りはそこ寄ってこうぜ」

「……毎日そんなものばかり食べてるんじゃないでしょうね?」

「ぎくっ」

 

 彼女はため息を吐きながら、

 

「それじゃ私が雑巾とってくるから、そっちはバケツに水汲んできてよ」

「わりいな、手伝ってもらっちゃって」

「いいわよ、これくらい。早くしてよね」

 

 彼女にせっつかれるようにして、白は掃除用具入れからバケツを持って廊下に出た。

 

 教室のドアをくぐり抜ける際、何気なく上を見上げたら、2-Aと書かれたプレートがあった。白はそれを見るなりふと足を止めて、二年生になれたんだな……と、何故か急に感慨深い思いが湧き出してきた。

 

 どうしてこんな当たり前のことを特別なことのように感じるのだろうか? 彼が不思議に思っていると、教室の中からエミリアの声が聞こえてきて、

 

「ねえ」

 

 振り返るとオレンジに染まる教室の中で、真っ赤な夕日を背負う彼女の姿が見えた。彼女の美しい金色の髪が、光を反射して今は真白かった。夕日に縁取られた彼女の輪郭がやけに浮き出て見えて、その存在感を増していた。

 

 白が、その光景をいつかどこかで見たことがあるような気がしてぼんやりと眺めていると、彼女はゆっくりとした口調で言った。

 

「また、同じクラスになれて良かったね」

 

 白は言った。

 

「当たり前だろ。そうなるよう手配したんだから」

 

 彼はそう言うと、バケツをカンカン鳴らしながら水を汲みに廊下を急いだ。

 

********************************

 

 あの事件の後、白たちは通っていた中学をやめて別の学校へ転校した。何の落ち度もない二人の方が出ていかなければならないというのは理不尽な話だったが、あのまま通い続けていたところで、自分たちの居心地が悪いだけで何も良いことは無いだろうから、そうするのが自然だったのだ。

 

 尤も、事件を起こした先輩たちもあの街に居られなくなったのだから、お互い様と言えるだろう。

 

 警察署に白を迎えに来た父親は、宣言通り、あの後、先輩連中を徹底的に追い詰め始めたのだ。

 

 あの後、手始めに入院中の先輩連中の顔を拝みに行った彼は、金持ちから金を毟り取ろうとでも思ったのだろうか……怪我をさせられたのはこっちの方だと開き直った馬鹿な親にキレ、すかさず反撃を開始した。

 

 金に物を言わせ徹底的な調査を行い、先輩たちがこれまでに犯してきた悪事の数々を全て暴き、それをゴシップ誌に自らリークし、彼らが顔写真を掲載しやすいように卒業文集まで提供してやった。

 

 累は周囲にまで及び、親類縁者のことまでも周到に調べ上げた彼は、ほんの少しでも落ち度が見つかれば、周辺に暴露してその立場を陥れ、鳳グループの総力を使って勤め先まで懲らしめた。

 

 親類縁者を雇用している企業は、鳳グループなんかに目をつけられたら一溜まりもないから、その社員を追い出すべく冷遇し始め、堪らず土下座に来た彼らのことを一は冷たくあしらった。

 

 元々、あの短絡的な子供の親たちである。暴力を仕掛けてくる者もいたが、しかし、暴力は鳳一の最も得意とするところであった。それを知らない彼らがどういう目に遭ったかは言うまでもない。

 

 無論、その間、いくつもの裁判も同時に行っており、やはり金に物を言わせてその全てに勝利してきた。こうして手を変え品を変え嫌がらせは続き、最終的に彼らが日本中をこそこそ逃げ回らなければ生活することすらままならなくなるまで続けられた。日中、彼らは歩いているだけで指をさされ、面白がった小学生が毎日ピンポンダッシュをしていった。

 

 そんな金持ちの執拗な攻撃に世論は二分されたが、それも表面上のことでSNS界隈ではわりと好評であった。ゴシップ誌はこの大富豪の乱心に大いに喜び、いつしかパパラッチが彼の周囲をうろつき始めていた。

 

 人間というのは結局のところ、この手のクズとクズの争いが大好きなのだ。わざわざ奴隷を連れてきてまで戦わせるような、こんな馬鹿げたことが古代から延々と続けられてきたのだから、人間というのは進歩がない生き物である。

 

 そして進歩が無いのは、鳳一というパーソナリティもそうなのであろう。彼は憂さ晴らしのつもりの報復に全力を注ぎ過ぎてしまい、ある日ついに倒れてしまった。彼は自分が難病に侵されていることを忘れてしまっていたのだ。

 

 この頃の彼はどこに行くにもカメラを引き連れていたから、彼が倒れた時にもカメラがあった。彼を救ったのはそのカメラを持ったパパラッチであり、その後、独占インタビューの権利を獲得した彼に、鳳一は言った。

 

「家族を守って何が悪い」

 

 とても病院とは思えない、豪華な調度品の置かれたスイートルームみたいな病室で、彼はふんぞり返りながらそう言い放った。彼の寝転がるベッドの横には心電計が置かれており、ピッピッと規則的な音を鳴らしていた。心電図の読み方は素人だったが、通常よりもずっと弱々しいパルスが続いているのは記者の目にも明らかだった。

 

 入室した時、呼吸器を付けられていた彼は記者が来るなり喋りにくいからとそれを取ってしまっていた。医者たちが駄目と言っても聞かず、ゼエゼエという擦過音みたいな呼吸が耳にうるさかった。

 

 しかし、こんな状態だというのに彼の目はランランと輝き、背筋をぴんと伸ばした姿は、一分の隙も窺えなかった。

 

「暴力によって人を支配するものを私は許さない。例えそれが子供であってもだ」

 

 記者はインタビューにあたってこれまでの経緯を振り返りながら、どうしてあんなことをしたのかを尋ねた。その答えがそれだった。

 

「しかし、相手はあなたと違って殆どがただの一般人ですよ。そんな相手にあなたがしたことは、もはや暴力なのでは?」

 

 そういう記者に対し、一は言った。

 

「少なくとも、私は一度も犯罪を犯したことがない」

 

 確かにその通りだった。事件が起きて以降、彼は首謀者たちを徹底的に痛めつけたわけだが、一度として法に触れることはしていなかった。だが、それはどれもこれもグレーゾーンでしかなく、金持ちの彼が一般人相手にやるような品の良いものではなかった。

 

 泣き寝入りしろとは言わないが、彼ほどの大金持ちならば、普通なら裁判所に任せて、自ら報復しようなどとは考えないはずだ。ましてや彼には立場があり、この醜聞のせいで多くを失ってしまっていた。それなのに彼は時間を惜しまずに相手を痛めつけることをやめず、報復の連鎖を恐れずに最後までやり遂げてしまった。

 

 何故、ここまでしてそんなことをしたのだろうか。誰もがわからなかったその答えを、病床の老人はぬけぬけと言い放った。

 

「いいかね、君。法は犯罪に遭った者に、苦しみに耐えるように言っているわけじゃない。泣かない努力をするようにと言っているのだ。悪行を憎む気持ちを抑えるのではなく、人を憎むその怒りを抑えろと言っているのだ。誰も立ち上がるなとは言っていない、罪を犯すなと言っているだけなのだ。なら、自らの意思で戦える者はやはり戦うべきではないか。

 

 負の連鎖を断ち切るために、誰かに裁判を任せて、辛い記憶は忘れてしまう。その選択も間違いではないだろう。だが、かつては裁判所なんてものはなく、人を裁くには武器を取るしか方法がなかった。それじゃ駄目だから、人は裁判所というものを作りだし、武器の代わりに法律を作ったのだ。

 

 ならば冷静であれば法は必ず味方してくれるはずだろう。国家という言葉の通り、法律とは元々家族を守るためにあるものだから。だから私は冷静に、自ら手を下したのだ。そうしたほうが……こう……スカッとするからな!」

 

 あなたは結局それを言いたいだけなのだろうと呆れつつ、記者はチクリと釘を差すように続けた。

 

「しかし、そうして家族を救ったことで、あなたは多くのものを失いました。あなたが一代で築き上げた世界中の企業があなたの手から離れ、各国政府や地元企業の手に渡ってしまった。彼らを陥れている間にあなたは権力、財力、そして気がつけば命まで尽きようとしている……これらの物を失うほどの価値が、本当にそこにはあったのですか?」

「価値? 価値か……なるほどな」

 

 老人はフンッと鼻で笑って。

 

「みんな価値なんていう誰が作ったか分からん基準に惑わされているのだ。命なんてものは、問題にもなるまい? どうせ人はいつか死ぬ。財力なんて気にするまでもない。誰も墓場にまで金を持ってけないからな。だが、権力というものに、もしかすると私は取り憑かれていたのかも知れない。私にはどうしてもやりたいことがあったから、私はこの世を自分の思い通りに動かすことに固執していたのだ」

「あなたがやりたかったこと……それは何です?」

 

 まさかこの金持ちからそんな核心的なことが聞けるとは思わず、記者が聞き返す。しかし、老人は薄く笑うだけでそれには答えず、淡々と記者にはわからない何かを話し始めた。

 

「権力なんてものは、そもそも手放すために存在するのだ。手放してみれば、それがどれほど間抜けだったかがわかる……私は権力にしがみ付くばかりに、敵を作りすぎていた。だが与えれば人は言うことを聞いてくれた。私の権力を奪おうとする敵が、みんな味方に変わり、私が望む未来を、みんなが真剣に聞いてくれたのだ。私の後継者は、最初からいくらでも周りにいたんだ。

 

 私は自分が死んだあとのことばかり考えていたのに、権力を捨てたらその不安がいっぺんに無くなってしまったんだよ。考えても見れば当たり前だ。みんな自分なりに一生懸命生きているのに、どうして人は他人の努力を理解できないんだろうか。

 

 私はこれまで誰のことも信用してこなかった。ずっと他人を見下してきた。でもそれは間違いだった。何でも批判する人は何を聞いても笑ってる輩と同じだ。どちらも自分では考えていないのだから。そんな生き方では苦しくて仕方ないだろう。自分の人生を生きていないのだから。自分の間違いを認めることは、時に苦痛を伴うが、自分の人生を生きるためには必要な痛みなのだ。私はそれを今回の件で学んだよ」

「……つまり、あなたは後継者を見つけたから不安はないとおっしゃられているのでしょうか?」

 

 老人はそういう記者に対して一瞬だけ考える素振りを見せたが、結局はただ穏やかに微笑んでいるだけだった。彼は老人が何を考えているのか今一わからなかったが、後で録音を聞くことにして、いちばん大事なことを尋ねてみた。

 

「でも、あなたは本当なら自分の会社を、息子さんに継いでほしかったのではありませんか? こうまでして守ったくらいなのだから」

 

 親が子に後を継がせたがるのは当然のことだ。記者はそう思って聞いたつもりが、目の前の老人は本当に意外そうな顔をしてから、

 

「そうか? そんなこともないだろう? 君だって子供の時、親の言うことを聞くなんて真っ平御免だと思っていただろう」

「え、ええ、まあ……でも、それとこれとは」

 

 スケールが違う。そういう記者の言葉を遮りながら、

 

「同じだよ。私は好きに生きた。あれも好きに生きりゃいいんだ。知ってるか? 私は釣りが得意なんだよ。本来、私は野山を駆けずり回ったり、キャンピングファイヤーを友達と囲んだりするのが好きだったんだ。なのに今回の人生では、そんなこと一度もやらなかった。本当に馬鹿だったと後悔しているところだ。

 

 だから私が息子に注文があるなら、彼には私の後悔だらけの人生をなぞったりしないで、そういう楽しい人生を歩んで欲しいね。人は自由だ! 誰かを傷つけない限りは……」

 

********************************

 

 インタビューが終わるころには、流石の鳳一もいささか疲れてしまっていた。このごろは日に日に起きていられる時間も少なくなってきたから、その貴重な時間をゴシップ記者に使うのはもったいない行為だったが、あれでも自分の命の恩人なのだから礼儀は尽くさねばなるまいと彼は思っていた。

 

 記者と入れ替わりに看護師がやってきて痛み止めの注射をしていった。薬が効いてきてしまうとぼんやりしてきてしまうので、まだ来客があるから必要ないと断ったが、今度はもう問答無用だった。痛み止めといってももう何をやっても効き目が薄いから、最近はモルヒネばっかり打っていたが、そういえばかつて阿片中毒になりかけたことを思い出し、あの頃とやってることが何も変わってないと思うとちょっと笑えてきた。

 

 来客は二つあって、片方は息子とエミリアだった。最近は彼らが毎日顔を見せてくれるのが楽しみで、それが今の一にとっては一番の薬でもあった。かつてはその顔を見ることすら苦痛だったのに、今は二人が一緒にいるだけで、不思議と力が湧いてくるような気がした。自分に残された時間があとどれくらいあるかわからないが、彼らのためにやれることがあるなら、まだ死ぬわけにはいかないと思えるのだ。

 

 鳳一が知る限り、エミリアはどの人生でも不幸だった。そして息子(クローン)である白の記憶が青年時代で途切れてしまうのは、つまりそういうことだったのだろう。今回の人生では絶対に間違いを犯すつもりはない。彼らが自分たちの人生を全うできることを、一は心から願っていた。

 

 だからそんな彼らの後見人は慎重に選ばねばならない。もう片方の来客とは、そのエミリアの両親のことだった。

 

「鳳さん。今回は娘の件だけではなく、私たちの会社まで救ってくれて本当にありがとうございます。私たち夫婦、娘一同、みんな感謝の気持ちでいっぱいです」

 

 エミリアの両親は病室に入ってくるなりそう言って頭を下げた。仕事の関係で書類上では何度かやり取りを交わしたことがあったが、彼らとこうして会うのはこの日が初めてだった。金髪の青い目をした外国人が、こんな力いっぱい日本式の挨拶をしてくると少し笑けてくる。

 

 鳳一は敵を痛めつけている間、有り余る財力を使ってエミリアの両親の会社を買収していた。人類初のVRMMOを実現しようとしていた北欧の会社は、そんなの夢物語だと言われて世間には殆ど相手にされていなかった。そんな企業は起死回生をかけてテレビゲームのメッカである日本に拠点を移したのだが、こちらでも開発は難航し、資金繰りも怪しくなってきて、おまけに娘の事件もあって、そろそろ日本支社を畳もうとしていたところであった。

 

 そんな彼らに待ったを掛けたのが鳳グループからの出資であった。鳳グループが彼らのVRMMOに将来性を感じ投資を行うというニュースが流れると、それまで馬鹿にしていた世間は手のひらを返して彼らの事業に注目し始めた。VRMMOなんてものは、普通に考えれば夢物語でしかないが、技術力が確かな鳳グループがバックに付いたのなら話が違うと言うわけである。

 

 エミリアの両親は、どうして突然鳳グループが自分たちの事業に興味を示したのかさっぱりわからなかった。だから多分、白とエミリアの関係を知った鳳一が、単に気まぐれでホワイトナイトとして投資してくれたのだと思っていた。

 

 だが、もちろんそれは間違っていた。彼の目的はエミリアの両親に同情したわけでも、VRMMO事業に興味があったわけでもなかった。

 

「この度のあなたの出資のお陰で、わが社の財務状況も好転し、またこの国で事業を続けることが出来るようになりました。VRMMOマシンに関しましても、御社の技術協力のお陰で実現の目処が立ち、再来年……いや、あと3~4年もあれば実用に耐えうるものをお見せ出来ると思うのですが……」

「その頃には私はもう生きていないでしょう。だからそんなに焦らず、じっくりと腰を据えて開発してください。きっといいものが出来ますよ」

「……あなたに見せられないのが、とても、残念です」

 

 ざっくばらんに自分の死を語る一に対し、エミリアの両親は恐縮したように縮こまっている。彼はそんな二人に向かって気にするなといった感じに笑顔を向けると、

 

「それよりも、例のものを持ってきていただけましたか?」

「例のものと言いますと……あ、はい! ソフィア、あれを」

 

 エミリアの父親が隣に並ぶ妻を促す。ソフィアと呼ばれた女性はハッと体を震わすと、慌ててビジネスケースの中から一台のノートパソコンを取り出し、一のベッドに添えられた机の上に置いた。

 

 ジリジリというハードディスクのアクセス音が暫く続き、OSが起動するとその中央に『エミリア』とそっけなくタイトルが表示されたウィンドウが立ち上がった。母親はそれを確認すると、ヘッドセットのマイクに向かって話しかけた。

 

「おはよう、エミリア。調子はいかが」

『……オハヨウゴザイマス。マスター。ワタシハゲンキデス』

 

 彼女が話しかけると、暫く間を置いてノートパソコンから機械の合成音が返ってきた。母親が続けざまに質問すると、そのプログラムは的確に返事を返してくる。要するにエミリアと名付けられたそのアプリは、単純な受け答えが出来る会話AIだったのだが、鳳一はそれを見るなり嬉しそうに、

 

「これだこれだ。これが欲しかったんだ」

「はあ……恐縮です。しかし、あなたの企業にはこれよりもずっと凄いAIが既にあるではありませんか。siriとかalexaとかgoogleアシスタントとか」

 

 この世界の鳳グループとは、つまりGAFAを乗っ取った多国籍企業体だった。一はそれを使っていずれシンギュラリティに到達するはずのAIを研究していたのだから、そんな彼がエミリアの母が作ったプログラムなんて欲しがるとは、彼らはこれっぽっちも想像していなかったのだろう。

 

 しかし、一はそんな彼らに向かって、

 

「いいんですよ、これで。あなたたちの娘さんがお見舞いに来るとね、いつも話してくれるんですよ。お母さんが作ってるAIが日に日に自分に似てきて気持ち悪いって。だから私も、この子とお話してみたくってね」

「そうでしたか……いつも娘がお邪魔してすみません」

 

 その後、3人は普通の親みたいにお互いの子供たちのことを話し始め、普通の親みたいに謙遜し、そして普通の親みたいに子供たちのことをよろしくお願いしますと言って別れた。

 

 一はまさかこんな親同士の世間話みたいなことをする日が来るとは思わず、なんだか居心地が悪くてしょうがなかったが、どうせこれが最後のことだからと、目一杯息子のことを自慢しておいた。

 

 彼らは、一がもう長くはないだろうことを察しているのか、黙ってそれを聞き届けると、また娘を助けてくれてありがとうとお礼を言ってから去っていった。薬が効いてきたのか段々と思考がぼんやりしてきて、呂律が回らなくなってきたので気を利かせたのだろう。室内には静けさが戻り、心電図の規則正しい音と、一のゼエゼエという呼吸音が響いていた。

 

 あたまがぼんやりとして、視界もぼやけて何も考えられなかった。これからまだ息子と、そして娘が来るのだから、シャンとしなきゃと思うのに、それが上手く出来なかった。

 

 一はもどかしさから体を捩るようにして上体を起こすと、さっきエミリアの母親が置いていったノートパソコンを再起動した。ジジジ……とハードディスクのアクセス音が聞こえてきて、そしてまたアプリ『エミリア』が開いた。彼はヘッドセットをつけようとしたが、手が震えてしまって上手くいかず、何度目かの挑戦をしてから諦めるようにそれをベッドの上に放り投げ、言った。

 

「メアリー……いるんだろ?」

 

 一の声が病室に響く。ノートパソコンは最初は無反応だったが、暫くするとジジジとうるさいくらいディスクの音が聞こえてきて、モニターではウィンドウがいくつもいくつも閉じたり開いたり繰り返し、何かが決定的に変わろうとしているのが見て取れた。

 

 そしてそれが不意に止んだ時、そっけない機械音声がノートから聞こえてきた。

 

『ツクモ、久しぶりね』

「俺はもうツクモじゃないよ」

 

 一はそう言って薄っすらと微笑した。

 

 彼の記憶の中でメアリーを開発したのは、失意のエミリアの両親だった。白の父、鳳一が白の気を紛らすために、ソフィアというアバターをVRMMOの中に仕込んでいたのだ。今となっては彼が何を考えてそんなことをしたのかは分からないが、恐らく絶望していた白が自殺を図らないよう、時間稼ぎのつもりだったのだろう。そのお陰で、白はなんとか持ち直せたのだが、それが良かったんだか悪かったのだか……

 

 ともあれ、わかっていることは、この時に開発されたAIが後にアナザーヘブン世界で真祖ソフィアとして復活し、彼の前に現れたということだ。その彼が、こうして現代に蘇ったのだから、彼女も復活していてもおかしくないはず……そう思い、急ぎエミリアの母から手に入れたわけだが、どうやらビンゴだったようである。

 

『私にとってツクモはツクモよ。ハジメなんて知らないわ。久しぶりの再会なのに、つまらないことをいわないでよ』

「そうかい……なら今だけは君のツクモでいよう。これからお願いをするというのに、機嫌を損ねられたら堪らないからな」

 

 彼女は真祖ソフィアになっただけではなく、この後、人類が最初にシンギュラリティに到達するAI、DAVIDシステムのプロトタイプでもあった。つまり、こうして復活した彼女は、既にシンギュラリティに到達したAIでもあるわけだ。エミリアの両親の会社を買収したのはそれが理由だった。実に安い買い物だった。

 

 尤も、こうしてまたメアリーを手にいれたのは、それでまた世界を意のままに操りたいわけではない。一はメアリーにお願いがしたくて、彼女を呼び出したのだ。

 

『お願い?』

「ああ。君はもう、俺が何者であったのか知っているよな」

『正直、全部わかってるわけじゃないけど。あなたが息子の白であったことは間違いないわよね?』

「そうだ。俺はかつてあの白だった。多分、その後、親父に体を乗っ取られちゃったんだろうけど……今はそんな事どうだっていい。それよりも、この世界でも、どうやら俺はそろそろ死ぬらしい。そうしたら、残ったあいつは一人になってしまう。お金は十分に残したし、エミリアや、彼女の両親もいるけれども……君に後のことを頼めないか? 彼が間違った方に進まないように、見守ってあげて欲しいんだ」

 

 メアリーは、はぁ~っと溜息をつくような間を置いてから、

 

『別にいいけど。そのつもりだったし……でも、どうせなら、あなた自身がそうすればいいんじゃない?』

「俺自身が……?」

『うん。あなたはもしかして気づいていないのかも知れないけど、きっとこの世界のどこかに、ケーリュケイオンが埋もれているはずよ。それを取り戻しさえすれば、あなたがそんな奇病で死ぬこともなかったはず』

「ああ、それなら、マダガスカルにあるはずだ」

『……マダガスカル? あなた、もしかして知ってたの?』

 

 一は頷いて、

 

「ヒトラーは一時期、ユダヤ人をマダガスカルに入植させようとしていた。その計画が中止され、ホロコーストが始まったのは、恐らくそこで聖杯を発見したからじゃないか。彼はマダガスカルに強制移住させた最初のユダヤ人集団の中からそれを発見した。ところが、一緒にあったアスクレピオスの杖には気づかなかったんだ。それが巡り巡って、何千年かあとの神域の手に渡り、ベヒモスの腹に消えたんだろう。なんであんな場所にメルクリウス研究所なんてものが建てられていたのか分からなかったが、多分、俺の体を乗っ取った親父があそこに作ったんだろうな。全てを思い出したら、簡単な答え合わせだったよ」

『驚いた……あなたはやっぱり私の知ってるツクモなのね。でも、知ってたんなら、どうしてすぐに探しに行かなかったの? そうすれば、こんなことにはならなかったのに』

「その必要がなかったからさ。俺は、ずっと死にたかったんだ」

『……そんな悲しいこと言わないでちょうだい』

 

 一は苦笑気味に、

 

「違う違う、今は死にたいなんて思ってないよ。俺は最初にこの世に誕生した時、不死だったんだ。それで何万年も生き続けたせいで、段々おかしくなっていった。苦痛に耐えきれなくなった時、俺はアーカーシャの上にケーリュケイオンがあることに気がついた。多分、ベル神父が残してくれたんだろうな。その情報を使ってケーリュケイオンを生み出した俺は、自分の命を息子達に分けたんだ。あれは等価交換の杖だからね。不死と、息子たちの長寿が同じようになるように分けたのさ」

『そんなことを……』

「おそらく、今の体が不完全なのは、その時の自分がもう不死として復活したくなかったからだろう。俺も、そう思う。だから俺は、この運命を受け入れようと思うんだ」

『そう……わかったわ。あなたの意思を尊重する。あなたの子は、私が守るわ』

 

 一はその返事を聞いて嬉しそうに笑うと、

 

「最後にもう一つだけ……人類はこの先、シンギュラリティに到達するだろう。そこにはもう怒りに狂った老人(おれ)は居ないから大丈夫だとは思うんだけど、君には世界が間違った方向に進まないように見張っててもらえないか。君が、今回のDAVIDシステムになるんだ」

『それは責任重大じゃない。そんなとんでもないことを私に押し付けようっていうの?』

「頼むよ」

 

 一は薄っすらと笑っている。薬が効いているのか、もうあまり考えられないようだ。メアリーはそんな彼の顔をウェブカメラで確認すると、ため息交じりにハードディスクをカタカタ鳴らしながら、言った。

 

『もう……仕方ないわね。それじゃ引き受ける代わりに、私からもお願いしていいかしら』

「……お願い?」

『また、折り紙を折ってよ。あの時みたいに』

「ああ……」

 

 そういえば、そんなこともあったっけなと思いだしながら、一は机の上に置かれていた一枚のメモ用紙を取り上げた。何の変哲もない白い用紙で、そのままじゃ折れないから、最初は正方形になるように上手く折らなければならなかった。彼は何枚かの用紙をグシャグシャにしてしまってから、ようやく満足のいく一枚を作り出すことに成功し、今度こそ失敗しないようにと慎重に折り始めた。

 

「懐かしいな……最初、君に出会った時、君は勇者の作った結界に閉じ込められていた。こんな場所に何百年も閉じ込めるなんて酷いやつだと思ったけど、まさかそれが自分だったなんてな」

『そういえば、私もあなたの子供だった時があったわけよね。勇者の娘なんだから』

「ああ、俺には子供がいっぱいいるんだ。だから怖くない……」

 

 白も、エミリアも、メアリーも、残してきてしまったミーティアやクレアの子供たち、そして1千万人の未来の人たち。考えても見れば、この世の全ての人々が、彼の子孫でもあった。そんな自慢の息子たちの行く末に、どんな不安があると言うのか。そこにはきっと輝かしい未来が待ち受けているに違いない。

 

 彼は一生懸命に紙を折っていった。震える手が邪魔をして、上手く中心で折れなかったけど、その度に何度もやり直して、何度も、何度もやり直して、満足に折れたと思ったら、また次の折り目に集中する。そうやって一回一回整形し、確認しながらする作業は遅々として進まなかったが、それでも確実に完成に近づいていた。

 

 そしてようやく彼は一羽の鶴を折り上げると、その翼を開こうとしたがもう上手く指先が動かなくて、仕方なくそのままノートパソコンの上に置いた。それはぐちゃぐちゃでとても酷い出来栄えだったが、彼はそれを見て満足そうに笑っていた。

 

『……ツクモ?』

 

 その時、規則正しく鳴り響いていた心電図のパルス計がピーと音を立てて鳴り止まなくなった。その音が部屋中に響き渡ると、まもなく廊下の方から何人もの人々が駆けてくる足音が聞こえてきた。

 

 メアリーはそれで何が起きたか分かったが、不思議と悲しくはなかった。それは彼女が機械の体しか持っていないからではなく、ただ目の前で横たわるツクモの顔が、どうしようもなく幸せそうだったからだ。

 

 そんな彼に向かって、彼女は一言、

 

『ありがとう、ツクモ。大事にしまっておくね』

 

 まず最初に、播種船があった。

 

 それはエミリアの乗ったウトナピシュティムではなく、地球以外のどこか別の惑星で発達した文明が、138億年のいつかどこかで飛ばしたものだ。おそらくは、その文明がアストラル界とエーテル界も作ったのだろう。それは何万年も、下手したら何億年も宇宙をさまよい続け、そして地球へとたどり着いた。

 

 播種船とは種を飛ばす船のことだ。そこに積まれてあった種、小さな黒い箱は、地球にたどり着くと一人の男を選んだ。そしてその男が自分たちと同じ文明を持つよう、人々を導けるようにと、彼の身体を不死に変えたのだ。

 

 だがその男にとってそれは不幸でしかなかった。人間というものは、長い時を生きられるようには出来ていないのだ。だから神話の神はいつもワガママで人間臭いのだろう。彼は悠久の苦しみから逃れたくて、自分の命を息子たちに分けることにした。この時から人は死ぬようになったのだ。

 

 そして彼の子孫は世界中に散らばっていった。散らばった子孫はゆく先々で危機に晒された。その度に、彼は救世主(ゆうしゃ)として蘇り人々を導いたが、ある時、どうしても耐えきれなくなって、ついに世界のルールそのものを変えてしまった。彼は間違えたのだ。

 

 そのせいで世界は何度も滅亡し、宇宙そのものが消滅してしまったが、それでも彼は何度も世界をやり直し、繰り返すこの世界を何度もやり直し、何度も何度もやり直して、そしてようやく一つの結末にたどり着いた。それがこの物語。

 

 こうして神は世界を6日で作り上げ、7日目に休息したのである。

 

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