樹齢数百年……もしかしたら数千年はあるかも知れない巨木の根本から、同心円を描くように集落の家々は立ち並んでいた。ガルガンチュアの村の家は、どれも同じ作りをしていたが、その並び順にはランクがあるらしく、巨木の幹に近いほど族長とか、長老とか、村の偉い人たちの家があるようだった。
巨木の高さは100メートル、幹周りは数十メートルはありそうなほど大きく、村はその巨大な傘の下にすっぽりと収まる感じに広がっていた。どの家も藤棚みたいな、天井に蔦植物を生やしてるだけの簡素な屋根であったが、どんなに土砂降りでも雨に濡れずに済むのは、その巨木が雨を弾くお陰だった。こうして見てみると、まるで村の守り神のようである。
鳳の家はその村の外縁部に存在し、両隣はどちらも若い夫婦者が住んでいた。家の場所から分かる通り、鳳は村の最下層の住人という位置づけのようである。滞在している間、特に仕事をしろだのなんだの言われなかったが、それは鳳が客だからというわけじゃなくて、何も出来ない人だからといった解釈だったらしい。
ガルガンチュアに誘われた時は客人として良い家に住まわせてくれるのかなと思いきや、当たり前のように端っこの家を紹介されたので、なんというか肩透かしを食った格好である。扱いは正に村のお荷物といったところだろうか。
尤も、考えても見れば今までもそんな扱いだったのだから、開き直ってしまえばどうということもない。
それよりも困ったのは、家の壁が薄いことだ。いや、薄いのではなく、無いと言っても過言じゃない。木の板で囲うとか、漆喰で塗り固めるなんて概念はなく、どの家も草で編んだ布切れが天井からぶら下がってるだけだから、風が吹くと隣の家の人と目が会ってしまうくらいである。
そんなプライバシーもへったくれもない状態なのに、隣の奥さんがおっぱいをベロンと出して赤ちゃんにお乳をあげているものだから、最初のうちは目のやり場に困った。
しかも暗くなれば人目を気にせずに済むかと言えばそうでもなく、夜は夜で獣のような声があちこちから聞こえてきて非常に困った。パンパンと肉がぶつかるような音と、女性のあえぐような声である。何をしているかは一目瞭然……いや、一聴瞭然? なのだが、何も見えないから返って妄想を掻き立てられて困ってしまう。
しかしムクムクと欲望がかま首をもたげてきたとしても何も出来ない。なんせ相手は
そんなわけで最初のうちは夜が来るたびに憂鬱になったが、そのうちなんとも思わなくなってきた。考えてもみたら、狼人たちは見た目からして狼なのだ。セックスと考えるからエロく思うのであって、犬の交尾だと思えばなんとも思わない。そう考えれば、授乳なんかも微笑ましいものである。
ケモナーじゃなくて良かった。ノーマルな性癖に生まれてきて本当に良かった。鳳は生まれてはじめて神に感謝した。
ともあれ、そんな始末であるから、村の衛生状態は言うまでもなく最悪である。
最初の日の翌朝、目が覚めたら自分が使っていた寝床というか
更にはトイレが物凄い。きっとこんな未開の地だから垂れ流しなんだろうなと思いきや、実態は想像の遥か上を行っていた。この村のトイレは豚舎なのである。豚舎の中にあるのではなく、豚舎そのものがトイレなのだ。
豚を囲っている柵の一部には、何故か一段高くなっている場所があって、その上にU字型の足場が置かれている。そこに立ってお尻をペロンと出すと豚が寄ってくるから、その上にブリブリとひり出すのだ。
当然、うんこが豚にかかるが、そんなの関係ねえと言わんばかりに、奴らはうんこをガツガツ食う。実に美味そうに食べるから、俺のうんこってそんなに美味いのかな? と誇らしい気分になってしまうくらいである。もし、うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、食べるならどっち? と聞いたら、きっとこの豚どもは、うんこ味のうんこと答えるに違いない。
因みに、うんこを食ってるからと言って、豚がうんこをしないわけではないから、豚舎の中は豚のうんこだらけである。当たり前だが、豚も自分のうんこは食べないのだ。それじゃそのうんこはどこへ行くのか? と思いきや、溜まってきたら村の住人がかき集めて、近くにある畑の肥溜めに持っていく。
だったら最初からダイレクトに肥溜めに持ってくりゃ良いじゃないかと思うのだが、栄養効率と言おうか、エネルギー効率的には理に適っているのでなんとも言えない。しかもこうして育った野菜がまた美味いのだ。
村に来た最初の晩、ガルガンチュアがささやかながら歓迎の宴を開いてくれた。せっかくのお祭りだからと豚を一頭絞めたのだが、鳳はその時、その豚がどうやって育ったのかをまったく知らなかったから、何の先入観もなく美味しくいただいた。
本当に美味かった。
それがどんな味かと言えば普通の豚の味だった。日本の畜産農家が育てている食肉用に改良された品種の豚と比べれば、そりゃ味は数段落ちたが、それでもいつも食べていた懐かしい豚肉の味で間違いなかった。少なくとも、うんこの味はしなかった……いや、食べたことがないからうんこの味は分からないが、やはりそれは豚の味をした豚だった。
なんかもう何を言っているか分からなくなってくるが、一緒に出された採れたて野菜も瑞々しく、今まで生きてきた中で一番美味かったと言っても過言ではない出来であった。思わず、これどうやって育てたのと聞いてしまったくらいである。
その時は、ガルガンチュアの口下手もあって、なにを言ってるのかイマイチ理解出来なかったのだが……あとでカラクリを知った時には、食物連鎖について非常に考えさせられたものである。
人間は愚かしくも、万物の霊長であるとか、最終捕食者であるとか自称しているわけだが、悔い改めねばなるまい。食物連鎖の頂点に立つのは人間ではなく微生物である。一度、自分のうんこを行き着く先まで追いかけてみればいい。うんこを覗き込むとき、うんこもまたこちらを覗いているのだ。
集落の生活はそんな具合に自給自足で成り立っているわけだが、やはり畑と家畜だけでは全ての住人の腹を満たせるわけもなく、日々の糧はもっぱら男たちが狩ってくる獲物に頼っていた。故に、狩りが出来ない男は尊敬されず、鳳も最初のうちは客人として丁寧に扱われていたが、暫くすると半人前として馬鹿にされ始めた。この集落では獲物を獲ってこれない男は大人じゃないのだ。
代わりに、鳳はスキルが採集に向いていたから、近場の山菜を集めている内に、集落の女とどんどん仲良くなっていった。意外なのだが、獣人たちはこんな生活をしているくせに、特定の木の実ばかりを採っていて、あまり山菜に詳しくないのだ。そのため、その価値が分かる女性に頼られていたのだが……
半人前が女にモテるせいか嫉妬を買って、ますます男たちからの風当たりは強くなっていく。それが子供たちに伝染しはじめ、気がつけば彼は子供たちからも軽く扱われるようになっていった。
しかしそれは悪いことでもない。子供からすれば、見下してもいい大人がいるというのは、物凄い優越感なのだろう。彼らは嬉しくて仕方ないと言った感じに、事あるごとにちょっかいを掛けてくるので、なんだかそのうち懐かれてしまった。
考えようによっちゃ、何を言っても怒らない鳳は安心して甘えられる大人でもあるから、子供たちからすれば良い遊び相手なのだ。
そんな感じで、女子供と仲良くなっていった鳳は、気がつけば集落でも微妙なポジションに立っていた。新参者のくせに妙に目立つから、人によっては煙たくて仕方がない存在なのだろう。しかし、そもそも種族が違うし、放っておけばそのうち出ていくわけだし、ガルガンチュアの客でもあるから、おおっぴらに痛めつけるわけにもいかない。そんなわけで、集落の男たちの多くは、彼を無視するようになっていった。鳳としては、出来れば仲良くしたいところなのだが、なんでこんなことになってしまうのだろうか……
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ハチとマニという少年たちに出会ったのはこの頃だった。
獣人の成長は早く、ハチもマニも9歳という年齢だったが、見た目は人間なら15歳くらいの大人と子供中間の年頃で、まだ獲物を上手く狩ることが出来ないから、鳳同様に半人前として扱われている、そんな少年たちだった。
しかし手足は伸び切り体力もあったから、ハチはいわゆるガキ大将として子供たちの上に君臨していた。そんなところに、よそ者がやってきて波風を立ててしまったのである。
鳳は、年齢だけで言えば、彼らよりずっと大人である。しかし、なよっとしていて狩りが出来ず、いつも女に混じって採取ばかりしている。周りの大人達もあいつは駄目だと言っているのに、ところが子供たちは彼に懐き、ガキ大将の言うことを聞かなくなってしまった。
それは彼にとって非常に不愉快な出来事だった。だが、鳳を排除したくても、族長の客人であるからおいそれと手は出せない。だから、彼は事あるごとに、鳳にちょっかいを掛けて、その優劣を決めようとした。
例えば、彼は狩りは下手くそだが、決してで出来ないわけではないから、野うさぎなどを捕まえてきては、
「おい、人間。お前は赤ちゃんか。大人は自分で獲物を捕るものだ。それが村の掟。出来ないお前はさっさと出てけ」
と言っては村から追い出そうとしたり、
「おい、人間。女のケツばかり追いかけて、ママのおっぱいが恋しいのか。お前が女を惑わすから、村のみんなが迷惑している。みんなお前を殺したがってる」
と挑発してみせたり、突然、すれ違いざまに鳳の顔にパンチを入れるふりをして、
「おいおい、人間。ビビるなよ。ハエがついてたんだ。間抜けな顔をして、恥ずかしい奴め」
などと露骨に嫌がらせをしてきた。
こんなこと、どれもこれも子供だましで大したダメージにならなかったが、だからと言って腹が立たないわけでもない。こっちだって慣れない村の生活で気が張っているのに……そして鳳は半人前扱いされている通り、大人気なかったものだから、
「はあ? 大人ならみんなと一緒に狩りに出掛けたら? 君はどうしてお留守番してるんですかね。近場の兎を罠に掛けたら一人前だなんて、この村の大人ってのはレベルが低いっすね。ご自分が出ていかれたらよろしいんじゃないですか? げらげら」
とか、
「はあ? 女性を見れば、誰も彼もがスケベなことばかり考えると思ってるんですか? それってもしかして自分のことなんじゃないですかね? いつもそんないやらしい目つきで見ているなんて、村のみんなが知ったらどう思いますかね?」
とか、
「はあ? ただの防御反応を見てビビるだなんて、普通はそんな発想出てきませんよ。もしかしてあなたが誰かにやられたことあるからそう思ったんじゃないですか? ねえ? 誰にやられたんですか? ねえ? ビビっちゃったんですか? ねえ? ビビっちゃったんですか?」
てな具合に、彼は言われたらその倍は言い返してやったのだった。
元々、こういうちょっかいを掛けてくる連中は、反撃されることを想定していない上に、獣人はみんな口下手だったから、ハチは何も言い返せず地団駄を踏むと、真っ赤になって去っていくことしか出来なかった。
鳳はそれで溜飲を下げたまでは良かったのであるが……しかし、この行動がある意味裏目に出てしまった。
鳳に言い返されたからと言って、ハチの攻撃が止むことはなく、彼はまたすぐに嫌がらせを思いつくと、事あるごとに鳳にちょっかいを掛けてきた。そして鳳はその都度、彼を撃退していたわけだが、こうしている内にどんどんとハチのストレスが溜まっていき、それがピークに達したとき、彼はその代償行為として別のことを思いついたのである。
話が前後するが、鳳が村で暮らし始めてから暫くして、彼は奇妙な事に気がついた。
子供たちに懐かれていた彼は、女達から頼まれて、よく子供の面倒を見るようになっていたのだが、その中にたった一人だけ、
兎人の名前はマニと言って、見た目はやはり15歳くらい、大人と子供の中間の年齢だった。この集落は
その証拠に、彼はいつも孤立していた。
狼人たちは老いも若きも、みんな子供の面倒をよく見ており、とても子供を大事にする部族なんだなと思っていた。しかしそんな住人たちも、マニには決して近づこうとはしないのだ。そしてマニの方も、そんな集落の人達に気を使ってか、遠くから見ているだけで、こっちへ近づいてこようとはしなかった。
あの子は一体なんなんだろう? 気になった鳳は村の女達に尋ねてみたが、彼女らは誰も彼もがマニの話になるとバツが悪そうに視線を逸らし、それでもしつこく尋ねたら、あれはガルガンチュアの子だから……と言って、それ以上は教えてくれなかった。
ガルガンチュアの子とはつまり、族長の彼が連れてきた子供だと言う意味だろう。どうしてだろうと思いはしたが、大人たちがみんな嫌そうな顔をするから、これ以上の詮索はしないほうが良いだろう。
子供たちもそんな大人たちの空気を察してか、マニには近づこうとしなかった。集落の人々は、彼を居ないものとして扱っていたのである。だから彼はいつも孤独で、そして兎人という狩りの下手な種族故に、集落の誰からも見下されていた。
ハチはそんなマニに目をつけたのだ。
ある日、鳳がいつものように子供たちの相手をしようと村の広場に向かったところ、いつもなら隅っこで目立たないように座っているマニの姿が見えなかった。元々、マニは子供たちの輪に入ることはなく、迷子になるような歳でもないから、いなくても差し支えなかったのであるが……鳳はハチの姿も見えないことに気づき、何となく嫌な予感がして、彼らを探すことにした。
そして村の女達に話を聞きながら二人の行方を追っていると、彼は村から少し離れた林の中で、ハチに殴られているマニを見つけたのだ。
「この! この! 役立たず!」
ハチはなにかに憑かれたように、目を血走らせながら黙々とマニの顔面を殴り続けている。
「やめて……やめてよう……」
マニはそんなハチの凶行に抗えず、両腕で必死に防御態勢を取りながら、殴られるにまかせている。狼人と兎人……捕食者と被食者の絶対的な差があるのだろうか、彼はどんなにひどく痛めつけられても、歯向かおうとはしなかった。
「おいっ! なにやってんだっっ!!」
鳳はそんな現場に飛び込んでいくと、取り憑かれているかのように腕を振り続けるハチを怒鳴りつけた。彼はその大声に一瞬だけ腕を止めたが、すぐにやってきたのが鳳だと気づくと、まるで不倶戴天の敵でも見るかのような憎悪に満ちた目つきで、
「おまえが悪いんだ!! おまえが出ていかないのが、悪いんだ!!」
「何言ってやがる。俺は関係ないだろう!?」
「狩りが出来ないやつは役立たず。役立たずは村から出ていく。それが村の掟だ。なのに、おまえは出ていかない! ずるい! 村の掟を破るのはみんな出ていけ! おまえも出ていけ!! マニも出ていけ!!」
そんなことを叫びつつ目を血走らせながらマニを殴り続けるハチに対し、鳳はもう何を言っても無駄だろうと思い、
「いいかげんにしろ! 馬鹿野郎!」
彼はハチに体当たりをすると、フラフラになって地面に突っ伏したマニを抱え上げた。マニは顔中血だらけで、元の顔が思い出せないくらい目の下が腫れ上がっていた。もしかしたら骨折しているのかも知れない。鳳は慌てて、いつも腰にぶら下げていた薬入れに手をやったが、今日に限って持ってきていない事に気がついて、ちっと舌打ちした。
「おい、大丈夫か? いま村まで運んでやるから」
「僕はいいから……逃げてください……」
しかし、マニは首を振って鳳のことを突き飛ばす。もうそんな余力もないだろうに、人を気遣ってる場合かと思い、もう一度彼を抱えあげようと近づいた時だった。
ザックリと……何かが突き刺さるような感触がして、鳳の背中に激痛が走った。
「か……は……?」
肺の中から空気が全て抜けていくような声が、自然と自分の口から漏れ出した。鳳は苦痛に顔を歪めながら、何が起きたのかを確認しようと背後を振り返った。
するとそこに、目を吊り上げて、憎悪をむき出しにしたハチが立っていた。人の頭を丸ごとかじれそうなくらい大きな口からは犬歯が剥き出しになっていて、いつの間にか彼の指先に伸びていた鋭い爪は、鮮血に染まり真っ赤だった。
背中は見えないが、もしかしてあれにやられたのか? ゾッとしながら自分の背中に手を回すと、激痛と共に、何かベタベタしたものが手に触れた。腕を戻して手を開くと、そこに信じられないくらい色鮮やかな血がべっとりとついているのが見えた……
やばい……自分の血を見た瞬間、気が遠くなってきた鳳の頭上で、犬の唸り声のような音が聞こえる。
「お前が先に手を出した……お前が先に手を出した……」
見上げると、ハチが焦点の合わないうつろな瞳で、鳳のことを見つめていた。そんな彼が腕を振りかぶる。鳳はとっさに両腕をクロスして、頭を守るように身を縮ませた。
ザシュッ! ザシュッ! ザシュッ!
っと、執拗に振り下ろされる爪が過ぎるたびに、鮮血が飛び散った。鳳の腕はずたずたに切り裂かれ、ベタベタするペンキみたいに真っ赤な血が光沢を放っていた。
それを見た瞬間、鳳の脳内にアドレナリンが吹き出した。視界が真っ赤に染まり、ドクドクと心臓が早鐘を打ち始める。鳳は尚も攻撃を続けるハチの腕をかいくぐると、握りしめた拳を思いっきりハチに向けて突き出した。
「いいかげんにしろ!この野郎っっ!!」
それがクロスカウンターになって、彼の顔面に命中した。突然の反撃に、ハチはキャンと子犬のような悲鳴を上げて後退する。鳳はそんなハチを逃すまいと、体当たりするような勢いで飛びかかっていった。
攻守が逆転し、先程までの鳳みたいに、今度はハチが両腕を使って防御姿勢をとる。しかし鳳はそんな彼の防御の隙間を縫って、的確に急所に拳を打ち込んでいった。それが肝臓を捕らえた時、全身の力を根こそぎ奪われたかのように、膝がガクッと曲がり、ハチは目を丸くしながら地面に倒れ伏した。
こんなはずはない。人間なんかにやられるわけがない。その驚愕にプルプルと震える瞳が、そう物語っているようだった。鳳はそんなハチに馬乗りになって、とどめを刺すつもりで拳を振り上げた。
ヒィッ……っと小さく悲鳴を上げてから、ハチは頭を庇おうと両腕を顔の前でクロスした。
と……その時だった。
鳳の体が、腕を振り上げた姿勢のままで固まった。もはや大勢は決したから、敢えて止めたというわけではない。彼の意思は相変わらずハチを攻撃しようとしているのだが、まるで何かに手首を掴まれているかのように、何故かその腕がびくともしないのだ。
鳳は体を左右に振って、必死に腕を動かそうとした。しかし、その腕はまるでパントマイムでもしているかのように、彼の意思とは全然違う方向に勝手にいってしまう。焦った鳳は震える右手を左手で掴み、動け動けと言わんばかりに、グイグイと引っ張った。
下敷きになっているハチがその隙きを見逃すはずもなかった。何が起きたか分からないが、突然、鳳が攻撃する手を止めたのを見ると、彼はすかさず全身をムチのようにしならせて、上に乗っかる鳳のことを跳ね飛ばした。
左手で右手を掴むという、おかしな格好をしていた鳳は簡単にバランスを崩し、ハチに跳ね飛ばされて地面に転がった。そこにすかさず飛びついて、今度はハチがマウントポジションを取った。攻守逆転、さっきまで負けを覚悟していたハチの頭の中で、何かがプツリと切れる音がした。彼は牙を剥き出し、憎悪で真っ赤に染まる目を鳳に向けると、鋭い爪が突き出した腕を振り下ろした。
ハチは狂ったように鳳の頭を狙って腕を振り下ろす。鳳はそれを必死にガードしながら、なんとか逃げ出そうと試みるが、完全にマウントを取られた状態で、獣人との身体能力の差もあって、まるで上手く行かなかった。
マニがそんな二人を止めようとして、必死にハチを羽交い締めにしようとするが、ハチはそんなマニを突き飛ばして、さらに鳳を攻撃し続けた。
皮膚が裂け、血しぶきが舞う。あまりにも血が流れすぎて、もはや痛みは感じなかった。その代わりひどく目眩がして、鳳の抵抗する気力をどんどん奪っていった。目の前がチカチカと点滅して、世界が黒と白に変わってくる。やばいと思った時にはもうガードする腕も下がってきていて、ハチの爪はそんな無防備な鳳の頭や首に突き刺さった。
意識がどんどん遠のいていく。頭がガンガンと痛んで、思考力を奪っていく。自分は、こんなところで死んでしまうのか? それも子供に、素手で、殺されるのか? なんて貧弱な存在なんだろう……
そんな他人事みたいな感想が脳裏をよぎり、それきり彼の意識は途切れた。
ぐったりとして動かない鳳の体に、尚も執拗な攻撃が加えられる。マニが必死になって止めようとしてくれなければ、きっと彼はそのまま死んでいたことだろう。
その後、騒ぎを聞きつけた大人が駆けつけて来るまで、ハチの攻撃は続いた。発見された時、鳳の意識はなく、彼は生死の境を彷徨い続けていた。