ラストスタリオン   作:水月一人

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お前には失望した

 暴行はそのあともずっと続けられた。鳳は完全に意識を失っており、それがどれほど続いたかはわからない。考えなしの興奮した子供に、加減というものがわかるとも思えないし、恐らく、何ごとも起こらずそのまま暴行が続いていたら、彼は死んでいたかも知れない。

 

 それが死なずに済んだのは、ひとえに連中の足の骨がやわだったからだ。鳳は暴行を受けているうちに意識をなくし、そこから先は抵抗することが出来なくなった。すると本来なら生物が行うであろう防御反応も役に立たないから、受け身を取らないでいる彼の体は、文字通りサンドバッグみたいな状態だった。そこへ調子に乗った一人が思い切り蹴りを入れ、鳳の骨を折ると同時に、自分の足までへし折ってしまった。

 

 痛みにのたうち回る仲間を見て、最初はゲラゲラと笑っていたが、それが尋常じゃない痛がり方だと分かってくると、連中はだんだん怖くなってきた。足が折れた男は泣きながら救急車を呼んでくれと言う。しかし、救急車を呼んでしまったら、自分たちがやったことがバレてしまう。それが警察の存在を連想させ、急激に熱が冷めていった。

 

 彼らはお互いに言い訳しあいながら、足の折れた男を救助すると言う名目でその場から逃げるように去っていった。本当に助けが必要な方はもちろん放置だった。それどころか、人気のない裏路地の広場に人が近づくようなことはなかったが、それでも少しでも発覚が遅れるように、鳳の体を茂みに隠すことさえ忘れなかった。

 

 それから数時間後、鳳は朦朧とした意識の中で目を覚ますことになる。

 

 あのまま放置されていたら、下手したら死んでいてもおかしくなかった。助かったのは、これまた非常に幸運だったからだ。たまたまその近辺に、深夜に犬の散歩をする人が住んでいて、その人がたまたま犬の糞を片付けるスコップを忘れたから、たまたま鳳の倒れている路地裏に入ってきたのが理由だった。

 

 真っ暗な路地裏は視界が悪く、最初は気づかなかった。しかし犬の様子がおかしいからよく見れば、そこに鳳が倒れていた。死体かと思った男は飛び上がり、すぐに警察に通報した。そのお陰で彼は救急搬送され、すぐさま緊急手術になった。

 

 彼が目覚めたのはその最中、麻酔で意識が朦朧としていた時だった。信じられないくらい眩しい手術台のライトが彼を照らし、大勢の人たちが動き回る気配の中で、麻酔をかけてなおズキンズキンと体のあちこちが痛んでいた。

 

 彼が目を覚ましたことに気づいた看護師が何かを耳元で叫んでいた。何を言っているか分からず、何て返事したかも覚えていない。ただ、彼は自分の意志で声を発し、そこにいる他人の存在を意識したことで、安心感を得たようだった。その後、急激に眠気が襲ってきた彼は、そのまま再びぐったりと意識を手放した。

 

 次に目が覚めた時は、病室のベッドの上だった。縛り付けられてるわけでもないに、体は全く動かなかった。どちらにせよ、動けば激痛に苛まれるのだから、動けたとしても動かなかっただろう。最低限、呼吸だけをしながらぼんやりとしていると、病室に医者が入ってきて、一緒にいた父の弁護士と何か話しながら、鳳の容態を機械的に診察していった。

 

 それから一週間くらいが経過して、今度は警察がやってくるようになった。鳳は相変わらずベッドの上だったけれど、痛みは大分和らぎ、普通に会話できる程度には回復していた。だから事情聴取に来たのだ。彼らは鳳に、何故あそこで倒れていたのかを聞いた。だから鳳は、あそこらへんを歩いていたら、見知らぬ集団に襲われたんだと答えた。

 

 それは警察にとっては想定外の答えだった。彼らは鳳に何度も事実確認をし、まだ痛みで混乱しているのだと結論づけると、一旦は帰っていった。それから暫くしてまたやって来たときは、今度は遠回しに聞くのではなく、あからさまに学校の一軍連中のことをチラつかせた。

 

 それでも鳳は最初の主張を曲げなかった。戸惑う警察は、彼が先輩たちの復讐を恐れていると判断し、絶対にそうならないように保護するからと請け合った。鳳が協力してくれたら、必ずあいつらをとっ捕まえて見せると。しかし、鳳はそう言われても証言を変えることはしなかった。

 

 それからは入れ代わり立ち代わり、次々と別の警官がやってきて、脅したり宥めすかしたりして、なんとか自分たちの求めている証言を得ようと躍起になった。しかし、それでも彼は意見を翻すこと無く、結局は被害者が望んでないことなら仕方ないと警察も諦めて、事件は有耶無耶になってしまった。

 

 それは加害者である先輩たちにとっても寝耳に水だっただろう。

 

 事件から1ヶ月ほどが経過して、鳳は学校に復帰した。松葉杖をついて、まだ一人では何をするにも苦労していたが、彼は退院後、休むことなくすぐに学校へとやってきた。事件のあらましをなんとなく知っていたクラスメートたちは、そんな彼のことを遠巻きにして近づかず、そして先輩たちもまた、彼が何を考えているかわからないから、不安そうな目つきで見るだけで近づいてはこなかった。もちろん、教職員は何もしなかった。

 

 しかし、時間が経つにつれて、次第に焦れてきた一人が鳳にちょっかいをかけだした。彼はわざと鳳に突っかかり、小突いたり、嫌味を言ったり、どんな反応を返してくるのかを探っているようだった。鳳はそんな相手に対して、出来る限り愛想よく振る舞った。怒ってないことを殊更にアピールしたのだ。

 

 すると、もっと安心したい他の先輩たちも近づいてきた。本当に自分たちに害意を持っていないのか試すかのように、威圧したり、パシらせたり、鳳のことを子分のように扱いはじめた。彼はそんなことをされても嫌な顔ひとつせず、威圧する相手には下手に出て、パシらされてもしっぽを振って、ついには松葉杖を隠されても、先輩やめてくださいよと言ってヘラヘラ笑うだけで、彼らに絶対に逆らおうとはしなかった。

 

 クラスメートたちはそんな彼のことを怒りの混じったような奇異の目で見ていた。逆に先輩たちは鳳に対して好意を向けるようになっていった。やがて彼はエミリアの代わりに、学校の一軍連中と付き合うようになり、そんな彼のことを先輩たちはとても可愛がって、学校は平穏を取り戻したかのように見えた。

 

 そして鳳のことを真の仲間であると認めた彼らは、それからは面白いように何でも教えてくれるようになっていった。

 

 それぞれの家の住所、電話番号、家族構成、習い事の有無、好きな女の子、etc……

 

 中には鳳が庇ってくれたくれたことを感謝する先輩もいて、罪悪感に駆られていた者は懺悔までした。鳳はそんな先輩たちをにこやかに笑って許し、そして鳳は、彼らの集団の中に、居なくてはならない一人になっていった。

 

 時が流れ、三学期も半ばを過ぎ、三年生は登校日以外に学校へは来なくなった。鳳は、そんな静かになった三年生の教室に呼び出され、女の先輩からバレンタインのチョコレートを貰った。もじもじとおかしな事を口走る女に適当に相槌を打ち、彼女が満足して去っていったのを見送ったあと、彼は受け取ったバレンタインのチョコレートを、そこにあったゴミ箱に投げ込んだ。

 

 赤い夕日が埃舞う教室に差し込んでいる。受験頑張ろう、みんなでハッピーなんて薄っぺらい言葉が、教室の後ろの黒板に書き殴られている。誰かの体育着が放置されてカビが生えている。リノリウムの床のワックスが半分剥がれて年輪みたいな皺を刻んでいる。蟻が一匹どこからか迷い込んで、鳳の上履きに登ろうとしている。彼はそれをつまみ上げて床に放り投げると、踏み潰し、汚物をばらまくようにわざと床に擦り付けた。

 

 そろそろ、頃合いだろう。

 

 奴らは受験も終わり、後は卒業するだけだと浮かれている。

 

 自由登校期間はそれぞれが家で勉強に集中するために設けられた期間らしいが、そんなものを守っているやつなど居ない。奴らは朝から晩まで友達の家に集まって、遊び呆けていた。

 

 教師の目も届かない。親たちはそんなガキどもを家に残して、会社だのパートだのに出かけている。てめえらのガキが狙われてるとも知らず、呑気なものである。襲撃に関して気をつけねばならない事は、あとは奴らの交友ネットワークだけだ。それは既に彼の手中にあった。

 

 鳳はこれまでのおよそ半年間、牙を研ぎ澄ませ続けていた。

 

 あの路地裏で先輩にボコボコにされた時。信頼した先輩に裏切られたと知った時。彼は復讐の鬼と化した。病院で目覚め、医者が必死に彼の命をつなごうとしていた時、彼はいかにしてあのクズどもを殺してやろうかと、それだけを必死に考え続けていた。

 

 警察は邪魔だった。彼らが介入して、奴らが鑑別所にでも入れられてしまったら、復讐のチャンスを逃してしまう。警察、学校、保護観察官……観察対象が増えてしまえば行動が取りにくくなる。出来るだけ奴らには、自由でいてもらわねば困るのだ。

 

 しかし相手は大人数、そしてこちらは体力的にも劣る下級生、普通に襲撃したのでは、まず上手くいかない。だから奴らの懐に飛び込んで、隙を作るしか無かった。そのために嫌なヤツに頭を下げ、愛想笑いをし、思ってもないおべんちゃらをつかった。プライドをかなぐり捨て、賄賂を渡し、時には女に甘い言葉を囁いた。屈辱的な日々だった。

 

 だが、そんなことは今日のことを思えば、さして苦痛でも何でも無かった。日に日に鳳に対して好意を寄せてくる奴らから情報を得ることは容易いことだった。

 

 海へ行ったのは連中の内15人。そのうち、特にたちの悪い5人の男をターゲットにした。女に関しては、既に今までに集めた醜聞を、実名と共にネットにばらまく算段が出来ている。男はそれに加えて、肉体的な苦痛を受けてもらわねば困る。

 

 幸い、たちの悪い奴らほど、団体で行動するものだ。一人では何も出来ないくせに、大勢になると途端に強気になり、そしてより悪辣になる。頭は悪く、だからこそ、筋力に異常に執着するが、スポーツをやってるわけではないから案外体力がない。

 

 最初のターゲットは、そんな一軍メンバーの主力三人だった。こいつらは、いつもつるんでいて、一人でいることは滅多に無い。しかし、だからこそ中に入ってしまえば、いくらでも油断を誘うことが出来た。

 

 メンバーの中に両親が共働きで、夜遅くまで帰ってこない者がおり、いつも連中のたまり場になっている家があった。その日も三人はたまり場に集まって、他愛のない遊びをしていた。

 

 鳳はこの半年間で、そのたまり場に入ることが許されるようになっていたから、その日も学校をサボって彼らのアジトに遊びに来ていた。そして時が流れ、誰かが腹が減ったと言い出しジャンケンを始めた時、彼はこの時を逃しては行けないとばかりに、自分が買い出しにいくと言った。その代わり、一人ついてきてくれと言うと、彼らは特に不審がらずに応じた。買い物なんて一人で出来るはずなのに、それを不審がらないくらいに、彼らは鳳を信頼していたのだ。

 

 だから決行は非常に簡単だった。

 

 鳳は最初の犠牲者と共に家を出ると、家から出てすぐのところにあった、神社みたいに長い階段を先輩に先に行かせ、十分に勢いをつけてからその背中を蹴り飛ばした。全く不意打ちだった彼は面白いように階段を転げ落ち、間もなく血を流して地面に横たわった。

 

 生きているかどうかはわからない。だがまあ、動かないなら死んでいてくれても構わない。何しろこちらにはまだ他にも、やらなきゃならない奴らがいる。

 

 鳳がそんな風に冷徹に男を見下ろしていると、それを見つけた近所の人がきゃーと悲鳴を上げた。階段を落ちる時、結構な音が鳴ったから、驚いて飛び出してきたのだろう。不思議と落ち着いていた。心臓はまったく普段どおりの心拍数を保持している。鳳はその声を受けて、家まで取って返すと、大変だと言って玄関に駆け込んだ。一緒に行った先輩が、階段から転げ落ちた。救急車を呼んでくれ。

 

 家主である男にそう指示し、半信半疑の彼が電話をする間に、もうひとりの方を連れ出すことに成功した。彼は事態をまだよく飲み込めておらず、とにかく現場に連れて行けと言いながら、鳳の前を歩き始めた。

 

 こいつは馬鹿なんじゃなかろうか。鳳は、背中を向けている男の背後へ忍び寄ると、予め用意しておいたナイフで思いっきりその脇腹の辺りを貫いた。

 

 突然の鈍痛に、男が体を曲げて崩れ落ちる。彼は自分の脇腹に刺さっているナイフを見て、目を見開いた。鳳はそんな彼に対して、冷酷な視線を浴びせかけると、傷口を押し広げるようにグイグイと手首を返し、男の体を蹴り飛ばしてナイフを引き抜いた。

 

 この世のものとは思えない悲鳴を上げて、男が地面でもんどり打った。激痛に耐えきれない彼は、ばたばたと足で地面を蹴飛ばしている。

 

 鳳はそれを見て、陸揚げされたマグロみたいだと思いながら、平然とナイフの血を拭い、すぐに部屋まで取って返した。多分、今の悲鳴はもう一人の耳にも届いていたはずだ。彼に見つかる前に、さっさと行動を起こさなければならない。

 

 鳳は部屋に飛び込むと、電話の受話器を持ちながら、不安そうにこちらを見つめている男に向かって、血で真っ赤に染まった手を見せながら「救急車まだですか、早く!」と、強い口調で言い放った。

 

 どう考えても異常な行動だったが、寧ろ異常すぎたからか先輩は不審に思わなかった。その剣幕に驚いて、彼はただ事じゃないと判断し、鳳に背を向けて受話器の向こう側のオペレーターと話し始めた。鳳はその隙を逃さずに、玄関の傘立てに置いてあった金属バットを引き抜くと、今度は電話に夢中の男に向かってそれを思い切り振り下ろした。

 

 ゴッ!! と、鈍い音が響き渡って、電話をしていた男は肺の中の空気を全部吐き出してその場に倒れ込んだ。受話器の向こう側から緊迫した声が聞こえてくる。鳳はそれを無視して、倒れた男に近寄ると、驚愕に震えている彼の頭めがけて、再度、金属バットを振り下ろした。

 

 ゴッ! ゴッ! ゴッ! ……鈍い音が部屋中に響き渡る。咄嗟に防御しようと腕を上げたその手首に、容赦なく金属バットが振り下ろされる。殺すつもりで振り下ろされたバットを前に、貧弱な手首は成すすべもなく、折れ曲がって変な方向を向いていた。

 

 それでも執拗に振り下ろされるバットが当たるその度に、男の情けない悲鳴と、助けを求める声が部屋に響き渡った。鳳が執拗に頭を狙えば、男は防御反応で腕を差し出さざるを得ない。もういっそ殺して欲しいだろうに、それでも生存本能がそうしてしまうのだ。

 

 やがて耐えきれなくなった男は泡を吹いて失神した。その反応が劇的で、鳳は思わず2度見してしまった。しかし、気を失った人間はこんな間抜けな顔をしてるのかと思ったら、かつて自分がやられたことを思い出してムカムカしてきた。彼はそれをスマホで撮影すると、彼らが連絡で使用しているSNSにその映像を流した。

 

 受話器からは相変わらず、オペレーターの緊迫した声が聞こえていた。家電話だから、刑事ドラマみたいに、逆探知で居場所を割り出されるのだろうか? よくわからないが、IP電話だから多分すぐには無理だろう。そう判断すると、鳳は特に受話器をいじらずに、そのまま部屋から外へ出た。

 

 すると外には人が集まっていた。ナイフで刺された男を見つけて、近所の人たちが集まってきたのだろう。鳳はそんな中を悠々と進み、にこやかに挨拶をしてその場を去った。野次馬たちはそんな彼のことを奇妙に思っただろうが、彼が犯人とまではまだわかっていなかった。

 

 スマホが震えて、SNSにメッセージが流れてきた。さっきの動画が既読になっていて、それを見たメンバーが連絡をしてきたのだ。こいつが次のターゲットだ。

 

 鳳は出来るだけ切羽詰まった声で電話に出ると、何が起きたのかと不安げな相手に向かって、「隣の中学の連中が攻めてきた、自分たち全員が狙われている」と有無を言わせずにまくし立てた。

 

 普通に生きている者からすればバカバカしい限りであるが、身に覚えのあるそいつは動揺した。彼らは良く集団で、気の弱そうな他校の生徒を襲っては、カツアゲなんかをしていたからだ。

 

 鳳は、一人でいると危険だから、今はみんなで集まって反撃しようとしているところだ。おまえもすぐにこっちへ来いと言って、滅多に人が通らない、人気の少ない場所へ呼び出した。

 

 これからどうなるかも知らず、そいつはのこのことやって来た。みんなが集まっていると言っていた場所に鳳しかいないにも関わらず、そいつは不安がるどころか、知り合いの顔を見つけて心底ホッとしたように駆け寄ってきた。

 

 鳳はそんな子犬のように可愛らしい先輩に向かってテーザー銃を撃ち込むと、ショックで倒れた相手のアキレス腱に、ナタを振り下ろした。何が起きたかまだ理解出来ない彼は激痛に泣き叫ぶ。鳳はそんな相手を見下ろしツバを吐き捨てると、予め用意していたビデオカメラの前で、立ち上がることの出来ない相手を一方的に叩きのめした。

 

 必死に命乞いする相手を金属バットで、死なないくらいに、もしかしたら後遺症が残るかも知れない程度に痛めつける姿を撮影した。それは重労働だったが不思議と疲れは感じなかった。非常にやりがいがあった。

 

 泣き叫んで許しを請う相手に同情の欠片も見せず放置して……鳳は、そろそろ何が起きているか勘付き始めた連中が、仲間内に探りを入れている真っ只中に、グループチャットにその動画をアップロードし……そして、最後の一人に向かって名指しで宣言した。

 

 次はおまえの番だ。

 

 4人目の犠牲者を放置して、鳳は現場から離れてすぐ近くの駐車場へと移動した。そこに用意しておいた車に乗り込むと、彼は当たり前のようにキーを回して発進した。彼の家には車が何台もあった。そのうちの一台を拝借することなど造作も無かった。運転も、ゲーセンのシミュレータ程度の経験があれば、AT車ならなんの問題もないことを彼は知っていた。

 

 エミリアを紹介してくれと言った先輩は、鳳の幼馴染だった。子供の頃から付き合いあって、友達の少ない彼の面倒を見てくれる、気の良い兄貴分だった。鳳はエミリアの事が好きだったけど、彼にだったら彼女を取られても良いやと思えるくらい、彼のことを信頼していた。

 

 だからもちろん、そいつのことなんて何から何まで全て把握していた。住所も、電話番号も、家族構成も、今現在、両親が留守で一人でいることも、家の間取りも、水道やガスの元栓も、そして家の外にある電気の分電盤も。

 

 彼には最大の恐怖を味わってもらわねばならない。だからわざと他の連中を襲った動画を送りつけた。きっと今頃、ビビって警察に保護を求めている頃だろう。でも家族は居ない、一人だ。外に出るのは怖い。家の中に隠れているはずだ。

 

 だから最初に電気を止めた。外は既に真っ暗で、閉め切った家の中では何も見えないはずだった。案の定、カーテンが揺れて、先輩が外の様子を窺っているのがすぐに分かった。鳳は、車の中で工事現場で使う回転灯を回すと、動画サイトで録音したパトカーのサイレン音を鳴らした。

 

 先輩は間もなく家から飛び出してきた。まるで砂漠の中でオアシスを見つけた旅人のようににこやかな表情で。鳳はそんな彼に向かってハンドルを切ると、思いっきりアクセルを踏みこんだ。

 

 ハイブリッド車のモーターは殆ど音も立てずに急発進した。先輩はまさか助けに来てくれたパトカーに引かれるとは考えもせずに、最後まで馬鹿みたいに突っ立っていた。間もなく、鳳の乗った車がドンッ! っと揺れて、棒立ちだった先輩が面白いように飛んでいった。

 

 まるで映画のスタントを見ているかのようだった。先輩は美しい軌道を描いて吹っ飛んでいった。背中から着地した彼は、しゃーっと音を立てながらアスファルトの上を滑っていって、最後だけゴロゴロと転がって止まり、そのままピクリとも動かなくなった。

 

 鳳はそれを見てから悠々と車から降りると、地面に転がっている先輩の上にドスンと馬乗りになった。ひゅーひゅーと情けない悲鳴を上げ、息も出来ず、動けもしない彼が、半べそになって助命を乞う。それは本当に、本当に、みっともなくて、胸がスカっとする光景だった。

 

 鳳はおかしくておかしくて、ゲラゲラと笑いながら、持ってきたナイフをホルダーから引き抜くと、怯える彼の喉元にその切っ先を突きつけた。

 

「なあ、先輩? どうしてこんな目に遭うかわかるか?」

 

 怯える先輩は涙を流しながらブルブルと首を振った。鳳はそれを見て、再度ゲラゲラと大声で笑うと、

 

「俺も分からねえよ」

 

 と言って、ナイフを振り上げた。

 

 しかし……彼はそのナイフを振り下ろすことが出来なかった。

 

 もちろん、鳳は今日、殺すつもりでここに来た。そのために、この半年間、屈辱に耐え続けてきた。その気になればいつだって、こいつらを警察の手に委ねることは出来た。きっとそっちの方が楽だった。だけど彼はそうすることはなく、この日のために、ずっと心を殺し続けてきたのだ。

 

 仲間の四人にも復讐を果たした。後はこいつを殺るだけだ。なのに……!

 

 鳳はその手を振り下ろすことが出来なかったのだ。

 

 どうして彼の体は突然動かなくなってしまったのか。

 

 本当に……本当に……まるで漫画みたいな話なのだが、彼はその時、見てしまったのだ。涙がいっぱいに溜まってキラキラ輝いている先輩の目の中に……そこに映った自分の顔が、嘘みたいに、はっきりと見えてしまったのだ。

 

 目は釣り上がり、鼻がピクピクと膨れ上がる。こみ上げてくる笑いが堪えられず、口の端が奇妙に歪んでいた。優越感に浸る表情が、俺はこいつに勝ったんだという喜びを、顔全体で表現していた。

 

 “オス”として俺のほうが優秀なんだぞと、雄弁に語っているような、そんな卑しい表情だ。肉体の強靭さ、女へのアピール、性欲に根ざした価値観だけが全てなんだと言っているような、気持ちの悪い野生動物みたいな、いやらしい顔がそこにあった。

 

 それを見た途端、彼は夢から醒めたかのように、突然動けなくなってしまった。

 

 頭は相変わらずクールなのに、心がついていかないというか、力を込めても、反動をつけても、どうしてもその振り上げた腕が下りてこない。まるでパントマイムでもしてるかのように、ナイフを持つ右手首を左手でつかみ、グイグイと引っ張っても、その腕はピクリとも動かなかった。

 

 地面に寝転んで鳳を見上げている先輩の顔が、「どうして?」と言っているかのようだった。

 

 本当にどうしてなんだろう……

 

 それを見た途端、彼は不思議とそこに転がっているのは先輩じゃなくて、本当は自分だったんじゃないかと……

 

 そんな感覚を覚えてしまったのだ。

 

**********************************

 

 凶行は終わった。その後間もなく、先輩が呼んでいた警察が駆けつけ、鳳はあっけなくお縄になった。

 

 駆けつけてきた警官は、ナイフを握りしめたまま固まっている彼に向かって、それを放棄するよう指示したが、彼は呆けたようにピクリとも動かなかった。見かねた数人が彼を取り囲み、羽交い締めにしてナイフを奪おうとしたのだが、彼の指はナイフの柄に深く食い込み、まるで鋼鉄で固められたようで、大人が顔を真っ赤にしてこじ開けなければ剥がれないほどだった。

 

 そこまで覚悟が決まっていたのに、何故、自分はやり遂げることが出来なかったのだろうか……?

 

 警察署に補導された彼は取調室へと連行された。どちらも入った経験が無いから、比べようはないはずなのだが、まるで懺悔室のようだと彼は思った。刑事たちの詰めるオフィスのすぐ脇に、プレハブ小屋みたいなパーティションが区切られたスペースがあり、可視性やプライバシーがどうとかで、扉が開け放たれていたから、殆ど廊下で立ち話をしているのと変わりなかった。

 

 鳳はそんな中で事情聴取を受けた。しかし警察は割と同情的だった。聞こえてくる話では、彼が襲った連中は全員命を取り留めていたようで、それも考慮されたのだろう。それを聞いた彼は残念と思う反面、どこかホッとしていた。

 

 それから、彼が連中を襲った動機について、警察が始めから知っていたのも大きかっただろう。去年、他ならぬ彼自身が襲われた時、警察は前々からマークしていた不良グループのことを洗いざらい調べ尽くしていたのだ。あと一歩で一網打尽に出来るところを、何故かその被害者によって阻まれ、彼らは忸怩たる思いを抱いていた。

 

 だから本当はこんなことを言っちゃいけないのだろうがと前置きしてから、取調官は鳳のしでかしたことを、寧ろよくやったとさえ思っていると言った。自分だって、もしも大切な幼馴染がレイプされたら、同じことをしようと考えるはずだ。だが、大半の人がそれが出来ずに妄想に終わる。そうしなかった鳳のことを、寧ろ尊敬さえすると彼は言った。

 

 鳳はそんな言葉を、どこか砂を噛むような気持ちで聞いていた。彼はこの時初めて、幼馴染に何が起きたのかを知った。多分、そうだろうと思って行動してはいたが、他人の口からはっきりそうだと言われたのはこの時が初めてだった。

 

 凄くショックで、感情が追いつかなかった。でも、心というものは素直で、こういう時にどうすればいいのか、ちゃんと分かっているようだった。

 

 彼は無表情のまま涙を流した。頭の中はクールで、何も考えちゃいないのに、何故か止めどもなく涙が溢れて、止めようとしても止めようとしても、後から後から湧いて出てくる。

 

 取調官はそれを見て、黙って部屋から出ていった。取り残された彼はその背中を見送ってから、呆然と椅子の背もたれに体重を乗せて、言うことを聞かない体の反応が収まるのを待った。

 

 部屋の外の様子は、開いた扉から相変わらず耳に飛び込んできていて、間もなく父の顧問弁護士がやってきて、被害者の家族と示談交渉を始めている声が聞こえてきた。どうやら警察と被害家族を交えて、すぐ隣りにある別の部屋で協議しているらしい。それを聞いている限りでは、相手に鳳を訴えるつもりはなく、全て金で解決できそうだった。

 

 鳳はそれを聞きながら漠然と考えた。

 

 もし、あの時、先輩を殺していたら……

 

 もし、あの時、他の連中の止めを刺していたら……

 

 今頃どうなっていたのだろうか?

 

 駆けつけた警官の対応、さっきまでの取調官の同情、そしてすぐ隣で行われている示談交渉……全てが覆され、彼にはどうしようもなくなっていた。憎しみは涙が洗い流してくれる。さっきまで頭がおかしくなりそうだったのに、今はもう大分落ち着いていた。だからこれで良かったのだと、彼は自分にそう言い聞かせた。そいつが来るまでは。

 

 その時、警察署に鳳の父親がやってきた。

 

 彼はズカズカと苛立たしそうな足音を立てて、鳳のいる取調室へと向かってきた。落ち着けと宥める警官の声を振り切るように彼は取調室の前までやってくると、すぐ近くで協議していた被害家族の抗議の声に、微塵の尻込みも見せずに、

 

「黙れっっっ!!!!」

 

 と一喝し、呆然と立ち尽くす被害家族と顧問弁護士を睨みつけながら、鳳のいる取調室へと入ってきた。そして入ってくるなり、いきなり拳を振り上げ、

 

 バキッ!

 

 ……っと、音が鳴るくらい、鳳の顔面を思いっきり殴りつけた。完全な不意打ち、そして全体重の乗った攻撃に、鳳の体が吹っ飛ぶ。ボルトで固定されていた机がガタガタと音を立て、パイプ椅子が盛大な音を立てて倒れた。

 

 父親は地面に倒れ伏す鳳に向かって、尚も拳を振り下ろそうとしたが、それは周りを取り囲んでいた警官たちによって止められた。彼は羽交い締めする警官を振りほどこうとして、体を捻じりながら、倒れている鳳に向かって吐き捨てるように叫んだ。

 

「何故、仕留めそこなったっ!!」

 

 真っ赤に染まる鬼の形相で、その瞳からは悔しさの余りか、滂沱の涙が溢れている。

 

「どうして、殺さなかったんだっ!!」

 

 まるで気でも狂ったかのように大暴れする父親を取り押さえるのに、二人では無理と判断した警官たちが、4人、5人と束になって彼に取り縋る。それでも抑えきれない彼は、引きずるように取調室から連れ出されていった。

 

 椅子から転げ落ちた時に、机の角にでもぶつけたのだろうか、鳳の額からドクドクと血が流れていた。女性警官が慌てて駆けつけ、ハンカチで彼の頭の傷を塞いだ。不思議と痛みは感じなかった。と言うか、何だか体がふわふわと感じて、まるで地に足がついていなかった。

 

 それより何より、遠ざかる父親が狂ったように叫び続ける、「お前には失望した」の言葉が、彼の心を深く抉った。以来、その言葉は呪詛のように彼の脳裏につきまとい、いつまでも忘れられぬトラウマとなった。

 


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