ラストスタリオン   作:水月一人

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プラトンアカデミー

 ブーン……! っと、アナログテレビのチャンネルが切り替わるかのように、唐突に意識が覚醒した。無理矢理引き剥がされた精神を、また無理矢理体の中に押し込まれたような、妙な圧迫感があった。頭がクラクラしてまともに物事を考えられない。全身からダラダラと脂汗が垂れ落ちて、ごっそりと体重が落ちてしまった気分だった。

 

 まるでフルマラソンでもしてきたかのように、ハアハア言いながら額の汗を拭っていると、ぼやけていた視界が徐々に戻ってきて、周囲の状況が確認出来るようになった。するといつからか周りには無数の好奇心に満ちた瞳が爛々と輝いていて、何かを期待するように彼のことを見つめていた。

 

「それで、リュカはどうなったの?」

 

 集落の子供たちのキラキラした瞳が、鳳の顔に突き刺さる。まるで手品でも見せられていたかのような無邪気な声に、彼はなんて答えていいか分からなかったが……ふと、さっきまで見ていた悪夢みたいな光景を思い出し、それがいつかの長老の話と重なっているような気がして、咄嗟に思いつきを口にした。

 

「えーっと……それで、リュカオン……リュカは、森の仲間達と協力して人間を懲らしめ、反省した人間たちと仲良く暮らしたんだ。だから人間と獣人は今でも仲良しなんだよ」

 

 鳳が話をそう締めくくると、子供たちは暫くポカーンとした表情をしていたが、直ぐに顔を綻ばせて、鳳がたった今聞かせてくれた新しい物語に対し、大いに喜んでいた。

 

 間もなく長老がやってきて、おまえの話は少し違う、もしかすると神の使いも知れないと褒めそやした。その言葉を聞いて、今まで彼のことを馬鹿にしていた集落の男たちも見る目が変わり、鳳にリュカの話をもっと聞かせてくれとねだるのだった。

 

 しかし、鳳は全く喜ぶことが出来なかった。彼は体調が優れないからと言って、村人たちの求める声を辞退して、舞台から下りた。長老はそんな彼の様子を見て、初めてじゃあ仕方ないと、彼の代わりに舞台に上がってくれた。

 

 長老が、村人たちに行儀よくするよう言いながら、巾着袋に無造作に入れていたマジックマッシュルームを口に放り込む。その燦然と輝くキノコを飲んで、彼はいまごろ一体何を見ているのだろうか……

 

 鳳は頭を振った。

 

 いや、自分こそ一体、何を見せられたのだ……?

 

 鳳がさっきまで意識を失いつつも見せられていた出来事は、あまりにも真に迫り過ぎていて、とてもクスリが見せた幻覚とは思えなかった。なんというか、テレビの記録映像でも見ているような感覚だった。もしかして、あれは本当に起きた出来事なのでは? そう思ってしまうくらい、リアルだった。

 

 しかし、鳳が覚えている限り、あんな出来事はもちろん現実では起こらなかった。テレビや映画で似たような物語を見た記憶もない。幻覚と言っても、元々その人が知らない記憶は現れるはずがないし、そして鳳には、こんなことを唐突に思いつく理由もない。じゃあ、あれは誰が見せた幻影なのか?

 

 精霊……

 

 長老は、精霊の声を聞けと言った。精霊の言葉を皆に伝えろと。

 

 もし長老の言うことが確かなら、あれを見せたのは精霊ということになるが……精霊はあんなものを見せて、鳳に何を伝えようとしたんだろうか? いや、鳳にと限定することは無いだろう。思い返せば、あれは長老の昔話ともどことなく似ていた。長老もあれを見て、村人たちに昔話をしたり、創世神話を聞かせたりしているのだ。

 

 つまり、あれは精霊がキノコを食べた者に見せている物語……精霊は一体、鳳たち人類にあんなものを見せて、何を語ろうとしているのだろうか……

 

「酷い汗じゃのう。お主のその、体を張ってでも気になることを調べようとする姿勢は見習いたいものじゃが、それで死んでは元も子もないぞ」

 

 鳳がゼエゼエと荒い息を吐いていると、それを遠巻きに眺めていたレオナルドが近寄ってきて、持っていた水筒を差し出した。鳳はそれを引ったくるように受け取ると、中身をごくごくと飲み干した。

 

「爺さん、来てたのか……」

「メアリーに頼まれてのう。そろそろ妊婦の分娩が始まるから、もしもの時のために村で控えていてくれと言われた」

 

 相変わらず、メアリーには甘いジジイである。まるで孫娘を甘やかすお爺ちゃんのようであるが……鳳がそんなことを考えていると、レオナルドが続けた。

 

「中々に興味深い話じゃったが、あれはお主が即興で考えついたものか? まるで本物の祈祷師のようで感心しとったが」

 

 鳳は頭を振って、

 

「いや、違うんだ。キノコを飲んだら勝手に思いついたっていうか……実は、俺は自分がどんな話をしていたのかもよく覚えてないんだよ」

「……ふむ? どういうことじゃ」

「意識が飛んじゃってたんだよ。そんで、なんか奇妙な夢のようなものを見ていて、気がついたらその内容を話していたっつーか……」

 

 レオナルドは首を捻っている。まさに口で説明しているまんまなのだが……どう説明したら伝わるだろうかと考えていると、鳳はキノコを飲む前に見た幻覚のことをハッと思い出し、

 

「そう言えば、あのキノコを飲む前に、爺さんの姿を見かけたのを思い出したよ……その時なんだけど……なんつーか、あんたの背後に、奇妙な人間の姿を見たような気がしたんだが、あれは一体何だったんだろうか?」

「ほう……どれ、詳しく話してみよ」

 

 鳳は、キノコでトランスする前の出来事をゆっくりと思い出しながら伝えた。

 

 まずはキノコの成分が効いてきたのか、目眩がして視界がぼやけてきたこと。続いて目がぐるぐる回りだしたこと。そのくせ、レオナルドの背後だけ、奇妙にポッカリとした空間が開いていて、それが人の輪郭をとっていたこと。

 

 そしてそれが人っぽいなと思ったら、実際にそこに人間の姿が浮かび上がってきたこと。妙に穏やかと言うか、厳かな表情をした男で、印象的だったのはその輪郭線がぶれて安定していなかったこと。

 

「なんつーか、体の境界が定まっていない感じだった。物凄い存在感を感じるんだけど、そこに居るんだか居ないんだかよく分からない、そんな感じっつーか……本当は見えないものを見てしまうと、あんな風に見えるんじゃないかっつーか……」

「なるほど……お主、精霊を見たな?」

 

 鳳はゴクリとツバを飲み込んだ。

 

「精霊……やっぱり、あれは精霊なのか? そう言えば、爺さんには見えるんだっけ? もしかして、あれはまだここに居るのか?」

 

 レオナルドは軽く頷くと、手にしていた杖を使って何やら地面に描き出した。

 

 既に辺りは暗く、彼の持つランプの灯りだけが頼りだった。何を描いているのだろうか……? 鳳が、よく見えるように屈んで目を凝らすと、レオナルドは杖の先で線を引きながら話し始めた。

 

「儂はいま、地面に絵を描いている。地面は二次元の平面じゃから、従って、ここに描かれている絵は、二次元の情報の塊のはずじゃ。しかし、風景画や肖像画などはちゃんと三次元のように見える。人間の目の中には網膜というスクリーンがあって、そこに映っているのはやっぱり二次元情報のはずじゃが、儂らは世界を二次元のように感じたことはない。それは脳がそれを三次元に変換して見せているからじゃ。

 

 実は儂らはいつも二次元的に世界を見ているのじゃが、脳が遠近感や陰影、色彩などの情報から、次元を補完して見せてくれてるわけじゃ。そうやって、一つ一つの次元を意識して見れば、逆に、二次元の情報しか持たないはずのキャンバスであっても、もっと高次元の情報を記述することも可能じゃ。

 

 実際に、上下左右だけではなく、遠近法、陰影、色彩なども一つの次元と考えれば、儂ら画家は二次元のキャンバスに実は三次元どころか、五次元、六次元の情報を記述しておる。しかし、人間は三次元の生き物じゃから、漫然としておれば、そこにある高次元の情報を殆ど意識することが出来ない。

 

 つまり、高次元存在である精霊を見るにはコツが必要なんじゃ。まあ、何を言ってるか分からぬだろうから、実演して見せよう。鳳よ、一次元と言えばまず何を思い浮かべる?」

 

 鳳は突然そんな話を振られて面食らったが、取り敢えず黙って老人の質問に答えた。

 

「……点や線のことかな?」

 

「そうじゃな。座標軸を持たぬただの点を、ゼロ次元と表現すると、ある点とある点を結べば一次元の線分が現れる」

 

【挿絵表示】

 

「同じように、今度は二本の線分を描き、各々の端をまた線で結んでみる……するとここに二次元の正方形が現れる」

 

【挿絵表示】

 

「次に正方形を二つ描いて、また各々の角を線で結んでみる。すると今度は、三次元の立方体が現れる」

 

【挿絵表示】

 

「このように、n次元の物体は、2つのn-1次元の物体によって表現することが出来る。そう考えると、三次元の立方体と立方体を結べば、これが四次元立方体というわけじゃ。なんだか不思議な感覚じゃが、もし四次元の存在が儂らの前に現れたら、こんな風に見えるはずじゃろう」

 

【挿絵表示】

 

(図:四次元超立方体、正八胞体)

 

「じゃが、もしお主が4次元の見方を知らなければ、これが目の前に現れたところで、どう思うじゃろうか? 何か変なのがうねうねしてるなとしか思わんじゃろう。高次元を見るとはこういうことなのじゃ」

 

【挿絵表示】

 

(正八胞体の回転図)

 

「ところで、この点と点、線と線、角と角を結ぶ線は、時間移動線と捉えることも出来る。最初の例なら、とある点が、時間Aから時間Bの間に動いた軌跡が線になる。線が移動した軌跡が正方形に。正方形が移動した軌跡が立方体に……このように考えれば、時間も一つの次元であることがはっきりと分かるじゃろう」

 

【挿絵表示】

 

「そしてこう考えることによって、四次元物体の見方も変わる。先の例に倣えば、時間Aから時間Bまでに立方体が移動する軌跡が四次元物体となる。軌跡とは実態を持たないただの情報じゃ。それが人間の目にはどう映って見えるのかと考えれば、単一時間にありながら、絶えず動き続けている不確定な存在……ということになるじゃろう。

 

 表現がややこしいから平板に直せば、ある時点において、既にこれから起こる結果全てを内包している存在。それが高次元存在じゃ。

 

 つまりお主が見た、輪郭線がブレていて、そこに居るんだか居ないんだか分からないと思った者は、高次元存在を見たために感じた錯覚のようなものじゃ。高次元存在は、我々の感じている時間という概念を超越しており、あらゆる結果を持ちながらそこに居る、ある意味不確定な存在じゃ。従って、お主はそこに、精霊が居るとも、居ないとも感じたというわけじゃ」

「……何となくだけど、分かったよ。つまりあれは、俺たちからは見えない高次元に存在する生き物なんだな? いや、時間の感覚が俺たちと違うなら、生き物かどうかもよくわからないけど」

「概ねそういうことじゃ。四次元は三次元を内包しておるゆえ、儂らにも三次元に投影されたものならば見える。しかし、それを見るにはコツが必要ということじゃ。お主はそれを、あのキノコを食べたことによって、一時的に得たということじゃろうな」

「爺さんには、それが普段から見えているのか?」

「意識すれば……常に見えておるわけではない」

「いつから見えてたんだ? こっちの世界に来たら、自然に見ることが出来るようになったのか?」

 

 するとレオナルドは首を振り、

 

「前世から見えておったよ……しかし、見えるようになったのは棺桶に片足を突っ込んだ頃じゃった。実を言えば、儂はそれが見えたが故に、この世界に呼び出されたようなもんなのじゃよ」

「どういうことだ……? 詳しいこと、聞いても良いんだろうか?」

「そうじゃな……」

 

 老人は少し考える素振りを見せたが、直ぐに思い直したように地面に杖を突き立て、それに体重を乗せるように寄りかかりながら、

 

「お主にも精霊が見えたのであれば、話しておいたほうが良いかも知れん。儂がこの世界にやってきたのは、実は偶然ではない。精霊に呼び出されたのじゃ……やつの名はマイトレーヤ。真の名をミロク。ミトラとも、ミトラスとも呼ばれておる、この世界に君臨する五精霊の一人であり、56億7千万年後に神として人間界に降臨する予定の存在じゃった。恐らく、お主がさっき儂の背後に見たというのは、この精霊じゃろう」

 

 鳳は突然の話に驚きを隠せなかった。頭の中は疑問だらけで、すぐにあれこれ疑問を口にしそうになったが、いきなり水を差すのもどうかと思い、黙って話の続きを促した。

 

「儂は公証人の父親と農夫の娘の間に生まれた私生児じゃった。幼少期は農村で母に育てられたのじゃが、5歳になって何故か父が引き取るといい出した。当時、子供は父親の所有物という考えが支配的だったから、嫌がったところでどうにもならん。儂は父に引き取られて都市部へ引っ越した。

 

 父に引き取られた儂は、あの頃にしてはかなり良い教育を受けたのじゃが、将来は真っ暗じゃった。私生児は公証人になれない決まりがあったから、父の跡を継ぐことが出来なかったからじゃ。従って、儂は自分で自分の人生を切り開かねばならないプレッシャーがあった。

 

 儂はラテン語と数学が出来たが、当時は識字率が低すぎて、それを生かせる職業なんてものはなかった。唯一、父のような公証人があったが、その道は閉ざされておった。となると、残された道は殆ど決まっておった。当時、金持ちの息子がなるのは公証人じゃなければ、芸術家か、建築家と相場が決まっておったのじゃ。そんな風に、儂は意外と消極的な理由で画家になったわけじゃ。

 

 当時はルネサンスの全盛期。金融業で栄えたフィレンツェは、メディチ家が支配する、世界一の芸術の都じゃった。そもそもフィレンツェが栄えたのは、十字軍が東方から持ち帰ったギリシャ的な品々を、貴族たちが蒐集しはじめたのが切っ掛けじゃった。やがてそれはイタリアでも生産されるようになり、画家にはそういうギリシャ的な物を創作する需要が産まれた。故に、手っ取り早く金持ちに取り入るには、芸術家になるのが一番の近道だったわけじゃ。

 

 儂は画家になるために、ヴェロッキオの工房に弟子入りした。出来れば一人でやりたかったが、当時は徒弟制で、芸術家になるには芸術家に弟子入りする決まりがあったんじゃ。しかしまあ、特に不満は無かった。ヴェロッキオは偉大な彫刻家じゃったが、故に、あまり絵画には関心がなかったらしく、何をしててもうるさく言ってこなかったからじゃ。

 

 彼は絵画の注文を受けても、殆ど弟子に丸投げした。だから絵画部門は弟子たちが切り盛りしているようなものじゃった。儂も彼の名前で絵を描いたことがある。そのお陰で、儂は早いうちから界隈に名を売ることに成功し、兄弟子達に目をかけてもらえるようになった。中でもボッティチェッリとは年も近く、同じ画家を目指していたこともあって、不思議とうまが合った。

 

 その頃、彼はメディチ家のサロンに出入りしており、儂はそこでどんなことが行われているのか興味を覚えた。彼らは東方から逆輸入したプラトニズムを研究し直し、美を追求することによって、イデアをこの世に顕現せしめようと考えておったようじゃ。そうすることによって、彼らは自分たちが神になれると本気で考えていたのじゃ……故に、この集まりを、後世の人々はプラトンアカデミーと呼んだのじゃ」

 


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