ラストスタリオン   作:水月一人

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精霊ミトラ

「画家として弟子入りして間もなくの頃、儂は輪郭線というものについて考えておった。儂らは絵を描く時にまずその輪郭から描くが、現実にはそんな線は存在しない。実際に今、目の前に立っている儂のどこに線が描いてある? なのに儂らは絵を描く時に、真っ先に存在しない線から描き始めるんじゃ。

 

 この線はどこから出てきたのか? それは頭の中じゃ。実際、遠近法も無く、人間がただありのままに世界を見たら、滲んだ色がジワーッと広がる世界が見えるだけじゃろう。そうならないのは、人間が頭の中で世界を再構築しているからじゃ。

 

 あそこにいるのは犬である。猫である。鶏である。ロバである。などと、儂らは視界に映るあらゆる物体をカテゴライズする。そして、犬と猫が別物だと認識するから、これを区別するための線が見える。

 

 ところで、犬と猫の違いとはなんじゃろうか? 何なら机と椅子でも、丸と三角の違いでも、なんでもいい。人間は、犬と猫を見た瞬間、殆ど意識すること無くそれを区別することが出来る。

 

 例えば人間が猫を見た時、瞬時に頭の中の猫のイメージを呼び出して、それと目の前の猫が同じものかどうか比較検討する。そして同じだと判断した時、初めて目の前の物体を猫と認識する。

 

 同じように犬を見た場合、頭の中に犬のイメージを呼び出し、それを比較し、これは犬だと判断する。そして先程の猫と、今しがたの犬を比較し、これらは違う種類の生き物だと判断している。こういう操作をほぼ瞬間的に行っておるわけじゃ。

 

 プラトンは、その物体が何かを見比べるために、人間が頭の中に呼び出している、このイメージのことをイデアと呼んだ。

 

 現実には、猫という動物はごまんと存在していて、全てが違う姿かたちをしているはずなのに、人間はどの猫を見てもすぐに猫と認識できる。それは頭の中に完璧な猫のイメージ、猫のイデアがあるからだ。同じように、犬にも、机にも、椅子にも、丸にも三角にも、イデアが存在する。イデアという完全なイメージがあるから、儂らは世界を認識することが出来るわけじゃ。

 

 逆に言えば、現実世界は不完全な物質(マテリア)によって作られている。精神世界は完全であるのに、どうして我々の住む物質世界はこうも不完全なのだろうかと、プラトンは嘆いたわけじゃが……

 

 これがキリスト教と結びつくと、また別の解釈になる。儂らが同じものを見て、同じような感想を持つのは、即ち万人のイデアが共通だからじゃ。しかし、何故、国も違う、人種も違う、一人ひとり違う人生を歩んできたはずの者たちが、みんな同じイデアを持っているのか? それは、唯一神が人間に魂を授けたからに違いない、と彼らは考えた。

 

 聖書によると人間は、神が泥をこねて造形し、その口に息を吹き込んだことで生まれたと書かれておる。そのため、古代のキリスト教徒は皆、魂は呼吸によって口から出入りしていると考えておった。お主にも分かりやすく言えば、エクトプラズムというやつじゃ。大昔の人々はあんな感じに、目には見えないが、煙みたいなものが、口から出入りしていると考えていたわけじゃ。

 

 そしてその魂は、精神世界と繋がっている。イデアがあるのはその魂の中であり、そこには完全な世界が広がっているに違いない。故に不完全な物質(マテリア)世界を捨て、精神(イデア)世界に帰依すれば、人間は神に近づくことが許されると考える者たちが現れたのじゃ。

 

 2~3世紀に現れた、このような考え方をする集団を、新プラトン主義者という。これは仏教の解脱(げだつ)に似たような考え方で、恐らくはその影響もあったのじゃろう。しかし聖書には、この世の終わりには神が現れ、悪人も善人も全てが等しく復活し、神によって裁かれるという最後の審判という考えがある。つまり、言うまでもなくこれは異端なのじゃ。従って、新プラトン主義は異端の烙印を押されて、闇に葬り去られることになった。

 

 ところが、それから1200年近く経ったある日、東方の文献にそれを見つけたフィレンツェの人文学者たちは、この新プラトン主義という考えに触れて、また別の解釈をした。頭の中には完璧なイメージ、イデアがあるが、それを現実に再現することは果たして可能だろうか?

 

 猫のイデア、犬のイデア、鶏のイデア、ロバのイデアといった感じに、全てのものにはイデアが存在する。つまり人間にもイデアが存在するが、その『人間のイデア=完全なる人間のイメージ』というものを現実に再現したら、そこに何が産まれるのだろうか?

 

 究極の美、完全なる人間は既に我々の頭の中にある。それをどんな方法でもいい。彫刻でも、絵画でも、文学でも、医術でも、錬金術でも、現実のもとに再現すれば、そこに完全なる人間が産まれるはずだ。

 

 神は自らに似せて人間を作った。完全なる人間とは即ち神のことである。

 

 美学(アート)とは、そもそも、その完全なる美をこの世に顕現させようとして興った学問のことだったのじゃ。フィレンツェの、メディチ家のサロンに集まったプラトンアカデミーの人々は、神が人間をどのように創造したのかを、美を追求することによって示そうと真剣に考えておった。

 

 それは即ち、自らが神になる行為に他ならない。すぐ近所にはローマというキリスト教徒の総本山がある場所で、彼らはコソコソとそんなことをしておったのじゃ。

 

 儂はそれをボッティチェッリから聞いた時、面白いと思った。スコラ学の影響から、儂らは神のような形而上の存在は、空の上にいると考えるのが普通じゃった。それが実は人間の頭の中にあるのじゃという考えは、非常に斬新に思えたのじゃ。

 

 確かに、儂の頭の中には完全な人間のイメージのようなものがある。人間を見れば、いつだってそれを呼び起こせる。しかしそれを外に表現しようとすると、雲をつかむみたいに消え去ってしまう。この、儂の中にある『人間のイデア』というものを、どうにか表現できないものか……

 

 それからというもの、儂は人間とは何か、神とは何か、どうすればあの輪郭線を消すことが出来るのかと、そのことばかりを考えるようになっていった。

 

 しかしイタリアは奴隷制を敷いた古代ギリシャとは違い、人間が思索だけで生きていくことは出来ぬ。結局、儂は生活のために筆を執り、そのうち神のことなど忘れてしまった……」

 

 ヴェロッキオ工房での修行を終えたレオナルドは、フィレンツェでメディチ家の庇護を求めたが叶わず、代わりに親善の使者としてミラノ公国へと向かった。そこで当時のミラノ公に気に入られて重用されることになる。

 

 この頃が画家レオナルド・ダ・ヴィンチの全盛期とも呼べる時期であり、彼はこのミラノ滞在中に、彼の代名詞とも呼べる岩窟の聖母と最後の晩餐を描き上げている。

 

 彼としてはこのままミラノに骨を埋めるつもりだったのだろう。1490年頃になると生母を呼び寄せ共に暮らし始めるが、残念なことに母はその数年後に亡くなってしまう。更に、失意の彼に追い打ちをかけるかのように、1499年、第二次イタリア戦争が勃発し、ミラノ公国がフランスに占領されてしまったのである。

 

 レオナルドは仲間の数学者と共にヴェネチアに落ち延びて、そこで軍事顧問として雇われた。彼の画家としての才能は地図を描くのにうってつけだったし、幾何学の知識が大砲の配置図などに役立ったようである。

 

 翌年、故郷のフィレンツェに凱旋した彼は、偉大なる芸術家として熱狂的な歓迎を受けるが、その立ち居振る舞いは、寧ろ軍人のようだったらしい。事実、その2年後の1502年には、ロマーニャ公の陣に馳せ参じ、軍事顧問に就任する。更にその2年後にはフィレンツェのピサ攻略戦に参戦し、マキャベリと共同で水攻めを献策している。

 

 芸術家としてももちろん活躍していた。この頃、彼はモナ・リザや、二枚目の岩窟の聖母を描いたり、ミケランジェロと競い合い、フィレンツェ正庁舎にアンギアーリの戦い(未完)を描いたりした。

 

 しかし、彼は約束を守らないことでも有名だった。

 

 この頃の記録によれば、彼は幾何学に夢中で、ちっとも絵を完成してくれないと依頼主が嘆いているものがいくつも見つかるらしい。どうも彼は軍事のために、空飛ぶ機械を発明しようとしたり、天体の研究をしていたようだ。この頃に書いた彼の残した手記には、月の満ち欠けと地球照から、明らかに地動説を唱えているものまで見つかるそうだ。

 

 このように、比較的穏やかだったミラノ時代と比べて、晩年の彼は激動の時代に翻弄されるかのように、各地を転々とすることになる。最晩年、ミケランジェロやラファエロが活躍するヴァチカンで暮らしていた彼はローマ教皇に依頼され、ミラノを占領したフランスとの和平交渉のためにフランス王と会い、それが切っ掛けで後々フランスに招かれることになる。

 

 こうして彼は、皮肉にも彼をミラノから追い出したフランスの地に赴き、そこで生涯を終えたのである。

 

「儂をフランスに招待してくれたのはフランス王フランソワ1世じゃった。あまり気が進まなかったのじゃが、意外にも初めて会った時、彼は儂のファンだと言ってくれた。どうしてかと思えば、儂はわけあって岩窟の聖母を2枚描いたのじゃが、最初に手放した方を、巡り巡ってフランス王家が所有しておったのじゃ。儂はその修復のために招かれてフランスへ渡った。

 

 フランソワ1世は気さくな男で、よく儂を宮廷に招いては色んな話を聞きたがった。絵画のこと、数学のこと、解剖学のこと。星のめぐりについてや、実際の戦争の話、マキャベリのように君主論について講釈を垂れたこともある。

 

 そんなある日、儂はメディチ家のサロンで行われておった、プラトンアカデミーの話をしたことがあった。しかしこれはキリスト教的には異端で、儂は神父どもに糾弾される羽目になってしまった。

 

 丁度、儂がフランスへ渡った頃、北方ではルターによる対抗宗教改革が行われており、教会はピリピリしておったのじゃ。新プラトン主義とは、元々は3世紀に異端とされたものじゃから、口にするのは神に対する冒涜になる。教会は、そんな言葉狩りをしなければならぬほど追い詰められておった。ほんの半世紀前には、その辺の酒場でも出来た話が、この頃にはもう出来なくなっていたのじゃ。

 

 儂は正直、宗教改革などどうでも良かったのじゃが、フランスの神父たちは身に覚えがあったから、些細なことでもいちいちケチを付けざるを得なかったのじゃろう。おまけに、儂は有名人じゃったから、そんな儂が彼らの説教によって改心すれば、教会の権威付けにも利用できる。そんなわけで彼らは儂を糾弾し、儂も彼らの魂胆が分かっておるから引く気にはなれず、いつまでも激論が続けられることになった。

 

 それからは儂の元へ入れ代わり立ち代わり神父がやってくるようになった。儂はそいつらをいつもけちょんけちょんに言葉で撃退してやった。フランス王はそれを面白がって見ておった。元々、儂はそのフランス王が招聘したわけじゃから、神父共もおおっぴらには異端だなんだとは言えなかったのじゃ。

 

 そんなわけで儂は神父共と口論を交わしながら、いつの間にか若い頃に考えていたイデアについて、また思い巡らせるようになっておった。その頃にはもう、自分が神になるなどという世迷言は考えておらんかったが、しかし頭の中にある完全なる人間というものには、相変わらず興味があった。

 

 それから月日は過ぎ、儂にもいよいよ死期が近づいてきた。その頃になっても教会の神父共は、儂に改悛を迫りによくやって来おった。もはやお互いに、ライフワークになっておったんじゃな。病床の儂の元へも、毎日のように神父がやってくる。あなたの考えは間違ってるのだから、改悛して終油の秘蹟を受けなさいと。

 

 儂は些か疲れておった。彼らと議論を交わすのは、ある意味楽しみでもあった。じゃから、そろそろ彼らの言うとおりにするのも悪くないと思うようになった。正直、ここまで儂にこだわる理由もなかろう。教会の権威であるとか、神の威光であるとか、そういった目に見えぬ物を儂は嫌って、彼らと対峙し続けていたわけじゃが、それほどまでに彼らを突き動かす物に、逆に興味も湧いてきた。

 

 と、そうして彼らのことを認めようとした時……儂は、ふと若い頃に描いた絵のことを思い出した。身もふたもない話じゃが、儂が絵を描いていたのは、そもそも、教会からの注文があったからじゃ。

 

 彼らは、文字を知らぬ民衆に教えを広めるために、絵画を使って神の慈悲とか、教会の権威などを伝えようとしていた。じゃから、彼らからの注文はある意味いつも具体的で面倒くさくもあった。時には、依頼主とフィーリングが合わなくて、注文とは違うと言われ受け取りを拒否されることもあった。そう言うとき、儂らは仕方なく、彼らの言う荘厳さだとか華美さだとかを、どうにか表現しようとした。

 

 例えば、儂の描いた最後の晩餐という絵があるが、これは一見すると何もおかしなところがないように思えるが、よく見るとキリストと12使徒の座るテーブルの背後には、ありえないほど広大な空間が存在する。左右に掛かるタペストリーを見ればすぐ分かるじゃろう。窓の外は、まるで高所から見下ろしているかのように、遠い山の稜線が地平線になっている。儂はこうやって、被写体の背後に広大なスペースを作ることによって、中央のキリストの偉大さを表現したわけじゃ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 儂は既に目に見えぬものを描いておったのじゃよ。偉大さだとか、荘厳さだとか、そういった目に見えぬものも、こうして絵に描くことが出来る。それはつまるところ、目に見えないイメージにも、イデアが存在するということじゃ。

 

 儂は完全なる人間を描こうとして、解剖学を学び、陰影を使い、遠近法を駆使して、写実的な手法を続けていたが、その方法では目的を達することは出来なかったのじゃ。何故なら、神は偉大だからじゃ。目に見えぬものまで表現せねば、そこにイデアなるものは現れるはずがなかったのじゃ。

 

 今際の際にそれに気づいた儂は悔いた。今更やり方を変えねばならないが、もはやそんな時間はない。しかし、いまだかつて無いほどやる気に満ちていた儂は、ほんの少しでいいから時間をくれと、生まれてはじめて神に祈った……

 

 そして気づいたのじゃ……そこに誰かがいることに」

 

 病床で、自分の新しい考えに取り憑かれたレオナルドは、何とか体を起こそうとして上体をひねった。すると彼のベッドのすぐ脇に、見知らぬ男が立っていた。

 

 最初はいつものように教会の神父がやってきたのだろうと思った。しかし、どうも様子が違うと思い、彼が目を凝らしてみてみると……その男には輪郭線が無く、いや、あるのだが一定せずブレており、そこに居るんだか居ないんだかよくわからない雰囲気を漂わせているのだった。明らかに尋常な存在ではないと悟ったレオナルドは、とにもかくにもその男に向かって誰何した。

 

 すると思ったよりもしっかりした声でそれは答えた。

 

「彼の名はマイトレーヤ、真の名はミロク。悠久の時を超えて別の宇宙に現れる神だという。彼は遥か未来のとある場所から、過去に語りかけているという。そこには彼の他にも神がいて、完全な人間を作ろうとしている。自分たちが作った人間は、他の神々が作った人間と戦っている。その戦いに力を貸してくれないかと……」

 


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