ラストスタリオン   作:水月一人

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第三章・ケシ畑で捕まえて~異世界のゴールデン・トライアングル~
あなたは理性的な人である


 あなたは理性的な人である。こう言われると大抵の人は喜ぶ。別段なんてこと無い言葉のはずなのに、何となく褒められてる気分だ。でも、理性って何だ? 理性の対義語が野性であるなら話は簡単である。野性を抑え込んでいるのが即ち理性なのだろう。そして、それを確かめる方法ならある。

 

 俗に酒乱と呼ばれる人々を見たことがあるだろうか。アルコールというものは、人によって強い弱いがあるだけではなく、その酔い方にも割りと特徴がある。笑い上戸に泣き上戸。大抵の人はお酒を飲めば、体中の血管が開いて顔が赤くなり、気分が良くなってくる。ところが中には飲めば飲むほど、寧ろ顔色が青ざめてきて、目が充血し三白眼になり、気がつけばろれつの回らない口調で、物騒なことを口走るような輩がいる。

 

 様子がおかしいと思って、周りが飲むのをやめさせようとするのだが、その時にはもう手遅れで、理性が消し飛んでいて話にならない。やがて辺り構わず暴れだし、手がつけられなくなり、やってきた警官が数人がかりで取り押さえて、ようやく大人しくなる始末である。

 

 普段から体を鍛えている、屈強な警官が数人がかりで、汗だくになって、ようやくである。そのときに発揮される力たるや、普段は一体、どこに隠していたのだと舌を巻くほどであるが……ところが翌日になってそのことを当人に話してみても、何一つ覚えていないと言うのだ。

 

 大暴れしたことでバツが悪くなって、とぼけているのならともかく、どうやら彼は本気らしい。思えばお酒を嗜む者なら、誰しも一度や二度くらい、酩酊して記憶が飛んだ経験があるのではなかろうか。その時のことを後になってから友達に聞かされて、我々はお酒を飲んでなくても顔が真っ赤になるわけだが……不思議なのは、こうして記憶が飛んだ後にも、酔っぱらいはちゃんと家まで帰ってくることである。

 

 こいつは一体どうしちゃったんだろうかと、人格を疑いたくなるような大暴れをした翌日も、酒乱はちゃんと自分の足で家まで帰っている。理性をなくし、記憶をなくすまで飲んでも、人間にはどうやら、自分の体を普段どおりに動かすための何かが、まだ残っているようなのだ。

 

 それはおそらく、理性とはまったく別の人格、即ち野性なのだろう。我々は普段、大暴れする野性を抑え込むように、理性という仮面をかぶって生きているのだ。

 

 実際、酔っ払っている人の脳を調べてみると、それは如実に現れている。人間はアルコールを摂取すると、まず肝臓がそれを分解して、ホルムアルデヒドから酢酸へと変化させ、消化する。その時、肝臓はすべてのアルコールを分解しきれず、ほんの少しだけ血液に流れてしまうのだが、このアルコールが脳に到達すると、脳神経を麻痺させる。これがいわゆる酔っ払うと言う状態であるが……具体的にどこが麻痺するのかと言うと、まず大脳皮質の、理性や思考を司る部分なのだ。

 

 この状態で更にアルコールを摂取し続けると、血中のアルコール濃度はどんどん濃くなり、やがて海馬に到達し記憶を無くす。続いて小脳に達すると、運動神経を阻害されて、我々は千鳥足になるのだ。

 

 面白いのは、こうして麻痺する分野は、人間が進化の過程で獲得していった、人間を人間足らしめている分野ばかりなのだ。つまり残っているのは進化する前、人間がまだ野生動物だったときの、最低限、体を動かすための機能というわけである。どうやらそこに、いわゆる本能……即ち野性が隠されているらしい。

 

 話を変えよう。

 

 ショーペンハウアー曰く、幸福は消極的なものだが、不幸は積極的なものである。

 

 我々、人間という動物は生きていく上で常に飢餓と戦い続けている。この苦痛から逃れるためには、絶えず移動して体内に食べ物を摂取し続けなければならない。何もしなければ必ず飢餓がやってきて、我々は耐え難い苦痛の果てに死を迎えるだろう。不幸とは放っておいても向こうからやってくるものである。生とは即ち、死を避けることによって成立しているものなのだ。

 

 対して我々はどういうときに幸福を感じるのだろうか。自問自答したところで、自分が幸福かどうかなんて分からない。離れていく岸壁を見なければ、自分の乗っている船が動いているかどうか分からないように、それは相対的なものなのだ。故に、自分が幸福であることを簡単に確かめたいなら、自分より不幸な者を探せば良い。

 

 逆に、自分より幸福な者を見ると我々は苦痛を感じるから、始めからそれを見ないでいるか、もしくはその者が不幸になることを望むわけである。我々は自分より幸福な者を呪わずにはいられない。そんなことはない、世の中の幸福の量は、不幸の量よりも勝っていると言うのなら、例えば他の動物を食べている動物と、食べられている動物の気持ちを比べてみればいい。

 

 ところで、幸福とは何であろうか? 人間が食欲と性欲という2つの欲求で突き動かされているというのなら、それは生命が脅かされず、子孫を遺しやすい状態のことを言うのではなかろうか。

 

 およそ、我々は人生の前半生において未来に対する憧憬を持っており、後半生においては過去に対する懐古を抱くものである。今現在、そのどちらをより強く感じているかは人によるだろうが、ただ一つ確実に言えることは、我々は現在に満足した試しがないということである。

 

 しかし、現在とは、過去に対する未来であり、未来に対する過去である。ならば、我々の人生は絶えず不幸であるに違いない。なのに何故、我々は昔は良かったとか、未来はバラ色だとか思っているのだろうか。

 

 それは現在が人生のど真ん中だと思っているからだろう。誰も彼もが、自分が今までに歩んできた過去と、同じくらい長い未来が、これから先も続いていくと考えているからだ。

 

 もちろん、それは間違いだ。過去は過ぎ去った現在(いま)でしかないのだし、未来に何が起きるかは誰にも分からない。おまけに人間は記憶を改ざんする生き物である。人生とは、例えるなら、先も後ろも見渡せない崖っぷちのような場所であり、人間はそこで死を回避することで、ようやく生を全うしているに過ぎない、野生動物とさして変わりない弱い存在なのである。

 

 だが、それを受け入れることの、なんと難しいことであろうか。

 

 我々は、それが人間であろうと他の動物であろうと、死というものを直視することを極端に嫌う。我々を形作っていた物質が朽ちていくさまを見ていると、自分がただの現象に過ぎないことを意識せずにはいられないからだ。

 

 我々は自分が特別であるという承認欲求を抱えている。それが自分がアミノ酸やタンパク質の塊であることを許さないのだ。この強い欲求はどこから生まれるのかと考えれば、それもまた、性欲という現象に過ぎないのであるが。

 

 そんなことはない、自分は助平な気持ちで誰かに認められたいわけじゃないと言うならば、こう考えると良い。承認欲求とは即ち幸福になりたいという気持ちである。そして何故、人間が幸福になりたいのかと言えば、その方が子孫を遺しやすいからだ。

 

 ところで、人間は複数の苦痛を同時に感じることが出来ないらしい。例えば虫歯が痛い時は、一時的に空腹を忘れてしまう。足を骨折なんかしてしまえば、普段のありとあらゆる悩み事など吹き飛んでしまうだろう。ならば、あらゆる痛みを取り除いてしまえば、我々は幸福になるのだろうか?

 

 実際にはそうならないことを、現代人なら誰しも身近に感じていることだろう。

 

 人間は、空腹を満たすと、今度は退屈を覚えるからだ。

 

 かつて我々の祖先は常に空腹であった。空腹を満たすために世界中を歩き回り、やがて道具を作り出し、農耕を始めた。そしてようやく、歩き回ることもせず空腹を満たす方法を得た時から、我々は退屈を覚えた。そして退屈した人間は得てしてつまらないことを考えるのだ。

 

 俺は今、幸せだろうか? あいつと俺と、どちらがより幸せなのだろうか?

 

 返す返すも幸福は消極的であり相対的なものである。従って、上に立つ者が落ちてくれば、自分が幸福になれる……ような気がする。だから我々は、成功者を妬み匿名で殴りつけ、政治家の真似をして政治を叩く。持つものが持たぬものをあざ笑い、差別を煽り、お互いに傷つけ合わせようとする。誰かの失敗が、我々の幸福なのだ。我々人類は、ひとたび死の苦痛から解放されると、途端に周囲を叩き始めるように出来ているのだ。

 

 やがてその憎しみは対立を生み出し、国境を作り、人々に武器を持たせた。理性的な人々は科学を操り、強力な兵器を生み出し、ついにボタン一つで数十万人の命を一瞬で奪う爆弾を作り出してしまった。

 

 これは非常におかしなことではないのか? 我々は、ともすると暴れだしてしまう野性を抑え込むために、理性という仮面を被った。ところが、実際にはその理性のほうが、よっぽど誰かのことを傷つけている。

 

 古今東西、ほぼ全ての宗教家も哲学者も、野性を抑えて理性的になることを説いている。そのお陰で現代人は、かなり理性的になり、経済的にも豊かになった。だが、それで我々は本当に幸福になったのだろうか。失われる恐怖に怯えて、毎日あくせく働いているようにしか見えないのではないか。あまりにも理性を働かせ過ぎた結果、我々は喜びを感じられなくなってしまっているのではないか。

 

 もしも全ての人間の野性を解放してしまったら、世の中は滅茶苦茶になってしまうだろう。それは誰にでも容易に想像がつくはずだ。だが実際に混乱を生み出しているのは、理性の方なのではないか。一体どんな野生動物に、あの戦争ほど大勢の命を奪えると言うのだろうか。我々は理性的であろうとしていたはずなのに、いつの間にか効率的に人を殺す機械に成り下がっている。

 

 何故こんなことになってしまったのか。それは科学的、経済的に成功するには、理性が重要なのは誰もが認めるところだろうが、しかし、そうして得られた結果を利用するのは、必ずしも理性的な人であるとは限らないからだ。例えばアインシュタインは核爆弾を作り出す技術を生み出したが、使用したのは別の人間……というか、社会がそれを必要としたのだ。

 

 もう一度、幸福について考えてみよう。

 

 幸福とは、その人の生命が脅かされず、子孫を遺しやすい状態のことを言う。ならば、食欲と性欲に根ざした本能的な部分に、どうやら我々の幸福は属しているらしい。ところで、社会は最大多数の最大幸福を求める。つまり社会はそれほど理性的ではないのだ。

 

 歴史は、理性的な人々が道を照らし、野性的な人々がそれを喰らい尽くす……理性的な人々が新技術を生み出し、野性的な人々がそれを利用する、マッチポンプの繰り返しだ。その行き着く先がただの自殺なのは、もはや避けられない運命なのだろうか。

 

 賢者とは、普通の人々が死に際して初めて気づくようなことを、既に知っているような者のことを言う。すると賢者は生きながらにして死んでいるようなものである。

 

 我々は死を恐れ、死後の世界のことばかり考える。そんな人に、あなたは生まれる前どうだったのかと問えば、なにもないと答えるだろう。それが正解なのだ。我々は死して生まれる前に戻るだけ、長い目で見ればそこには何もない。

 

 万物は流転し、一所に留まる物など何一つ無い。諸行無常の理の内に、我々もいずれ滅び去るだろう。文明が理性的な人々を生み出す装置であるならば、文明は生きながらにして既に死んでいるのだ。

 

 あなたは理性的な人である。こう言われると大抵の人は喜ぶ。だが、あなたは不幸だねと言われると、大抵の人は憮然とするだろう。我々は一体、何に突き動かされているのだ。

 


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