ラストスタリオン   作:水月一人

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元老院そしてローマ市民のために

 帝国とヘルメス領との間で起きた戦争、俗にいうヘルメス戦争の終結後、国境の街と帝国軍との間で交わされた難民保護の約束が反故にされようとしていた。冒険者ギルドとその約束を交わしたヴァルトシュタインは、後任の新司令官に抗議するつもりで、彼が居城にしている離宮までやってきた。

 

 帝国軍総司令官に就任したのはオルフェウス卿カリギュラと呼ばれる男である。その肩書が示す通り、彼は隣国オルフェウス領を治める帝国貴族で、悠久の時を生きる神人であった。

 

 伝説の生き物であると言われる神人は、全員が優美な容姿をしていて、歳も取らないはずだった。ところが、目の前にいる男はそんな常識を覆すかのように、背中が折り曲がるような奇形をしており、更には全身が傷で覆われていたのである。頭髪も老化のせいで白く染まっており、顔も壮年の男性らしい深い皺が寄っていた。

 

 そんな神人はありえないはずだった。そのあり得ないものが目の前にいた。

 

 ヴァルトシュタインは、その奇妙で得体の知れない男に圧迫感を感じながらも、武人の矜持を傷つけまいと、虚勢を張りながらズカズカと室内に入っていった。

 

「邪魔するぜ」

 

 だが、その虚勢はすぐに、部屋の中から漂ってくる異臭によって剥がされてしまった。彼が部屋の主の方へと近づいていくと、まるで糞尿と腐肉が入り混じったような、強烈な異臭が漂ってきたのだ。

 

 もしや、目の前の男が小便でも漏らしたのかと疑いたくなるような臭いだったが、その予測は半分当たって、半分外れていた。

 

 見れば、男の前に奇妙な装置が置かれていて、その中央には目隠しをされた猿が拘束されている。それだけならまだ良いのだが、哀れなその姿をよくよく見てみれば、その猿の頭蓋骨は、額から上の部分が割られて脳みそがむき出しになっていたのである。

 

 さっきから臭ってくるのは、この猿が発する獣の体臭と、漏らした糞尿の臭いだった。目隠しをされ頭蓋骨を割られた猿は恐怖のあまり糞尿を漏らし、全身からあらゆる分泌液を垂れ流したのである。更に驚かされるのは、一体どうやったのか分からないが、その猿がまだ生きていることであった。

 

 ヴァルトシュタインが用事も忘れて呆然とその気持ちの悪い物体を眺めていると、部屋の主である奇妙な男は、そんな彼をおかしそうに見つめながら、世間話でもするかのように言った。

 

「猿の活造りなんて珍しいでしょう? これは猿脳(えんのう)と呼ばれる、私の故郷の遥か東方から伝わった調理法です。こうやって、猿の脳みそを開けるでしょう? すると、猿は恐怖のあまり脳内麻薬をドバドバと出しますから、それが美味いんですよ」

「悪趣味な……」

「そう言わずに、どうです一口? めったに食べられる物じゃございませんよ」

 

 ヴァルトシュタインは胸の中に渦巻くモヤモヤとしたものを隠しつつ、努めて冷静さを装いながら首を振った。それを見て、部屋の主は残念そうに肩をすくめる。

 

 ヴァルトシュタインは不機嫌な表情を隠そうともせずに、気味の悪い男を睨みつけるように続けた。

 

「そんなことより、俺がここにきた理由が分かっているだろう!」

「はて……何のことでしょうか」

「しらばっくれるな! 約束を違え、国境の街に兵を送ったのはお前だろう!」

 

 彼が大声でそう糾弾すると、カリギュラはさもたったいま気がついたと言わんばかりにぽんと手を叩いて、

 

「おや、そのことでしたか……それは心外です。やったのは、ヘルメス卿ですよ。オルフェウス卿たる私は一切関与しておりません。他人の国のことですからね、外交問題になってしまいますよ」

「嘘つけっ! 兵隊を貸したのはお前だろうが。知らんで済むわけがない」

「私は領内統治のために、彼に兵を貸したまでです。その彼がどのような方法でこのヘルメス領を治めるかまでは存じませんでしたよ」

 

 ヴァルトシュタインはこの期に及んでまだしらばっくれようとする神人に業を煮やし、威圧するかのように一歩踏み出した。

 

「俺は引き継ぎのときにお前に頼んだはずだ。冒険者ギルドとの約束は、お前の権限でなんとしても守れと。そうでなければ刺し違えてでも、この座は譲らないと。信用を失えば傭兵はやっていけない。約束を守らない傭兵など、いつ裏切るか分からない。そんなゴロツキになんの価値があるというんだ。だから俺は自分の今後のために、再三に渡ってお前に忠告したはずだ。もし、約束を違えたとしたら……お前の命はないぞと」

 

 彼はそう言って、背中の曲がったオルフェウス卿の脳天をじろりと睨みつけた。

 

 それは傍から見れば、屈強な軍人が、くたびれた老人をいたぶっているようにしか見えなかっただろう。だが実際には、そのくたびれた老人は神人であり、一触即発の事態が起きた場合、首を撥ねられるのはヴァルトシュタインの方だった。

 

 彼は例えそうなったとしても、自分は抵抗するという姿勢を、敢えて見せたわけである。その悲壮な決意は、この奇妙な神人にも伝わった。

 

 カリギュラはため息を吐くと、手にしていたスプーンの先で、ツンツンと猿の脳みそを突きながら言った。

 

「……閣下。知っておられますか? 脳みそというのは痛みを感じないのですよ。見ての通り、私が今、猿の脳みそを突いても、この猿は何の反応も見せません。こうして、脳みその適当な部分をスプーンで掬ったとしても、彼は何をされているかわからないのです。見てください。こことかそことか、あっちの方も、こんな具合にかき混ぜたり、掬い上げても、猿は殆ど反応を示さない」

 

 ヴァルトシュタインは、目の前で猿の脳みそをぐちゃぐちゃとかき混ぜる男に嫌悪感を覚えつつも、ぐっと堪えて、

 

「……それがどうした?」

「ところがね、閣下、この……横の方にある、灰色の小さな脳細胞を掬ってしまうと……」

 

 カリギュラがそう言いながら、猿の脳みそをスプーンで掻き出すと、さっきまで拘束されながらもオドオドとした表情で不安そうにしていた猿が、急に動かなくなり、表情をなくしてしまった。

 

「見ての通り、猿は動かなくなるんですよ。でもね、これは死んでるわけじゃないんです。彼はまだ生きています。心臓は動いているし、食べ物を与えればちゃんと食べる。それじゃ今一体、彼に何が起きたのか……? 彼は体が死んだんじゃなく、心が死んだんですよ」

「……心だと?」

「ええ。どうやらこの、たったこれだけの小さな灰色の脳細胞に、動物の心という物が詰まっているらしい……」

 

 彼はそう言いながら、たった今掬い取ったばかりの脳みそを、自分の口の中に放り込んだ。そしてそれをにっちゃにっちゃと咀嚼し、飲み込んでから、

 

「ところが、ゴブリンにはこれがない」

「……え?」

 

 ヴァルトシュタインが目の前で行われるグロテスクな行為にうんざりしていると、カリギュラは突然ぽつりとそんなことを言い出した。

 

「ゴブリンなんてものは誰でも簡単に捕らえられますから、その脳みそを調べることだって簡単です。私はこの猿と同じように、捕らえたゴブリンの頭を割って、中身を取り出してみました。すると哺乳生物なら必ずあるはずの脳細胞がどこにも見当たらない。おそらく、オアンネスやインスマウス、オーガやオークなんかも……つまり、魔族には心というものが無いんですよ。あなたは今、私のことを気持ち悪いって思ってるでしょう? その、生物なら当たり前に感じるはずの嫌悪感や忌避感というものが、魔族には無いんです。

 

 もし、そんな連中が、南の森を通り抜けて、私達の国になだれ込んできたらどうなると思いますか? 無茶苦茶ですよ。今の我々人間社会がこんなものに太刀打ちできるわけがない。奴らは死を恐れず、ひたすら奪い、食い、犯すことしか考えない。少しの躊躇もせず、人間を慰み者にして回るでしょう。その後は魔族が支配する弱肉強食の世界が広がるだけだ。そしてそれは夢物語ではない。現に、300年前に起きた出来事なんです。

 

 私は300年前、この世の地獄を見た……

 

 そう、その経験があるというのに、人類は未だに一つになりきれていない。帝国と勇者派とに別れて殺し合い、唯一魔族と対抗できる神人は、大きく数を減らしてしまいました。もしもですよ……? 今、この時、この瞬間、南の森から魔王が現れたら、私達はどうなるでしょうか……? 今度こそ人類は滅亡するかも知れません。そして、私はここ最近、南の森で魔王復活の兆しがあることを突き止めたのです。

 

 だからこそ、私は声を大にして言いたいのです。いい加減、世界は一つにならなければならない。そもそも勇者領などというものを認めて、国を分けるからこんなことになるのです。ヘルメス卿が倒れ、帝国が一つになった今が最後のチャンスなのです。我々は、この余勢を駆って勇者領に攻め込むべきだ……そのために、ヴァルトシュタイン閣下、あなたの力をお貸し願えませんか?」

 

「……なに?」

 

 それはあまりにも唐突な提案だった。それ以前にも、魔王復活の兆候とか聞き捨てならない言葉はあったが、掻い摘んで言うと、今目の前にいるこの男は、ヴァルトシュタインに勇者領を乗っ取れと言っているのだ。

 

「帝国議会の評判はともかくとして、ヘルメス卿を打倒したのはあなたです。そして帝国軍の中には、未だにあなたへの信頼を口にする将兵たちがいる。そのあなたが率いれば、平和にあぐらをかいていた勇者領の蛮族共を蹴散らすことなど容易いことだ。もし、そうしてくれるなら、私は帝国軍総司令官の権限を持って、あなたに一軍を預けたいと考えているのです」

 

 しかしヴァルトシュタインは、嫌悪感丸出しの表情を隠そうともせずに、即座に首を振った。

 

「何を夢みたいなことを……俺は、他ならぬその帝国に更迭された身だぞ? 将軍職を辞して、元の傭兵隊長に戻ったんだぞ。今更、連中のために戦えるものか」

「帝国のために戦うのではなく、人類のために戦って欲しいのです。あなただって、世界が二分されたままであって良いとは思わないでしょう」

「……だとしても! お前は相手を見くびり過ぎだ。なんやかんや彼我の戦力差を考えてみれば、あっちの方が上なんだぞ。実を言えば、今の帝国に勇者領に太刀打ちできるような国力はないんだ。そんなのを下手に突いたら、眠れる獅子を起こすことになりかねない。お前にはそれがわからないのか!?」

「ならば帝国が征服されればいいだけの話ではないですか」

「なにぃ~……?」

 

 ヴァルトシュタインは耳を疑った。よもや、帝国の重鎮である、5大国の領主が、こんな危険思想の持ち主だとは思いもよらなかった……

 

 初めて会った時から、気味の悪い男だと思っていた。その姿といい、言動といい、神人であるのに怪我が治りきらないという、不可解な事実といい……そんな男が危険な考えを持っていたとしても、少しもおかしく思わなかったが、それが帝国の転覆さえ厭わないと知れば話は変わる。

 

 何故、皇帝はこんな男を自分の後釜に据えたのか……? まるで分からない。彼は長い溜息を吐くと、呆れた素振りで首を振り振り言った。

 

「……いまのは聞かなかったことにしといてやるよ。皇帝陛下にとって、おまえが忠実な下僕であることを願ってやまねえぜ」

「……そうですか。それは残念です」

「それに、何度も言わせるな。俺は就職活動に来たわけじゃねえんだよ。俺は単に、俺が帝国軍司令官として切った仁義を、後任であるお前に台無しにされないよう、文句を言いに来ただけだ。もし、それでもなお、お前が考えを改めないというのなら……」

「言うのなら?」

「俺はお前の首を獲るために、あらゆる手を尽くすだろう。仮にそれで、自分が死ぬんだとしてもな」

 

 その言葉に、今度はカリギュラのほうが長い溜息を吐いた。そして彼はおどけながら、ヴァルトシュタインがしたように、わざと首を振り振り、

 

「わかりませんね。あなたがどうして、彼らにそこまで入れ込むのか」

「別に入れ込んじゃいねえよ。俺は単に、約束しただけだ。傭兵として、唯一違えちゃいけないのは、雇い主との約束事だ。その仁義に反することをした瞬間に、俺たちは野盗に成り下がる。そうなったらお終いだ、もう誰もついてきちゃくれねえよ」

「そう言うものですか」

「お前だって国を背負って立つ身だろうに。それくらい、わからないわけあるまい」

 

 彼がそう言うと、この日初めて、薄気味の悪い神人は、ほんの少しだけ真面目な表情を見せた。その言葉の何が彼にそんな顔をさせるのかは分からなかったが、

 

「で、どうするんだよ、大将。逆に言えば、お前にもそこまでして、新ヘルメス卿に肩入れする理由は無いはずだ。それでもどうしてもというのなら、俺はもう覚悟が決まっているぞ」

 

 ヴァルトシュタインが決意を秘めた目でそんな彼を睨みつけると、カリギュラはついに降参とばかりに両手を挙げて、

 

「……わかりました。では、一日だけ、あなたに差し上げましょう」

「一日?」

「ええ。一日だけ、なにか理由をつけて、街を取り囲む兵を退かせます。その間に、あなたは難民を連れられるだけ連れて逃げてください。私に出来るのは、それが限度です」

「そうかい……ありがとうよ」

 

 あの、アイザック12世とかいう男に貸した兵を引き上げればいいだけなのに……何故、あんな無能にいつまでも兵を貸し与え続けているんだろうか。そう思いはしたが、とりあえずの条件を引き出せただけで良しとして、彼はそれ以上聞かなかった。

 

 ヴァルトシュタインは、新司令官の気が変わらないうちにと、礼の言葉を述べて、さっさとこの薄気味悪い部屋から立ち去ろうとした。ところが彼が立ち上がると、従者がお茶を持って戻ってきて、たった今部屋から出ようとしていた元司令官を前に、オロオロと戸惑っていた。彼はそんな間の悪い従者からお茶を引ったくるように受け取ると、その場でぐいっと飲み干した。

 

 その背中に、部屋の主が声をかける。

 

「閣下……そうまでして難民を助けようとするからには、彼らが安心して暮らせるようになるまで、ちゃんと責任を持ってくださいね」

 

 ヴァルトシュタインは、さっきまでその難民をとっ捕まえようとしていたはずの男が、何故急にそんなことを言い出すのかと疑問に思いながらも、

 

「もとよりそのつもりだ」

 

 と言って、突然押しかけてきたときのように、自分勝手に、さっさと部屋から出ていった。従者がその後を追いかける。多分、今度こそ闖入者がちゃんと出ていってくれるか、確かめに行ったのだろう。

 

 静寂が戻り、執務室の中は、またカリギュラ一人だけになった。いや、一人と言っていいのだろうか、彼の目の前には、脳みそが半分くらい欠け落ちた、哀れな猿が立っていた。もはやその姿には森で自由に暮らしていたころの動物らしい面影はなく、何の感情も示さない表情は標本のようであった。

 

 時折ピクリピクリと痙攣するのは、まもなくその体がただの現象に成り果てようとしているからだろう。彼はスプーンを取り出すと、一思いにその脳みそをほじくり返し、猿を殺した。

 

 と、その時、トントンと部屋の扉がノックされた。追いかけていった従者が戻ってくるには早すぎる。入れと言うと、スーッとドアが開かれて、帝国軍の軍服を着た、一人の男が入ってきた。カリギュラはその姿を一目見るなり、苦笑交じりに言った。

 

「やあ、君の言うとおりだった。閣下には振られてしまったよ。醜男は妙な気を起こさないに限るな」

 

 入ってきた男は、部屋の主に背中を向け、ちゃんと扉が閉まっているのを確認してから、改めてカリギュラの方を向き直り、ピンと背筋を伸ばして最敬礼を見せてから、ツカツカと軍靴を響かせ部屋の奥まで進んできた。

 

「ああ見えて、ヴァルトシュタイン閣下は清廉潔白なところがありますからな。自分が副官だった頃からそうでした。そこが彼の良いところでもあり、弱点でもあります。彼が身を滅ぼすことがあるとするならば、そんな高潔な精神に付け込まれるときでしょう」

「つまり、今……か」

 

 カリギュラは不敵な笑みを浮かべながらそう言い放つと、さっきまで生きていた猿の死骸を横に押しやりながら、

 

「ともあれ、これで役者は揃った。難民が逃げたと知れば、12世はそれを理由に、喜び勇んで勇者領に攻め込むと言い出すだろう。そしてヴァルトシュタインは帝国を裏切ってでも、難民を守ろうとするはずだ。敵にするには惜しい人材だが、せいぜい彼には盛大に踊ってもらうことにしよう」

「……よろしいので?」

「構わない。それよりも、君。早速で悪いのだが、君にはそんな12世を支援し、勇者領入りしてもらいたい。彼の地には、初代ヘルメス卿の遺産が隠されていると言う。それとなく12世に仄めかし、その在処を突き止めるのだ」

「畏まりました。陛下」

 

 そう言って軍服の男は、まるで王侯貴族にするかのように、恭しいお辞儀を見せた。カリギュラはそんな男に向かって、どこかこそばゆそうな表情を見せながら、

 

「私はもう陛下と呼ばれるような身分じゃない。そんなことを言っていると、不敬罪に問われるぞ」

 

 すると男は頭を振って、

 

「いいえ……ローマ帝国第3代皇帝カリギュラ陛下。カール5世に忠誠を誓った時から、私にとって仰ぐものは、ただローマのみ。この不可解な世界に連れてこられた時から、私には生きる目標が何もありませんでした。そこに現れたあなたは、私の希望そのものなのです。今度こそ、我らの手によって、あまねく世界にローマの威光を知らしめましょうぞ」

 

 その真っ直ぐな瞳に心を打たれたカリギュラは、感嘆の息を漏らし、こう続けるのであった。

 

「そうか……君の国家に対する忠誠心には、いつも感服させられる。ならば行け、フランシスコ・ピサロ将軍。君の智謀をもって、世界の半分を平らげてくるのだ」

 


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