ラストスタリオン   作:水月一人

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はじめての迷宮こうりゃく

 迷宮の入り口はまるでだまし絵でも見ているかのようだった。ストーンヘンジの中央に、彫像が取り除かれた後の台座のような物が突き出しており、その台座の真ん中に、迷宮はぽっかりと口を開けていた。中は真っ暗闇で、松明を掲げても先の方は何も見えない。というか、それ以前に、その空間の広さはありえないのだ。

 

 入り口の台座はせいぜい2メートル四方くらいの幅しか無いのだが、その中に広がっている空間の方は明らかにそれを超えている。下手するとこのストーンヘンジが置かれている広場よりも更に広いのだから、中の空間が歪んでいるのはほぼ間違いないだろう。

 

 いくらなんでも、そんな異常な事がありえるのか? と思いもしたが、こういうことなら以前にも覚えがあった。アイザックの居城であるヴェルサイユ宮殿には、謎の裏ステージとメアリーの閉じ込められた結界があった。つまり、ここもあれと同じようなことが起きているんだろう。

 

 レオナルドは迷宮のことを、大昔の偉人のクオリアだと言った。とすると、この先は物理的な空間ではなく、精神的な何かなのかも知れない。そう考えれば、あの時、大した広さでもない城の庭で迷ったり、ポータルでジャンヌを呼び出せた理由も分かる気がする。それは下手すると、物理法則が成立しないということだから、尚更気をつけなければならないだろうが。

 

 しかし、何に気をつけて進めばいいのだ? 精神世界は、恐らく物理世界の法則が通じないはずだ。常識が通じないのであれば、気づいた時にはもう手遅れなのでは? そんなことを考えつつ、先を行くメアリーの背中をしっかりと見ながら、迷宮の入り口をくぐった鳳は……

 

「おいおい、勘弁してくれよ。いきなりこれか?」

 

 入り口をくぐった瞬間、なんというか水の中に飛び込んだ時のような、もしくは風圧の変わる建物に入った時のような、見えない境界のような何かを超えた感じがした。すると次の瞬間、鳳の視界からほんのつい今まで見ていたメアリーの姿が消え、気づけば彼は一人になっていた。

 

 背後を振り返っても、あとに続くはずのジャンヌも居ない。もちろん、先頭を歩いているはずのギヨームの姿もである。ついでに言えば、たったいま入ってきたばかりの入り口さえ見えなかった。

 

「おーい! ジャンヌー! ギヨーム! メアリー!!」

 

 焦って大声で仲間を呼んでも、誰の返事も返ってこなかった。というか、自分の声が反響すらしないことからして、どうやらここはとんでもなく広い空間のようである。一体どのくらい先まで続いているのだろうか? 視界は暗闇に閉ざされていて何も見えない。こういう時は壁を伝って進むのがいいのだろうが、その壁がどこにあるのかさえ分からなかった。もしかすると、そんなもの無いのかも知れない。

 

 完全に閉じ込められてしまった……どうすりゃいいんだろうか? と足元を見るも、そもそも自分は何の上に立っているのだろうかと言うくらい何も見えなかった。足踏みするとジャリジャリと砂を踏む音が聞こえるから、地面はあるようだが、足元も真っ暗で、まるで光を吸収する暗幕の上にでも立っているような感覚だった。周辺も同じような状況である。

 

 かといって、視界ゼロかと言えばそうではなく、何故かは分からないが、自分の体や着ている洋服は割りとはっきり見えていた。見えるということは、光源があるはずなのだが、もちろんそんなものは見つからない。なんだか星一つ無い宇宙空間にでも放り出された気分である。

 

「こういうのを超空洞って言うんだっけ? バルク空間?」

 

 それは次元の狭間のことである。多世界解釈では宇宙が変われば物理法則も変わるはずだから、案外、的を射ているのかも知れない。それが分かったところでどうしようもないのであるが……

 

 ともあれ、足がつくということは重力があるということだ。無重力状態ならお手上げだったが、地に足がついてさえいれば、いつかどこかにはたどり着けるはずである。ここで止まっていてもどうにもならないのだから、歩いていける場所を片っ端から調べてみるしか無いだろう。

 

 取り敢えず、当面は迷宮の攻略ではなく、仲間との合流や、出口を探すのが先決だ。そう考えながら鳳が歩きだすと、それは思いの外あっさり見つかった。

 

 出口はどこだろうと考えた時、彼は頬に風を感じた。最初は気のせいかな? と思ったのだが、指を咥えて頭上に翳してみると、確かに一定方向から風が感じられた。

 

 風が吹いてくるということは、そっちの方に出口があるのかも知れない。意気揚々と歩き出した彼は、そして間もなく、信じられないものを発見した。

 

 いや、信じられないと言うか、寧ろあまりに馴染み深い物だったのだが……彼が風を頼りに歩いていると、数分ほどで前方にぽつんとした光源があることに気がついた。まだ遠くにあるそれは緑色をしていて、地面に直接置かれているのではなく、丁度自分の背丈くらいの高さにあるようだった。

 

 なんだろう? と思いながら近づいていくと、それは長方形の非常階段によくある感じの非常灯の形をしていて、まさかなと思いながら足を早めて近づけば、ついに視界に飛び込んできたのは、そのまさかの非常口の場所を知らせる非常灯だったのである。

 

 緑地に、白い矢印と、扉に駆け込む人間のシルエットが描かれている。その横には、ご丁寧に『非常口・EXIT』の文字も書かれてあった。病院とか、公共施設の中で、誰だって一度は見たことがあるだろう。それは紛うことなき非常口であった。

 

「マジかよ……なんでこんなとこに?」

 

 普通に考えて、この迷宮の主である異世界人が、こんなものを知っているとは思えない。するとこれを見せているのは、もしかして鳳の記憶なのではないだろうか。レオナルドは、全ての人間の魂はイデア界で繋がっているから、迷宮のクオリアを手に入れることが出来るのだと言っていた。

 

 ところでそれは逆のことにも言えないだろうか? つまり、迷宮の方が鳳のクオリアを弄って、これを見せているのだ。何もない、空っぽの世界なんて、実に自分らしいではないか。そう考えれば、出口はどこだろう? と考えた瞬間、急に手がかりが見つかったことの辻褄も合う。風が吹いてきたのも、非常口が見つかったのも、鳳がここから出たくて見せた幻というわけだ。

 

「じゃあもしかして、この先に本当に出口があるのかもな」

 

 彼はそう思い、目の前に現れた非常口の扉をくぐった。ところが……

 

「え!?」

 

 彼が扉をくぐると、その先にはまた同じ扉があって……そこに誰かが立っているのが見えた。それはあまり見覚えのない、だけど誰よりもよく知っている人の背中だった。

 

 それは頭上の非常灯に照らされて、うっすらと緑色に染まっている。背丈は自分と同じくらい……というか、恐らく、多分、1ミリの誤差もなく同一だ。何故なら、そこにいるのは彼自身、鳳白そのものだったのだ。

 

 彼はびっくりして、咄嗟に背後を振り返った。その瞬間、目の前の背中も同時にこちらを振り返って、一瞬だけ自分の顔が見えた。

 

 真っ青になった彼の瞳が何を見たのか……それはたった今、自分が目撃している、驚愕して振り返る自分自身の背中であったに違いない。

 

 つい今しがたまで、自分が歩いてきたはずの真っ暗な空間はもうどこにもない。代わりに今、自分がくぐったばかりの非常口がそこにはあって、更にその非常口を抜けた先にもまた別の非常口があって、それが鏡合わせみたいにどこまでもどこまでも永遠に続いている。そしてその全ての非常口の下に、自分の背中が見えるのだ。

 

 世の中には自分に似た人間が三人はいるという。そしてドッペルゲンガーを見たものは近い内に死ぬという。それじゃ今目の前にいる無数の自分を見つけてしまった自分は、一体何回くらい死んでしまうんだろうか?

 

「う……うわ……うわわわわーーーーっっ!!!」

 

 鳳はパニクって悲鳴を上げた。悲鳴を上げて、目の前の自分の背中を掴もうと手を伸ばした。するとその瞬間、目の前の自分もそのまた目の前の自分の背中を掴もうとして前かがみになり、伸ばした手は空を切り、バランスを崩した彼は一歩踏み出す。

 

 すると目の前の自分の背中を掴もうとした自分もまたバランスを崩して一歩踏み出し、そのまま一歩二歩とたたらを踏むと、やっぱりそのまた目の前の自分も同じようにたたらを踏んで……鳳は分けも分からず、とにかくその背中を追い駆けて走り出した。

 

 目の前の自分を捕まえようとすると、同じく目の前の自分の背中が遠ざかっていく。非常口をくぐり抜ければその先にはまた非常口があり、次々と扉が現れては後ろに消え去っていく。

 

 あと少しで手が届きそうな背中を追い駆けてスピードを上げれば、やはり目の前の背中も同じくらいスピードを上げて、鳳がどんどん速度を上げると、通り過ぎる扉もまた同じように次々と後ろへ遠ざかっていく。

 

 もはや自分が走る速度を上げているのか、それとも目の前の背中の速度が上がっているのかわからない。実は走っている電車の中みたいに、動いているのは地面の方なんじゃないか。次々と現れては背後に消え去っていく非常扉は、鳳が速度を上げるたびにどんどん遠ざかっていくスピードを上げて、やがて回転するタイヤのように背後から現れ前方へと消えていくようになっていた。

 

 彼は前に進んでいるのか、それとも後ろ向きに走っているのか、だんだんわけがわからなくなってきて、気がつけばさっきまで手の届きそうな距離にあった自分の背中が、信じられないくらい遠くに見えて、追えば追うほどその背中は加速していき、なんだか空間そのものが引き伸ばされているような感じがしてくる。

 

 もはや過ぎ去る非常口は溶けるバターのように高速で遠ざかり、鳳は加速する自分の体に押しつぶされ始める。ぎゅうぎゅうと前後に潰され、ぎゅーっと上下に引っ張られて、彼は苦痛から悲鳴を上げるが、それでも体は速度を増すことをやめなかった。

 

 苦しみながらそれでも加速を続ける彼の体は、やがて光速を超えて光を背後に置き去りにし始めた。時間は過去へと巻き戻り、体はどんどん小さくなっていく。それは物理的にではなく時間的に、彼の体はどんどん過去へと帰っていった。

 

 ソフィアに告白することも出来ず、オンラインゲームに夢中になっていた頃の自分。父親に頭を下げて、家具のない部屋の中に蹲っていた頃の自分。ホームレスになってダンボールハウスで暮らしていた頃の自分。鬼のように憎悪を燃やし、先輩たちを次々と襲撃していった頃の自分。その先輩たちと一緒に笑っていた頃の自分。中学に上がった頃の……まだ小学生だった頃の……そしてエミリアと出会った頃の自分。

 

 どんどん過去は過ぎ去っていき、ついに彼は赤ん坊になってしまった。体はふわふわとして手足が殆ど動かせず、息苦しさを訴えようとしても言葉が出なくて、代わりになんだか悲しくもないのに涙が出てきて、彼はおぎゃあと泣き声を上げた。

 

 するとどこからか一人の女性がやってきて、愛おしそうに彼の体を抱き上げた。よしよしと言って頭をなでる女性の声を聞いていると、なんだか信じられないくらい満たされた気分になった。

 

 ああ、そうだ。そうなんだ。

 

 こんな自分でも生んでくれた母親がいたはずなんだ。だけどその顔は覚えてないし、こんな記憶ももちろん無かった。だから彼は必死になってその人の顔を見ようとしたが、逆光になって全く見えない。

 

 どうしてこんな大事な時に、自分の体は動かないのか。彼はもどかしくなって叫び声を上げた。母に気づいてほしくて声を上げた。聞いてみたいことがいっぱいあった。話したいことが沢山あった。だけど彼は語る言葉を持たず、声は全部泣き声へと変換される。

 

 おぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあ……どうか母よ気づいて欲しい。自分がここにいることを……おぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあ……あなたからすればまだ頼りないかも知れないけれど、どうにかこうにか一生懸命生きているのだ……

 

 おぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあ……彼は必死になって声をあげ続けた……おぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあおぎゃあ……

 

「これ、しっかりせんか」

 

 パッカーンっ!!

 

 ……っと、脳天に激痛が走って、目の前で火花が飛び散った。

 

「うぎゃああああああああーーーーーっっっ!!!!」

 

 鳳はその痛みに、とんでもない悲鳴を上げた。ズキズキと痛む頭を抱えて、ゴロゴロと地面を転げ回る。やがて痛みが引いてきて、視界がぼやけているのは涙のせいだと分かると、彼は目をゴシゴシと擦って周囲の様子を確かめた。

 

 すると目の前には硬そうな樫の杖を構えたレオナルドが立っていて、地面に寝転がる鳳のことを見下ろしていた。さっきの激痛は、あれに殴られたに違いない。

 

「なにすんだよっ!!」

「なんもかんもあるか。赤ん坊のように丸くなって、おぎゃあおぎゃあと見っともなく泣いておったのはお主じゃろうが」

「……ふぁ?」

「覚えとらんのか? 見ろ」

 

 そう言ってレオナルドの杖が指した先には、悪夢のような光景が広がっていた。自分を抱きしめながら、風に吹かれて何かをぶつぶつ呟いているギヨーム。美味い美味いと叫びながら、地面に生えているキノコをぶちぶちと摘んで貪り食うメアリー。ゴリラみたいにナックル走法で、ウッホウッホと駆け回るジャンヌ。彼は時折立ち止まると、鳳のことをねっとりとした視線で見ながらウインクし、バチバチバチっとドラミングしている。あれはなんだ、メスに求愛でもしてるつもりだろうか?

 

 全員目が血走っていて、完全に我を見失っているのは明らかだった。みんなで迷宮に入ったはずなのに、どうしてこうなっているのかは分からないが、ただ一つ分かることは、これは後で思い出して死にたくなるやつだと言うことだった。

 

「うわ……どうすんだこれ。誰が止めるんだよ? ジャンヌなんて完全に野生に帰っちまってるぞ」

「お主しかおらんじゃろうが、ほれ、はよ行って止めてやれ。儂とマニで後の二人をどうにかしておくから」

「え~……」

 

 当たり前のようにジャンヌ係にされてしまったが、拒否権はないのだろうか。さっきからドラミングしながら鳳を見る目つきが、どんどんいやらしくてなってきて軽く恐怖を感じるのだが……

 

 出来ればあんなのに近寄るのは御免被りたいが、かと言って、いつまでもあのまま放っておくわけにもいかない。鳳は覚悟を決めると、野生のジャンヌの方へと近づいていった。

 


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