芽生えた衝動
心を超えて大地を駆ける
配点(忠愛)
清浄で静謐な空気を湛える朝の森。
冷気に思考が引き締められ、朝露で湿り気のある草と地面を感じながら彼は軽快な足取りで進む。行く手に生い茂る枝葉はこちらの歩みに応じて揺れ動いて遮りをなくす。
途中にあった池の縁を迂回しつつ鏡のように光を反射する水面に我が身を映す。
餅に串を刺したような姿。かつては何とも思わなかったが今は不格好だと感じる。己の心境が変化した理由を考え、行きついた答えに彼は表情を綻ばせた。
そして彼の意識は過去に思いを馳せる。全ての発端となったあの日に。
●
その日、人狼女王から自身と客人の足代わりになれば半年の間、群に手を出さないという取引を持ちかけられた。
形だけの拒否権はあったものの行使する勇気は誰にもない。
運搬役として四頭の仲間が選出され、それとは別に数頭に役割が与えられた。
誇り高い人狼女王が約束を反故にする可能性は低かったし、こちらも礼を失する度胸はない。
それでも万が一という事態があり得た。だから有事の際に群に危険を知らせる役が必要だった。
彼はその任を負って離れた場所から一行を監視し、そして出会ったのだ。
えも言われぬ幽玄な美を纏うあの方に。
日光に照らされ眩く光る金色の髪。均整のとれた肢体に優しげな微笑み。
遠目から僅かに見えた痛々しい傷の有る肌も秀麗さを損ないはしなかった。むしろ悲痛な過去があっても立ち止まらない強さを感じさせた。
その姿があまりに可憐だったから、恥ずかしくなって身を低くして縮こまってしまった。
近くに犬臭い何かがいたが気にはならなかった。美しい蓮の花を際立たせる泥沼のようなもので、添え物として最大限の成果をなしていた。
初めての経験に戸惑っていると風に乗って甘い匂いが鼻をくすぐる。熟れた果実や花の蜜とは比べ物にならない程に芳しい香りに意識が舞い上がった。
彼は恍惚の中にあったがそれも短い時間。あの方は仲間と共に去っていってしまった。
名残惜しく見送ったが、あの方の事がどうしても頭から離れず彼は情報収集を開始。慣れない上に伝手も乏しく難航したがそれでも時間を対価に精度の高い情報を入手する事が出来た。
そして気高い在り方に魅せられ、彼はより一層のめり込んだ。
その華奢な体に似合わない悲壮な覚悟を背負っていると知り、守りたいと思った。
自他共に選り好みが激しい彼であったが乗せても良い。いや、乗ってほしいと切に願った。あの人に降り掛かる重みを少しでも分かち合いたいと。
しかし、極東を巡るあの方の傍に侍りたいという欲求は群という共同体から抜ける事であり、それはか弱かった己を守り、ここまで育ててくれた恩を裏切る事を意味する。
とんでもない不誠実であり、引き留めようとする心の動きもあった。
それでいて逡巡は長くは続かなかった。
胸に息吹いた想い。これほど激しい情動を覚えたのは初めてだ。これを押し殺せば後の生は闇に沈む。ただただ後悔だけが残る惨めなものになる。
そこまでして群に尽くす義理はないなと思う程度には彼は薄情で自分勝手だった。
我が儘を通そう。そう決意した後、そのまま仲間達の元に向かい、群を抜ける旨を伝えた。
突然の事態に彼等は驚き、幾らかの問答はあったが事前の予測より穏便に、そしてあっさりと認められた。
これは皆が冷淡という訳ではなく、良くも悪くも群の仲間が突然いなくなる事には慣れていたのだ。
●
数日を準備と後始末に費やし、今日、彼は生まれ育ち、慣れ親しんだ森を出て外界に向かう。
たゆまずに集めた情報によれば、あの方の乗る武蔵は敗北し、遥か東の国で堪え忍ぶ日々だという。
敗北という言葉を聞いた時は動揺し恥も外聞もなく慌てふためいたが、無事だという続報が届いてからは心配していなかった。
彼はあの方の確固たる意志を秘めた眼差しを覚えている。
困難にぶつかり、挫折しようと諦める人ではない。必ずや再起するだろうと確信している。
案じるとしたら己の事だ。
あの方に傅く事を望むなら人の世界を学ばなければならないだろう。
万難を排すると誓ったがあの方の立場を慮れば立ちはだかり、襲い来るのは形を持ったものだけではない。
風評や民意、信用のような目に見えず、しかし巨大な力とも対峙しなければならい。
そこで己が汚点になるような事があれば本末転倒。
野生に生きた己が適切な振る舞いを身に付けるには多大な苦労を要するだろうが、あの方の負担が軽減されるなら何の辛さもない。
翻って己の姿はどうだろう。
好意的に判断すれば愛嬌があると言えるかもしれないが嘲笑の的になるかもしれない。
あの方にとっても少々の無理で折れてしまいそうなか細い脚など不安を与えるかもしれない。
重奏世界崩壊の際、先達は情報量を下げて適応し子孫もそれに従った。
確かにこの姿は生きるのには適している。けれど戦うには不向きだ。
高潔なあの方に相応しい姿に。物心付いた時には既に今の姿だったが原理は理解している。ならば行ける筈。
全躯に流体を注ぎ込む。エネルギーの奔流が駆け巡り体内が熱を帯びる。
余剰の流体が荒巻き、木々や草花、大気を揺らす。
汗を流しつつ熱に耐えていると視界が高くなり、同時に末端までの感覚が肥大していく。
しなやかでいて芯の通った二対の脚が大地をしっかりと捉え、蹄に返ってくる圧に一種の心地良さを抱く。吹き付ける風にたてがみと尾毛を靡かせる。
額から伸びる角が太陽の温かさ、風の涼やかさ、森の陰りを感じ取る。
気分が高揚する。
『――!!』
吠えた。嘶きに森が震え、鳥が一斉に飛び立って獣は地を這って惑う。
それはまさしく物語に語られるユニコーンの姿だった。
●
歩みを進め、森と外界の境界にまで辿り着く。そこには一頭のユニコーンがいた。
幼い頃から何かと一緒にいた、友と呼んで差し支えない相手だ。
故に友が何らかの蟠りを抱えている事を察する事が出来た。そしてそれを解消すべくここで待っていた事も。
互いの距離が数メートルになった時、友は口を開き、問うた。
『考え直すです――ン。あれは男です――ン』
……何だ。そんな事。
『何を言っているんです――ン。それが良いんじゃないですか――ン』
『……――ン』
『他に用がないなら行かせてもらうです――ン』
渋い顔になりつつも頷き、用件がない意図を示した友の脇を通り抜ける。
心が逸った。自然と力が入り、考えるより先に脚は大地を駆ける。
葵・トーリ。我が麗しの君よ、ただいま参ります!
ユニコーンは女装した男でも行けると聞き、これはホライゾンでやらなければならないという使命感を抱いた。