Re:ゼロから始める異世界生活(ifルート ネム)   作:ネムりん☽︎‪︎.*·̩͙‬

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前回に続き第三章投稿です!
今回の本編はあまり原作と変わりがないので・・・運営様許してください!今後の物語に必要なんです!!
とにかく皆様お早めに見てくださいね。

ではどうぞ!


ifルート【ネム】第三章

第三章 「鎖、■の音」

 

 

1

 

「お客様、お客様。お加減の悪いご様子ですが、大丈夫ですか?」

 

「お客様、お客様。お腹痛そうだけど、まさか漏らしちゃった?」

 

「・・・」

 

 俯くスバルに、姉妹の心配げな声がかけれれる。

 まだ短い時間だが、聞き慣れた声だ。時に煩わしく、時に安心して、信頼を寄せた声。

—それが今、まったく別の響きをまとってスバルの鼓膜を残酷に揺らし、ふとある視線に気づいた。

 

「心配かけて、その、悪かった。なんだ、少し寝起きでボケたというか・・そのネム、どんな顔してんだよ恐いぜ?」

 

「ど、どうして・・ネムの名前を・・」

 

驚いたようにまた恐れるように姉の後ろに紫髪の少女は姿を隠してしまう。

 

「そうか・・」

 

 ため息をつき視線を感じながら応じて、スバルは呼吸を整えてから顔を上げる。

 込み上げる激情は、布団に顔を押し付ける間にどうにか波間に消えた。最初の衝撃の抜

けて、今も真綿で締め付けるように喪失感が胸の内ですすり泣きを上げている。

——全てがロズワールの悪ふざけで、スバルを騙そうとしているだけなんて考えは、ど

れだけ素敵で腹立たしくて、救われるだろう。

 自分の心の言い訳に少しだけ救われた気がして、スバルは瞼を開いて前を見た。

 

「——ああ、そうだよな」

 

 そして一瞬ぼやけてから広がる世界に、現実を押し付けられた。

 ベットの両側に立ち、寝台に手を置いてスバルを見る三姉妹。ラムとレムとネム見慣れた三人

は、相変わらずの無表情でスバルを見つめていた、一人を除いて・・。

 三人の瞳には、スバルに対する感情もない。四日間の生活で、彼女たちとの間に少

なからず積み重ねたはずの何かは、どこかへ霞のように消えたのだ。

 

「お客様——?」

 

 戸惑いの声は三つの唇から同時に紡がれていた。

 三人の視線はベットから起きたスバルを迫っている。だが、当のスバルはまるで寒気を

感じたように、急き立てられる焦燥感に従って姉妹から距離を取っていた。

 

「お客様、急に動かれてはなりません。まだ安静にしてないと」

 

「お客様、急に動かれると危ないわ。まだゆっくり休んでないと」

 

「お客様、急に動かないでください。まだ寝てないと」

 

 スバルの身を案じる三人の声と指先から、反射的に身をよじって逃れてしまう。すげな

い反応に三人の目が痛ましげに細められたが、その変化に気づく余裕がスバルにはない。

 こちらが見知った相手に、あちらからは知らない相手扱いされる耐え難い感覚。

 つい先日、スバルは同じ感覚を雑踏で路地裏で、廃屋で味わったばかりだ。

 だが、そのときとは決定的に違う。状況が違う。時間が違う。経験が違う。

 ほとんど知らなかった、エミリアやフェルトたちとのやり直しではない。

 確かに信頼を結んだはずの相手との、一方的なやり直しなのだ。知っている人間が別人

になってしまうような違和感に、得体の知れない恐怖がスバルを掴んで離さない。

 スバルの怯えるような目に、三姉妹のメイドも異変に気づき始めていた。

 室内に沈黙が落ち、互いに相手の出方をうかがって動くことができない。だから、

 

「悪い。——今は、無理だ」

 

 ドアノブに組みつき、転がるように廊下に飛び出すスバルの行動は、制止しようとした

三姉妹の動きよりも一瞬だけ早かった。

 ひんやりとした廊下の冷たさを裸足の足裏に味わい、スバルは大きく息を吐きながら駆

け出す。猛然と、目的地も定めずにがむしゃらに。

 逃げている。逃げ出した。なのに、自分が何から逃げているのかわからない。

 ただ、あの場にあのまま残り続けることだけは絶対にできなかった。

 似たような扉が並ぶ廊下を駆け抜け、スバルは今にも転びそうな無様で逃げ惑う。

 そして息を切らし、導かれるように一つの扉に手をかけた。

————大量の書架が並ぶ、禁書庫が転がり込むスバルを出迎えていた。

 

 

 

2

 

 扉を閉めれば、禁書庫は外界と完全に隔離される。

 そうなれば外からこの部屋に踏み込むには、屋敷の全ての扉を開けなければならない。

 追われる心配は消えた。肩を落として、スバルは背中を扉へ預けてへたり込む。

 座り込んだにも拘らず、膝が震えている。それを止めようと伸ばした指も、同じだ。

 

「紙相撲でもしたら、いい線いくかもな。はは」

 

 自嘲の言葉にもキレがなく、乾いた笑いは虚無感を際立たせるばかりだ。

 静謐な書庫の空気は古びた紙の臭いを漂わせ、スバルの心情にわずかに穏やかなゆとり

を注いでくれる。気休めとわかっていても、今のスバルはそれに縋るしかない。

 繰り返し、繰り返し、深く大きい呼吸を繰り返す。

 

「——ノックもしないで入り込んで、ずいぶんと無礼な奴のなのよ」

 

 陸に上がった魚のように呼吸を喘ぐスバルに、嘲りの声が書架の奥から届いた。

 薄暗い部屋の奥、入口正面の突き当たりに置かれた脚立。そこに少女が腰掛けている。

 いつも変わらず、揺るがす、スバルと距離を保ち続けた禁書庫の番人、ベアトリスだ。

 ベアトリスはその小さな体には大きすぎる本の音を立てて閉じ、スバルを見やる。

 

「どうやって『扉渡り』を破ったのかしら。・・・さっきといい、今といい」

 

「すまねぇ。少しだけでいい、いさせてくれ。頼む」

 

 両手を合わせて拝み込み、相手の返事も聞かずにスバルは目をつむった。

———静かで、邪魔の入らない場所で、現実と己に向き合わなくてはならない。

 自分の名前、ここがどこかで、さっきの三姉妹が誰なのか。目の前の少女の名前、存在。不

可思議な部屋。四日間。交わした約束。明日、誰かと、一緒に、どこかへーー

 

「そうだ、エミリア・・・」

 

 月明かりに煌めく銀髪と、はにかむことような微笑みが思い出される。

 月光の下にあってなお、満点の星空がかすむほど輝く少女、エミリアとの約束を。

 

「ベアトリス」

 

「・・・呼び捨てかしら」

 

「お前、俺に『扉渡り』をさっきと今、破られたって言ったよな」

 

 呼び捨てされた上に、ぶしつけに質問を投げつけられてベアトリスが不機嫌な顔にな

る。しかし、それでも律儀なベアトリスは辟易とした様子で肩をすくめて、

 

「つい三、四時間前に、無神経なお前をからかってやったばかりなのよ」

 

「目論見スルーしたからお前がヘソ曲げたときのことな。わかってるわかってる」

 

 力なくともベアトリスへの皮肉は忘れず、少女のヘソを改めて折り曲げる。

——三、四時間前のスバルとベアトリスの遭遇。

 今の言葉が意味するのは、ロズワール邸で最初に目覚めた時のことだ。ループする廊

下の突破口を、スバルが何の考えもなしに一発で当たりを引いたときの。

 その後、この禁書庫でスバルはベアトリスの手で昏倒させられたのだ。

 

「つまり、今の俺がいるのは・・・屋敷で二度目に目覚めたとき、だよな」

 

 記憶に引っかかる箇所を拾い集めて、スバルは自分の立ち位置に当たりをつける。

 三姉妹が揃ってスバルを起こしにきたのは朝だけだ。その後はローテンションに一人ずつ。しか

も、スバルが客室のベットを利用する身分だったのも初日だけである。

 

「つまり、五日後から四日目まで戻ってきたって、そういうことか・・・・?」

 

 王都のときと同じく。スバルは再び時間を遡行したのだ・今の状態をそう定義する。

 だが、それを理解したことと、納得することは別の話だ。

 スバルは頭を抱えて、こうして戻ってきてしまった原因が何なのか考える。

 王都でスバルが時間遡行したのは、死を切っ掛けにした『死に戻り』だ。三度の死を糧

にエミリアを救い、ループから抜け出したものとこれまで判断していた。

 事実、ロズワール邸での五日間は何事もなく、極々平和に過ぎていたはずだ。

 それがここへきて、突然の時間遡行ーー前触れも何もあったものではない。

 

「前回とは条件が違う、のか?死んだら戻るって勝手に思ってたけど、実は一週間前後

でオートで巻き戻るとか・・・いや、だとしたら」

 

 こうして、このロズワール邸初日の朝に巻き戻った理由に説明がつかない。

 時間遡行の原理は不明だが、王都でのループから解放されていないな

ら、スバルが目覚めるのは三度見た果物屋の傷顔店主の前でなくてはならない。

 

「でも、現実は傷面の中年から見た目は天使のメイド三人だ、がらっと、変わっている」

 

 受け取った心境は、天国と地獄が正反対だったが。

 ぺたぺたと自分の体に触って、スバルは無事を確かめる。何事もない、そう思う。

 これまでの条件に従うなら、スバルが戻った理由は明確。即ちーー死んだのだ。

 

「ただ、死んだとしたならどうして死んだ?寝る前までは全然普通だったぞ。眠った後だっ

て、少なくとも『死』を感じるような状況には陥ってねぇ」

 

 即死、にしても本当に『死』の瞬間を意識させないものがあるのだろうか。

 毒やガスで眠ったまま殺された可能性も想定するが、それはつまり暗殺を意味する…そ

うされる理由がスバルにないため、前提条件が成立していなかった。

 

「となるとあるいは、クリア条件未達による強制ループ」

 

 ゲームに見立ててしまえば、必要なフラグを立てなかったが故の結果だ。が、誰が目

論だフラグかわからない上に、トリガーすらも不明のクソゲー仕様。

 

「もともと、俺はすぐ諦めて攻略サイトに頼るゆとりゲーマーだってのに・・・」

 

「ぶつぶつ呟いていると思ったら、くだらない雰囲気になってきたのよ」

 

 思索の海に沈むスバルを眺め、ベアトリスが退屈そうに言って嘲笑を浮かべている。

 

「死ぬだの生きるだの、ニンゲンの尺度でつまらないくだらないかしら。挙句に出るのが

妄言虚言の類。お話にならないとはこのことなのよ」

 

 そっけない、ある意味で酷薄なほど突き放すような言いぶりだ。だが、ベアトリスの

変わらない態度にスバルは安堵を覚えた。立ち上がって、尻を払ってから扉へ向き直る。

 

「行くのかしら?」

 

「確かめたいことがあるんでな。凹むのは後にするわ。助かった」

 

「何もしてないのよ。・・・・とっとと出てくかしら。扉を移し直さなきゃならないのよ」

 

 優しさとは縁のない響きが、今のスバルには何故か心地いい。

 ベアトリス自身にそんな意図はないだろうが、スバルはその言葉に背中を押されたよう

な気分で踏み出す。ドアノブをひねり、涼風が吹きつけてくる外へ一歩。

 風に短い前髪が揺らされ、かすかに目に痛みを感じて顔を腕で覆う。

 そして風が止み、裸足の足の裏には芝生の感触——その視線に、

 

「ああ、やっぱキラキラしてるじゃねぇか」

 

 庭先でかすかに息を弾ませる、銀髪の少女を見つけて心が躍った。

 粋な計らいをしやがる、と内心で生意気な書庫の番人への悪態がこぼれる。

 

「———スバル!」

 

 スバルに気づいた少女が紫紺の目を見開き、慌てた様子で駆け寄ってくる。その唇から

銀鈴の音がこぼすのは、たった三つの音が作る最上の調べだ。

 自然と、駆けてくる少女の方にスバルも足を向ける。向かい合い、スバルの全身を眺め

て少女の目尻が安堵に下がる。が、すぐに気を取り直したように姿勢と目つきを正した。

 

「もう、心配するじゃない。目が覚めてすぐにいなくなったって、ラムとレムとネムが大慌てで

屋敷中を走り回ってたんだから」

 

「あの三人が大慌てって逆に珍しいな。それにごめん。ちょっとベアトリスに捕まって」

 

「また?起きる前にも一回、悪戯されたって聞いたけど・・・・」

 

 心配そうに顔を近づけてくる美貌ーーエミリアの無防備な姿に、スバルは思わず手を伸

ばして縋ってしまいそうになり、弱い己に心を自制した。

 ここでそれをするのはあまりに単慮だ。それこそ禁書庫で自分を落ち着かせる時間を

もらった意味がなくなる。濡れ衣をベアトリスに着せるのだけが目的ではないのだ。

 売れいい顔のエミリアに、曖昧な表情で応じるしかないスバル。スバルのらしくない態度に、

しかしエミリアはどこか余所余所しく深入りしてこない。 

 当たり前のことだ。今のスバルが『らしくない』ことなど、出会ってほんの小一時間し

か一緒の時間を過ごしてないエミリアに、わかるはずがない。

 スバルとエミリアの間には、埋まらない四日間の溝があるのだ。

 スバルだけが知っていて、エミリアの知らない四日間が、確かにあったのだ。

 

「どうしたの?私の顔、何かついてる?」

 

「可愛い目と鼻と耳と口がついてるよ。・・・その、無事でよかった」

 

 最初の口説き文句にエミリアは赤面しかけ、すぐに続いた言葉の内容に頷いてくれる。

 

「うん、私の方は大丈夫。スバルが守ってくれたもの。スバルの方こそ、体の調子は?」

 

「ああ、快調快調。ちょっと血が足りなくて、ごっそりまな持ってかれてて、寝起きの衝

撃で体力削られて、メンタルをバットでフルボッコされた感があるけど、元気だよ!」

 

「そっか。よか・・・・え?それって満身創痍って言うんじゃ・・・?」

 

「ま、平気だよ、見ての通り」

 

 両手を伸ばして、エミリアに健全ぶりを見せつけるようにその場でターン。

唇を舌で湿らせて、ナツキ・スバルを始めなくてはならない。

 

「元気ならいいけど・・・えっと、お屋敷に戻る?私はちょっと用事があるんだけど」

 

「お、精霊トークタイムだね。邪魔しないから、一緒にいていい?あっとパック貸して」

 

「別にいいけど、ホントに邪魔しちゃダメだからね。遊びじゃないんだから」

 

 首を傾け、子どもに言い聞かせるようなエミリアの言い方。そんなお姉さんぶったエミ

リアの仕草が愛おしくてーースバルの心に決意の炎が灯った。

 

「んじゃ、行こう行こう。時間は有限で世界が雄大。そして俺とエミリアたんの物語はま

だまだ始まったばかりだ」

 

「そうね・・・・え?今、なんて言ったの?たんってどこからきたの?」

 

「いいからいいから」

 

 愛称呼びに驚くエミリアの背を押しながら、庭園の定位置へ二人して移動。

 この愛称も、呼び続けるうちにすっかり訂正する気力をなくして、なし崩し的に認めら

れるのは知っての通り。それすらも、失われた四日間で築き上げる絆の一つだ。

 

「ーー取り戻すさ」

 

 納得いかげな顔のエミリアの後ろを歩きながら、スバルは小さくこぼす。

 足を止めて、遠ざかる銀髪を眺め、それから空に視線を送った。

———まだ低い東の空に、太陽が憎たらし昇っていくのが見える。

あと五回、それが繰り返され、そして約束の時が迎えらればいい。

月が似合う少女と交わした約束を、太陽が迎えにくるのを見届ければいい。

————時間はある。そして、答えを知っている。

 

「誰の嫌がらせか知らねぇが、全部まとめて取り返して吠え面かかせてやんよ。あの夜の

笑顔にゾッコンになった、俺の執念深さを舐めんじゃねぇ」

 

 空に向かって拳を握りしめ、誰にともなく宣戦布告。

 それはスバルがこの世界にきて、初めに自分に『召喚』と『ループ』を課した存在への、

明確な反逆の宣言だった。

 二度目のループとの戦いが始まる。

 ロズワール邸の一週間を乗り越えて、あの日々を続きを知るために。

 あの夜の約束を、交わした約束を、守るために————。

 

 

3

 

 昇る太陽へ啖呵を切り、二度目のロズワール邸初日が幕を開けた。

 たったの五日間、太陽が昇って沈むのを見届ければいい。

 その間の過ごし方は『できるだけ前回の流れをなぞる』というのがスバルの方針だ。

 庭園での決意の通り、最終的なスバルの目的は最終日にエミリアと交わした約束を果た

すこと。そのためにはあの月夜を越えて、もう一度約束を交わさなくてはならない。

 そしてループもののお約束として、ある程度確立された一つ結論がある。

 それは、『同じ道を通れば、物語は同じ場所へ帰結する』というものだ。

 前回と同じ流れを汲むのだから、当然の話だ。そこに関わる人物の思いや行動は重なり、

同じ結末へと向かうだろう、スバルにとって重要なのは、その繰り返すことになった結末

だけを都合よく変更し、その過程で発生するはずの思い出の全回収。

 つまり、ループを駆使した良いとこ取りこそが至上の目的だ。

 セーブ&ロードを駆使し、結末を自分好みへ誘導する、気高く邪なスバルの決意。

 

「だったのに、なんでだか、まずった」

 

 湯気たつ浴場で大の字に浮かびながら、スバルは水泡を吹いて一日目を振り切った。

 決意の朝から始まった、破竹の大失敗劇を。

 まずエミリアとの朝の日課を終え、ロズワールの帰宅を待って食堂での会談に臨んだ。

 正直、勢いで喋った細部までトレースできた自身はないが、大まかな話の流れは前回を

踏襲したはずだ。パックのご褒美、エミリアの呼び名、王戦の概要とエミリアの関係、そ

してロズワール邸におけるスバルの立場の確立。

 養われる立場への魅力を振り切り、スバルは前回と同じ使用人見習いとして屋敷の一員

に加えられた。その後は教育係としてついたラムに同行し、屋敷の案内から始まる初日の

勤労奉仕へと移ったのだが、これからがおかしかった。

 

「なんでか前回と全然違ったもんな。ばっちりカンニングペーパー用意してたのに、いざ

問題用紙見たら科目が違ったぐらいの徒労感・・・何のためのやり直しだよ」

 

 湯船から顔だけ出したスバルは、顎を浴槽の縁に乗せながら憮然と呟く。

 方針通りに前回の流れを踏襲したはずのスバルだったが、教育係に着任したラムの課す

仕事内容が、以前と様変わりしていたのだ。雑用レベル1から、レベル4ぐらいに。

 

「相変わらず雑用は雑用なんだが・・・中身の濃さが前回と段違いだったぞ」

 

 純粋に、任される仕事の質と量が増した、というべきか。

 

「前回も前回でヘトヘトだったのに、今回は今回でハードだった・・・クソ、同じ中身なら

ちったぁ楽できると思ったのに」

 

 予想と違う過酷さに口が出るが、その一方でスバルは今の状況があまり良くない状況

であると判断していた。

 前回の時間をなぞろうと努力した上での結果がこれだ。初日からこれほど内容が変わって

しまえば、二日以降も前回とすり合わせなどできようはずもない。

 小さな差異を無視したことで、やがてくる大きな問題がずれる可能性が恐ろしかった。

 

「特に今回の場合、戻った理由がわからねぇからな・・・」

 

 普通に寝て、起きたら戻ってしまっていたのが今回のパターンだ。死亡がループの条件だっ

た前回と違い、終わりが予想できない今回の対処法は考えるだけで骨が折れる。

 

「こんだけ違っちまうと、もう記憶は当てにならねぇのか・・・?」

 

 エミリアと出会った初日の王都———あの濃密な一日を思い出す。

細かな部分では毎回違った道を辿ったが、大筋として起きた出来事はどの回も共通して

いたものだ。まだ、大きなイベントを逃さなければわからない。今回の日々の中でスバル

の印象に残るイベントといえば、初日を除けばエミリアとの約束のみ。

 そこまで辿り着ければ、あとは結果を変えるだけで乗り越えれるはずだ。

 湯船に体を沈めて、無酸素で考えをまとめ上げた。そして、スバルは湯船から顔を出し、

 

「——やぁ、ご一緒してい—ぃかい?」

 

 腰に手を当てた全裸の貴族が目の前にいて、スバルは思い切り呼吸をしたのを後悔した。

 腕を伸ばせば届きそうな距離に全裸が立ち、股間の聖剣が浴場の湯風に揺られながらスバ

ルを見下ろしている。

 

「貸し切りです、お断りします」

 

「私の屋敷の施設で、私の所有物だーぁよ?私の自由にさーぁせてもらうとも」

 

「だったら聞くなよ。風呂ぐらい勝手に入れ」

 

「おーぉや、手厳しい。それにわかってない。確かにこの浴場も私の所有物だけど・・・」

 

 ロズワールは片膝を着き、伸ばした手で無抵抗のスバルの顎をそっと持ち上げる。

 

「使用人という立場の君も、私の所有物と言えるんじゃーぁないかな?」

 

「ガブリ」

 

「躊躇ないなーぁ!」

 

 顎を摘んだ不快な指先を噛んで遠ざけ、背泳ぎでロズワールから距離を取る。

 浴場の大きさは馬鹿に広く、湯船の広さは古き良き銭湯の浴槽並みだ。無駄すぎるスペ

ースの使い方は貴族の道楽趣味丸出しだが、独り占めの満足感はなかなかのものである。

 故に、仕事終わりの入浴タイムは前回を通じてスバルの憩いの時間だったのだが。

 

「また想定と違う展開だよ・・・」

 

——前回の四日間で、ロズワールと入浴を一緒にした機会は一度もない。

 それ以前に、前回のループではロズワールは多忙を極めており、ほとんど顔を合わせる

こともなかったほどだ。身の回りの世話をする三姉妹とは接していたのだろうか、スバルと

は初日のコンタクトを除けば食事以外の接触はほぼなかったほど。

 

「だってのに、何もかも俺の予想と違う方向から攻めてきやがる・・・」

 

「何に悩んでるかは知らないケーぇど、世の中うまくいかないことだらけだーぁとも」

 

 世知辛いことを言いながら、湯船に入るロズワールがスバルの隣へ。浴槽の壁に背を預

けて長い息を吐く姿はどこにでもいる普通の男性で、湯浴みの快感は世界共通だった。

 

「今になって気付いたことだけど、流石に風呂場じゃメイクは落としてんのな」

 

「ん?あーぁ、そうだね。おや、ひょっとすると私がスバルくんの前に素顔を晒すの

はこれが初めてだったりするのかーぁな」

 

「そうなるな。なんだ、普通にかっちょよくて何だよーって気分。隠す必要ねぇじゃん」

 

「あの化粧は趣味で、ベーぇつに顔を隠したいってわけじゃーぁないからね。口が裂けて

たり鼻が曲がってたり、目つきが絶望的に悪いわけでも・・・おっと」

 

「俺見て言うなよ。心の弱い三白眼なら死んでるぞ」

 

 生まれつき持った目つきの悪さは、初対面での印象にマイナス補正がすごい。こんな面構え

に生んだ親に文句を言いたくても、母親の、目つきがスバルそっくりなので何も言えない。

 両親を思い出して複雑な顔のスバルに、ロズワールが別の話題を振る。

 

「ラムやレムそれにネムとは、仲良くやれそうかーぁな?あの三人はこの屋敷で働いて長いから、

後輩との接し方も弁えているはずだーぁけどね」

 

「レムとはあんまし、ネムはそうだな・・ネム『も』かな、あまりやり取りできてねぇよ睨まれるし・・

それに引き換え、ラムとは仲良くやってるよ。むしろ、ラムは少し馴れ馴

れし過ぎる気が。先輩後輩以前に、俺がお客様の時点から態度が変わらねぇよ、あの子」

 

「なーぁに、足りない部分はレムやネムが補う。姉妹だから助け合わなきゃ。そういう意味じゃ、

あの三人はじーぃつによくやっているとも、ネムもよーぉくできる子だーぁよ」

 

「聞いてみてみた限りじゃレムやネムがフォローするばっかで、ラムは妹たちの劣化版なんですけど」

 

 あらゆる家事技能での優秀を、姉妹双方からはっきり断言されている。あらゆる技能でレムに一歩二歩及ばないラム。

ましてや、ネムにまでも及ばないかもしれない。普通なら劣等感に苛まれてる設定なのだが。

 

「なのに『姉だからラムの方が偉い』ときたもんだ。

それに、1番下の子に関しちゃ、筋金入りの姉様愛好家だよ。あの神経の太さにはビビるよ」

 

「神経の太さで言ったら、君もなーぁかなかだと思うけどねーぇ。でもそうか。そんな風

に答えていたかい。ずけずけ踏み込んで遠慮のないことだ。実にいーぃことだよ」

 

「オノマトペ込みで褒められてる気が全然しねぇなぁ」

 

 空気が読めない分、スバルは他人のテリトリーに踏むこむことに躊躇がない。それだけ

に孤立しやすい孤高の性質だ。他人の神経を逆撫でしたがる悪癖ともいえる。

 スバルの答えにロズワールは片目をつむり、左の黄色の瞳だけで天井を仰いだ。

 

「皮肉じゃないとも。実際、いーぃことだと思っているよ。あの子らは少し自分たちだけで

完結しすぎてるからねーぇ。そのあたり、ちょこーぉと他人が外から引っかき回す・・・

それで変わるものも、きっとあるんじゃーぁないかな」

 

「そんなもんですかねぇ」

 

「そんなもんですともーぉ」

 

 二人して湯船まで首を沈めて、ぬくぬくに全身を任せながら感嘆を交換する。それから

ふと、スバルは思い出したように眉を上げた。

 

「そだ、ロズっち。ちょっと聞きたいことあんだけど、聞いてもよろしくて?」

 

「まーぁ、私の広く深い見解で答えれる内容なら構わないとーぉも」

 

「自分、物知りなんですってそんな迂遠な言い方する奴を初めて見たよ。それはともかく

として、この風呂ってどんな原理で湧いてんの?」

 

 浴槽の底をこんこんと叩き、スバルはずっと抱いていた疑問を口にした。

 スバルたちの浸かる浴槽は石材でできていて、触り心地から大理石のようなイメージを

抱かせる。浴場は屋敷の地下の一角にあり、さすがに男女兼用だ。もっとも、お湯の入れ

替えは贅沢に入浴者ごとに行われており、エミリアの後に入っても充実感はない。

 

「別にお湯飲んだりはしないけどね。飲む前に気づいたし」

 

「君の冒険心には時々本当に驚かされるねーぇ。これが若さか・・・いや、しかし私が若か

った頃に君のその発想が出ただろうか」

 

 スバルの向こう見ずな若さを眩しそうに見て、それからロズワールは頷く。

 

「ともあれ、その答えは簡単だーぁよ。浴槽の下に、火属性の魔鉱石を敷き詰めてあるわ

ーぁけ。入浴の時間にはマナに働きかけて湯を沸かす。調理場でも使ってるはずだよ」

 

「鍋ってそう言う原理だったんだ。ガスないのにどうやってんだろとは思ってたんだ」

 

 レムやネムがテキパキとそれらを扱う後ろで、野菜の皮剥きをしつつ手を切るのがスバルの役

割りだ。もっとも、『マナに働きかける』という当たり前のような発言の意味がわからない

以上、シェフ・スバルの誕生は遠い話だろう。

 

「なんかさ、マナがどーたらって魔法使いじゃないとどうにもならねぇの?」

 

「そーぉんなことないよ。ゲートは全ての生命に備わっている。動植物すら例外じゃー

ぁない。でなければ、魔鉱石を利用した社会は成り立たないだろうしねーぇ」

 

 新しい単語の出現に首をひねるスバル。そんなスバルの様子を見かねてか、ロズワール

が指を一つ立てて咳払いする。

 

「よし、ここは一つ授業をしてあげよーぉうか。少し無知蒙昧な君に、魔法使いのなんた

るかを教授してあげようじゃーぁないの」

 

「色々と口応えしたい気持ちを無視して、ここは素直に受け取っておくぜ」

 

 講義してくれるというロズワールの申し出に、スバルは浴槽の中で正座してロズワール

に向き直る。ただし、双方全裸であることには変わりはない。

 

「それじゃーぁ初級から。スバルくんはもちろん『ゲート』については知っているね?」

 

「いや、そんな知ってて当たり前みたいに言われても、知らない側は、ぽかんですし・・・」

 

「すんごい急に声の調子落ちたね。そしてゲートのことも知らないか・・・控えめに言って、

え、それ、マジ?ってーぇ感じ。使い方、合ってる?」

 

 と『マジ』の用法の確認を取るロズワール。スバル発祥で元の世界の言い回しがちょ

くちょく輸入されつつあり、特に『マジ』は使用頻度の高さから馴染みが早い。

 ロズワールの使い方を満点だと評価し、互いにハイタッチをしてから講義に戻る。

 

「で、で、ゲートってぶっちゃけ何なの?それがあるとなしで何がどう変わるの?」

 

「簡単に言っちゃうと、ゲートってのは自分の体の中のマナを通す門のこーぉと。ゲ

ートを通じてマナを取り込み、ゲートを通じてマナを放出する、生命線だーぁね」

 

「なーる。MP関連の蛇口のことね・・・」

 

 ロズワールの簡潔な説明で合点がいく。

 これまで何度か耳にしたゲートという単語。おおよそ想像していた通りの内容だ。

 

「ゲートが誰にでもあるってことは、俺にもあるってことじゃね?」

 

「まーぁ、そりゃあるだろねーぇ。人間の自信があれば、君、人間?」

 

「俺ほど真人間のまま異世界に放りこまれた男はかつていねぇよ。マジ常人、マヂモブ」

 

 戦う力がなければ状況を打開する知恵もない。学力も平均やや下で、身体能力は若干高

めだが持久力に難あり。習得技能は裁縫とベットメイキング。モブ一直線。

 が、異世界にきて二番目に嬉しいかもしれない情報にスバルはそれどころではない。魔

法という魅惑の単語に胸が高鳴り、希望に瞳がキラキラと輝く。

 

「嬉しいことの一番はもちろんエミリアに会ったことだけど、これもかなりヤバいな!

きたかついに俺も夢の魔法使い・・・いや、これこそ俺が待ち望んだチャンス!」

 

「魔法の話でそこまで喜んでもらえるとなーぁると、魔法使い冥利に尽きるってーぇもん

だね。もっとも、ゲートがあっても素養の問題は大きい。自慢でしかないから自慢しちゃ

うけど、私のように才能に恵まれることはまずなーぁないもんだよ?」

 

 そのロズワールの前振りに、スバルは軽やかな音でフラグが立つのを聞いた。

 自信満々なロズワールは知らない。目の前で全裸で湯船を漂うスバルが、異世界から召

換された『招かれし者』であるという事実を。

 古来より、異世界から呼ばれた召喚者には特殊な力が宿る者なのだ。これまで武力ダ

メ、知識ダメ、運の補正もゼロどころか若干マイナスだったが、そう、魔法だ。

 

「きたぜ、ロズっち。俺の新たな希望だ!魔法、魔法、魔法トークしようぜ。今、魔法

の波がきてる。俺の輝かしい未来が、波間に漂ってるよ!」

 

「そーぉ?それじゃ続けちゃおう。魔法には基本となる四つの属性があるわけだーぁけ

ど、知ってるかなーぁ?」

 

「知らなーいー!」

 

「あはーぁ、無意味で無目的で無邪気なまでに無知で素晴らしい。気分いいから説明しち

ゃう。火・水・風・土の四つのマナ属性だ。わかったかーなぁ?」

 

「おう、基本だな。理解して吸収した。続き続き!」

 

 スバルの求めにロズワールは気を良くした様子で頷きながら講釈を続ける。

 

「熱量関係の火属性。生命と癒しを司る水属性。生き物の体の外に働きかける風属性。体

の内側に働きかける土属性。主に属性はこの四つの属性全てに適正があるよーぉ?」

 

「わぉ、自慢うざいけど形式上褒めとく、すごい!属性ってどうやって調べんの?」

 

「もーぉちろん、私ぐらいの魔法使いになるともう触っただけでわかっちゃうとも」

 

「マジかよ!きたよ待ってたよ、この展開を。見てくれよ、そして教えてくれよ!」

 

 躾のなってない犬みたいにはしゃぐスバルを生暖かい目で見ながら、ロズワールはそ

の掌をスバルの額へと当てた。全裸の男が二人、向かい合って目を輝かせる光景だ。

 

「よっし、んじゃちょこーぉと失礼します。みょんみょんみょん」

 

「うおお!魔法っぽい効果だ!今、ファンタジックしてる!」

 

 今だけはあらゆる不安材料を忘れて、スバルは目の前のロマンに思いを馳せる。

——魔法。それこそが、異世界召喚された自分の牙に、きっとなるのだ。

 確信めいた希望に瞳を輝かせ、スバルはただ診察結果を待った。

 

「——よーぉし、わかったよ」

 

「きた、待ってました。何だろ、何になるかな。やっぱ俺の燃えるような情熱的な性質を

反映して火?それとも実は誰よりも冷静沈着なクールガイな部分で水?あるいは

草原を吹き抜ける涼やかで爽やかな気性が木質とばかりに風?いやいや、ここはどっし

り悠然と頼れるナイスガイな兄貴気分の素養を見込まれて土とか出ちゃったりして!」

 

「うん、『陰』だね」

 

「ALL却下!?」

 

 耳を疑う診断結果が飛び出して、思わず悪い病気を告知されたような反応になってしま

った。そして、実際なんかそんな感じの雰囲気でロズワールは重く口を動かす。

 

「もう完全にどーぉっぷり間違いなく『陰』だね。他の四つの属性との繋がりはかなーぁ

り弱い。逆にここまで一点特化は珍しいもんだけどねーぇ」

 

「ってか、陰ってなんだよ!分類は四つじゃねぇの?カテゴリーエラーしてるよ」

 

「話さなかったけーぇど、四つの基本属性の他に『陰』と『陽』って属性もあるにはある

の。たーぁだーぁし、該当者はほとんどいないから説明は省いたんだけどねーぇ」

 

 極々わずかな例外を引いた、ということらしい。

 ロズワールの釈明を聞かされて、スバルの空回っていた気持ちも落ち着いてくる。

 そう、限りなく希少な属性ということだ。それはつまり、特別な力。

 

「なんか実はすげぇ属性なんだろ。五千年に一度しか出なくて他より超強力みたいな!」

 

「そうだねぇ、『陰』属性の魔法だと有名なのは・・・相手の視界を塞いだり、音を遮断し

たり、動きを遅くしたりとか、それとかが使えるかな」

 

「デバフ特化!?」

 

 デバフは敵を弱体化させるスキルの総称であり、補助職まっしぐらな特化性能である。

 伝説級の破壊魔法が使えたりとか、天変地異を引き起こしたりの強力無比な魔法を期待

したのだが、ぽつぽつ言いづらそうに妨害・能力低下系の効果を口にするロズワール。

 本気で申し訳なさそうなので、事実なのだろう。

 

「異世界召喚されて武力も知力もチートもなし・・そして魔法属性はデバフ特化・・・」

 

「ちーぃなみに魔法の才能は全然ないね。私が十なら、君は三ぐらいが限界値だよ」

 

「さらに聞きたくなかった事実だよ!もはやこの世には神も仏もいねぇ!」

 

 音を立てて湯船に体を沈めて、大の字に浮かびながらスバルは煩悶。まさかの使い道に

さっきまでの希望が萎むのを感じながら、しかし一度芽生えた期待はなかなか拭えない。

 

「使えるだけでもよしと考え・・・いやでも、デバフ特化する俺ってかっこいいか・・・?」

 

「かっこよさ重視は別として、覚えて損するもんじゃーぁないよ。使いたいなら教わった

らいいとも。幸い、『陰』系統なら専門家がちゃーんと屋敷にいるからね」

 

 

「そうか、それだ!この際、魔法そのものじゃなく、手取り足取り魔法を教えてもえ

ルトいうシュチュエーションに満足すべきなんだ。よし、風呂上がりにさっそく!」

 

 エミリアに魔法の手ほどきをしてもらって、さらに親密さを深めようといきり立つスバ

ル。もはや前回の内容をなぞる当初の目的を忘れかけている。

 

「勘違いしてるみたいだーぁけど、『陰』属性の専門家はエミリア様じゃーぁないよ?」

 

「な・ん・だ・よ!さっきからそんなに人の心弄んで楽しいのかよ!じゃ専門家誰

だよ、お前か!全属性適性持ちのエリート魔法使い様ですもんね!がっかりだ!」

 

「ベアトリスだよ」

 

「もっとがっかりしたよ!!」

 

バッシャーン、と盛大に水飛沫を跳ね上げて、今宵最大の叫びが炸裂した。

 

「あ、余談なんだけどよぉ・・ロズっち」

 

「すごい雄叫び上げてたけど、まだ聞きたいことがあーぁるのかい?なんだね、いってみるといい」

 

「エミリアたんや、ラム、レム、ネムの属性も気になるんだよな・・・」

 

「なーぁるほど、なぜ気になるのかはわーぁからないけど、教えてあげよう。

エミリア様は、火。ラムは風。レムは水。ネムは火。だーぁよ?」

 

「羨ましい・・なんでデバフ特化なんだよ・・・」

 

スバル自身期待していた属性を総取りされた気分になり、泣く泣く風呂を後にした。

 

 

 

4

 

 

「クソ、湯当たりした。ロズワールめ、上げて落として繰り返しやがって、釈迦の掌か」

 

 支給された着替えに袖を通しながら、脱衣所でスバルは赤い顔のままぼやいていた。

 浴場でのがっかり適正診断を終えて、先にスバルが風呂から上がったところだ。

 ロズワールとの会話で興奮したこともあるが、長風呂の影響もあって頭が重い。思い起

こせばまた、本来のケガの治療から日にちが経っていない血が足りない時期なのだ。

 

「おまけに明日は筋肉痛になってそうは体の張り具合。クソ、ラムめ、覚えてろよ。前回

より俺が有能だからってこき使いやがって・・・・」

 

「お望み通り、覚えておくわ」

 

「ふわぉぉぉう!」

 

 洗濯物を入れた籠を持って脱衣所を出たところで、タイムリーな返事をされて飛び上が

るほど驚く。弾んだ籠から散らばる下着が、脱衣所の通路に佇むラムの足下に落ちた。

 

「はぁ、まったく」

 

 ラムはしゃがんでスバルの下着を摘み、すぐ脇にあったゴミ箱へと叩き込む。

 

「目の前に洗濯しようと籠を持ってる男がいるんですけど!?」

 

「ごめんなさい。持ち上げた瞬間、生理的嫌悪感が堪えきれなくて。一秒でも早く手放し

たくてああなってしまったわ」

 

「そのわりにフォーム綺麗だったスネ!」

 

 泣く泣くゴミ箱から下着を回収し、籠に詰めてラムに向き直る。静々と廊下で待機する

ラムを見て、彼女の目的はなんだろうと首を傾げる。ラムはその疑問を察したように、

 

「残念だけど、ラムは入浴を済ませた後だから待っていても着替えたりはしないわ」

 

「全然察してねぇな!?メイドとして致命的じゃね!?」

 

「冗談よ。ロズワール様の御着替えを手伝いに待機してるだけ」

 

「甘やかしすぎじゃねぇのか?着替えくらい一人でできんだろ」

 

 世の中にはお手伝いさんに靴下を履かせてもらい、自分では一度も靴下を履いたことの

ない人間も存在するらしい。ロズワールもそういう手合いなのだろうか。

 

「まさかあの珍妙なメイクも三人にやらせてんだとしたら、少ない信頼がさらに減るぜ」

 

「ラムの前でロズワール様への不敬は許さないわ。次から実力行使するわよ」

 

 温情がある忠告に感じるが、事実なので肝に銘じておくべきだ。

 実際、ラムは屋敷の仕事も一度目はそれなりに懇切丁寧に教えてくれるが、それ以降は

同じ質問をしようもんなら容赦なく養豚場の豚を見るような目で見てくる。

 

「これ以上は藪蛇だな・・・・。そんじゃ先輩、失礼しやっす。また明日」

 

「バルス、この後は何か?」

 

「何かもクソも寝るだけだよ。明日も早いんだから当たり前だろ。チキショウ。先輩、マ

ジ朝だけは辛いっス」

 

 反骨精神と弱音がハイブリットしたスバルの返事に、ラムは小さく頷いて瞑目。

 押し黙るラムが何を言いたいのかと、じれたスバルが声をかける寸前に目が開かれた。

 

「それじゃ、後で行くから部屋で待っていなさい。ついでに、ネムも連れて行くわ」

 

「——は?」

 

と、間の抜けたスバルの声がぽろっとこぼれた。

 

 

 

5

 

 何度でも宣言しておくが、ナツキ・スバルはエミリア一筋を標榜している。

 異世界にきて以来、機会があって元の世界では遭遇するはずもない美形に立て続けに出

くわしているが、エミリアの存在は郡を抜いている。

 純粋に容姿の美しさでもあるが、なんかこう、振る舞いの一つ一つがツボに入るのだ。

 よって、どんな美貌が相手でもスバルの心がエミリア以外になびくことはあり得ない。

 

「だから、この完璧な状態のベットも俺が安らかに眠るため以外の理由なんてないんだぜ」

 

 鋭い勢いで指をベットに突きつけ、気合の入った言い訳を誰にともなく断言する。

 風呂上がりに部屋に戻ったスバルの目の前には、戻ってからの時間の全てを費やして整

えたベットがある。洗濯物も放置しての仕事ぶりは、風呂上がりなのに汗をかくほどだ。

 

「深い意味はない、深い意味はないぞ。心頭滅却。落ち着け。エミリ

アたんが一人。、エミリアたんが二人、エミリアたんが三人・・・・天国か!」

 

「騒がしいわ、バルス。もう夜なんだから、静かにしなさい」

 

「おっひょい!」

 

 大きく跳ねて壁に激突。部屋の入り口に、音もなく扉を開けたラム、その後ろに隠れているネムが立っている。

 

「だ、大丈夫ですか・・?スバルくん」

 

「はぁ・・・・これは手遅れね」

 

「何なんだ、お前の自分ルール!聞いてて常識が揺るがされるからハラハラするわ!

お前は何をどうして俺にどうなって欲しいんだよ・・・あぁ、ネム大丈夫だ・・」

 

 怒鳴り散らすスバルに対し、ラムは「ハッ」と小さく鼻を鳴らす。後ろにいるネムはそんなスバルを見て

困り顔。言葉にすらならない悔蔵の意思をぶつけられて、もはやスバルもお手上げして黙らせるしかない。

 そして黙るスバルの前を二人が横切り、ラムとネムは部屋の奥——書き物用の机へと足を向けた。

 一応、各部屋に用意されている備品だが、この世界の読み書きができないスバルには無

用の長物となっていて、机に向かった経験は今のところない。

 

「何を惚けているの。バルス、こっちきなさい。ネムはそこらへんでくつろいでいていいわよ」

 

「姉様、くつろいでいいってここ俺んの部屋だぞ?」

 

「ぽふっ」

 

 ネムは構わずベットにダイブしてくつろぎ、

 

「遠慮ないですね!?」

 

 犬でも躾けるようなぞんざいな言い方とネムの遠慮なさに憮然とした顔になるが、スバルはラムとネムのペース

に巻き込まれないと決意を新たにする。そもそも、そのやり方はスバルの領分だ。

 どんなビックリ発言が出ようとも、決して揺るがない鋼の心構えで向かい合う。まるで

戦場に向かうような覚悟で、スバルは立ちはだかるラムの前で胸を張った。

 

「それで?今度はどんな無理難題を持ってきてくれたんだ」

 

「何を言っているの?読み書きを教えれるから、早く座りなさいって言っているでしょう」

 

「初耳だよ!?」

 

 鋼の心、即座に崩壊。

 固めてあった心が一瞬でへし折られて、スバルは動揺を隠せない。机の上には真っ白の

ページが広がるノートと羽根ペン、赤茶けた背表紙の本があって息を呑む。

 冗談でも悪ふざけでもなく、本当に文字を教えてくれようとしているらしい。

 

「でもまた急に、なんで・・・」

 

「バルスが読み書きができなければ買い物も任せれないし、用件の書き置きもできない」

 

 戸惑うスバルの問いかけに、ラムは至極真っ当な答えを返した。

 驚きで魚のように口をパクパクさせるスバルに、ラムは赤い背表紙の本を見せる。

 

「まずは簡単な子供向けの童話集。これから毎晩、ラムかレム、そしてラムたちの可愛い付き添い人としてネムが勉強に付き合うわ」

 

 ありがたい申し出には違いないが、今は感謝するより困惑する気持ちの方が強い。

 

「ネムさん・・・も必要?姉様?」

 

「当たり前じゃない、ネムがいないと意味がないわ。可愛い可愛い妹だもの。ずっとそばに置いておかないと」

 

「理由にな・・・いやなんでもありません」

 

 そう言いかけたが、後ろからの目線に気づきすぐさま言葉を中断する。

 この展開も先の風呂場と同じで、前回ではあり得なかった状況だ。そしてスバル自身の

感覚としては、前回の四日目などに比べればまだ三姉妹たちとの親しさは足りていない。

 

「どうして、そんな風に親切にしてくれんだ?」

 

「決まっているわ。ラムが・・・・いいえ、楽するためよ」

 

「言い直して言い直せてねぇよ。マジぶれねぇな、お前」

 

「当たり前でしょう。バルスのやれることが増えれば、それだけラムの仕事が減る。ラム

の仕事が減れば、必然的にレムやネムの仕事も減る。良い事尽くめよ」

 

「俺がその代わりに超仕事に追われてるけど!?」

 

「・・・・?」

 

 発言の意図がわからないみたいに首を傾げるラムの反応に、口答えする気も奪われた。

 ただ、そうして呆れ果てる一方で、ラムの心遣いが嬉しかったのも事実だ。

 

「オッケー、了解だ。お勉強、しましょうじゃないですか」

 

「バルスの場合、会話の文法は大丈夫だからそこまで難しいことはないわ。言葉選びに品

がないのは今さら矯正しようがないから」

 

「フォローのふりした罵倒入ってるよな?」

 

 言いながら机の前に腰を下ろし、羽根ペンを持って準備完了。羽根ペンは軽く、ノートの上

をなかなか達筆に滑ってくれる。異世界で記念すべき最初の一筆。

 

「ナツキ・スバル参上・・・と」

 

「そんな絵を描いて遊んでる暇なんてないわ。明日も早いし、時間も限られているから」

 

「いやこれ俺の母国語なんだけど・・・やっぱ伝わらねぇよなぁ」

 

 会話の成立から、ひょっとしたら文字も書いてみれば翻訳されるのを期待したのだが、

そう都合よい展開には恵まれない。スバルにこちらの字が読めないのと同じことだ。

 

「まずは基本のイ文字が完璧になってから。ロ文字とハ文字はイ文字が完璧になってから」

 

「三種類もあんのか。聞くだに折れるな」

 

 新たな言語習得を前に、早くも挫かれそうな心が辛い。平仮名・カタカナ・漢字が揃っ

た日本語を学ぶ、外国人の気持ちと壁の高さを思い知った気分だ。

 

「イ文字を把握してから童話に入るわ。時間は冥日一時までが限度でしょう。明日もある

し、ラムも眠いし」

 

 

「最後に本音がチラリズムするそういうとこ、嫌いじゃねぇな、先輩」

 

「ラムもラムの素直なところは美点だと思っているわ」

 

 躊躇いのない切り返しだから本音か冗談かわからない。かなりの高確率で本音の雰囲気を

感じながら、スバルの文字習得レッスンが始まった。

 新しい言語の習得の基本は、文字の把握とひたすら書き取りを反復することだ。

 ラムが書き出してくれた基本の文字を、ページ一枚がびっしり埋まるように真似ていく。

ゲシュタルト崩壊を起こしそうな地道さこそが、必要な苦労だと割り切れるのが肝要だ。

 疲労と眠気に瞼の重さを感じながら、付き合ってくれるラムのためにも船をこぐことは

許されない。そもそも、こうして二回目の初日から友好的に接してくれていることが貴重

な機会だ。チャンス、と言い換えてもいい。

 

「なんつーか、楽するためとか言ってるけど、俺はそれでも嬉しかったよ」

 

 照れ臭い気持ちを堪えながら、素直な気持ちを後ろのラムに伝える。

 羽根ペンをノートに走らせるかすかな音。繰り返し同じ文字を書き連ねる作業の合間を縫

って、スバルは前回の四日間を回想する。

 思えば、時間さえあればエミリアを追いかけていた日々だったが、その間をもっとも長

く一緒に過ごしたのはラムだっただろう。

 屋敷周りのあらゆる仕事で素人同然のスバル。その教育は骨が折れたはずだ。もちろん

ラムの仕事はそれだけではなく、通常業務と兼務しながらだったからなおさらだ。

 負担は当然、レムやネムにもいっていただろう。故に、前回の四日間でレムとネムと接した時間はそれほど多くない。

優秀なレムにお手伝い上手のネムがラムの分の仕事の一部を肩代わりしていたと聞いて、関節

的に負担をかけたことはスバルの負い目にもなっていた。

 

「正直、あんま好かれてっとは思ってなかったし」

 

 ただえさえ忙しい日々の中、スバルのように使えない新人の教育など苦痛で当然だ。相

手にそう思われることだって、スバルにとっては慣れしたんだ感覚だった。

 だから、こうして否定されていないような現在が、スバルには嬉しかった。

 

「これからも迷惑かけるとは思うんだけど、なるたけ早く戦力になるから、頼むよ」

 

 椅子を軋ませて首だけを後ろに向け、スバルは無言で見守るラムとネムに告げる。

 スバルの心からの感謝と今後の意気込み。それに対してラムとネムは静かに、

 

「ネム・・ぐう」

 

「姉様・・すや」

 

 綺麗にベッドメイキングされた寝台の中で、二人抱き合って可愛らしく寝息を立てていた。

 ぱき、と音を立てて羽根ペンが折れた。

 

 

6

 

 ふと込み上げる衝動に負けて、スバルは大口を開けて欠伸をかました。

 目尻に涙となって浮かぶ眠気を袖で乱暴に拭い、ぐっと背筋を伸ばす。夕刻の空は沈む

太陽の餞別に橙色に染まり、流れる雲がゆったりと一日の終わりを労ってくれていた。

 雲を見送りながら、スバルは手足や首を回して体の調子を確認。重労働の影響は残って

いるが、初日の夜ほどの疲労感は感じない。

 

「体の強さは変わってねぇし、ちったぁ疲れない体の動かし方を学んだってことか」

 

 肉体の慣れではなく、作業への慣れによる効率改善が疲労の軽減に繋がったのだろう。

 『死に戻り』が肉体の強化につながらない以上、経験値の習熟は必須の要素だ。

 

「スバルくん、お待たせしました。——大丈夫ですか?」

 

「ん。ああ、大丈夫大丈夫。レムりんも、買い物終わり?」

 

「はい、滞りなく。スバルくんはずいぶんと人気でしたね」

 

 買ってきた荷物の入った手提げを持ち、スバルを労うのは青髪の少女——レムだ。

 着こなしたメイド服のレムは風に揺れる髪を押さえ、わずかに和らいで見える表情で

スバルを見ている。泥と埃、そして鼻水や涙で汚したスバルの方を。

 

「昔っからどうしてかガキンチョにやたら好かれる体質でさぁ。やっぱレアかなぁ、俺

の中の押さえ切れない母性的な何かが童心を惹きつけてやまないみたいな」

 

「子どもは動物と同じで人間性に順位付けをしていますから。本能的に侮っていい相手か

どうかわかるんですよ」

 

「それ褒められていないよね!?」

 

 辛辣なコメントをするレムに、そういうところがラムと双子なのだと納得させられる。

 直接的ラムと遠回しなレム。たまに、ネムも毒を吐いてくるが、それが予想以上に刺さる。三人との付き合いは精神的にタフでなければ仕事自体が立ち行かないのだが。

 現在、スバルとレムがいるのは屋敷のもっとも近くにある、アーラムという村落だ。

 あれで辺境伯、という立場にあるロズワールは、いくつかの土地を領地として保有する

一端の貴族である。屋敷の直近のアーラム村も例外ではなく、住民は当たり前のようにス

バルたちを認識すると、親しげに声をかけてきてくれる。

 買い出しなどで接触の機会が多い三姉妹はもちろん、スバルも存在だけでは周知されている

ようだ。田舎の噂の伝達速度に驚きつつも、歓迎を受けるのはむず痒いながらも嬉しい。

 

「とはいえ、あのガキ共の馴れ馴れしさはいったい・・・迂闊に触ると火傷しかねない、俺

のハードボイルドな雰囲気が理解できないのか」

 

「母性って言ったり大人を気取ったり、スバルくんは一人で忙しいですね」

 

「一人でって部分にちょっと棘を感じるけど、むしろ忙しい方が絡まれずに平穏だ

った気もすんね。やっぱレムりんの買い物に付き合ってりゃよかったな」

 

 食材の区別もできないスバルは役立たずなので、レムの買い物中は村で暇潰しを仰せ

使っていた。その隙を子どもたちに発見され、拉致された次第だ。

 

「敬いの気持ちが足りねぇんだよ。だからガキンちょってのは好きになれねぇんだ」

 

「敬うに足りるだけのものを、スバルくんはちゃんと子どもたちに見せたんですか?」

 

「正論ごもっともだよ!かといって最初から舐められてんのもなんか違うと思うんだ

けど・・・・その辺、ラムはうまくやりそうだな・・ネムはなんか輪に入ってワイワイしてそう」

 

「姉様は素敵ですし、ネムはとても可愛い子でしょう」

 

 微妙に会話が噛み合っていない。姉と妹を自慢するレムの様子は鼻高々で、そこに含むような

態度は見られないので本心なのだろうと推察する。

 

「ぶっちゃけ、ラムの性格だとけっこうな態度で軋轢生みそうな感じだけど」

 

「物怖じしないところも姉様の魅力です。レムにはとても、無理ですから」

 

「・・ネムはなんだ人懐っこいところあるのか?年もあまり離れてないだろうしすぐ馴染めそうだけど」

 

「ネムはレムや姉様にひっついてまわります。人懐こく見えますが、あまり人付き合いは苦手な方なんです。

でも、可愛いので問題ありません。そういうのはネムにあって、レムにはない良いところです」

 

 姉妹を評価するレムの言葉にはどこか物悲しくて、スバルは眉を寄せるが追求できない。

 

「そういえば、スバルくんの勉強の進み具合はどうなんですか?」

 

 とっさに言葉を見失ってしまったスバルに、レムが気を取り直すように話題を変える。

 

「着々と・・・・って答えたいけど、そうそう簡単にはいかないな。やっぱ何事も時間をかけ

てゆっくり育てねぇと。愛情と一緒だね!」

 

「途中で枯れないといいですね」

 

「今のレムりんのコメントは愛が枯れてるな!」

 

 叫び、レムの表情にわずかな微笑が浮かぶのが見て、スバルも安堵に笑う。

——ラムが夜の個人レッスンを申し出て、すでに四日が経過している。交代でスバルの

教育に当たるという話だったが、まだレムには講師役が回ってきていない。

 ネムは必ずラムについてくるのだが、それだけレムが忙しかったということだが、レムにとっては逆にそれが負い目になって

いたようだ。

 珍しく逡巡するような素振りのレムに対して、スバルは笑い顔のままで手を振った。

 

「心配すんなって。別に放置されてるわけじゃないし、ラムやネムに不満ねぇよ。いや、教えて

る最中に後ろでネムが姉様にベタベタ甘えられるとやる気が削がれるから勘弁してほしいけど」

 

「・・・姉様が羨ましいです。コホン、姉様とネムはあえてスバルくんのやる気を奮闘させようと、そう振舞ってるんですよ」

 

「本音がチラリズムしてますよレムさん。その姉妹への絶対的な崇拝、並大抵じゃねぇぞ。マジ鬼がかってんな」

 

「鬼、がかる・・・?」

 

 造語にして、最近のスバルのマイブームな言葉にレムが首を傾げる。

 

「神がかるの鬼バージョンだよ。鬼がかる、なんかよくね?」

 

「鬼、好きなんですか?」

 

「神より好きかも。だって神様って基本的に何にもしてくれねぇけど、鬼って未来の展望

を話すと一緒に笑ってくれるらしいぜ」

 

 来年の話をすると特に盛り上がるらしい。肩を組んで赤鬼や青鬼と爆笑し合う光景を思

い浮かべるスバルは、ふとレムがその表情に確かな笑みを刻んでいるのを見た。

 

「お・・・・」

 

 これまでにも何度か微笑する姿は見てきたが、こうしてきちんと笑顔を見せてくれたの

は初めてのことだ。何がレムの心を解したのかわからないが、スバルは指を鳴らし、

 

「その笑顔、百万ボルトの夜景に匹敵するね」

 

「エミリア様に言いつけますよ」

 

「口説いたのと違うよ!?」

 

 姿勢を正して神妙に許しを乞うスバル。レムはそのスバルの姿に軽く眉を上げた。

 

「その手、どうしたんですか?」

 

「ん?ああ、ガキ共が連れてた犬畜生に超ガブリされた」

 

 くっきり歯形の浮かんだ左手は、すでに止まったが血が少し滲んでいる。ちなみに執事

服の背中は鼻水で汚れているのだが、それに気付くのは屋敷に戻ってからだ。

 

「傷、治しましょうか?」

 

「え?レムりんも回復魔法とか使える系?」

 

「簡単な物ですけど、手当くらいなら。エミリア様の方がいいですか?」

 

「む、否定できない魅力的な提案だ。だけど・・・どっちも遠慮しとく」

 

 

 左手の甲に浮かぶ犬歯の跡を眺めながら、スバルはその申し出を辞した。

スバルに意識させたのも、前回のループまで得た傷の消失が大きかった。

 傷のあるなしは『死に戻り』の判断材料として有効だ。偶然にも犬に噛まれていなけれ

ば、適当な刃物なり羽ペンなりで自傷しなければならないところだった。

 

「まぁ、名誉の傷ってやつだ。誰も、生まれたままの綺麗な姿じゃ生きていけないのさ」

 

「傷跡は男の人の勲章と言いますから。ただ戦場不覚を取っただけですけどね」

 

「真実の一端かもしれないけどドライな発言やめようよ!」

 

 さらっと毒舌なレムだが、首を傾げる姿を見ると自覚がないらしい。逆に恐い。

 

「それにしても、これまでもレムりんの前で手ぇ切ったりした場面ってちょくちょくあっ

たと思ったけど、なんでさっきは急に治そうとか言い出したんだ?っていうかむしろ、

なんで今までは言い出してくれなかったの?」

 

「痛くないと覚えないですし、戒めは残ってた方がいいと思いますから」

 

「さらっとスパルタ教育方針だ・・・で、さっきの申し出の理由は?」

 

 これまで見過ごされた理由は別として、今回は見過ごさなかった理由が知りたい。

 そのスバルの問いかけに、レムはしばし沈黙を守った。

 だから、

 

「布団が吹っ飛んだ。猫が寝転んだ。ダジャレを言うのは誰じゃ!」

 

「急に頭がおかしくなったんですか?」

 

「結論が早ぇよ。違くて、さっきのレムの笑顔の理由を確かめようと思って」

 

 鬼がかる、に反応していたように思えたので、ひょっとするとと思ったのだが。

 

「屈指の親父ギャグ好き疑惑。それで機嫌良くなって、優しくしてくれんのかなぁって」

 

「もう二度と、レムがスバルくんの傷を治してあげる機会はこないと思ってください」

 

「そんなに怒ったの!?」

 

「こんなに怒ったのは、スバルくんが姉様とネムの陰口をこっそり言ったとき以来です」

 

「わりと最近で頻繁だ!」

 

 余計な一言を加えたせいで、レムのスバルを見る視線は鋭さを増した。

 慄きながらスバルは弁明を諦めて、口を閉じると空を見上げた。夕闇の向こうからゆっ

くりと夜が迫ってくる。そのことに、手足が緊張に強張るのを感じた。

——何せ、二回目の世界も今日でぴったり四日目を迎えているのだから。

 

「明日の朝を、無事迎えられるかが勝負だな。——その前に」

 

 エミリアとそもそもデートの約束ができるかどうかも。大事な勝負なのだが。

 

 

7

 

 ナツキ・スバル二度目のロズワール邸一週間、その局面は今、最大の危機を迎えていた。

 予習していた前回のループをあんまりちゃんとなぞれていない時点で、そもそも順風満

帆おと言い難い展開ではあったのだが、ここへきて最大の危機発生である。

 

「それで、ラムもレムもそれに、ネムも今夜はスバルのところに顔を出せないっていうから、私が代わり

に勉強の監督を引き受けたの。大したことはできないんだけどね」

 

 言って、可愛らしく舌を出して照れた顔をするエミリア。寝台に腰掛けて、机に向かう

スバルを見守っているエミリアに、スバルは激しい勢いで耐久度を削られていた。

——こんな夜遅くに、思春期男子に抗うスバルを誰が攻められようものか。

 

「へえ。スバルって、思ってたよりちゃんと集中して勉強してるんだ」

 

 無心と脳内で唱え続けるのに必死でまったく無心になり切れていないスバルに、立血上

がったエミリアが感心したような声をかけてくる。どうやらお風呂上がりらしく、かすか

に漂う温かな香りとエミリアの香りが合わさって、スバルの理性が滅多うち状態だ。

 勉強の進み具合を目で問いかけてくるエミリアに、スバルはどぎまぎノートを開いた。

 

「い、今は基本のイ文字ってのを書いて覚えてるとこ。この童話集が子ども向けでほとん

どイ文字って話だから、これ読めるようになんのが今のところの目標ってやつ」

 

「ふーん、童話集が目標なの・・・あ」

 

「なんか、気になるお話でもあった?」

 

 教科書代わりの童話集をめくっていた手を止めたエミリアが、スバルに小さく首を振る。

 

「んー、そこまでじゃないけど、ちょっとね。スバルも読めるようになったら、うん」

 

 音を立てて本を閉じると、エミリアは改めてベットの上へと腰を落ち着かせる。佇まい

に品があるのに、やたら無防備なエミリアに内心のどぎまぎをスバルは隠せなかった。

 

「ホントは冥日にしか会えない子たちとお話する気だったんだけど、今日はスバルを優先

してあげる。感謝して、頑張ってね」

 

「もち、エミリアたんには感謝してもし足りねぇよ。感謝の証にマッサージしようか。

日頃の感謝を込めて、手取り足取り疲労を癒して溶かしてあげよう。げへへ」

 

「なんか手つきがいやらしいから嫌。それに中断しないの。続き続き」

 

 手を叩くエミリアに叱咤されて、スバルは煩悩と戦いながら再び机に向かう。

 無心、無心と唱えながらノートに文字を書き出していくと、次第に集中する頭がスバル

を雑念を取り去っていく。

 

「やっぱり、真面目にやったら脱線なんかしないじゃない。もう」

 

「俺って一度めり込むと周りが見えなくなるから。だから好きな人にも一直線だよ!」

 

「ふーん、そうなんだ。相手も、スバルその一途さに早く気づいてくれるといいね」

 

 軽薄トイエバ軽薄なスバルの物言いを、エミリアはあくまで自分と無関係な事柄と言い

たげにかわす。スバル自身、自分がエミリアに対して向ける好意の感情が、はっきりとし

た男女間のものであるとは思っていないため、追求しようもないのだが。

 

「ね、スバル。・・・・どうして、勉強と同じように真面目にお仕事もできないの?」

 

「真面目に不真面目するのが俺のコンセプト・・・・って雰囲気じゃないね。えっと?」

 

「そう、真剣なお話。——ラムも少しぼやいてたんだから。スバルはお仕事の、合間合間

で手を抜いてる感じがするって」

 

 さすがに告げ口のような形になるからか、言葉を選ぶエミリアの表情も苦々しい。が、

それを聞化されたスバルは図星を突かれた痛みに顔をしかめるしかなかった。

 スバルが仕事の手を抜いている、というラムの認識は正しい。

 事実、スバルは仕事に本気に打ち込んでいない。

 というより、意図して前回と同じ結果になるよう調節している。

 前回、まだ使用人として何ら技能を修めていなかったときと比較し、今のスバルはほん

の少しだがマシになっているのだ。その微妙な調節を、先輩メイドは見逃さなかた。

 

「・・・・罪悪感なし、ってわけじゃないもんね。スバル、そういう変なところで律儀な感じ

はするもの。勉強サボったりもしてないし」

 

「ちょっとした事情があって・・・って、言い訳にもならねぇな。明日からは気持ちを入れ

替えてちゃんとやります故、お許しを女王様」

 

「んむ、苦しゅうない。・・・・ちょっと違うかも?」

 

 偉ぶってみた自分に違和感があったのか、エミリアが可愛らしく首を傾げる。

 スバルはエミリアの態度の軟化に安堵しつつ、今のエミリアへの誓いを明日から本物

にしようと固く心に決める。

少なくとも、前回をなぞる必要は今夜でなくなるのだ。

この四日間で受けたラムとレムとネムからの恩義を、三人に返す努力ができるようになる。

 もっとも、手抜きをやめたら即戦力になれるかというとそういうわけでもないが。

 

「こういうのは気持ちが大事。俺の一生懸命さ、それを三人には買ってもらいたい」

 

「またいいところですごーく台無しな雰囲気。・・・勉強、終わったの?」

 

「今日の分はどうにかね!そだ、エミリアたんにお願いあるんだけど聞いてくれる?

明日から頑張るためにご褒美欲しいなーって」

 

「ご褒美って?言っておくけど、私が自由にできるお金なんてちょっとだけだからね」

 

「なんかゴリ押ししたら養ってもらえそう。ま、ま、ま、それはともかく聞くだけ聞いて

よ。そう、明日から真面目に働くから・・・デートしようぜ!」

 

 親指を立てて歯を光らせ、スバルはお決まりのポージングでエミリアを誘う。

 スバル的には最高の決め顔を前に、エミリアはその大きな瞳を白黒させていた。

 

「でーと、って何するの?」

 

「ふっ。男と女が二人きりで出かければそれはもはやデート。その間に何かが起こるのかは、

恋の女神だけが知っているのさ」

 

「それじゃ、今日はスバルはレムとでーとしてきたのね」

 

「ぬおお、予想外の切り返し!ノーカン!ノーカンでお願いします!」

 

 確かに美少女とのお出かけではあったが、食品の買い出しとか所帯じみたものではなく、

もっとお互いにおめかししたりしてのものをスバルは希望する。

 

「一緒に出かけたいっていうのはわかったけど、どこに行くの?」

 

「実は屋敷のすぐ近くの村に超ラブリーな犬畜生がいてさ。あと花畑とかもあんの。エミ

リアたんと咲き乱れる花の共演、それを俺の『ミーティア』でぜひ永遠に残したい」

 

 スバルの私室の片隅に、そっと置かれたコンビニ袋は元の世界から数少ない財産だ。

盗品蔵の激闘を乗り越えた携帯電話やカップラーメンも、そのまま袋に残っている。

 

「充電ができれば、メモリ容量一杯までエミリアたんの画像で埋め尽くす野望がなぁ」

 

「うーんと・・・・村、かぁ」

 

 日替わりでエミリアの待受けを変更する妄想するスバルの前で、エミリアは頬に手

を当てて思案顔だ。そういえば前回も、デートの誘いに迷っていたとスバルは思い出す。

 前回はどうやってOKをもらったのか。記憶を再現するためにスバルは歯を光らせた。

 

「犬畜生超可愛い、行こうぜ!」

 

「でも、スバルに迷惑をかけるかもしれないの。村の人も・・・」

 

「子どもたちとかも無邪気でマジ天使の軍勢、行こうぜ!」

 

「・・・・もう、わかりました。仕方ないんだから。一緒に行ってあげる」

 

「花畑もマジカラフルでワンダフル・・・マジで?」

 

 前回よりもエミリアの抵抗が少なかった気がして、思わず素で驚いてしまう。

 肩透かしを食らったスバルにエミリアは唇は尖らせると、華奢な肩をすくめてみせた。

 

「そんなことでスバルが明日からやる気になってくれるなら、付き合ったげる。もう、あ

んまりふらふらしてちゃダメなんだからね」

 

「しないしない全然しない!もうすでにどうすれば仕事を完璧に終わらせられるかに魂

を燃やし尽くしてるぐらいだよ!」

 

「こんなとこで魂燃え尽きちゃうの!?」

 

 やる気に燃えるスバルにエミリアの驚きが重なり、それから二人して笑い出す。

 ひとしきりそうして笑った後、小さく頷くエミリアがベットから腰を上げた。彼女はス

バルの横を抜け、窓の外の空を見上げて薄く微笑んだ。

 

「うん、今夜も星が綺麗。きっと、明日はいい天気になるわね」

 

「——ああ。そして、忘れられない日になるさ」

 

「またスバルはそうやって・・・」

 

 窓枠に背を預けて振り返り、エミリアはスバルの軽口を注意しようとしていた。が、エ

ミリアの唇の動きはスバルの表情を見て止まる。

——スバルの表情が、いつになく真剣なのが見えてしまったからだろう。

 

「あんまりゆっくりしてると、眠い俺はエミリアたんを朝まで抱き枕と間違えちゃうよ」

 

「今、スバルが・・・・ううん、なんでもない」

 

「そうやって女の子に言葉を中断されると、男心ってすげぇ不安になるんだけど」

 

 意味深な態度を追求するが、エミリアは窓から離れて「なんでもなーい」とスバルの隣

を可愛く通過。そのままドアノブに手をかけて、振り返る。

 

「それじゃ、執事スバルくん。明日からちゃんと働くこと。ご褒美は、頑張った子にだけ

与えられるからご褒美なのです」

 

 軽く掲げた手で敬礼のような仕草をして、微笑みを残しながら銀髪がひるがえる。

 スバルの返答を待たず、扉の外へ消える銀色の影。

 もう手を伸ばしても届かない。部屋には愛らしい少女の残り香がわずかに漂うのみだ。

 しかし——

 

「おいおいおいおい、マジかよ。ったく。俺、超やる気になちゃったぜ。マジで」

 

 約束は再び交わされた。そしてスバルは、再びこの夜に挑むことができる。

 四日間の夜を超えて、五日目の約束の朝を迎えに行くための、朝までの六時間。

 

「さあ、勝負といこうぜ、運命様よ——」

 

 

8

 

 床に座ってベットを背もたれにして、スバルは刻々と夜が明けるのを待ち望んだ。

 冷たい床の感触も、二時間以上座り続けた今ではほとんど感じられない。ただ、その冷

たさを必要としないほど、スバルの体は覚醒の極みにあった。理由は簡単だ。

 

「こんだけ心臓がバカバカ鳴ってて、寝られる奴がいるもんかよ」

 

 心臓の鼓動は早く高く、音はまるで耳元で鳴り続けているように大きく鋭い。全身を血

が巡る感覚が鋭敏に感じ取られて、手先が痺れるような痛みを継続して訴えれいた。

 

「エミリアとの約束が待ち遠しくてこの様か。おいおい、俺ってば遠足前に寝られなくな

る小学生かよ。修学旅行で寝坊したの思い出すな」

 

 思い出で気分を紛らわしながら、スバルは何時間も見上げた空を飽きずに睨みつける。

——長い時間だ、とつくづく思う。

 朝までは四時間ほど。眠気は欠けらもないが、何が起きるのか延々と警戒し続ける状態で

は神経がやられる。襲撃の可能性を思えば、時間潰しで集中を乱すなどもってのほかだ。

 故に思考を続けること、それだけがスバルにできることだった。

 この四日間、即ち二度目の四日間を改めて振り返る。

 出だしの失調と、いくつかの一週目との差異。それらが今夜までの道のりに与たえた影響

は大きい。だが、一方でスバルの記憶に残るイベントの大半は通過できたはずだ。

 ただし、それはループの原因回避の心当たりがない、という不安要素を引きずる。

 エミリアとの関係は良好。ラムやレムやネムとの関係も良くなってる気はするが。

 

「あと、心残りがあるとすれば・・・・」

 

 今夜、ベアトリスに遭遇することができなかった、という点だ。

 前回の最後の夜、スバルはほんの短い時間だがベアトリスと接する時間を持った。それ

が今回は抜けているのと、それを抜きにしてもベアトリスと接触した時間が今回は少ない。

シビアな時間管理に追われて、この四日間はほとんど言葉を交わせていなかった。

 

「前回も、顔は見ては憎まれ口叩き合ってただけど・・・・しっくりこねぇ」

 

 ベアトリスと大した話をした覚えがないが、この二回目の世界の初日。ループの事実に

打ちひしがれるスバルの心を救ったのは、紛れもなくベアトリスの存在だ。

 突き放すような普段の態度にこそ、スバルは安堵を得て立ち直ることができたのだ。

 

「礼の一つでも、言っておくべきだったのかもな」

 

 この世界のベアトリスには心当たりのないことだし、言ったら言ったで嫌そうな顔をさ

レルのは目に見えてるのだが、それでもベアトリスを思うスバルの唇はゆるんでいた。

 

 ベアトリスとの代わり映えのない言い合いすらも、思い出せば笑ってしまう記憶だ。

 ベアトリスだけでなく、ラムやレム、ネムにもロズワールにすら言いたいことがある。

 もちろん、エミリアに万の言葉を尽くした後になるのは許して欲しいが。

 振り返れば笑いが出る。前回と今回、合わせて八日間。内心のゆるみが表に出てきたの

か、朝までまだ三時間以上あるというのに、瞼が少し重くなってきたのを感じる。

 

「ここで寝落ちとかマジで洒落にならん。ネトゲやってるときはとは違ぇんだから・・・」

 

 瞼を擦り、急に湧いてきた眠気を逃す。が、睡魔は寒気まで連れてきていて、思わず

身震いして苦笑してしまう。両肩を抱き、体温を高めようと体をさする。しかし、やって

もやっても寒気が引かない。それどころか、眠気がどんどんと増している。

——楽観的に捉えていた状況、その変化にスバルも気付いた。

 見ればジャージ姿の袖の下、肌には粟立つように鳥肌が浮かび、芯から冷たさに体の

震えが止まらない。異常だ。異世界の気候は、今の元の世界の春過ぎに近い。服の袖をま

くらなくては暑い日もあるくらいだ。それがどうして今、歯なの根が噛み合わないのか。

 

「ヤバい、まさか、これ・・・・・っ!」

 

 震えに寒気ではなく恐怖を感じ、スバルは慌てて床に手を着く。

だが、震えはすでに全身に伝播氏、腕が体を支えれない。今にも崩れそうな膝を酷使

して立ち上がり、スバルはゾッとするほどの倦怠感に吐き気を催した。

 

「だ、誰か・・・」

 

 あれほどうるさかった拍動が弱まり、呼吸に喘ぎながらスバルは部屋の外へ出る。

 助けを求める声は、しかし喉が塞がったように掠れた音しか出ない。

 暗がりの廊下に乾いた空気が漂い、肺が酸素を拒むように痙攣して足を遅らせる

 マズイ、とその考えだけがスバルの脳裏を支配した。

 自分の身に何かが起こっているのか、具体的には何もわからない。

 ただ一つわかっていることは、今、自分が命を脅かされているという事実だけだ。

 呻き、たどたどしい足取りでスバルは歩き出す。向かうのは階段、上階だ。

 通い慣れた通路を、一歩ごとに魂を削るような苦痛を引きずって進む。

 

「はぁ・・・・はぁ・・・・っ」

 

 届いた階段の、一段一段を手足を全部使って上る。上階へ到着するまでどれほどの時間

をかけたものか。それを考える気力も惜しんで、這いずるスバルは廊下の最奥を目指す。

 体の中身がぐずぐずに溶けて、全部一緒くたに掻き混ぜられたような不快感。込み上げ

る吐瀉物が口の端から廊下に垂れ流されて、涙がスバルの顔面を汚していく。

 それほどの醜態をさらしながら、這いずるスバルの脳裏にあるのはたった一人のこと。

——エミリア。エミリア。エミリア。エミリアのとこ理に、行かなくてはならない。

 使命感が、義務感が、言葉にできない感情がスバルを突き動かしていた。

 自分の命に拘泥する、ある種当然の自己保身すらも、今のスバルにはなかった。

 エミリアの居室を目指して這うスバルは、すでに虫の息に近かった。

 腕で体を引きずる力が足りず、壁に体重を預けて体を滑らせながら進む。立って歩くこ

とも、人としての尊厳もなくした姿は、憐れみ以上に嫌悪感を見るものに抱かせる。

 

「———」

 

 全身がだるい。呼吸は荒く、キンと甲高い耳鳴りが鳴り続けている。

 だから、スバルがその奇妙な音に気付いたのは、何の理由もなくただの偶然だ。

——まるで、鎖の鳴るような音だった気がした。

 違和感に体の動きが止まる。壁に預けていた肩が滑り、そのまま頭から地面に落ちる。

 

「————う?」

 

 次の瞬間、衝撃がスバルを弾き飛ばしていた。

 大きく全身がぶれ、床にや倒れるはずだった体が吹き飛ばされている。何度も地面をバウンド

し、顔面で床掃除を行って、スバルは自分が何かとてつもない衝撃を受けたと気付いた。

 痛みは、ない

 ただ、手足の末端から腹の中身まで、全てがシェイクされたような不快感がある。

 

「なに、が・・・・・」

 

 あったのか、と口にしてどうにか体を起こそうと地面に手を着く。だが、震える腕は

地面を掴んでも力が入らない。おかしい。力が、バランスが取れない。右腕がこれだけ頑

張っているのに、左腕は何をしている。どこへいった。

 わけのわからない苛立ちに、スバルは役目を果たさない左腕を睨みつける。

——自分の左半身が、肩から吹っ飛んでいることに気付いた。

 

「——あ?」

 

 横倒しになり、欠損した左半身を見つめて、スバルは呆然となる。

 左腕は肩から吹き飛び、抉れた傷から大量の血が噴き出し、廊下を赤く染めていた。

 傷口の存在に気づいた直後、痛みがスバルの全身を雷のように駆け巡る。

 もはや痛いとも熱いとも表現できないそれらは、陸に上がった魚のように跳ねるスバル

の喉を塞ぎ、絶叫する余裕すら奪ってのた打ち回された。

 視界が明滅し、赤と黄色の光が交互にちらつき、スバルの意識は屋敷から消し飛ぶ。

 死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。

生きていない。死んでないだけ。もうすぐ死ぬ。もう死ぬ。何もわからない。何もかもが

遠い。何も思い出せない。全てどうでもいい。どうでもいいから死にたい。

 そんなスバルだったものの全霊の願いは——

 

「その願い・・・・叶えてあげますよ」

 

 どこかで聞き覚えのある声、それを理解しようとした瞬間

 

「・・・・くは・・・っ」

 

 鎌のようなものを振ると鳴る聞くだけで耳が痛くなるような甲高い音を最後に、半身を真っ二つに斬り裂かれることで叶った。

 

 

9

 

 

「—————!!」

 

 自分の絶叫で目を覚ます、という経験はこれ以上なく心臓に悪いものだ。

 布団をはね飛ばして覚醒したスバルも、息を荒げながらそんな衝動を味わっていた。

 

「ひ、左手・・・・ある、あるよな」

 

 何かを掴もうとしたかのように、虚空に左手が伸ばされている。

 真っ二つに斬られて、泣き別れした下半身は健全だ。右腕で抱くようにしてそれを確かめ、スバルは

短い間に味わった喪失感の壮絶さに、空っぽの胃袋を嘔吐感に震わせた。

 内臓が痙攣するような感覚にさらされながら、スバルは復活した左手と半身を見る。

 手の甲に傷跡はもちろんない。吹き飛んだ跡も、犬に噛まれた跡もだ。

 

「また、戻ってきちまった・・・・いや、戻ってこられたって言うべきか・・・」

 

 傷跡の消失は、スバルが運命に敗北したことを意味する。

 時間を逆行してきたのだ。あるいは、リベンジの機会を与えられたといってもいいが。

 顔を上げ、スバルは自分が今、何時のどこかにいるのかを意識した。

『死に戻り』の経験則としては、戻ってくるとすれば『ロズワール邸初日』が想定した

セーブポイントだが、確信は持てない。また別の時間軸、というものもあり得る話だ。

 とにかく、まずは時間の確認を——そう思い至ったときだ。

 

「あ、ごめん、おはよう」

 

 ようやく、部屋の片隅で末っ子を守るように前に出てスバルを見る。三姉妹の姿に気付いた。

 意識不明だった男が絶叫しながら目覚めれば、それはそれは驚いただろう。

 空気の読めないスバルの挨拶にも、まるで親が子を守るように身を寄せ合うラムレム、そしてそれに隠れるネム三人は

返事をしない。頭を掻き、スバルはどうしたものかと思い悩む。

 ラムとレム、ネム三人はスバルのことを忘れているだろう。それはスバルの胸にかすかな痛

身をもたらしたが、その痛みを無視してスバルは笑みを作った。

 友好的に、こちらから誠意を込めて。

 彼女たちが何もかも忘れてしまっても、スバルは覚えているのだから。

 

「ご迷惑をおかけしました。ナツキ・スバル、再始動します!」

 

 ベットから勢いよく床に降り立ち、スバルは指を天に突きつけてポージング。

 突然の奇行に三姉妹が驚くのも構わず、スバルは決めポーズのまま、

 

「ところで、今って何日の何時?」

 

——ロズワール邸、三度目の初日が幕を開けた。

 

 




最後まで読んでいただきありがとうございました!
この先の物語で、我が絵師の先生に挿絵を描いてもらう予定なのでお楽しみにです!
(Twitterであげます)

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