花と虎   作:どす黒いニベア

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花と虎

 胡蝶 カナエにとって藤木 源之助は掴みどころのない青年である。それはカナエが源之助を追うように柱になってからも変わらなかった。

 

 カナエが源之助と初めて会ったのは、妹のしのぶとともに鬼殺隊での任務を終え、傷の手当てに寄った診療所であった。ともに診察室を後にし、木造の廊下を歩いていたときに向こうから一人の隊士がやってきた。それが源之助だったのである。

 

 遠目での印象は悪くはなかった。顎下まで伸びた髪も黒の詰襟の隊服も綺麗で、体は遠目にもわかるほどに鍛え上げられている。顔立ちもよく、すっと真っすぐに通った鼻梁や一文字に結ばれた唇は、実直な印象を姉妹にもたらした。しかし、近づくにつれカナエは彼の大きな瞳が気になった。

 

 その黒々とした瞳は、鬼殺隊に所属しているにしては覇気が欠けているように思われた。 鬼殺隊には鬼を滅ぼさんと志す若人がたくさんいる。その多くは、鬼により悲劇や惨劇の被害者となった者たちで、一見普通そうでも、瞳の奥には鬼への尽きぬ憎悪が渦巻いている場合が少なくない。しのぶがそうであり、妹は己の非力を補うために鬼を殺す薬品の研究に勤しんでいたし、妹ほどではないにせよ、カナエもまた父母を虐殺した鬼に煮えたぎるような思いもある。

 

 そういうのに比べると、源之助の瞳はいかにも虚ろである。ちょうど死ぬ直前の老描が、彼と似たような眼をしていたのを思い出す。そんな彼を気味悪く思ったのか、しのぶがカナエの背後に回って身を縮めた。

 カナエは違和感こそあったものの、源之助に対してあまり気味悪さを覚えなかった。もとより、カナエのもう一つの鬼への思いは鬼殺隊内では異端である。多少の奇人変人ならば十分受け入れられるし、ただでさえ鬼殺隊にはさまざまな事情を抱えた人間がいるのだから、源之助もそのうちの一人なのだろう。話せば案外普通かもしれなかった。

 

 三人の初めての出会いは、胡蝶姉妹がわずかに頭を下げてすれ違うという形で終わり、カナエはその後、彼のことを忘れて任務に励んだ。

 

 鬼との死闘は辛くもあり悲しくもあった。たびたび妹にとがめられるけれども、人一倍優しい面のあるカナエは、できれば鬼と人間との共生を図りたかった。鬼はもともと人間であり、始祖の鬼舞辻 無惨の血を与えられて鬼と化し、人間に害を為すようになる。

 

 彼らが鬼となった理由は判然としない。だが、鬼退治をしているうちに、カナエは彼らの多くが悲しい事情を抱えていることには気付いたのだ。以降、何とか鬼と和解できないものかと試行錯誤しているが、うまくいっていない。

 

 ある日、鬼殺隊内の広報で藤木 源之助が柱に昇格し、虎柱を名乗るとの一報が流れた。

 

 基本、鬼の出現場所に向けての出動の多いため、鬼殺隊の動きは遊撃的にならざるを得ず、また一堂に会する機会もなかなかないので、自然顔見知りは少なくなる。柱昇格の一報があった時点で、その隊士の名前と顔が一致しているのは少数で、カナエもしのぶもその例に漏れなかった。

 

 一致したのは、岩柱の悲鳴興 行冥の推薦で訓練を受けに藤木邸を訪問し、道場で源之助の顔を目の当たりにしたときである。

 

 初めに訓練の相談相手として行冥を頼ったのは、胡蝶姉妹を鬼の魔手から救ったのが彼であったのと、柱の中で彼が一等優れていると考えていたからだ。そのため、行冥から虎柱に師事するよう告げられたカナエは、首を傾げながらその理由を問うた。

 

「藤木ほど戦いに長じている柱は他にはいまい……」

 

 行冥は柱の中でも古株で、盲でありながら鬼殺隊きっての戦士と見做されている。その彼が称賛する藤木 源之助は、ついこの間柱になったばかりの新人である。おまけに少し調べたところ、空っぽの虎が柱を名乗っている、など隊内での評判はあまりよろしくない。それなのに推薦されるとは、天稟の才の持ち主なのだろうか?

 

「天稟の才、などという小綺麗な言葉で形容するには、あやつの剣は泥と血に塗れすぎている」

 

 すなわち、努力の賜物なのだろう。なるほど、それならば行冥が源之助を推薦したのも頷けた。天才は時として凡人の苦労を理解できないが、文字通り血の滲むような研鑽を積んできた人間ならば、それだけ障害を乗り越えてきたに違いないから、相談相手にうってつけだろう。

 

 カナエはそう解釈し礼を告げると、悲鳴興邸をあとにした。

 

「努力もまた……」

 

 数珠を鳴らしながら、行冥は軽い足取りで去ってゆくカナエを見送った。

 

 

 ◇

 

 

 藤木邸は東京市のはずれにあり、その外観は典型的な武家屋敷だった。門で見目麗しい少年に行冥からの紹介状を手渡し、少しして戻ってきた彼に道場へ案内されると、奥に正座している道着姿の男がいた。彼の前には一振りの刀がある。その姿勢は型にはめられたかのように正しく、道場の静謐さと相まって一つの絵のようだった。

 

「先生、胡蝶 カナエ様がいらっしゃいました」

 

 声変わりをする前の少年の言葉に返事をする代わりに、男はゆるりと立ち上がり、振り返った。

 

「お初お目にかかる。藤木 源之助と申す」

 

 その虚ろな瞳にカナエは小さく声を上げ、以前すれ違った男を思い出したが、初対面と認識している相手に合わせた。

 

「初めまして。私は胡蝶 カナエと言います。本日は貴重な御時間を割いていただき、ありがとうございます」

 

 カナエは深々と頭を下げた。

 

「悲鳴興殿の書状は拝読した。微力ながら協力しよう。涼之介、下がって良いぞ」

 

 一礼し退出した少年の無垢な瞳には、源之助への熱いきらめきがあった。

 

「御弟子さんですか?」

 

「継子だ」

 

 柱になって間もない源之助に、もう継子のいるのにカナエは目を丸くした。

 

「涼之介は麒麟児だ。そう遠くないうちに私の下から巣立つだろう」

 

 予言めいたことを述べる源之助の手には、すでに二振りの竹刀が握られていた。

 

 一振りを受け取り、源之助と相対する。

 

 カナエが今回の訓練で会得したいのは、力の効率的な運用方法である。カナエの派生させた花の呼吸は、植物の生態を刀で疑似的に再現したものだ。可憐な花は儚く見られがちな一方で、踏みつぶされても再び蘇るだけのたくましさがある。また、その美しさで人の心を魅了すると同時に、トリカブトに代表されるように人を殺めるほどの毒性を有している場合もある。そういう多様性を技に反映させることにより、戦術の幅を広げ、生来の不足分を補っていたのだ。

 

 男女の力の差は如何ともしがたいものがあった。男の同僚が硬い鬼を容易く斬首しているのを羨ましく思い、その度に何度修行で体をいじめたかわからない。それでも解決しない事態に煩悶して思いついたのが、力の効率的な運用だった。

 

 力には道理を無理矢理捻じ曲げてしまうような猪突猛進的な印象が付きまとうが、熟練した人間は力を無駄の無いよう理性的に用いる。ならば、それに倣えば戦闘技術のさらなる向上につながるのではないだろうか? そうして頼ったのが行冥だったのだ。

 

「まずは実力を測る。訓練はそのあとでよかろう」

 

 カナエが頷いたのを見るや、源之助は脇構えをとり、柄にそっと右手を寄せた。その人差し指と中指が、猫科動物が爪を立てるが如き異様な構えで柄を握る。

 

 呼吸法には奇術と捉えられかねない多種多様な技術があるという以上に、彼のあまりにも自然な構えへの動作は、カナエに一切の不自然な印象をもたらさず、合わせてカナエも二三の深呼吸をしたのち、花の呼吸の構えをとった。道場の静謐さにわずかに張り詰めた空気が加わる。

 

 実力を測ってもらうのであれば、勝利を掴まんと最高の技を披露せねばなるまい。普段は柔和に弧を描いているカナエの目が、獲物を捕らえんとする鷹の如く鋭利に源之助を射抜いた。

 

 ―― 花の呼吸 捌ノ型 桜吹雪

 

 春風により流麗に踊る数多の桜の花弁は、見る者を魅了し、幻惑し、その足の運びを大地に縫い付け、無防備にする。たとえ体に触れる花弁があろうとも、意識の埒外である。全力で跳躍したカナエの振るう刀は、高速の連撃の最中、まさにその切先のきらめきが桜吹雪の舞踊となり、縦横無尽に敵を襲撃しなます切りにするのだ。今は竹刀なので桜の舞踊は望めないが、それでも四方八方からの高速の連撃は易々と対処されまいと踏んでいた。

 

 その予想が浅薄だと気づいたのは、数瞬後だった。

 

 源之助の右手がぶれたと思いきや、掠めるように源之助の竹刀がカナエの顎をしたたかに打った。脳を揺さぶられ、竹刀を握っていられなくなったカナエは、崩れるようにその場に倒れる。

 

 剣筋が見えなかった。上半身すらも起こせない状態で辛うじて考えられたのは、それだけだった。

 

 独自の呼吸法を確立し、男社会の面の目立つ鬼殺隊内で活躍しているカナエは、決して弱くない。隊士への格付けで、最上位に位置する階級「甲」を背負っている事実が証拠である。それなのに攻撃する間もなく開始直後に床に伏せた。驚愕の一言では言い表せない感情が、カナエの胸を満たした。

 

「胡蝶殿の力量、見させてもらった。早速、訓練に入ろう」

 

 藤木様に師事すれば成長できるに違いない。カナエは確信した。

 

 こうしてカナエは、鬼殺隊の仕事の合間に藤木邸を訪れて訓練に励むようになる。鬼との死闘と、痛くなければ覚えぬを旨とする熾烈な訓練は、カナエの体をたびたび疲労困憊にし、しのぶにどちらか一つにするよう心配されるほどだったけれども、不思議と心は満たされており、よほどの体調不良でもない限り藤木邸への訪問を中止する気にはならなかった。むしろ、日に日に強くなっている自分を実感できる分、楽しみですらあった。そうして通っているうちに、藤木邸の人間と親しくなるのは自然な流れだった。

 

 継子の涼之介とは、訓練の休憩中に仲良くなった。彼は気配り上手で、休憩や終了の時間になると必ず道場に現れて、カナエを客間に誘導し、緑茶と御茶菓子を勧めるのだ。そこに源之助が相席する日もあったが、たいていは仕事のために欠席し、そういうときカナエと涼之介は源之助を話題の一つにした。

 

 源之助を語るとき、涼之介の白皙の頬は桜桃色に染まり、そのつぶらなは瞳は憧憬に溢れるのが常だった。

 

 聞けば、涼之介はもともと裕福な商家の長男で、家が鬼に襲撃された際にまだ「甲」だった源之助によって命を救われたのだそうだ。残念ながら両親は惨殺されてしまったが、源之助が身請けしてくれたおかげで孤児にならずに済んだ。以来藤木邸に住み、雑用をこなしながら、源之助に師事しているとのことだ。

 

「あのときの先生のお姿は、今でもはっきりと思い出せます」

 

 両親の死体を間近に、血の海の中で悪鬼に迫られ死に怯えていたところへ、源之助は颯爽と現れ、あの猫科の構えで鬼の首を即座に斬り落とした。雑魚鬼だった故、そのときの源之助の態度は常日頃のものと大差なかった。しかし、地獄から救われた涼之介にとって、月光を背にたたずむその姿はまさしく英雄だったのだ。

 

 いつか私も……、と落涙せんばかりに太陽のまばゆい蒼穹を見上げる涼之介を微笑ましく思いつつ、ふとカナエは気になっていた疑問を口にした。

 

「そう言えば、藤木様は何というか、目の様子が変なような感じがするのですが……」

 

 直截に尋ねるのはさすがに失礼かと思い、カナエは若干回りくどい言い回しを選んだ。

 

 涼之介の表情が少し翳る。

 

「それは、……私にもわかりません。初めてお会いした時から、先生はあのような瞳をされておりました」

 

 同じく気になり何度か尋ねようとしたが、そうしたが最後、源之助との縁がすべて御破算になってしまいそうで怖く、結局何も聞けていないと涼之介は呟くように言った。唯一手掛かりになりそうなのは、道場に大事に飾ってある刀で、どんなに忙しくとも源之助は毎日欠かさずあの刀と向き合い、物思いにふけるように時を過ごすらしい。その姿を道場の入り口から見るたびに、涼之介は源之助との間に、途方もない距離の断絶が生じているように感じられるのだそうだ。

 

「あの刀は何なのですか?」

 

「刀匠は不明で、産地は備前と聞きました。名は確か、……虎殺七丁念仏」

 

 太陽に雲がかかり、室内がほの暗くなる。

 

 虎柱の源之助の下に虎殺しの刀が飾ってあるとは、不吉な予感がせずにはいられなかった。

 

「何でも、まだ岐阜と愛知のあたりが美濃や尾張と呼ばれていた頃、濃尾無双と謳われた虎眼流という剣の流派があったそうです。その道場主の名前が岩本 虎眼というらしく、その方が七丁念仏を持っていたときに岩本家が没落したことから、虎殺しの名がついたとか……」

 

 涼之介の話が確かならば、七丁念仏は半世紀以上前の代物である。源之助の生まれは本人曰く農家だそうだから、刀と縁があるとは思えなかった。どこぞの骨董品店に赴いた際に一目惚れでもした可能性もあるが、涼之介の印象を鑑みるに、どうもお気に入りを道場で愛でているようにも思えない。

 

 更なる疑問が頭を埋めつくしていく中、涼之介がもう一つの逸話を口にした。

 

「虎殺しと言われる所以はそれだけではなくて、同じ頃、駿府城で御前試合があったそうなんです。そこで先ほどの岩本 虎眼の弟子が七丁念仏を手に戦い勝利したのですが、その後すぐに亡くなってしまったらしいんですよ。そのことも名前に関係していると先生から聞きました」

 

「なぜそのような刀を藤木様は……」

 

 涼之介はただ首を振ると、源之助の言葉を呟くように口にした。

 

 ―― そういう運命なのであろう……

 

 

 ◇

 

 

 カナエは藤木邸の道場で一人竹刀を振るっていた。源之助が急遽出動する破目になったので、家に帰らず一人で訓練することにしたのである。

 

 時刻は夕刻であり、木々のヒグラシの鳴き声はかまびすしく、正面の窓から注ぐ真夏の斜光は、木目の細やかな壁や床を一面の炎色に染め上げていた。それなのに場内の雰囲気は止まりそうなほどに緩やかで、外界の音は遠く、まるでこの世界にたった一人取り残されてしまったかのように思われ、その寂獏を埋め合わせんばかりに、竹刀の鋭い風切り音とカナエの激しい息遣いが切れ間なく響く。白磁の頬や漆黒の長髪は大量の汗に濡れ、竹刀を振る度に、熱い息とともに紅玉色に光る雫が彼女の周りに散った。

 

 一通りの鍛錬を終えると、豊かな胸やくびれた腰に張り付いた道着をはためかせながら一息ついた。端麗な顔は、充足感で満ちている。力の運用を学び始めてからというもの、鬼の頸を斬るのに以前ほど苦労せずに済むようになっていたのだ。おかげで仕事による疲労が軽減され、しのぶの小言も少なくなったし、訓練にいっそう集中できるようにもなった。源之助の鍔迫りは、参ったを言わせてくれないので辛いけれども、全体的に見れば良いこと尽くめである。

 

 窓の外の夕空を見れば、そろそろ日が完全に沈んでしまう頃合いだった。いつまでも滞在していると、涼之介が気をきかせて夕御飯の用意をしてしまいそうだし、そろそろ御暇しようかと考えたところで、ふと道場奥の七丁念仏に目が行った。

 

 それはあたかも引力のような力で、自分の意思とは関係なくそうしてしまったかのようだった。

 

 足が半ば勝手に動き、七丁念仏の傍にまで近づくと、カナエは恐る恐るそれに手を伸ばした。その白鞘は、黄昏の日により鮮血に濡れたかのごとく深紅に染まっている。

 

 細い指先が、鞘に触れた。

 

 ―― 怪物め!

 

 若い男の声が脳裏に響いた。同時に、視界が夕暮れの道場から、白玉砂利の敷き詰められた広場に突然変化した。周囲の陣幕には徳川家の家紋である三つ葉葵が描かれ、その内側には裃姿のたくさんの老若の武士と思しき男たちがいる。彼らの面貌は弔辞の時のごとく一様に沈痛だったが、ただ一人、三つ葉葵の柄の羽織を纏った面長の男だけが、酷薄な笑みを浮かべていた。

 

 カナエの背筋に悪寒が走った。男の瞳には一片たりとも人情が感じられず、あるのはひたすらの呪詛と残酷さだったのだ。鬼と戦う使命にあるカナエからしても、男は人の形をした化物にしか思えなかった。そして場は、その化物を頂上に据えて構成されていたが、しかし、主役は別にいた。

 

 彼らの視線は、広場の中央で刀を構え、睨み合っている二人の青年に向けられていた。

 

 一人は美しい顔をした長髪の剣士だった。驚くべきことに失明しているらしい彼の構えは、カナエが見たことも聞いたこともない奇怪なものだった。刀を地に突き刺し、柄を両手で握りしめ、刃先を右足で万力の如く締めあげているのだ。およそ放たれれば、その刀の軌道は天に向けて昇る竜の如く、敵を一閃するだろう。

 

 対するもう一人の剣士を見て、カナエは我が目を疑った。その剣士は、虎柱の藤木 源之助と瓜二つだったからである。だが、源之助とは明確に異なる点が二つあった。一つは畏怖と敬意の入り乱れた固い意志を感じさせる瞳、今一つは上腕の辺りから失われている左腕だった。そして彼の右手には、虎殺七丁念仏が握られている……

 

 両者とも剣士としては致命的な欠点を抱えている。およそ尋常の勝負にはならないだろう。それでも相対する双竜には、気後れなどまったくなかった。

 

 逆光を避けるためだろうか、先に動いたのは隻腕の男だった。相手を中心に、円を描くように移動する。直後、盲の男が相手の位置がわかっているかのように、体の向きを素早く変えた。ありえない反応速度に、カナエは息を呑む。

 

 場の空気が張り詰めていき、いよいよ限界に達しようとしたとき、隻腕の男が七丁念仏を振りかぶり、一呼吸の間の後、腕がぶれんばかりの勢いで薙いだ。しかし、あろうことか彼は、七丁念仏を相手の陣幕目掛けて放り出してしまう。

 

 握りが甘かったか? そう思う間もなく、七丁念仏が陣幕の後ろにいた女性の眼前に突き刺さるやいなや、盲の剣士の刀が束縛から解放され、天高く斬り上がった。二人の間には充分な距離があったので、その昇竜の一閃は不発に終わってしまう。そこへ、隻腕の男が短刀を手に迫った。

 

 刀同士が衝突し、獣の嘶きのごとき甲高い金属音が一体に響き渡る。二人の男の高い鼻が、接触しそうになるほどの接近戦である。その光景を、カナエは当事者として間近で見たことがあった。

 

「あの鍔迫りは!?」

 

 見間違えようはずもなく、まさしく隻腕の男の攻め方は、カナエが何度も味わった源之助の相手を押し潰さんばかりの鍔迫りそのものだった。

 

 なぜ、あの源之助と瓜二つの男は、源之助と同じ技を用いているのか? 偶然の一致か?カナエの頭が混乱し始めたとき、

 

「胡蝶殿」

 

 師の聞きなれた声が、耳朶を打った。

 

 気が付くと、夕闇に浸食され、先ほどまでのおどろおどろしさの失せた白鞘が目に飛び込んできた。声の方に驚いた勢いそのままに振り向くと、膝を折り、目線の高さを一緒にしている源之助の虚ろな瞳と視線が合う。

 

 似ている……隻腕の男の顔と源之助の顔とが重なる。

 

「それは妖刀。いたずらに触ってはならん」

 

 注意されたカナエは自分の恰好を見返し、すぐに手を引っ込める。そうして、入れ替わるように立場を譲り、片膝をついた源之助の背後に回った。

 

 妖刀と源之助は確かに口にした。なぜ虎柱である彼にとって不吉な名を持つ妖刀を飾っているのか、カナエにはわからない。世間一般がそうであるように鬼殺隊にも言霊信仰の嫌いがあり、鬼との戦いで不幸な結果をもたらさぬよう、少なくない隊員が身近に縁起でもない名の物品はなるだけ置かないように努めている。刀名の由来を知っているのならば、尚更そうするだろう。

 

「藤木様は、どうしてその妖刀をお手元に置いているのですか?」

 

 しばしの沈黙が満ちた。間近にいるというのに、漆黒の隊服を着た源之助の広い背が夕闇に飲まれて、その境目があいまいになっていく。

 

「……この刀は、あるべくしてここにあるのだ。そういう運命なのだろう」

 

 源之助の口から直接出た「運命」の言葉に、カナエは初対面時の違和感を思い出した。同時に不満も覚えた。

 

 カナエは運命という言葉を好かない。それは人の生を軽々しく扱いすぎるのだ。そして、その神懸かり的な言葉の根底には良くも悪くも諦念が付きまとう。しかし、理不尽な出来事への悲しみや諦めを甘受するなど、どうしてできようか? カナエもしのぶも、傷を舐め合いながら市井の道を歩むよりも、血と泥に塗れてでも己の心に正直に生きる道を選択したのだ。源之助も同志ではないのか?

 

 闇に沈みゆく源之助を引っ張り上げるように、カナエは思わず源之助の堅い左腕を掴み、声をかけた。その声が大きくなったのは、意図せずしてのことだった。

 

「藤木様、運命など所詮夢幻の類です。惑わされてはなりません。その妖刀も、偶然藤木様のお手元に納まっただけです」

 

「なぜ、そう言い切れる?」

 

 振り向かずに問うた源之助に、カナエは、

 

「私は運命を好きません。ただ、それだけです」

 

 自らの感情を愚直にも告白した。対する源之助の語り口は、一笑に付すでもなく、不自然なまでに落ち着いていた。

 

「胡蝶殿、……運命はおよそ人知の及ぶものではない。夜天を巡る流星の如く、運命は神仏のみが関知できるのだ。そして、……どうしようもなく残酷なのだ」

 

「存じています。でも、だからと言って……」

 

 そこで振り返った源之助の顔を見て、カナエは言葉を飲み込まざるを得なかった。源之助の感情に満ちた瞳から、雫が零れていたからである。

 

「私もかつては……」

 

 嘆きが、静かな道場の中を儚く伝った。

 

 

 ◇

 

 

 鬼殺隊には産屋敷家の出資により設けられた共用の図書館がある。蔵書数は何千にも至り、鬼に関する記録が収められているかたわら、古今東西の歴史学書、文学、窮理学、算学、薬学などの学問的な本も数多く取り揃えられている。それというのも歴代の産屋敷家当主が、鬼殺隊隊士の将来を慮り武術面のみならず学識面も重んじてきたからで、特に福沢諭吉の『学問のすすめ』が著されて以来その傾向は強くなり、鬼殺隊の広報に定期的に文武両道あるいは勉学奨励の四文字が記載されるほどだった。もちろん、勉強のするしないは各人の自主性に委ねられており、おそらくカナエの身近な人間で、この施設の恩恵をもっとも受けているのはしのぶだろう。

 

 境遇により将来が制限されるのは酷だし、人生の選択肢は少ないより多いほうが良い。学識はその一助となり得るだろう、とは産屋敷家現当主輝哉の言である。

 

 その図書館で、ここ最近暇を見つけてはカナエは駿府城と虎眼流について調べていた。一市井の人間に関して、江戸の初期である寛永の時代と大正との繋がりを考えるなど、馬鹿げていると自覚している。史料のない可能性が高いのだから、徒労に終わるのは目に見えているのだ。それでも本のページを捲る手を止めないのは、先日の白昼夢がどうにも頭から離れなかったからである。

 

 

 ―― 藤木様が泣いておられた。空っぽの虎と陰口を叩かれているあの藤木様が……

 

 それはカナエの初めて見た、源之助の人間らしい感情の雫だった。そして、あの涙こそが彼が空っぽではないことの明確な証左だと確信した。

 

 源之助の過去に生じた何かが感情の表出を妨げている。行冥からの手紙によれば、源之助は農家の出で、鬼に家族を喰われたところを行冥が救出し、本人の意思を確認したうえでそのまま鬼殺隊に入隊させ、以後は育手の鱗滝 左近次のもとで水の呼吸の修行に励んだ。残念にも水の呼吸を習得することは叶わなかったが、最終選別を難なく突破したのち、代わりに虎の呼吸を開眼し、破竹の勢いで柱へと駆け上がったらしい。これらから、カナエは最初、何かとは家族の喪失による傷心ではないかと踏んだ。しかし、それでは虎眼流や虎殺七丁念仏との関連性が不可解だし、何より手紙の最後に「源之助の闇はもっと根深いものだろう」と記されてあったので考え直し、図書館へと足を向けたのだ。

 

 案の定、調査は難航した。江戸時代が約三〇〇年にも亘る太平の時代であることのみならず、美濃や尾張あるいは駿府城の史料は見つかっても、虎眼流や御前試合に関する史料が皆無に等しく、目当ての情報に辿り着けないのが原因だった。そのため、日中のほとんどを費やして得られたのは、本家虎眼流が断絶するのとほぼ同時期に、江戸に虎眼流が進出したという些末な一文のみだった。

 

 ずっと机に向かい続けて硬くなった体を大きく伸ばすと、カナエは図書館の柱時計に目をやった。あと半刻もしたら閉館時間である。館内を照らす白熱灯の赤みを帯びた光がいやに眩しい。……もう一冊調べたら帰ろう。そうして、カナエは横に積んでおいた本の塔から一冊手に取った。

 

 題名は『駿河大納言秘記 写本』だった。

 

 かすむ眼をこすりこすり、半ば読み流すような形でページを捲っていたカナエは、ある文章を発見して思わず手を止めた。

 

 ―― 第一試合

 西方 虎眼流 藤木 源之助

 東方 無明逆流れ 伊良子 清玄

 

 疲労や眠気が一気に吹き飛び、同じ箇所を何度も見直す。

 

 駿府城の御前試合で虎眼流の使い手と記録されているのだから、これが涼之介の教えてくれた出来事なのだろう。だが、ようやく見つけたという思い以上に、カナエは人物名から目を離せないでいた。

 

「藤木……源之助……」 

 

 急く気持ちを抑えつつ読み進めていくと、第一試合は西方の勝利で終わったようだった。隻腕の剣士はあらぬ方向へ刀を放り出し、盲目の剣士は空を切った、最後は鍔迫りの形となり隻腕の剣士が刀ごと相手の胴を切り裂いた……ただただ淡々と経過が記述されている。試合の結果を除けば、それはまさしくカナエの見た白昼夢の内容だった。

 

 眩暈を覚えんばかりの心地だった。何なのだ、これは……

 

 虎柱の源之助に酷似し、虎殺七丁念仏を構え、鍔迫りを用いるにとどまらず、名前すら同じくするとは、果たして偶然の一言で片づけていいのだろうか? やはり運命なのだろうか? そうだとしても、ではいったいなぜその運命が源之助に絡みついているのだろうか? そもそも、隻腕の剣士と源之助との繋がりは何なのか? 

 

 いくつもの疑問が頭を過り、思考をかき乱していく。解決しようにも情報が不足しすぎている。もはや独力で調査できる範囲を超えていると結論付けざるを得なかった。

 

 本人に訊くしかない。胸の奥の何かがどうしても真実を明らかにしたがっていた。机上の本をすべて本棚に戻すと、閉館間際の図書館を出る。

 

 黄昏時の漆黒の山林は、鬼よりも威圧的に睥睨するかのように頭上高く屹立している。しかし、その合間より覗く清澄な空には太陽の日差しが広がり、夕闇を紫水晶のような色の美しい織物へと仕立て上げていた。カナエは眼前の巨大な影よりも、深奥の空に見惚れた。

 

 すべては明日だ。この決心は、しかし実現されなかった。

 

 明朝早く藤木邸に到着したカナエにもたらされたのは、源之助は討伐任務のため未明に出立し、しばらく戻らないとの涼之介からの報だった。めぐり合わせの悪さを嘆きながらも、その間、修行と鬼狩りに勤しむことにした矢先、輝哉より産屋敷家に来て欲しいとの言伝があり、その日のうちに出向くと、

 

「私が柱に?」

 

 待っていたのは柔和な笑みの輝哉と、青天の霹靂ともいうべき御言葉だった。

 

 階級「甲」の隊士が柱に昇格するには、鬼を五十体狩るか十二鬼月を一体倒すかのいずれかを達成する必要がある。輝哉曰く、カナエは先日の討伐をもって前者の条件を達成したらしく、以って本日よりカナエを花柱として柱に加えたいとのことだった。

 

 カナエは困惑し、うつむいた。輝哉の希望には可能な限り沿いたい一方で、未熟な身で柱という重責を全うできるのか不安もあり、何より柱への昇格は独立を意味するだろうから、自然藤木邸との距離が遠くなってしまうに違いない。それはつまり涼之介との団欒も、赫々たる道場の静謐さも、源之助と稽古する前の張り詰めるような空気も、体の深奥まで響く竹刀の一撃も、鍔迫りの際のむせるような互いの汗の匂いと、源之助の虚ろながらも真冬の夜空のように澄んだ瞳も、手の届かぬ所へと去ってしまうのだろう。

 

 そう考えた途端、……甘やかな痛みが胸のうちに咲いた。それは畦道の舞い散る桜のように麗しく、儚くも、真夏の太陽よりもなお煌々と咲き誇る花だった。

 

「……どうやら時間が必要みたいだね」

 

 かけられた優しい言葉に慌てて顔を上げると、座敷の輝哉は普段よりも幾分微笑ましく思えるような笑みを浮かべていた。

 

「そ、そのようなことは……」

 

「いいんだよ、カナエ。それは人ならば誰しも芽生えて当然の感情だ。応援するよ。何なら、今からしのぶや蜜璃も呼んで四人で作戦でも練るかい?」

 

「御館様!」

 

 意地悪な言いように思わずカナエは声を大にした。

 

「何にせよ、源之助をよろしく頼むよ。あの子はほとんどすべてを諦めているからね」

 

「ほとんどすべてを……?」

 

 カナエの鸚鵡返しに、輝哉は幾分表情を暗くして頷いた。

 

 鬼殺隊の大多数の人間は、悲惨な境遇を経ながらも諦めとは縁遠い。諦めはどんな可能性への道も遮断してしまう。反面、諦めなければ、たとえ死地に飛び込もうとも、暗闇の奥に瞬く小さな光を発見できるだろう。致死率の高い鬼殺隊の隊員数が、辛うじて鬼に対抗しうる程度に保っていられたのは、ひとえにそのためだったと言っても過言ではない。

 

 その生への執着心とも言うべきものをほとんど欠いているとは、いったいどういうことだろうか?

 

「鬼への復讐心も功名心も矜持も源之助にはないんだ。あるのは疑問だろうね」

 

「疑問? 何への疑問でしょう?」

 

「わからない。それとなく訊いても答えてくれないんだ。ただ、その疑問が解消したとき、源之助は岐路に立つだろう。死ぬか生きるかの岐路にね……」

 

 輝哉の言葉は、カナエの血の気を引かせるのに十分だった。

 

 否定したくとも、未来が見えているのではないかと疑いたくなるほどの的中率を誇る輝哉の推測とあっては、早々否定できないのだ。

 

「幸い、源之助が疑問の解消に役立つものを見つけた様子は今のところない。だが、今後もそうである保証もない。だから、カナエ、花柱の件は後回しにしてくれて構わないから、君には源之助の支えになって欲しい」

 

 にこやかさの奥に切実さを窺わせる輝哉の眼差しを、カナエはまっすぐに見つめ返す。

 

 答えは決まっていた。師弟の関係を超える気持ちが胸のうちに開花した今、どうして断れようか? 源之助を闇から救い、そしてあの虚ろな瞳に輝きを取り戻してみせよう。

 

「仰せのままに」

 

 こうして決意を固め、産屋敷家を後にしたカナエは、その日の仕事の準備をするために自宅へ帰った。ちょうどしのぶも家にいたので、互いの仕事の準備のために町に買い物に行くついでに、日用品も買い揃えようという話になった。そうして町へ向かう道すがら、しのぶは最近小耳に挟んだという厄介な鬼について話し始めた。

 

 這う這うの体で逃げ戻った隊士によれば、その鬼は幽鬼のようで、どうも盲目らしく目が開いていない。太刀を地面に突き刺し、柄を両の手で掴んでいるので、刀を杖代わりにしているのかと思いきや、実はそれが構えであったようで、攻撃が当たらぬよう充分離れていたはずなのに、仲間の隊士が日輪刀を手に取るや、背後の大木ごと体を縦に両断されてしまったらしい。その斬撃の速さは目にも止まらぬほどで、恐怖のあまり逃げ出そうとしたところ、鬼が口を開き、

 

―― 竹光のごときなまくらでは話にならん。隻腕の虎を連れて来るがよい。

 

 と、薄ら笑いを浮かべたという。

 

 同様の体験は他の隊士もしているらしく、その時々の隊士の人数や戦法に違いこそあれども決まって犠牲者は両断され、生き残った隊士に鬼は先ほどの台詞を告げ、霧と消えてしまうのだそうだ。

 

「隻腕の虎って何なのかしらね?」

 

 そう不思議がるしのぶの横で、カナエは周囲の街道の現実感が急速に失われていくように思われた。

 

 盲目の剣士と隻腕の虎……夢と現の境目が急速にあやふやになるような感覚、夜が明ける寸前の濃霧の立ち込める森林を、さまよい歩いているような不安定さがカナエの心を埋め尽くしていく。

 

 そんなまさか……、そう思った矢先、鎹烏の伝令が二人の耳をつんざいた。

 

「北東ノ村ヘ向カエェッ! 盲目ノ鬼ガイルトノ噂アリィッ! 虎柱モスグに駆ケツケルゥッ!」

 

 その新月の夜、カナエはすべてを知るのだった。

 

 源之助が何者で、何を抱え、そして盲目の鬼とどのような因縁があり、虎殺七丁念仏で何を為したのかを、盲目の鬼の嘲笑とともに知るのだった……

 




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