花と虎   作:どす黒いニベア

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仕事と勉強で眠いでござる。
長い間お待たせしてすみませんでした。


花と虎 二

 藤木 源之助が『藤木 源之助』の記憶を取り戻したのはいつだったか? 武士としての矜持も、敬愛すべき宿敵も、そして愛する人も失った隻腕の剣士は、何の因果か同じ名をもって明治の世に生まれ落ちた。

 

 前世での最期は衰弱死だった。清玄との仇討試合で左腕を切断された源之助の体には、もはや長く生きるだけの生命力がなかったのである。駿府城での御前試合のあと、勝利の褒美として駿府家中に召し抱えられたが体調を崩し、その栄光にほとんど浴す間もなく、あっけなく人生の幕を閉じた。彼の最後の言葉は、夫婦の契りを交わした女、三重の名だった。

 

 約束通り清玄を斬ったというのに、第一試合の直後に三重は自刃した。何が乙女にそうさせたのか、源之助には皆目見当もつかない。その解を得ようにも、鍵の在り処ははるかな過去である。打つ手などありようはずもない。守るべきものを失い、過去に呪縛された剣士の心は罅割れ、いかなる感情の雫さえも満足に湛えることができなくなっていた。彼の新たな人生の日々は、農家の両親の手伝いをする長男という形で、ただただ過ぎ去っていった。

 

 源之助の両親は、そんな息子を心の底から愛してやまなかった。他所の子どもと比べれば確かに感情に乏しく、暗愚のように見えるかもしれないけれど、どんな宝石や貴金属よりも大切な一人息子なのだ。どうして愛さずにいられようか? それに源之助は幼少の時分より、時折驚くほどの能力を発揮させてきた。例えば、教えてもいないのに種苗を上手に畑に植えたり、少し古風な文章を綴ったりした。薪割りを任せれば、子どもとは思えないほど見事な構えで、太い薪をたやすく両断する。

 

 この子はきっと、多くの才能を神様から授かったに違いない。感情に乏しいのは、その代わりに制約を与えられたからで、それも時間が経てば自然と消失するだろう。両親はそう考え、愛しい我が子を見守った。ほら、誉めてあげると、源之助の丸い頬がわずかに赤くなるではないか……

 

 頬が赤く染まったように見えたのは、あるいは息子への溺愛のあまり、両親の瞳が惑わされていたせいかもしれないにせよ、二人の深い愛情が源之助の心にまったく影響を及ぼしていなかったとは言えず、そのまま一家が平穏無事であったならば、源之助の心はより修復されていただろう。しかし、道半ばにしてそれは断たれてしまったのである。

 

 源之助の歳が十代半ばに差し掛かろうかという頃、鬼が襲撃してきた。

 

 最初に犠牲になったのは勇敢にも鬼に立ち向かっていった父であり、続いて源之助とともに逃げようとした母が斃れた。夜闇の中、団欒の象徴だった囲炉裏の周りに伏して動かなくなった両親を、源之助は壁を背に虚ろな眼で見つめていた。

 

 嫌らしく嗤う異形の絶望が眼前にある。筋骨隆々の鬼と比べて、鍛錬を積んでいない人間の体はいかにも頼りなく、抵抗の無意味さを悟らされるのに十分だった。そのはずなのに、源之助の心は暁闇の凪の湖面のように物静かだった。

 

 

―― ここで死ぬのもまた運命か……

 

 

 かつての不撓不屈の精神は、すっかり摩耗しきっていたはずだった。しかし、

 

「ほう、俺に刃向かうか」

 

 せせら笑う鬼の前で、源之助は半ば無意識的に構えていた。それは『涼之介』の果し合いで野良犬を屠ったときと同様の、見えぬ刀を掴む構えだった。

 

 鬼は源之助を侮りきっていた。鬼の身体能力は人間をはるかに上回り、忌まわしき鬼殺隊の人間でもない限り、大人であっても太刀打ちできるものではない。相手が子どもならば尚更である。

 

 人間の血肉は若ければ若いほど柔く、甘い。そこに苦痛に悶え泣き叫ぶ姿が加われば、得も言われぬ御馳走となる。舌なめずりをすると、鬼は腰を落とし、床を破壊せんばかりの力で蹴った。源之助の柔肌に、己の鋭い爪が突き刺さるのを幻視する。

 

 瞬間、源之助の右の裏拳が鬼の下顎にめり込み、抉り飛ばした。

 

 低音の悲鳴を上げ、反射的に源之助から距離を取った鬼の脳裏を埋め尽くしたのは、痛みや怒りではなく驚愕だった。鬼殺隊のごとく呼吸法なる奇怪な小細工を用いるでもなしに、子どもの素手の一撃が強靭なはずの鬼の体を傷つけた。その事実に一瞬たりとはいえ注意を奪われてしまったのが、鬼の命運を決定づけたのだろう。

 

 狩猟時の獣のごとき勢いで襲いかかってきた源之助の、さらに高速の裏拳が鬼の右頬に直撃した。頬骨が砕け、頸の骨が折れ、筋肉や皮膚がおぞましい音を立てて裂けていく。その最中、鬼は源之助の背後に獰猛な笑みを浮かべる虎の姿を見た。

 

 

 

 

 悲鳴興 行冥は深夜の森を駆け抜けていた。鎹烏より鬼の出現を知らされたのだ。

 

 いつどこで出現するかわからない鬼を追う都合上、鬼殺隊の動きは後手に回らざるを得ない場合が多い。特に突発的な案件だと、現場到着時にはその近辺の住人がほぼ餌食になってしまっている率が高く、そのたびに多くの鬼殺隊隊士は唇を噛んできた。それでも一縷の望みに賭け、彼らは息を切らせてでも現場に急行するのである。

 

 行冥が不可解な音に眉をひそめたのは、現場まで間もなくの地点だった。大太鼓を思い切り打つかのような音が、田園の向こうから何度も響いてきたのだ。血鬼術か、と最悪の予想をした行冥は、音の正体を知り思わず足を停止させた。

 

 それは少年が鬼に馬乗りになり、鬼の顔を両の拳で打ち付けている音だったのである。何度も何度も、少年はただただ無表情のまま拳を振り下ろしていた。

 

「バカな……」

 

 行冥は呆けたように呟いてから、慌てて鬼の首を切り落としにかかった。四肢が切断され、顔面を深く陥没させていた鬼は無抵抗のまま頸を斬られ、同時に周囲に散乱していた腕や脚などの肉片が霧散していく。こうして討伐任務は呆気なく幕を閉じた。

 

 夜風が、草木をざわめかせる。

 

 少年の状態は、恐るべきことに無事の一言に尽きた。いくつか擦り傷や切り傷があったが、大怪我らしきものはなく、過度な興奮や恐慌も見られない。むしろ、何の感慨も抱いていないようにすら感じられる。およそ通常ならば考えられない事態に、さしもの行冥もどう声をかけたものか考えあぐねた。

 

「……少年、名は?」

 

 ようやくの問いに、

 

「藤木 源之助」

 

 少年は小さな声で答えた。

 

 逸材だと、行冥は踏んだ。古今を通して、鬼殺隊にも入隊する以前に鬼と戦い生存した隊士はいれど、決まって重傷あるいは重態の身で救出されている。行冥自身も例に漏れず、血塗れになりながら無我夢中で鬼を殴り続けた。それと比べると、源之助の現在は明らかに異常であり、鬼殺隊に誘えば優秀な戦士となるのは想像に難くない。だが、それは彼の前途を死と血に汚染させるのと同じである。もし、源之助に他に寄る辺があるのなら、そちらを選択させるべきだろう。

 

 家族の無事や行くあての有無を問うと、源之助はどちらにも首を振った。読経したくなる気持ちを抑え、行冥は源之助に手を差し伸べた。

 

「源之助、この手を取ればお前は屍山血河の道を歩むことになるだろう。敵も友も恋人も、そして己さえも明日生きているかわからぬ道だ。それでもともに来たいのであれば……」

 

 言い終える前に、源之助の手が行冥の手に重ねられた。

 

 ここに源之助の道は定まったのである。

 

 保護された者は例外なく鬼殺隊内の医療施設に預けられ、精密な検査を行ったのち、育手と呼ばれる古強者たちのもとで修行する。鬼との遭遇を考慮すれば、たとえ隊士になれなくとも、ある程度の戦闘能力のあったほうが本人のためになるからである。行冥が源之助の育手に選んだのは、水の呼吸の使い手鱗滝 左近次だった。理由の一つは、水の呼吸は他のどの呼吸よりも柔軟性に富んでいる点にあり、いま一つは鱗滝 左近次という人物の厳格ながらも情に厚い点にあった。そして、後者にこそ行冥は重きを置いた。

 

 源之助の瞳はひたすら虚ろだった。子どもらしい純真さも、生意気さも、溌剌さもない、ただ世のすべてに無意味さを見出しているかのような、その若さには不釣り合いの喪失感を湛えた瞳……これを癒すには、時間と情愛が必要だろう。左近次に連れていかれる源之助の背を見つめながら、行冥は源之助が救われるのを仏に祈った。それにしても、あの瞳が果たしていったい何によりもたらされたのか、想像もつかなかった。

 

「変な話だが、あれは家族を失ったのが原因ではあるまい……」

 

 行冥の得た直観と同様のものを、左近次も後に得た。

 

 源之助を引き取ってから間もなく修行を開始したが、左近次は源之助を隊士にさせる気など毛頭なかった。悪意があったからではなく、愛しい弟子を最終選抜で失いたくなかったからだ。

 

 隊士になるには、育手による修行を終えたのち、最終選抜と呼ばれる藤襲山での死闘の七日間を生き残らなければならない。集う隊士候補たち数十名に対し、藤襲山に巣食うは無数の飢えた鬼たちである。生き残ればよいのであり、必ずしも戦う必要はないのだけれども、生きて山を下りられるものは毎度少なく、その中でも左近次の弟子は生存率が一段と低かった。

 

 帰らぬ愛弟子を思い、何度頬を濡らしたかわからない。それゆえ左近次は育手の役目を引き受けるたびに、弟子に厳しすぎる課題を与え、挫折させようとしてきたのだ。源之助についても同じ方策を選んだ。

 

 しかし、その思惑を裏切り、源之助は課題のことごとくを踏破していった。幾多もの罠を仕掛けた山からの脱出も、左近次との真剣を用いた訓練も、戦闘の要である呼吸法の訓練も、虚ろな表情を変えられなかった。そのうちで気になったのが、源之助の構えと刀に籠められているはずの情念だった。

 

 構えはあまりにも様になりすぎていた。まるで元は武士であったかのようであり、加えて目に留まったのは独特な刀の握りと、そこから繰り出される鋭い剣戟だった。そのすさまじさは左近次をして心胆寒からしめるほどだった。一方で、鬼殺隊の人間であるならば、あってしかるべき悲憤や怨恨などの複雑に絡み合った情念が、源之助の剣からは感じられない。まるで鏡像を相手に刃を交えているかのような不気味な感触であり、不謹慎だが、両親を喪失しただけにしては闇が深すぎるように思われた。

 

「異様だ。農民の子として育ったはずの源之助が、なぜあそこまで刀を使いこなせる? 両親を殺されたというのに、なぜ刀に感情があまりないのだ? それに、あの子は最初からあの握りをしていた。あの猫科の動物のような握り……あれは一体……」

 

 丑三つ時、おだやかな寝息を立てている源之助を囲炉裏の向こうに見ながら、左近次は独りごちた。その無垢な顔は、囲炉裏の揺らめく火に照らされて、はっきりと暗闇から浮かび上がるかと思えばすぐに溶け込み、あたかも此方の世界と彼方の世界の合間にたゆたっているかのようだった。

 

 ……彼方の世界。その愚かな考えを追い払うように頭を振り、数度、大きく息を吸い、吐く。もしそうなら源之助は太陽の下を歩けないし、よしんばそうだとしても、今更愛弟子を討つなど考えられない。どのみち、左近次の心は決まっていたのだ。

 

 仮面の下で微笑すると、左近次も布団に横になった。

 

 そうして訓練を重ね、岩斬りも終えた愛弟子が残すは、最終選抜のみとなった。

 

 今も昔も、左近次は弟子たちの最終選別の終わりを一日千秋の思いで待った。食事をとろうにもとれず、眠ろうにも眠れない。ただただ山林の奥から愛し子たちが、疲労困憊になりながらも笑顔で帰ってくるのを切望する日々である。もし本当に神仏が存在するのであれば、彼は七日の全部を弟子たちの無事への祈りに費やしただろう。

 

 まだ七日目の夜が明けたばかりの時間から、左近次は家の外にじっと立っていた。揺れる瞳の先にあるのは、濃い朝靄の煩わしい通い慣れた山道である。誰かが近づいてくれば、靄の一部が黒くなるだろう。

 

 果たして、源之助は正午近くになって帰ってきた。側頭部に左近次お手製のお面をつけ、汗と泥だらけでありながらも足取りはしっかりしており、相も変わらず瞳は虚ろだった。だが、その虚ろさが今の左近次には喜びであり、救いだった。

 

「ただいま戻りました」

 

 源之助の淡々とした言葉を聞くや否や、左近次は源之助を力の限り抱きしめた。

 

「良く生きて戻った!!」

 

 左近次の背にゆるりと、しかし確かに源之助は腕を回した。

 

 風呂後、源之助に行った傷の有無の確認は良い意味で時間の無駄となった。その精悍な体には、目立った傷が見当たらなかったのだ。喜ばしい一方、この若き隊士の天井はどれほどの高みにあるのか、左近次は末恐ろしくなった。

 

「どれほど斬ったのだ?」

 

「やたらと執念深かった鬼以外、よく覚えてはおりません」

 

 仕方のないことだと笑った翌々日、輝哉より直々に少なくとも半数は斬っているとの報告を受けた左近次は、初めて弟子に唖然とさせられた。同時に、源之助の羽ばたきは、もはや抑えきれぬだろうとの予感を覚えた。

 

 兆候はあったのだ。水の呼吸は柔軟性に富んではいるものの、使い手との相性の問題はやはりあり、例えば炎の呼吸と相性の良い使い手には操りにくい。正面から敵を打ち砕きにかかる傾向の強い後者に対し、前者はその時々の戦局に合わせて攻め方を変化させやすく、仲間の攻撃への支援もしやすい。その反面、どうにも爆発力の不足してしまう嫌いがある。

 

 源之助の剣には炎ほどの爆発力がなく、かと言って水ほどの柔軟性があるとも言えなかった。風に近い感じもしたが、それにしては身軽さに欠ける。もっと別の何か……例えば、野生の肉食獣のような剣術と評するのが相応しかった。そして、その剣の躍動は左近次をして唸らせるのに十分だった。何にせよ、やがて源之助は水の呼吸とは別の呼吸を体得するに違いなかった。

 

 そして、それが的中したのは、源之助が隊士として正式に歩み始めてから間もなくだった。

 

 源之助の文より、「虎の呼吸を開眼せり」との一報が届いたのだ。

 

 

 

 




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