第壱話
それはまるでたった3色の絵の具のみで描かれたような風景だった。
荒涼とした大地に大量の赤いペンキをぶちまけたような、赤い砂漠。
禍々しい色を放つ大地とは対照的な、抜けるような青い空。
ぽつぽつと浮かぶ、白い雲。
そんな抽象画のような奇怪な風景の中をてくてくと歩く3つの細い影。
たった3人のキャラバンを率いるように先頭に歩くのは、左目を眼帯で覆った少女。まるでこの大地のような赤いスーツを身に纏い、背中まで伸ばした赤い髪を風になびかせながらきびきびとした動きで歩いている。
その後ろをとぼとぼと歩く紫色のスーツを着た少年。生ける屍という表現がぴったりなほど、虚ろな眼差しで、無気力な足取りで歩いている。
歩き始めた当初、赤毛の少女は今にも立ち止まってしまい、その場にへたり込んでしまいそうな少年の手を引っ張りながら歩いていたが、行く手に廃墟と化した大きな街が見えた頃にはいい加減少年の態度に嫌気が差し、そして街の入り口に近づいた頃にはもう好きにしなさいとばかりに少年の手を離してしまっていた。
全てがどうでもよかった。
世界を壊し。
その世界と引き換えに救えた思っていた少女はどこにもおらず。
絶望していた自分に尊い希望を示してくれた少年は、目の前で命を散らした。
惰性だ。
今は惰性のままに歩いている。
惰性で生きてきたこれまでの半生と同じように。
少し視線を落とし気味に歩く。
少し前を歩く赤毛の少女の、形の良い小ぶりのお尻を、無感動に見つめながら歩き続ける。
赤い土が、赤いアスファルトに変わったことに気付いた。
赤毛の少女に手を引っ張られながら歩き始めて、そしてまるで突き放されるように少女の手が離れ、惰性で歩き続けて、初めて視線を上げる。
そこは廃墟化した街。
大きく傾いたビル。
支えるべき電線を失った電柱。
打ち棄てられた車の群れ。
少年の目に入ったのは、一つの朽ちたバス停留所の標柱。
その標識に書かれた文字。
『第3新東京市立第一中学校前』
少年は息を呑んだ。
すぐに視線を標柱の背後へと向ける。
鉄筋コンクリート製の3階建て。
結果的にそこで過ごした期間は僅かに過ぎなかったが、少年にとっては幾つもの思い出が詰まった学び舎。
生徒たちの喧騒で溢れていた校舎は、今は全ての窓ガラスが砕け、白かった壁は赤黒く爛れ、しんと静まり返っている。
少年の足が止まり掛けるが、しかし数歩前を歩く赤毛の少女の足は止まらない。
少年と、そして友人たちとの思い出を象徴する建物の変わり果てた姿に、一瞥をくれることもなく。
少女の背中から伸びる見えざる手にでも引っ張れるかのように、少年の足も進み続ける。
しかしその足は徐々に速度を落としていく。
毎日通った歩道橋。
友人たちとよく買い食いに寄った商店。
学校帰りに本部に行くために利用した駅。
あの少年から、14年前の真実を告げられた時に見せられた世界。
あの巨大な塔から見下ろした、遥か下にある地上。赤一色に覆われ、奇妙な赤い十字架が天に向かって何本も立つ、現実離れした光景。彼が告げた真実は、未だに何処か別の世界、どこか遠い遠い世界での出来事のように思えた。
そして今、改めて、自分がしてしまったことを、目の前に突き付けられている。
いつも当たり前のようにそこにあった、日常の風景。
それら全てが、無残にも変わり果てていた。
街に入り、少年の歩く速度は明らかに鈍り始めた。
赤毛の少女は相変わらずきびきびと歩き続けている。
少年と、その前を歩く赤毛の少女との距離が、少しずつ空いていく。
赤く爛れた線路の踏切りを渡り始めた頃。
少年の隣を、すっと音もなく人影が通り過ぎた。
踏切を半分以上渡って。
空色髪の少女はふと背後を振り返った。
今しがた追い越したばかりの、少年の姿を見つめる。
ふらふらと力なく歩く少年。
前方を見つめなおす。
すでに遮断器まで辿り着いた赤毛の少女の背中。
赤毛の少女の歩みは淀みない。自分に付いてくる2人の存在などお構いなしとでも言わんばかりに、一度も振り返ることなく、遮断機を越えてしまった。
少し歩いては立ち止まり、後ろを振り返り。
また少し歩いては立ち止まり、後ろを振り返ることを繰り返す。
空色髪の少女は、少しずつ開いていく2人の距離を埋めるように、2人の間を歩いた。
広い場所に出て、赤毛の少女の足がようやく止まった。
そこは陸上競技用のグラウンドがあった場所だった。
赤毛の少女は、手に持っていた小型端末の画面を見つめている。
その赤毛の少女の様子を、少し離れた場所で見つめる空色髪の少女。2人に遅れてやってきた少年は、崩れた建物の壁の側に尻餅をつくようにして腰を下ろし、抱えた膝に額を当てる。
赤毛の少女、式波アスカ・ラングレーは画面を見つめながら呟く。
「ここまで下がればオッケーか…」
踵を返すと、ツカツカと歩く。
蹲っている少年、碇シンジの前に立った。
シンジはすぐ側に立つアスカの気配に気づいているはずだが、顔を上げようとしない。
綺麗な渦を巻いているシンジのつむじを詰まらなそうに見つめていたアスカは、ふんと小さく鼻で息を吐くとその場に膝を折り、シンジへと手を伸ばした。
アスカの手はシンジの頬を掠め、耳を掠め、後ろ髪を掠め、そしてシンジが背負う背嚢へと辿り着く。背嚢のファスナーを開け、中へと手を滑り込ませる。暫く背嚢の中身をゴソゴソと探った後、目当てのモノを掴んだ手を背嚢の中から引っこ抜いた。
立ち上がり、再びシンジのつむじを見つめる。
アスカとの顔の距離が縮まり、アスカが背嚢に手を突っ込んでいる間も、微動だにしなかったシンジの頭。
アスカは再び鼻で息を吐くと、踵を返し、グラウンドの中央へと向かった。
背嚢から引っ張り出した拳大の機器を操作する。
つまみを捻って幾つかの設定をすると、最後に筐体の端っこにある出っ張りの先端を引っ張った。にょきにょきと棒状のアンテナが伸びる。
「さあて、鬼が出るか、蛇が出るか…」
願掛けでもするかのように呟きながら、一番大きなボタンを押した。機器からピピっと、控えめな電子音が響いた。
アスカは機器を地面に置くと、振り返る。
空色髪の少女と目が合った。
「さて、と」
腰に手を当てて、空色髪の少女を見る。
無造作に摘まれた短い髪。真っ白な肌を包む、真っ黒なスーツ。シンジとはまた別の意味で、無気力な赤い瞳。
そんな少女を、アスカは詰まらなそうに見つめながら口を開く。
「アタシはあんたを何と呼べばいいのかしら?」
問われ、空色髪の少女は一度だけ瞬きする。
やや間を置いて。
「…アヤナミレイ」
小さな唇が僅かに開き、小鳥の囀りのような掠れた声でぼそりと呟いた。
空色髪の少女の返答を聴き、アスカの眉が不愉快そうに捻じれる。
「悪いけど、アタシにとっての綾波レイはあんたじゃないの」
再び、空色髪の少女は瞬きを、今度はやや強めにぎゅっと瞬きをする。
背後を振り返り、蹲っている少年を見やった。
―――綾波じゃないのに…。
少年を見ている間に2回瞬きした空色髪の少女は、赤毛の少女の方に視線を戻した。
「ゼーレ供給の綾波タイプ。シリアルナンバー96」
相変わらず最小限の動きしかしない唇で、ぼそりと呟く。
ふんと、やや呆れ気味のアスカの溜息。
「96体目…か」
アスカの呟きに、少女はこくりと頷いた。
「あんたの前の95体のうち、アタシに…、赤いエヴァにやられたのは何体?」
「…52体」
「マリの…、ピンクのエヴァにやられたのは?」
「…13体」
事も無げに答える空色髪の少女に、アスカは今度は本気で呆れたような溜息。
「替えが効く命ってのも考えものね…。死んでも次があるって甘い考えしてるから、あんた達は何時まで経っても弱いまんまなのよ」
アスカは後ろ髪を掻きながら吐き捨てるように言った。
空の彼方から爆音が響いた。
「んじゃ、とりあえず96って呼ぶことにするわ」
アスカは「96」と呼ぶことにした少女の返事を聞くことなく、爆音が響く北の空へと目を向けた。
赤い大地とは対を成すような青い空。
その空に、染みのように浮かぶ黒い点。
その黒い点が少しずつ大きくなっていく。
アスカが発信した救難信号を辿ってきたのだろう。
大きなVTOL機が、アスカらが居るグラウンドへと近づいてくる。
アスカは機体を凝視しながら、少し前に呟いた同じ文句を繰り返す。
「鬼が出るか、蛇が出るか…」
徐々にはっきりと見えてくる機体。
「ちっ…」
アスカは舌打ちをした。
VTOL機の機体に大きくペイントされた文字。
『NERV』
それはアスカが敵対する組織の名前。
身を隠すべきか。
当然の考えがアスカの頭に過ったが、VTOL機の両脇に備えられた厳つい機関砲の砲口が正確にこちらに向けられていることに気付き、それは良策ではないと悟った。自分が逃げる素振りを一瞬でも見せれば、あの砲口が火を吹くだろう。
VTOL機は風を巻き上げながら地面に着地する。
アスカは肩幅に足を広げ、右手は暴れる髪を押さえつつ、左手は腰に当てるという堂々とした出で立ちで巨大な「敵」を迎えた。
VTOL機の搭乗口が開く。
短いタラップを伝って、一人の男が降りてきた。
黒いジャケット。
両目を厳ついバイザーで覆い、顎に髭を蓄えた男。
「…碇ゲンドウ…」
VTOL機から降りてきたのは碇ゲンドウ。
ネルフの最高司令官。
自分が所属する組織にとっての宿敵。
世界の破壊を企てた悪の巨魁。
空から現れた意外な人物に、一瞬呆けたような表情をするアスカ。
しかし次の瞬間には。
「碇ゲンドウ!!」
叫びながら走り出していた。
プラグスーツの隙間に忍ばしていた、小さなナイフを取り出して。
倒すべき敵。
14年前に世界を滅ぼしかけた人類の敵。
それが、自分の足で走れば10秒も掛からぬ場所で、無防備に立っている。
願ってもない好機。
手に握ったナイフを奴の喉元に突き立てれば、全てが終わる。
何度も血反吐を吐いたこの14年間の全てが報われる。
待ってて。マリ、ミサト、リツコ、みんな。
あと10歩で終わるから。
あと5歩で終わるから。
あと3歩を駆け抜ければ、明日からあたしは14年ぶりに心の底から笑うことができるだろうから。
耳を劈くような銃声。
遠くの空から爆音を轟かせる何かが近づいていたのは分かっていた。
その爆音を轟かせる何か巨大なものが近くに降り立ったのも分かっていた。
アスカが、自分の父親の名前を叫んでいるのも聴こえていた。
それでも頭を上げることはしなかった。
自分のすぐ傍の世界で、何が繰り広げられているか、確認しようとすらしなかった。
全てがどうでもよかった。
今更何が起ころうと。
あらゆるものに心を割くことを止めていたシンジがその銃声に顔を上げたのは、単にびっくりしただけの反射的な動きに過ぎなかった。
不意に視界に入ったもの。
青い空。
その下の、赤い大地。
赤い大地に降り立ったVTOL機。
赤い大地の上に立つ、父親。
そして。
赤い地面に伏した、赤のプラグスーツを着た少女。
アスカが、地面に倒れている。
左肩から、スーツよりも更に赤い血を流しながら。
シンジは目を真ん丸に見開きながら、ゆっくりと視線を銃声がした方向へと移動させた。
そこに立つのは黒のプラグスーツを着た少女。
自分の問いに「アヤナミレイ」と名乗った空色髪の少女が、拳銃を構えて立っていた。
彼女の細い腕には不釣り合いな厳つい拳銃。その銃口から立ち昇る煙。
銃口が指す方向には、地面に血の池を広げるアスカの姿。
「わああああああ!!」
シンジは訳も分からぬまま叫び、そして前のめりになりながら駆け出していた。
目指す先には、シンジの叫び声に少し驚いたような表情で振り返る、「アヤナミレイ」と名乗る女。
女の胸倉を両手を伸ばし、走ってきた勢いをそのまま女の細い体にぶつけた。
もつれるようにして地面に倒れ込む。
「なんで…!! どうしてアスカを…!!」
地面に組み敷かれ、苦しそうに目を細める女。
「僕たちは…!! 僕たちは仲間じゃ…!!」
違う。
自分が組み敷いているこの女は、あの少女ではない。
それは分かってる。
でも。
ああ、でも。
もう訳が分からない。
もう何も考えられない。
頭が真っ白になっていたため、それの接近に気付けなかった。
父親は興奮状態の息子の首筋に、スタンガンの電極を突き立てた。
首に焼け付くような痛み。
見上げると、父親が立っていた。
バイザーで覆われた目。それでも分かる。そのバイザーの向こうにある瞳は、こちらを一瞥すらしていない。
全身を襲う痺れ。
急速に視界が狭まる。
視線を右へ投げる。
地面に倒れたままのアスカ。
「ちくしょう…」
薄れゆく意識の中で、辛うじてその一言だけを絞り出して、シンジは前のめりに地面に倒れた。
ゲンドウはスタンガンをポケットにしまうと、VTOL機へと振り返った。
VTOL機から降り、周辺に散開していた数人の武装した兵士がゲンドウのもとに駆け寄ってくる。ゲンドウは兵士の一人と二言三言、言葉を交わす。
シンジによる拘束から解放され、咳き込みながら上半身を起こす空色髪の少女。自分の身体に覆いかぶさるように地面に倒れている少年の顔を見つめる。表情が怒りと憎しみで固まったまま意識を失っている少年の顔を。
視線を上げると、兵士に指示を終えたゲンドウがそのままVTOL機への搭乗口へと歩き始めていた。
遠ざかっていくゲンドウの背中をぼんやりと眺めていると、その背中を遮るように兵士の一人が立ち塞がった。
「立てるか?」
問われ、頷いて答える。
自分に覆いかぶさったままのシンジの身体をそっと横にずらし、立ち上がる。
視界が高くなり、再びゲンドウの方へと視線をやったが、彼の姿はすでにVTOL機の中へと消えていた。
足もとのシンジの顔を見つめる。
少しずつ意識が回復し始めているのか、時折呻き声を上げながら薄く瞼が開き始めていた。
シンジに押し倒された拍子に落としていた拳銃を拾い上げ、ボディバックの中に仕舞う。
そこで気付く。
ずっと手に持っていたはずのアレがない。
少女の顔に、珍しく焦りの表情が浮かんだ。
キョロキョロと周囲を見渡した。
そこら中の地べたに視線を這わす。
幸いにも、それはすぐに見つかった。
少女は小走りで地面に転がるそれのもとに行く。
黒い筐体。
携帯音楽プレイヤーを拾い上げる。
プレイヤーに付いた泥を、手で丁寧に払い落とす。
プレイヤーを両手で包み、胸に抱きしめる。
背後で音がした。
振り返ると、回復したシンジが両手を地面に付いて起き上がろうとしていた。
電撃が駆け抜けた四肢が未だに戦慄いている。視界の端々で火花が散っている。
睨んでいた地面に人の影の形が現れた。
顔を上げる。
シンジの顔を覗き込むようにして、空色髪の少女が立っていた。
その右手を、シンジの方へと差し伸べて。
未だに朦朧としているシンジは、少女の顔と手を交互にぼんやりと見つめた。
薄闇に囲まれていた視界が、少しずつ広がっていく。
見覚えのあるプレイヤーを胸に抱き締め、手を差し伸べてくる少女。
その肩越し。
視界の隅に、兵士の一人に肩に受けた銃創の治療を受けているアスカの姿。
「アスカ!」
起き上がるのを手伝おうと手を差し伸べていたら、少年は突然叫んで自力で起き上がると駆け出した。
駆け出した拍子に少年の肩が少女の胸に当たり、少女は短い悲鳴を上げながらその場に尻餅をつく。その拍子に少女の手からプレイヤーが零れ落ち、地面に転がり落ちてしまう。
少女は血相を変えてプレイヤーまで這い寄ると、それを拾い上げ、それがまるでこの世界の何ものよりも貴重な宝物であるかのように、ぎゅっと抱きしめた。
抱きしめながら、視線を少年が走り去っていった方へと向ける。
「アスカは! アスカは助かるんですか!」
シンジに詰め寄られた兵士は、アスカの腕に輸液用の針を刺しながら答える。
「止血は出来た。おそらく大丈夫だろう」
近くに立つ兵士2人が話している。
「ヴィレに対し、捕虜は不要となっていたはずだが」
「あの女は別だそうだ。このまま本部へ連行する。おい」
兵士の一人が、地面にぺたんと座り込んだまま、胸にプレイヤーを抱き締めている少女に声を掛ける。
「貴様もさっさと乗れ。出発する」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「以上が13号機から回収したデータを解析して得られた本作戦の顛末だが」
無駄にだだっ広い上に必要最低限の照明しかない薄暗い部屋で、冬月コウゾウは年々視力が落ちる目を細めながら手に持ったタブレット端末の画面を睨んでいた。表示されていた文書を読み上げ終えると、視線を部屋の端に立つ少年へ向ける。
「これが正しければ本作戦が我々が望む形と少々異なる形で結末をみたのは、葛城大佐の妨害行為以上にゼーレの少年の叛意によるもの大きい。つまりゼーレの少年が我々を裏切ったということになるが。…何か異論や他に付け加えるべき報告はあるかね?」
学生服に着替えた姿でこの部屋に入ったシンジは、冬月が長ったらしい話しを息をしていることすら怪しくなるほどに微動だにせず聞いていた。
しかし冬月が言ったその言葉に、シンジの拳がぎゅっと握られる。
裏切った?
誰が?誰を?
そもそも僕たちを裏切り続けているのはお前たちじゃないか。
腹の底で滾ったそんな言葉は口には出さない。また冬月の質問に対しても返事せず、シンジの口から出たのは。
「アスカは?」
腹の中の滾りを抑え込み、努めて平坦な声で話す。
「アスカは無事なんですか?」
冬月は少年の態度に諦めたように目を閉じる。
「彼女は順調に回復に向かってるよ」
「会わせて下さい」
「彼女は我々の敵。我々に最も損害を与えてきたヴィレのパイロットだ。君と会わせる訳にはいかんよ」
我々?
その我々には僕も含まれているのか?
だったら笑えないジョークだ。
視力の落ちた冬月の目から見ても、少年の眉間に深々と溝が刻まれたのが見て取れた。冬月は軽く手を上げる。
「もういい。次の命令が出るまで待機を命ずる」
部屋から出ると、黒いスーツを身に纏った少女が立っていた。
只でさえ寄っていたシンジの眉根の皺が、さらに増え、深くなる。
少女は、涼やかな顔でシンジの顔を見つめ返してくる。
いつもと変わらない少女の表情。まるで思考というものを持たない、ロボットのような立ち振る舞い。
「なぜ…」
気が付けば低い声で。冬月の前では抑えることができていた腹の底の滾りを、少しばかり漏らした声で問うていた。
「なぜ、アスカを…撃ったの?」
少女は一度だけ目を瞬かせる。
やや間を置いて。
「碇司令に危害を加えようとしていたから…」
予想以上でも、以下でもない返答。
シンジは歯ぎしりをした。
「じゃあ、僕が父さんを襲おうとしたら、君はやっぱり僕を撃つの?」
少女は2度ほど目を瞬かせる。
瞳を泳がせた後、視線を床に落とした。
「…分からない」
ロボットどころではない。
自分では何も決められない。判断できない。
ロボットの方がまだ賢く、融通が利く。
これではロボット以下だ。
シンジはこれまで何とかねじ伏せてきた衝動をもはや抑えることはできなかった。
ツカツカと、少女の近くまで歩み寄る。
急に少年の顔が鼻先まで接近し、少女は驚いて後ずさったが、その背中はすぐに廊下の壁へ突き当たった。
少年は少女の赤い瞳を睨んだままその手を、廊下の壁で逃げ道を塞がれた少女の体へと伸ばす。
伸ばされた少年の手に、少女は怯えるように肩を竦ませる。
少年はそんな少女の様子に、しかし少しも躊躇わずに少女の胸に手を伸ばす。
少年の手は少女がずっと大事そうに胸に抱き締めていた携帯音楽プレイヤーをむんずと掴み、奪い取った。
そしてそれを壁に向けて乱暴に投げ付けてやった。
カタン、カタン、と硬い音を立てて床に転がるプレイヤー。
それを目で追っていた少女は、身を捩って少年から離れると、床に膝を付いてプレイヤーを拾い上げる。大切な大切な宝物を守るように、筐体の所々が欠けてしまったプレイヤーを抱き締める。
少女の背後で、シンジはすでに少女に背中を向けて廊下の奥へと歩き出していた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
浮上し始める意識。
意識がはっきりするに連れ、まずは自分はベッドらしきものの上に寝かされていることに気付いた。
背中とお尻でベッドの感触を確かめているうちに、自分が素っ裸にされていることに気付いた。
視界が明るくなっていく内に、天井には強烈な光を放つ照明器具がぶら下がっていることに気付いた。
どこかで見たような光景。
そう。例えば、ヴンダーの娯楽室で鑑賞した医療ドラマに出てくる手術室のような…。
「撮影開始」
「よし。ではこれより検体甲の調査を開始する。検体甲は14年前、使徒の浸食を受けながらもなお人としての姿を留め、人間としての自我を保ったままでいる極めて希少な例である。すでに画像検査、血液検査は終了。これから行う調査により、検体甲に秘められた特異性についての更なる解明に期待したい」
「KT39.2、パルス104。いずれも人の平均値を上回っています」
「左肩の銃創はすでに塞がり始めている。驚異的な回復スピードだ」
「眼帯はどうしますか?」
「念のためそのままで。では解剖を始めよう。まずは開腹から。メスを…」
「じょ・う・だ・ん・じゃないわよ!!」
アスカはそう叫びながら右拳を解剖台の脇に立つ、手術着姿の男の顔面に突き出そうとした。
しかし突き出そうとしたその右拳の手首には黒いベルト。ベルトは解剖台にしっかりと固定されている。そのベルトは解剖中に被検体が万が一覚醒し、加減なしに暴れてしまったとしても、その体を解剖台に縛り付ける極めて強力な拘束帯。たとえ被検体がクマだろうが、ゴリラだろうが、解剖台から逃すことはない強固な鎖。
の、はずだった。
「ぐおっ!?」
手術着の男のくぐもった声。
拘束帯をまるで紙切れのように引き千切ったアスカの右拳は、見事に手術着の顔面に炸裂する。手術着の男はまともに悲鳴を上げることすらできず、奇妙な呻き声を残してその体は部屋の隅っこまで吹き飛んでしまった。
部屋の隅っこまで吹き飛ばされ、顔は間近で砲弾でも浴びたかのように陥没し、首が捩じり切れている手術着の男。それを茫然と見つめる、解剖台を囲んでいたその他の手術着の面々。
再び解剖台に目を向けた時には、被検体は左手の拘束帯も引き千切っていた。
「ば、馬鹿な!ゾウでも丸3日は起きない量の麻酔を投与したはずだぞ!」
手術着の一人が叫ぶ。
「人間と使徒のハイブリットを舐めないでよね!」
アスカは右足の拘束帯を千切り様に、振り上げた右足のつま先を手術着の一人の顎に向けて突き上げてやった。顎を砕かれた体は勢いそのままに宙へと浮き上がり、頭は天井を突き破る。
両手・両足・体幹全ての拘束帯を引き千切り、自由になったアスカは、解剖台からジャンプ。
アスカのすらりとした足が着地した場所。
人の背丈はありそうな程の、大きなガスボンベ。ボンベのラベルには「医療用酸素」の文字。
ボンベの口に繋がれたチューブを引き千切り、バルブを全開まで回す。
シューっと圧縮された空気が勢いよく吐き出され始める。
抜群のバランス感覚でボンベの上に立つアスカは、解剖台の周囲で固まってしまっている手術着の面々を見た。
歯を見せて笑う。
その手には、解剖台側の台に置いてあった医療用ハンマー。
解剖室の中に居る、アスカ以外の全員の体に戦慄が走った。
アスカは、ガスを吐き出し続けるボンベの口に向かって、握ったハンマーの先端を力いっぱい振り下ろす。
ハンマーの先端がボンベの口に接触し、小さな火花が瞬いた。