勝手にシン・エヴァンゲリオン   作:hekusokazura

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第壱拾話

 

 

 

 

「もう。ホントにあたしの言ってること分かってんのかしら」

 

 彼女はちょっと困ったような表情をしながらも、顔は笑顔。

 その彼女の笑顔が、自分の頭に被せられていくものによって見えなくなっていく。

 ちょっと怖かったけれど。

 でも目の前の彼女は笑顔だから。

 頭には彼女からもらったへんてこなものを乗っけてもらったから。

 だからきっと大丈夫。

 彼女の顔が見えなくなるのは嫌だけど。

 暗闇の中は怖いけど。

 彼女が笑ってくれているから、我慢していよう。

 

 真っ暗になる。

 何も見えなくなる。

 顔に被せられた何かによって、自分の息遣いが酷く大きく聴こえる。

 

 近くで彼女がごそごそと何かをやっている。

 彼女が立てる足音。

 彼女の足音が遠ざかる。

 

「どっせえええーー!」

 

 彼女の奇妙な叫び声と共に、何かが破壊され、崩れる音。

 

 その崩れる音と共に。

 

 彼女の気配が無くなった。

 

 

 

 彼女の気配が消えると共に。

 

 ドン!!

 

 今度は別の方向から激しい物音が轟き、何かが崩れる音。

 何かが崩れる音に続けて、何かが大量に室内へと雪崩れ込んでくる音。

 どどど、と幾つもの、大量の足音。

 大量の何かが、室内を這いまわっている。

 色んなものを被せられた自分の体の上も、大量の何かの足が踏みつけていく。

 

 怖かった。

 すぐにでも泣き叫びたかった。

 ここから飛び出してしまいたかった。

 

 でも、見つめる漆黒の闇に、彼女の笑顔を思い浮かべて。

 心の中に、彼女の声を思い浮かべて。

 

 ―――あたしも最後まで頑張るから…

 

「…あう…あう…」

 

 ―――あんたも頑張るのよ…

 

「…あん…あう…」

 

 どどど、と激しい大量の足音。

 

「…あん…ある…」

 

 大量の何かが動き回り、そこかしこを破壊する音。

 

「…あん…ばる…」

 

 大量の何かの足に、何度も何度も体を踏みつけらる。

 

「…がん…ばる…」

 

 それでも動かなかった。

 

「…がん…ばる…」

 

 本当に怖くて堪らなかったけれど。

 

「…がん…ばる…」

 

 動かなかった。

 

 

「…がん…ばる…」

 

 

 もしかしたらこの世に生まれ落ちてから初めて使ったかもしれない、自制心というものを総動員させて。

 

「…がん…ばる…」

 

 その4文字をまるで呪文のように繰り返し呟きながら、じっと嵐が過ぎ去るのを待った。

 

「…がん…ばる…」

 

 待ち続けた。

 

 

 

 

 

 嵐は過ぎ去った。

 大量の何かの足音はやがて消えて、気配も無くなった。

 

 それでも、「慎重さ」というものを手に入れていた「それ」は、嵐が過ぎ去ってからも動かなかった。

 じっと、じっと。

 息を潜めて。

 

 

 嵐が過ぎ去ってから、一体どれだけの時間が経ったのか。

 自制心と慎重さを駆使して、まるで石にでもなったかのように動かなかった「それ」だが、ずっと座り続けた所為で発生したお尻の痛みまでは、さすがに我慢しきれなくなってきた。

 

 足をばたつかせてみる。

 足に被せられたトタン板。石や木材で固定され、なかなか動かない。

「うぅ! うぅ!」

 しかし「それ」が何度も足をばたつかせている内に、トタン板の上に乗った石や木材がずれ落ちていく。そして、

「あう!」

 蹴られたトタン板が跳ね、その下から泥だらけのほっそりとした足が現れた。

 「それ」は今度は自由になった両足の膝を伸ばし、地面から踵を浮かせ、つま先を高く上げた。そして、

「うーう!」

 掛け声と共に勢いをつけて両足を一気に下ろす。

 その反動に上半身が引っ張られ、上半身を覆っていたブルーシートとそれを固定していた石や木材がばらばらと崩れ落ちた。

「うー! うー!」

 両腕も片方ずつ、引っ張り出す。

 ゴミの山から現れる、ほっそりとした手足。泥だらけの制服。ようやく全身が外に出た。

 せっかく全身が出たのに、視界は真っ暗闇のまま。

 もしかしたら我慢して我慢して待ち過ぎてしまって、夜になってしまったのかもしれない。

 

 「それ」はおっかなびっくり立ち上がると、両手を前に突き出しながら暗闇の中をゆっくりと歩き始めた。

「あうっ」

 裸足の裏が時折硬い石やらコンクリート片を踏む度に、「それ」は小さく悲鳴を上げる。それでも頭を、肩を、腕を、足を、ぶるぶると震わせながらも、「それ」はゆっくりと歩き続ける。

 歩き続けて。

 

「あう!」

 

 右足が何かに躓いてしまい、「それ」は盛大に前のめりに転んでしまった。

「うぅぅぅ…」

 思いっきり顎を打ってしまい、「それ」はすぐにでも泣きそうになったが、覚えたばかりの「我慢」を発揮させ、下唇をぐっと噛んで堪えた。

 

 転んだ拍子に、被せられていた段ボール箱が頭から外れ、地面の上を転がっていく。

 急に開けた視界。「それ」の視覚を刺激したのは茜色の光。

 「それ」の前には、夕暮れ前の赤く染まった空が広がっていた。

 

「おぉぉぉ…」

 擦りむいた膝を押さえつつ、「それ」はゆっくりと立ち上がる。

 西に大きく傾いた真っ赤な太陽を、ぼんやりと見つめた。

 しばらくぼんやりと見つめていて、そしてはっとして。

「あぁ…あぁ…」

 周囲をきょろきょろと見渡し始める。

 「それ」が這い出た建物の周辺に広がるのは、赤い砂に埋もれた廃墟の街。

 無言で佇む鉄とコンクリートの塊以外、何もない。動くものは、何もない。

 夕暮れ前の茜色の日差しに晒され、余計に禍々しく映える、赤褐色の世界。

 時折強い風が吹き、ブラウス一枚の「それ」の体を冷たく撫でる。

 「それ」は自身の両腕を抱き締めながら、危なっかしい足取りで歩き始めた。

 

 地面には無数の足跡。

 とぼとぼと歩きながら、足跡を辿っていく。

「あぁ…」

 時折声を上げて、周囲から反応がないか確かめてみる。

「あぁ…」

 砂に埋もれ、高い建物もない廃墟の街並みは、音の反響も薄い。

「あぁ…」

 「それ」が上げる声は、静かに虚空へと吸い込まれていく。

 

 足跡を辿って歩き続けて。

「うぅ…」

 ついに「それ」は廃墟の街から出てしまった。

「うぅ…」

 眼前に広がるのは、一面の砂。

 砂の向こうに見えるのは、遥か遠くの地平線。

 砂と空と雲と大きく西に傾いた太陽以外、何もない。動くものは、何もない。

 

 「それ」は怯えたように肩を竦ませると、後ろを振り返った。

「うぅぅ…」

 後ろにあるのは、薄闇に包まれた廃墟。

 

 太陽を見て、廃墟を見て。

 そして最後に地面の上の無数の足跡を見て。

 

 その足跡は、まっすぐに太陽の方へと伸びている。

 

 

 「それ」は廃墟を背にした。

 そして走り始める。

 無数の足跡を辿って、走り始めた。

 

「あぁぁぁ…」

 まるであの人の髪の色のような、太陽の光に向かって。

 

「うぅぅぅ…」

 裸足で懸命に砂を蹴って。

 

「あぁぁぁ…」

 両腕を思いっきり振って。

 

「あぁぁぁ…」

 太陽に向かって。

 

「うぅぅぅ…」

 走って。走って。

 

「くぁぁあ…」

 走り続けて。

 

 

 ドン、という音と共に、前から突然の突風。

 

 

 「それ」は強烈な突風に吹き飛ばされて尻餅をつき、そのまま地面の上をコロコロ転がっていく。

 砂の上をコロコロ転がって、ようやく止まって。

 

「あぁぁ…」

 

 「それ」は定まらない視点に頭をふらふらさせながら、突風が吹いてきた方を見やる。

 

 奇妙なものが2本。

 とても大きなものが2本、にょきっと生えていた。

 やたらと大きな2本の柱はとても「それ」の視界の中には収まり切らず、「それ」は2本の柱の先端を追って視線を上げていく。2本の柱は途中でくっつき合い、一本に纏まった。纏まった先もまだまだ天に向かって伸びており、その先端を目指してどんどん顎を上げていく「それ」はついに、

「あうっ」

 ひっくり返って地面に倒れてしまった。

 地面に仰向けになって空を見上げる形となり、ようやく突然目の前に現れた2本の巨大な柱の全体像が見えるようになった。

 

 2本の巨大な柱の正体は、大きな足だった。

 

 それは巨人。

 

 突然目の前に現れたのは、巨人。

 天から飛び降りてきた巨人。

 太陽を背にして立つ巨人。

 漆黒の巨人。

「おぉぉぉ…」

 巨人を見上げる「それ」は、恐怖とも感嘆ともとれる呻き声を漏らした。

 

 

 暫く仁王立ちで「それ」を見下ろしていた巨人は、左足を半歩ほど後ろに下げ、腰の位置を降ろしていき、左膝を地面に付けた。巨大な左膝が地面に付いた衝撃で巻き上がった砂塵に、「それ」は咄嗟に目を閉じ、激しく咳き込む。

 地面に跪く形となった巨人は、まるで「それ」に対してかしづくかのように、こうべを垂れた。

「わうっ」

 砂塵が止み、薄く目を開いた「それ」は、目の前に迫っていた巨人の顔にびっくりしてしまう。

 

 

 「それ」が地べたで呻き声を上げている一方で、巨人の背部では変化が起きた。巨人の背部を覆う装甲が開き、そこから一本の棒が天に向かってにょきっと突き出る。

 その棒の上部が開いた。

 開いた場所から、すらりとした人影が出てくる。

 その人影は棒の先端から飛び降りると、巨人の肩に着地。そこからさらに巨人が地面に立てた右膝へと飛び移る。

「よっと」

 最後に小気味よい掛け声と共に、人影は地上へと飛び降りた。

 

 「それ」が倒れている場所から10メートルほど離れた場所に降り立った人影。太陽を背に跪く巨人同様、その人物も陰になっており顔は見えない。

 

「はーい、ゼーレのパイロットさん」

 

 その厳つい風貌の巨人から降りてきた人物のものとは思えない、軽やか声が「それ」に向けて投げ掛けられた。

「なーにそんな所ですっ転んでんのかなー? って、え? なに? 下半身すっぽっぽんじゃない。わーお、扇情的ぃ~」

 おどけた口調で、と言うよりもどこか芝居じみた口調で言いながら、その人影は「それ」の近くへゆっくりと歩み寄っていく。

 近づいてきて、ようやく「それ」の位置からも人物の顔がはっきりと見えるようになった。

「え? 何があったの? 追い剥ぎにでもやられた? 気の毒ぅ~」

 背中まで伸びた栗色の髪を2つにまとめ、メガネを掛けた女性。

「ところでさ、ネルフのパイロットさん」

 ピンク色の奇妙なスーツを着た女性は、「それ」の前に立つと両手を腰に当てて仁王立ちする。

「この辺でうちの姫を見なかったかな? 髪が赤くて、スタイル抜群で、まあ、おっぱいはちょこーっとちっさめだけど、それがまた可愛いんだよねー。顔は間違いなく美人ね。んで性格はちょこーっとキツめなんだけどさ、ちょこっと突いてやればあっさりデレる、こんな時代でも地でツンデレやってるような可愛い~いコなんだけど」

 一方的に喋る女性を、ぼんやりと見上げる「それ」は。

 

「あぁぁ…」

 

 ただ呻くだけだった。

 

 そんな態度の「それ」に、女性は溜息を漏らす。

「えっと…。一応さ、こっちはそのコが出す信号はキャッチしてるんだ。だからそのコがこの近くに居るってことはこっちも掴んでるわけよ。だから隠し立てしても意味ないと思うんだ…けど?」

「あぁぁ…」

「うん。ごめん。正直今の私、ちょっと余裕ないんだわ。あんたの遊びに付き合ってる暇なんてないんだけど。さっさと早く白状してくんない?」

「あぁぁ…」

「言ってる意味分かんないかな~…」

「あぁぁ…」

「何? それで時間稼ぎしてるつもり?」

「あぁぁ…」

「ねえ」

「あぁぁ…」

「早く答えて…」

「あぁぁ…」

 

「答えろってゆったら答えろよ!!」

 

 激昂する女性は腰に巻いていたベルトのホルスターから拳銃を引き抜き、その銃口を「それ」に向ける。

「あぁぁぁ!」

 突然怒鳴り声を上げた女性にびっくりして、「それ」も反射的に大きな唸り声を上げた。

 

「ふざけんな! バカにしてんのか!」

 

 女性は、唸り声を繰り返すだけの「それ」と、まったく同じ顔をした「これ」と対峙するのはこれが初めてではなかった。敵対組織との10年以上に渡る戦争の中で、戦場で幾度となく遭遇してきた。同じ顔をした「これ」を巨人の足で踏み付けてやったこともあったし、同じ顔の「これ」の顔面に、直接銃弾を撃ち込んでやったりしたこともあった。

 

 遭遇する度にイライラする。

 揃いも揃って、みんな同じ、死んだ魚のような目をしやがって。

 それにしたって、今日のこいつの死んだ魚具合は度が過ぎている。

 なんだ、この知性の欠片も感じられないような目は。

 その顔で。

 「あの人」とおんなじ顔で、そんな呆けた目をすることは、女性にとってはとても許容し切れないものだった。

 

 普段は人を食ったような態度で飄々と過ごしている女性だが、この時は腹の底から湧き上がる怒りに突き動かされるままに感情を発露させている。本人が言うように、余裕のない顔で「それ」に迫った。

「言え!! 姫はどこ!! アスカはどこにい……」

 

 女性の声が萎んでいく。

 女性の視線が、ある一点に注がれる。

 女性の視線が注がれる先。

 目の前で大の字で倒れている「それ」の頭部。

 泥まみれの髪の隙間から覗くものに。

 

「え? ちょっと…。え? ごめん…。それ、何の冗談?」

 泥まみれの髪の隙間から覗く、赤いもの。

「やめてよ…。その冗談はちょっとキツいわ…」

 それは女性の同僚が、いつも身に付けていたもの。片時も離さなかったもの。

「何したのよ…」

 「それ」にさらに歩み寄った女性は、「それ」の腰を跨ぐ形で立ち、「それ」を見下ろす。

 

「お前!! アスカに何したの!!」

 

 銃口を、「それ」の額に突き付けた。

 

 

 拳銃を突き付けられているというのに。

「あぁぁぁ…」

 「それ」は相変わらずぼんやりとした表情のまま呻くだけ。

 

 何かおかしい。

 初めて「それ」を見た時から、女性は「それ」が今まで会ってきた同じ顔の「これ」と、どこか様子が違うことには気付いていた。

 でも、今はそんなことはどうでもいい。

 今、重要なことはそんなことじゃない。

 こいつが何であろうと、どんな状態であろうと、今は知ったことではない。

 今、大切なことは、同僚の安否のみ。重要なことは、その一点のみ。

 駄目だこいつは。

 今も、拳銃を突き付けられているのに、自分の命を他者に握られているというのに、何の意思も示さない。周囲のなすがまま、なされるがまま。生命として最低限の自己保存に対する欲求すら見せない。長きに渡って死に物狂いで戦い続けてきた女性にとって、一番癇に障る態度。

 

 もういい。

 こいつとの問答にこれ以上時間を割く必要はない。

 そしてこの戦争において、ヴィレは敵対組織の捕虜を認めてはいない。

 

「もういいわ。アスカは自分で捜すから…」

 引き金に人差し指を掛ける。

 

「どうせ死んでもまたすぐ復活しちゃうんだよね?」

 引っ掛けた人差し指に力を籠める。

 

「んじゃね。また会いましょ。それまでバイバイ」

 引き金を、目一杯引き絞る。

 

 

 引き絞ろうとして。

 

「あぁぁぁ……」

 それまで地面に大の字に倒れたままだった「それ」。銃を突き付けられても、ただ唸るだけでなんの動きも見せなかった「それ」。

 「それ」の腕が、少しずつ上がっていく。腕が、少しずつ女性の顔へと伸ばされていく。

 

 引き絞る寸でのところで引き金に掛ける人差し指の力を弱めた女性。

 目の前の「それ」が、その両手を自分の顔へと伸ばしてくる。

 ここに来て、初めて唸る以外の反応を見せた「それ」。

 女性はすぐにでもこいつを殺害して同僚の捜索に戻るべきだったが、「それ」が見せる反応がどのような方向へ向かうのか興味を持ってしまった。例え「それ」の手が反抗を示したとしても、例えば「それ」の手が自分を殴ったり自分の首を絞めようとする素振りを少しでも見せたら、その前に拳銃の引き金を絞り切ってしまえばよいだけのこと。こんなのろまな相手であれば、どんな状況からでも殺害することは容易いことだ。

 30秒だけ与えてやろう。

 女性は「それ」の額に銃口を押し当てたまま、「それ」の手の動きの行方を見守った。

 

 「それ」の両手はゆっくりと女性の顔へと近づく。手はやがて女性の顎の先を掠め、頬に触れ、耳を撫で、髪を梳き。

「は?」

 「それ」の手がとった意外な動きに、女性は思わず調子の外れた声を漏らしてしまった。

 「それ」の両手は女性の頭に乗っかったものを両手で挟み込むと、そっと持ち上げた。

 目的のものを手に入れた「それ」は、今度はその手をゆっくりと自分の胸の方へと引き寄せる。

 

 自分の頭に付けていたヘッドセットを「それ」に奪われても、まだ女性は拳銃の引き金を引き絞らなかった。「それ」がヘッドセットを壊そうとする動きを少しでも見せた時に撃ってしまえば、十分に間に合うだろうから。

 

「あぁぁ…」

 手にした紫とピンクのヘッドセットを見つめる「それ」。

 そのヘッドセットを左手のみで持つと、空いた右手を今度は「それ」自身の頭に伸ばす。「それ」の頭に乗っかっていた、赤いヘッドセットを外し、顔の前に持ってくる。

 赤い色のヘッドセットと。紫とピンクのヘッドセットとを。

 交互に見比べる「それ」。

 両手ずつに持った、色は違うけれど、形はそっくりなもの。

 「それ」の目が2つのヘッドセットから外れ、女性の顔に向けられる。

 

 

 すでに心の中で決めた30秒は過ぎた。それでも女性は、まだ引き金を絞れないでいる。「それ」がとる意味不明な行動がどんな結末に辿り着くのか、興味を持ってしまったからだ。もうあと30秒だけ待ってやろう。そう心に決めてしまった。

 

 そしてこちらを見つめ返してきた「それ」の顔を見て、女性は自身の眉根に何本もの皺を寄せることになる。

 

 女性を見上げた「それ」は、途端に顔をしわくちゃにさせて、目に大粒の涙を浮かべ始めたのだ。

 

「あぁぁぁ…!」

 一際大きな唸り声を上げながら、「それ」は両手にそれぞれヘッドセットを持ったまま、女性の拳銃を握った手を両手で包み込む。

「あぁぁぁ…!」

「……」

「うぅぅぅ…!」

「……」

「あぁぁぁ…!」

 

 ひたすら唸り声を上げる「それ」。

 意味が分からず、女性はただただ困惑の表情を浮かべるのみ。

 

「あぁぁぁ…!」

「何…?」

「うぅぅぅ…!」

「何なのよ…、一体…」

「あぁぁぁ…!」

 

 今までのどこかぼんやりとした表情とは明らかに違う、「それ」の必死の形相。明確な意思が込められた、「それ」の行動。

 

「あぁぁぁ…!」

「はあ?」

「うぅぅぅ…!」

「何よ」

「あぁぁぁ…!」

「何が言いたいのよ?」

 

 心に決めていたもう30秒もすでに経過したにも関わらず、女性は引き金を引くどころか、引き金から人差し指を離してしまっていた。

 

「あぁぁぁ…!」

「ああ?」

「うぅぅぅ…!」

「うう?」

「あぁぁぁ…!」

「ああ?」

 

 そして「それ」が繰り返す、明確な意志が込められた唸り声を解読しようと試みている有様である。

 

「あぁぁぁ…!」

「……」

「すぅぅぅ…!」

「……」

「くぅぁあ…!」

「……」

 

 「それ」の額から銃口が離れる。

 

「あぁぁぁ…!」

「……」

「すぅぅぅ…!」

「……」

「かぁぁぁ…!」

「……」

 

 女性は拳銃を握った腕を、だらんと下げた。

 

「あぁぁぁ…!」

「……」

「すぅぅぅ…!」

「……」

「かぁぁぁ…!」

「……」

 

 「それ」の顔を、呆然と見つめる。

 

 

「あぁぁぁ…!」

 

「すぅぅぅ…!」

 

「かぁぁぁ…!」

 

「たぁぁぁ…!」

 

「すぅぅぅ…!」

 

「けぇぇぇ…!」

 

「てぇぇぇ…!」

 

 

 

 

 

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