勝手にシン・エヴァンゲリオン   作:hekusokazura

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第壱拾参話

 

 

 時計はすでに約束の時間を指している。

 アスカは「それ」にワンピースタイプの検査衣を着せると、その両肩にぽんと手を置いた。

「あぁぁぁ…」

 柔らかく微笑む「それ」。

 アスカは両手を「それ」の肩から腕へとするすると滑らせ、そして最後に「それ」の手を握る。

「じゃ、行きましょうか」

「あう」

 2人は手を繋いだまま部屋を後にした。

 

 最初は肩を並べて歩いていた2人だが、扉を越える度に狭くなり、そして暗くなる廊下に、あからさまに怯えの表情をその顔に宿す「それ」は、アスカの背後に回りアスカが着るシャツにしがみ付きながら歩いた。

 最後の扉の向こうに現れた赤い光に満たされた部屋に足を踏み入れた2人。最初に飛び込んで来たのは、部屋の中央に収まる巨大な赤い球体だった。大きな目ん玉に睨まらているようで「それ」は益々体を縮こませてアスカの背中に隠れてしまったが、見慣れているアスカはそのままスタスタ歩みを進める。

 球体の周辺には様々な機材が配置され、その機材に繋がれた端末のキーボードを赤木リツコの10本の指が忙しなく叩き、その隣でも伊吹マヤがリツコの指と遜色ないスピードで端末を操作している。鈴原サクラはそんなリツコとマヤの側にあるテーブルに淹れたてのコーヒーのカップを置き、少し離れた場所では葛城ミサトが巨大な球体を静かに見上げている。

「なに? あんたたち4人だけなの?」

 これから行われる実験の規模と重大性に比して、あまりにも少な過ぎる人員。リツコは端末の画面を見つめたまま答える。

「極一部の乗員にしか知らせてないのよ。余計な不安を与えてしまいたくないから。実験プログラムはオートメーション化されているから、オペレーションは私たち2人で事足りるわ」

「そっ」

 リツコは右中指で最後のキーを押し、隣のマヤを見る。リツコの視線を受け、マヤは大きく頷いた。リツコは頷き返すと、球体の前のミサトに視線を向ける。

「艦長。被検体が到着しました。いつでも始められます」

 ミサトは球体から視線を外して振り返った。

「結構。進行については赤木副長に一任します」

 そう短く答え、ミサトは球体から離れると、リツコが座るコンソールから数歩後ろに置かれた椅子に腰を下ろし、サクラから湯気が立ち昇るカップを受け取る。

 

「アスカ。それを被検体の首に」

 リツコはコンソール側の台を指さす。アスカは台に置かれた金属製の首輪を手に取った。それは、以前にミサトが碇シンジの首につけたものと同じもの。

「レイ、ちょっとごめんね」

 首輪を開くと、「それ」の首に回し付け、首の後ろで留め金を留める。

「うぅぅ…」

 首を絞めつけられる感触に、ちょっと不快そうに眉根を寄せる「それ」。アスカは苦笑いする。

「あんたには必要ないものだとは思うんだけどね。あっちの怖い大人たちがうるさいからさ」

 

 アスカの言う怖い大人たちの片割れは、後ろで座っているもう一人の怖い大人に手を伸ばす。

「ミサト、これ」

 リツコはミサトに首輪の起爆装置を渡そうとした。

「やめとくわ」

 ミサトは頭を横に振り、起爆装置の受け取りを拒否する。

「私には前科があるからね」

 ミサトの言う前科とは、あの少年がネルフに自ら攫われた一幕のことを言っているのだろう。

「そう」

 リツコは短く答え、起爆装置を自身のジャケットのポケットの中に入れた。

 

「じゃあ、アスカ。被検体をあのカプセルの中へ」

 アスカはリツコが見つめる先に視線をやる。

 巨大な赤い球体の前には、円筒形のカプセルが頭を球体の方に向けて寝かされていた。

「レイ、行きましょう」

 「それ」の手を引き、カプセルに向かって歩き始める。

 

 カプセルの前に立つと、圧縮空気が吐き出される音と共に、ガラス張りのカプセルの上半分が浮き上がった。急に動き出したカプセルに、ようやく赤い部屋の中の空気に慣れてきた「それ」はびっくりして、またもやアスカの背中の後ろに隠れてしまう。カプセルの上半分はそのまま静かに下へとスライドしていく。

 「それ」は恐々とカプセルの中を覗き込む。カプセルの中は、人一人が横になることができる程度のスペースがあった。

 アスカはリツコに向けて言った。

「服は脱がせた方がいいのかしら?」

「いいえ。そのままで結構よ」

「そっ。ねっ、レイ」

 「それ」を見つめるアスカ。

「あう?」

 カプセルの中を不安げに見つめていた「それ」は、声を掛けられゆっくりとアスカに向き直る。

 アスカはカプセルの中を指差す。

「この中に寝てちょうだい」

 アスカのその指示に、しかし「それ」は。

「うぅうぅうぅ!」

 物凄い勢いで首を横に振り始めた

「いーーーやーーーー!」

「大丈夫よ。ほら、何にも怖いものなんてないでしょ?」

 そう言いながら、アスカは右手をカプセルの中に入れてみせる。

「ううぅぅぅ……」

 「それ」はカプセルの中でひらひらと揺れるアスカの右手を、不安を色濃く宿した表情で見つめる。涙ぐんだ目でアスカを見た。

「あーすーかー…?」

「こんな狭くちゃ2人は無理よ。あんた一人で入るの」

「いいいいやああああ!」

 「それ」は叫びながらアスカに腕を伸ばし、その胴体にしがみ付いてきた。

「ちょ、ちょっとレイ!」

 困ったように「それ」の体を抱きとめるアスカ。「それ」はアスカの腕の中で、足をじたばたさせ始める。

「鎮静剤が必要ならすぐに用意できるけど?」

 背後からリツコの冷たい声が飛んでくる。

「ちょっと待ってよ。ね? レイ。お願いだから言うこと聞いて」

 アスカは出来うる限りの優しい声で語り掛けながら、「それ」の顔を覗き込む。

「やああああああ!」

 しかし腕の中の「それ」は目をぎゅっと閉じたまま、アスカの方を見ようともしない。

「ねえレイ。お願いよ」

 アスカは辛抱強く声を掛け続ける。

「ああああああああ!!」

 しかし「それ」はアスカの声すら一方的に拒絶するかのように、声を張り上げ。

「レイ…」

「ああああああああ!!」

 ついには耳を塞いでしまった。

 

「レイ…」

「ああああああああ!!」

「ねえ、聴いてよ…、レイ…」

「ああああああああ!!」

「レイ…」

「ああああああああ!!」

 

「いい加減にしなさい!!」

 

 突然のアスカの怒鳴り声に、自分用に用意したコーヒーのカップに口を付けていたサクラは舌を火傷してしまい、小さな悲鳴を上げてしまう。顔を顰めながら怒鳴り声がした方を見ると、アスカが「それ」の両腕を掴んでいた。

 

「あたしの言うことが聞けないの!?」

 アスカの激しい剣幕に、「それ」は目を丸くして口を噤む。

「散々面倒看てきてやったのに!!少しはあたしの言うこと聞いてくれたっていいじゃない!!」

 そう怒鳴りつけたアスカは、突き放すように「それ」の腕から手を離し、背を向けてしまった。

「あ…す…か…」

 「それ」はすぐにアスカの腕にしがみ付こうとした。しかし、

「鬱陶しい!触るな!」

 アスカは「それ」の手を振り払う。

「あんたなんか大嫌いよ!!」

 

 カプセルの前で突然始まった2人の仲違い。サクラはそわそわしながら2人の様子を黙って見守り、リツコは煙草を吹かしながら冷めた目で天井を見つめ、マヤは淡々と端末のキーボードを叩き続けており、ミサトは腕組みをしながら椅子に深く腰掛けている。

 

 

 「それ」の顔が悲痛に歪む。今にも泣き喚き出してしまいそうに顔をしわくちゃにしたが、必死に下唇を噛んで腹の底からせり上げってくる何かを喉の奥に押し留めた。

 そっぽを向いてしまったアスカの横顔を見つめていて、そしてカプセルの中を見下ろして。

 ぽっかりと空いたカプセルの入り口。

 無機質なカプセルの、何もない中身。

 ぶるる、と「それ」の肩が震えた。

 縋るような視線をアスカの横顔に向けるが、アスカは肩を大きく上下させ、あからさまに怒りを纏った溜息を吐いている。

 そんなアスカの様子に「それ」は慌てて、

 

「あ、あ、あ、あす…か…、あすか…」

 

 まるでアスカのご機嫌でも取るかのように、震えた声で何度もアスカの名を呼びながら、そして急いでカプセルの入り口の淵面に両手を置き、右足を跨いでカプセルの中に入ろうとして。

 しかし、

「あう!」

 入れようとしたつま先が淵面に引っ掛かってしまい、「それ」は頭からカプセルの中にひっくり返ってしまった。反対側の淵面に思いっきり顔面を打った「それ」は、鼻を摩りながら救いを求めるような目でアスカを見上げた。

 しかしアスカは助けの手を差し伸べてくれるどころか、壁を睨んだままで「それ」を見ようともしない。

 「それ」の顔を益々焦燥が支配し、ぎこちない動作で足をカプセルの奥へと滑らせていくと、肩を震わせながらカプセルの底に背中を付けていく。

 「それ」の体は、すっかりカプセルの中に収まった。

「あすか…、あすか…」

 まるで許しを乞うような「それ」の声。

 アスカはようやくカプセルの中の「それ」を見下ろす。

「ふん。最初っからあたしの言うこときいてりゃいいのよ…」

 冷たいアスカの眼差しと声音に、「それ」はまるで母親に折檻された幼子のような表情で、小刻みに何度も頷いた。

「リツコ!」

 アスカは苛立った声で副長の名を呼んだ。

「それではサルベージを開始します」

 リツコは淡々と告知した。

 

 カプセルの開いた前面が元の場所へ戻ろうと、スライドし始める。

 徐々に顔の方へとせり上がってくるガラスの壁。

「あすかぁ…」

 カプセルの中から、情けない声が漏れ出る。

 せり上がってくるガラスの壁と、アスカの顔とを交互に見る「それ」。

 アスカの反応は変わらず冷たい。

「そこで黙って寝てなさい。すぐに終わるから」

 それだけ言い残し、アスカはカプセルに背を向けて歩き始めた。

 「それ」はすでに涙が零れ始めた目でアスカの背中を見つめ、やがてせり上がってきたガラスの壁で見えなくなってしまうと、唇を噛み締めながらぎゅっと目を瞑った。

 

「LCL注入開始します」

 マヤが端末のキーの一つを押す。

 

 

 ゴボッと、足もとから奇妙な音がした。

 すでにカプセルは密閉され、まともに身動きが取れない状態。「それ」は眼球だけを動かして、足もとを見た。

 カプセルの一番端っこから、大量の液体が進入し始めている。

「うぅ…、うぅ…」

 たちまち足は液体の中に沈んでしまう。液体はカプセルの底をどんどん広がっていき、「それ」のお尻を、腰を、背中を、肩を、後頭部をひんやりと浸していく。

「ううぅぅ…」

 「それ」の体の震えが大きくなっていく。恐怖に何とか耐えようと、ぎゅっと両手を握り締める。

「ううううう…、ううううう…」

 すでに液体はカプセルの半分を埋め、ついに「それ」の耳の穴に進入してきた。「それ」の顎が小刻みに震え、上の歯と下の歯とがカチカチと不快な音を鳴らす。

 そして液体が「それ」の口の端にまで達した時。

 

「ああああああああ!!」

 

 「それ」はついに耐え切れなくなった。

 

 

 カプセルの内側から激しい物音。「それ」が腕を、足を激しく動かし、ガラスの壁をどんどんと叩いている。

「----っ!! ----っ!!」

 ガラスの向こうでは、「それ」が必死の形相で叫んでいる。しかしその叫び声は分厚いガラスに阻まれ、外までは伝わらない。

「リツコ…」

 少し揺れているカプセルを見つめていたミサトは、リツコの背中に声を掛けた。

 リツコは端末に視線を落としたまま答える。 

「大丈夫よ。あれくらいでは、あのカプセルは破壊できないわ」

「そう」

「マヤ、少しLCL濃度を上げて。被検体の意識レベルを下げせましょう」

「分かりました。LCL濃度を0.5パーセント上げます」

 

 カプセルの中の喧騒を他所に、実験は粛々と進められている。

 その様子を、アスカは少し離れた場所で、壁に背を預けながら眺めていた。

 カプセルからは変わらず激しい物音。

 「それ」の両拳が必死にガラスを叩き、つま先がカプセルの側面を蹴っている。

 ガラスの中は気泡だらけ。

 時折ガラス面に覗く「それ」の口が、裂けんばかりに大きく開き、必死に叫んでいる。

 

「被検体のBP、パルス共に300を越えています」

「抑制剤を投与して」

「分かりました。交感神経抑制剤を…」

 

 ドン!

 

 リツコの指示をマヤが復唱しようとしたその時、カプセルの方から一際大きな衝撃音が鳴り響いた。

 

 ドン! ドン! ドン!

 

 その音は立て続けにカプセルの中から響き、響くたびにカプセルが大きく揺れた。

「なに?」

 マヤはすぐさまカプセル内のカメラを確認する。

「どうやら被検体がカプセルに頭突きをしているようですね」

 マヤのその報告に、リツコは呆れたように溜息を吐いた。

「被験体の額に裂傷を確認。どうしましょうか。今のところ実験の進行に支障はありませんが」

「仕方ないわね。途中で死んでもらっちゃ困るし。LCL濃度をもう2パーセント上げましょう」

「しかしそれでは被検体の脳神経に損傷を来す可能性が…」

「最悪、サルベージの器としての機能を果たしてくれさえすれば問題ないわ」

「分かりました。LCL濃度をもう2…」

 

 

「あーーー」

 

 そのちょっと調子の外れた声はリツコとマヤの背中の方から聴こえた。

 振り向くとそこには、両手を天井に向けて万歳した格好のアスカが居る。

「あーごめんごめん」

 2人の視線に見つめられるアスカは、万歳した手をひらひらさせながら何故か2人に謝る。

「やっぱなし。なしなしなし。やめよやめよ、こんなこと」

 アスカは上ずった声でそう言いながら、カプセルの方へと歩いていく。

「急になに? アスカ」

 ミサトは椅子に腰かけたまま怪訝そうな顔で問いかける。

「いやー、何考えてたんだろうね、シンジも。魂なんてそう簡単に出したり入れたりできるわけないじゃない。これだからガキシンジはバカシンジなのよ。それに乗っちゃうあたしもバカよねー。何やってんだろほんとまったくあっほらしー」

「アスカ…」

「はい、止め止め。こんなバカなことやってる暇があったら、ネルフ本部制圧作戦の準備をするべきよね。はーい中止ぃ!」

「アスカ…」

「ほら何やってんのよリツコ。実験は中止よ。マヤ。さっさとLCL抜いてこのカプセル開けてよ」

「アスカ…」

「マヤ。早く開けて」

「アスカ…」

「マヤ! 早く開けろって言ってんのよ!」

「式波大尉!!」

 

 アスカの怒鳴り声と、ミサトの怒鳴り声が重なる。

 

「式波大尉」

 ミサトは殊更アスカを階級で呼んだ。

「本実験はすでにヴィレの最高意思決定機関で承認されたものです。一パイロットの一存で中止できうるものではありません」

「最高意思決定機関って…、あんたとリツコだけじゃないの…。何こんなくだらないことに本気になってんのよ。バカらしい…」

 ミサトはアスカの無理に作ったような笑顔をじっと見つめて。

 そしてリツコに言った。

「リツコ、実験を続けて」

「言われなくても」

 そう答えるリツコは端末から目を離さず、作業を続ける。

「ちょっと待ってよ!」

 アスカの悲鳴のような訴えに、しかしミサトの声は酷く平坦だ。

「式波大尉。この実験はあなたが提案したものよ」

「だから言ってるじゃない。こんなの無理だって。あたしが間違ってたわ」

「間違いかどうかは、実験の結果を見れば分かります」

 1ミリも譲ろうとしないミサトを前に、アスカは眉根を寄せて目を閉じ、口から深く息を吐いた。

「ねえ、お願い。もうやめよ。これじゃあ…」

 悲嘆に暮れた眼差しでミサトを見つめる。

「これじゃ、レイが可哀そうじゃない…」

 アスカのその言葉に、今度はミサトが口から深く息を吐くことになる。やや失望したような表情で、アスカを見返した。

「アスカ。あれはただの綾波タイプの一つ。魂の入ってない、空っぽのただの器よ」

「でも!」

 アスカは胸の前に拳を握って訴える。

「でも、あいつは泣いて笑って! あたしたちと一緒なのよ! えこひいきよりもよっぽど人間らしい奴なの!」

 

「一種の依存症ね…。ようやく人形遊びを卒業したと思ったのに…。母親のトラウマがそうさせているのかしら…」

 リツコがぼそりと呟いたその言葉に、アスカは咄嗟に我を忘れそうになったが、奥歯を噛み締め、理性を総動員させて怒りの衝動を抑え込んだ。

「なんでもいいわよ。ねえ、ミサト。お願い。今すぐこの実験を中止して。ヴンダーの能力がイマイチだっていうなら、あたしがその分働くから。ネルフなんて、あたしが一人でぶっ潰してやるから。だから、お願い」

 そこまで捲し立てるように話し続けて、一度口を閉じ、生唾を呑み込んで乾いた喉を潤す。ミサトを正面から見つめ、そして。

「お願いします…」

 もしかしたら、アスカが人に対して頭を下げたのは、これが初めてだったかも知れない。

 膝を手の指先をまっすぐに伸ばし、腰を折り、ミサトに対して深く頭を下げる。

 

「あの子を、レイを…、消さないで下さい…」

 

 

 暫しの沈黙の後。

 ミサトは言った。

「実験は継続」

「ミサト…!」

「アスカ。私たちがヴィレを結成した時、みんなで誓ったはずよ。ネルフ殲滅とフォースインパクトの阻止という大義の前に、一切の私事は捨てると。自分だけは例外だとでも言いたいの?」

 ミサトのその言葉に、アスカは言い返す言葉を見つけることができず、口を噤んでしまう。

「アスカ」

 リツコが端末の画面を見つめたままアスカに声を掛ける。

「ミサトがどんな思いをしながらシンジくんにチョーカーを付けたか。分からないあなたではないでしょう?」

 端末のキーボードを叩いていたリツコの手が止まる。アスカを見上げた。

「アスカ。ここが正念場よ。あなたが揺るがぬ強い意志を持った人間か。それとも私情に溺れる弱い人間か」

 

 アスカは口を噤んだまま、視線を床に落とした。

 すぐ傍のカプセルでは、「それ」が今もカプセルのガラスを殴り、蹴り、額を打ち付けている。

 

 アスカは膝を折り、カプセルのガラスに手を乗せた。

「アスカ!」

 アスカを止めようとリツコが椅子から立ち上がり掛けたが、隣に立っていたミサトの手がリツコの動きを制した。

 

 アスカはゆっくりとカプセルに顔を近づけ、ガラスの向こうを覗き込む。

 

 

 

 

 苦しい。

 苦しい。

 

 濁った液体が口に、鼻に、耳の穴に。

 あらゆる場所から体の中に進入してくる。

 

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 

 苦しい。

 苦しい。

 

 助けて。

 

 お願い。

 

 助けて。

 

 ここは嫌。

 

 一人は嫌。

 

 ここから出して。

 

 私を助けて。

 

 私を一人にしないで。

 

 

 

 

「レイ…」

 ガラスに額を引っ付けて、中を覗き込む。

 ガラスの向こうでは、「それ」が口から鼻から泡を吹き出しながら、もがき苦しんでいる。

「ねえ、レイ…。こっち向いて。…レイ」

 「それ」の目が少しだけ開き、ガラス越しに覗き込むアスカの顔を捉えた。

 苦痛と恐怖を忘れ、一瞬呆けた表情をする「それ」。

 しかしその顔はたちまちしわくちゃに歪み、目から大粒の涙を滲ませて濁った液体の中へと浸透させていく。

 

 「それ」が液体の中で必死に口を開閉させている。アスカにはその口が、繰り返し必死に「ごめんなさい」と言っているように見えた。 

「いいのよ、レイ。あたし、もう怒ってないからさ。こっちこそ、ごめんね」

 こちらの声が分厚いガラスを伝って中に届くはずはないが、ガラス越しの「それ」はどこか安心した表情で口から小さな泡を吐いた。

 その表情がアスカの心臓をまるで針の先端のようにちくりと刺し、アスカは辛そうに目を細める。

 そして安心した表情を浮かべたのも束の間、「それ」も眉尻を下げ、顔を不安に歪ませてアスカを見上げた。

 アスカは唇を噛み締めながら首を横に振った。

「ごめん。あんたをここから出すことは…、できないの…」

 「それ」が両手でぺたぺたとガラス面に触る。「このガラスを開けて」とでも訴えるように。

 アスカは唇を噛んだまま、首を横に振る。

 「それ」は両手を握り締め、ガラスを叩き出す。

 アスカは唇を噛んだまま、目を閉じ、首を横に振る。閉じた目の端から、一筋の涙が顎に伝った。

 「ごめん…、ごめんね…。本当に…ごめん…」

 

 

 アスカがカプセルの側で膝を折り、中に向けて何かを語り掛けてる。おそらく被検体の説得を試みているのだろうが、状況は芳しくないようで、カプセルからは相変わらずどんどんとガラスを叩く音が響いている。

 マヤは上官に言った。

「やはりLCL濃度を上げますか?」

「そうね…」

 

 

 

 ねえ、どうしたらいい?

 

 シンジ。

 

 どうしたら…?

 

 

 ―――アスカ駄目だよ。

 

 

 あいつが耳の側で囁いたような気がした。

 

 

 ―――レイが怖がっちゃうじゃないか。ほら、笑顔笑顔。

 

 

 

 

 すぐそこにあの人がいる。

 

 すぐそこに。

 手を伸ばせば、すぐ届きそうなところに。

 

 でも届かない。

 いくら殴っても。

 いくら蹴っても。

 

 あの人にこの手は届かない。

 何かに阻まれ、この手はあの人に届かない。

 

 あの人が悲しんでいる。

 苦しんでいる。

 目から大粒の涙を流して。

 

 すぐにその手に触れて。

 頬に触れて。

 

 大丈夫だよって、伝えたいのに。

 

 悲しまないでって、伝えたのに。

 

 

 

 でも。

 あ、でも。

 

 あの人が笑ってる。

 

 すぐそこで。

 

 あの人は口の両端を上げ、目を細め、眉尻を下げ、小さく笑っている。

 

 あの人は笑っている。

 

 

 そう。

 

 もう大丈夫。

 

 きっと、もう、大丈夫。

 

 あなたが笑ってさえいてくれたら。

 

 私は平気。

 

 

 

 

 心に響いた「あいつ」の声に促されるままに。

 零れ落ちる涙を必死に押し戻して、何とか笑顔を作って「それ」を見つめた。

 すると、どうだろう。

 ガラスの向こうで。

 濁った液体の向こうで。

 あいつが笑っている。

 顔の上半分はまだ不安を残しているが、しかし下半分は、確かに笑っている。

 

「レイ。怖がらないで」

 自分の声が届いているはずはない。それは分かっているが、アスカは静かな声でカプセルの中に語り掛ける。

「思い出して。レイが生まれた場所を。レイが育ったところを。その液体は、あの水槽を満たしていたものと同じもの。そこは言わば、あなたのふるさとよ」

 「それ」の顔の上半分も、少しずつ笑い始めている。

「大丈夫。あなたはただ、母なる海に身を委ねてればいいの…」

 

 

「BP100、パルス50。バイタル安定しました」

「被検体を自我境界パルスに接続させます。カプセルをコアの前へ」

「分かりました」

 

 カプセルの下から駆動音が鳴り響く。

 カプセルが頭部の方から徐々に上がり始め、カプセル全体が起立し始めた。

 カプセルの動きに合わせ、アスカも立ち上がる。カプセルの中の「それ」の視界から、自分の顔が片時も外れないように。

 

「レイ…」

 アスカのその呼び掛けに応じるように、「それ」はガラスに手のひらをくっ付ける。

「―――…」

 ガラスの向こうで、「それ」が鼻の孔から小さな泡を漏らしながら口を開け閉めしている。おそらく、目の前に立つ赤毛の彼女の名前を呼んでいるのだろう。

 アスカも、自分の手のひらをガラスに当て、「それ」の手に自身の手を重ねた。

 にっこりと笑う「それ」。

 アスカも、笑う。涙を流しながら笑う。

 

「パルス接続確認。問題ありません」

 

 「それ」の瞼が下がり始めた。

 こく、こく、と、顎が落ち、上がっては落ち。

 やがて「それ」はすっかり目を閉じ、顎はがくんと落ち、四肢を弛緩させ、その体はふわりと底から浮いた。

 

「サルベージ、スタートです」

 

 

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 椅子にだらしなく腰掛けながら、窓ガラスの外に広がる漆黒の宇宙を眺め、時折ソフトドリンクが入ったボトルのストローを齧る。そんな赤毛の少女の背中を、マリは少し離れたソファに寝そべりながら見つめている。

「ね~、ひめ~」

 時折間延びした声音で読んでみるが反応はなく、

「ちぇーっ」

 マリは拗ねたように唇を尖がらせる。

 

 休憩室の扉が開き、サクラが入ってくる。

 室内にはアスカとマリの2人のみ。明らかに重い空気に、サクラはすぐにでも踵を返したい気持ちで一杯だったが、その衝動を何とか堪えた。

「アスカさん」

 窓ガラスに向いたままのアスカの背中に声を掛けるが、返事はない。

「実験終了しました」

 やはり返事はない。せめてマリの方から何かしらの反応があるのではと期待してマリの方をちらりと見たが、マリはソファに寝そべったまま面白いはずもない広報誌をつまらなそうに眺めている。

 ああもう、と心の中で地団駄を踏んでいたら、

「で?」

「え?」

「結果は?」

 それはアスカの方から飛んできた声だった。サクラは慌てて窓ガラスに向いたままのアスカの背中に答える。

「あ、え、ええと。結果は成功です。サルベージは成功しました」

「そっ」

 素っ気ないアスカの返事。

 アスカは両足を上げ、反動をつけてひょいっと椅子から立ち上がると、そのまま扉の方へと行ってしまう。

「あ。あの。会わないんですか?」

「は? なんで?」

「へ? いや、なんでって…」

「マリ」

「は? はいはーい!」

 突然アスカに呼ばれ、マリは弾かれたようにソファから起き上がる。

「制圧作戦の発動は明後日よね」

「え? そだけど」

「んじゃ、あたし、今日明日は休暇申請するわ。ミサトに言っといて」

「はあ?」

 マリが何か言う前に、アスカは休憩室を出ていってしまった。アスカが出ていったドアを、残された2人は呆然と見つめていた。

「えっと…」

 サクラはマリを見る。

「マリさんはどうします? 「綾波レイ」に会いますか?」

「ん~?」

 マリは腕を大きく伸ばして背を反らし、

「あたしもいいや~、これから哨戒任務だしねぇ~」

 ソファからぴょんと飛び起き、休憩室を出ていった。

 

 

 

 

 

 

第二章 《終》

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