2人が降り立った場所は緑一つない、見渡す限り赤褐色の岩山が続く巨大な台地の一角だった。台地の淵はほぼ垂直の断崖絶壁であり、深い深い谷の向こうには2人が居る台地と同じような、幾つもの剥き出しの岩山を抱えた台地が続いている。
崖の淵に立ち、ぼんやりとその風景を見つめていたシンジ。以前、何かのテレビ番組で何処かの国の壮大な大渓谷を見た時は、いつかこんな場所に行ってみたいと思ったものだが、図らずもその夢が叶ってしまった。
視線を落とすと、谷の底は遥か下。
あの塔ほどではないにしろ、この高さでも十分に立ち眩みしそうになったため、崖の淵から離れる。
振り返ると、平べったい、ちょうどベンチ替わりになるよう岩の上に、黒スーツの少女が腰掛けていた。
少女は左足を岩の上に乗せ、その足首に包帯を巻いている。
パラシュートでこの岩場に着地した際、足を挫いてしまったらしい。
ブーツの部分だけをスーツから切り離して脱ぎ、真白い肌に真白い包帯を巻いていく。甲に巻き付け、足首に巻き付け、踵を囲むように足をガチガチに固定していく。そして包帯の端っこ同士をきゅっと結び付ける、が。
指を離した途端、結び目は緩んでしまい、巻かれた包帯も緩んでしまう。
改めて結び目を作って。手を離せばすぐに緩んでしまって。
ひたすらそれを繰り返す少女。
存外、ぶきっちょらしい。
シンジがその様子を苦笑交じりに眺めていたら、10回目の挑戦が失敗に終わったところで、少女は「もういいや」とばかりに結び目を作らないままブーツを履こうとし始めた。
「いやいやいや…」
シンジは少女の近くに歩み寄ると、その前で膝を折る。
「ダメだよ、ちゃんと固定しないと」
少女の足に手を伸ばし、足首に巻かれた包帯を剥がし始める。
「テーピング用の包帯は伸縮性がないから巻きにくいんだ」
そう説明しながら、シンジは手慣れた様子で少女の足に包帯を巻きなおしていく。
「前の学校ではサッカー部に入ってたんだ。ずっと補欠だったから雑用ばかりさせられてたんだ。おかげでテーピングの腕は上がったんだけどね」
包帯を足の甲に巻いて固定すると、少女の踵を自分の膝の上に乗せ、その踵を囲むように足首に巻きつける。
「って、あ、ごめん。前の学校って言っても、この世界じゃもう10年以上も前のことなんだよね…」
独り言のように呟きながら、甲と足首とを、交互に巻いていく。
小気味よく作業を進めながら、ふと、シンジは笑みを零した。
「君って、包帯とか扱いなれてると思ったけど…」
「初めて」会った時のことを。
初めて紫色の巨人と対峙し、その場にストレッチャーで運ばれてきた、全身包帯姿だった「彼女」のことを思い出したのだ。
「ふふっ」
一度笑ってしまうと、急に色々なことが思い出されて、思わず声に出して笑ってしまった。
ふと視線を感じ、少女を見る。笑っている自分を、訝し気に見つめている。
「ああ、ごめん」
シンジは一旦包帯から手を離すと、ぽりぽりと鼻の頭を掻いた。
「君って、何だかいっつも突拍子無いな、って思ったから」
初めて出会った時、いきなり全身包帯姿で現れた時も度肝を抜かれたものだし、自分が瀕死の目に遭って病室で目を醒ましたらいきなり作戦スケジュールの説明を始めるし、急に手に幾つもの絆創膏を巻いて登校してくるし、いきなり食事会なんて催そうとするし、14年ぶりに目覚めたらいきなり艦の外壁をぶち破って自分を攫っていったし。
極めつけはさっきのだ。
まさか空から女の子が降ってくるだなんて。
ネルフに来て、色んな非現実的な体験をして。
もう多少の事じゃあ驚かないぞと思っていたが、君が青い空から真っ逆さまに落ちてきた時には、もう驚きを通り越してちょっと呆れてしまった。
「…ああ、…そっか」
「彼女」にまつわる色々な思い出を振り返っていたシンジ。
大切なことを忘れていた。
目の前に居る彼女は、「彼女」ではないことを。
シンジの口もとから笑みが消え、その手は淡々と作業を進めていく。
少女は笑みが消えたシンジの顔から視線を外し、白い包帯が巻かれていく自分の足をじっと見つめた。
包帯の端と端をきゅっと結ぶ。
「はい、終わったよ」
そう告げて、シンジはゆっくりと少女の足を自分の膝から地面に下ろした。
少女は立ち上がろうとする。
「あ、無理しない方がいいよ」
とシンジが忠告するよりも先に、少女は途端に表情を苦痛に歪ませ、岩の上に尻餅を付いてしまった。
「痛む?」
シンジの問い掛けに、少女は小さく頷く。
「何か冷やすものがあるといいんだけど」
シンジがそう言うと、少女は岩の上に投げていたボディバッグに手を伸ばす。中身をごそごそと探り、その中から小さなパックを取り出した。少女は左の手の平に乗せたそのパックを、右拳の腹でパンと叩く。叩いたパックを、包帯が巻かれた足の甲に当てた。
「瞬間冷却剤か。色々なものが入ってるんだね、そのバッグ」
バッグのファスナーの隙間から、見覚えのある携帯音楽プレイヤーが見えたが、そのことについてはシンジは触れない。
少女が座る平べったい岩の上に、シンジも少女から少し距離を置いて座る。
さて、これからどうしようか、と思案に暮れるが、すでに陽はかなり西に傾いおり、もう間もなく夜が来る。暗がりの中、こんな岩だらけの場所で行動するのは、アウトドア経験の薄いシンジであっても危険だと分かる。
くう、とシンジの腹がなった。
怪物に追い回されて、何度も全力疾走したのだ。あんなに走ったのは、多分あの時以来2度目だ。この世界では14年前。最強の敵が本部を急襲し、「彼女」が乗る零号機が敵に飲み込まれる様を見て、懸命に本部に向かって駆けた、あの時以来。
気配を感じ、シンジは横に視線を向ける。
少し離れた場所に座った少女と、自分との間に、何かが置かれている。目を凝らしてみると、それはブロックタイプの栄養食品。最後にそこを見た時には、無かったものだ。おそらく、いや間違いなく、少女が置いてくれたものだ。
「いいの?」
尋ねると、少女は遠くの山々を眺めなたまま小さく頷いた。
「ありがとう」
シンジはお礼を言って固形食品に手を伸ばす。
「これもそのバッグに入ってたの?」
小さく頷く少女。
「本当に何でも入ってるんだね、それ」
少女はよく分からないとでも言いたげに、首を傾げている。確か、アスカの肩をぶち抜いた拳銃が入ってたのもそのバッグだったよな、と思い出しながら、シンジは栄養食品の包装を破ると、中身に齧り付く。
何度か咀嚼して。
「うわ…」
シンジは栄養食品の半分を一気に口の中に入れてしまったことを後悔した。
クッキーのような形態の栄養食品。口の中の水分が、一気に栄養食品に持っていかれてしまったのだ。
「げほっ、けほ、けほ」
口の中のものを上手く飲み込むことができず、咳き込んでしまう。
気配を感じ、シンジは涙目で横に視線を向ける。
少し離れた場所に座った少女と、自分との間に、水が入った透明の小さなペットボトルが置かれている。
シンジはすぐにボトルに手を伸ばし、キャップを外すと口を付け、中身を呷った。
「はー、生き返った…」
口腔から咽頭に掛けての清涼感に満足しながら、シンジは手にあるペットボトルを見つめ、少し離れた場所に座る少女の横顔を見る。
「あ、ありがとう…」
遠慮がちにお礼を言うシンジに、少女は相変わらず遠くの山々に目を向けながら、小さく頷くだけだった。
「これもそのバッグに?」
小さく頷く少女。
「四次元ポケットかな?」
そう呟くシンジに、少女は言っている意味が分からないとばかりに首を傾げている。
ついに太陽はその身を地平線の向こうに沈めてしまった。空の半分は真っ赤に彩られ、もう半分は濃紺から漆黒の闇へと染まり始めている。
これからどうしようか。夕陽を見つめながらあれこれ思案し、結局何も思い浮かばなかったシンジ。
一方で、これまで岩に腰かけたまま殆ど動くことのなかった少女は、太陽が沈むとバッグに手を伸ばした。中から指サイズの小さなLEDランタンを取り出し、灯りを点して岩に置く。そして再びバッグの中身をごそごそと探り、一本の棒を取り出す。棒の先端を摘まみ、引っ張ると、棒はにょきにょきと1メートルくらいの長さまで伸びた。
少女はその棒を一旦地面に置き、岩から腰を上げた。痛めた左足に体重を乗せないよう体を傾けながら、ひょこひょこと歩き始める。
シンジは少女の行動を黙って見守っていたが、その少女の左膝が折れ、少女が尻餅を付いてしまったのを見て慌てて少女のもとに駆け寄った。
「だ、大丈夫?」
少女はお尻を摩りながら、小さく頷いている。
シンジは少女に肩を貸してやり、立たせると、ランタンを置いた岩のもとまで戻り、腰掛けさせた。
「どうしたらいい?」
何かをしようとしていたらしい少女に指示を乞う。
少女は少しだけ迷ったような表情をした末に、右手をすっと上げて何かを指差した。
少女が指差す方を見ると、少し離れた地面に2人をこの地に降り立たせたパラシュートが広がっている。
「あれを持ってきたらいいの?」
小さく頷く少女。
一片が10メートル以上あるパラシュートを地面に引き摺りながら少女のもとに戻る。
「はい、持ってきたよ」
少女はシンジが掴んだパラシュートの端っこを受け取ると、それをパタパタと振りさばき始める。
どうやらパラシュートに空気を含ませ、広げさせたいようだが、少女の細腕では大きなパラシュートの生地を大きく振りさばくことはできないようで、パラシュートはただ上下にぱたぱたと動くだけ。
シンジは少女の手に割り込むようにパラシュートの端っこを両手で掴むと、上下に勢いよく振り始めた。
パラシュートの生地がばっさばっさと上下に激しく揺れる。パラシュートを掴んだままの少女の腕も、頭ごと上下に激しく揺れた。
パラシュートの生地は綺麗に地面に広がった。
激しく揺れて肩でも痛くなってしまったのか、少女は首をこきこきと左右に曲げながら、地面に置いていた棒を手に取り、その端っこをパラシュートの生地の端っこの布に引っ掛ける。そして棒の反対側を、地面に突き刺した。
「あ、なるほどね」
完成したものを見て、合点がいった様子のシンジ。
少女がパラシュートと棒で作ったものは、小さな即席のタープだった。これで雨風や夜露をしのごうということらしい。
つまり、少女はこの吹き曝しの岩場で、一夜を過ごす覚悟を決めたのだ。
少女はランタンとバッグを手に岩から腰を上げると、タープの小さな三角形の入り口に身を滑り込ませる。地面に腰を下ろし、体の正面を外に向けて膝を抱えた。
タープの中で、膝を抱えてちんまりと座っている少女。
その様子が何となく犬小屋から顔を覗かせる子犬を連想させ、シンジは笑いだしそうになってしまい、慌てて手で口を塞ぐ。
少女がシンジを見上げてくる。
シンジは笑い出しそうになったことを少女が怒っているのかもしれないと思ったが、少女は相変わらずの仏頂面。そして少女の右隣り、タープの屋根の下のもう半分の空間の地面を、右手でぽんぽんと叩く。
どうやらシンジにタープの中に入るよう促しているらしい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
タープの支柱を挟んで、すぐ隣に彼女が居て。
あまりにも近くて、空気を通して彼女の体温が自分の左腕に伝わってくるのを感じる。
妙齢の女性と、同い年の少女と、数カ月同じ屋根の下に暮らしたというのに、自分の体には女性に対する免疫というものが全く生成できていないことを改めて自覚した。
すでに外の世界は漆黒の闇。
その中を、このタープの中だけが小さなランタンの灯りで煌々と照らされている。
広い広い漆黒の宇宙で、たった2人っきり。このタープから夜空を見上げていると、そんな錯覚を覚えてしまう。
まるであの時のようだ。
シンジは物思いに耽る。
全ての明かりが消えた街を見下ろしながら、決戦の時を待っていた2人。この国の全てのエネルギーを預けられ、巨大過ぎる敵に少年と少女がたった2人で対峙する。
すぐ目の前に死を突き付けられたあの時ほどではないにしろ、草一本も生えてないような荒廃した大地にたった2人っきりで放り出されてしまった今の状況も、理不尽さという点では似たようなものだ。
あの時は目の前の受け入れがたい状況を、しかし自分が受け入れなければ世界が滅んでしまうと言い聞かされ、自分を納得させるための答えが欲しくて、まるで縋るように彼女にこう尋ねた。
「君は…、何故エヴァに乗るの…?」
瞬きと呼吸以外は何もせず、ただぼんやりと闇を見つめていた少女。
隣に座るシンジが呟いたその問い掛けに、ゆっくりと顔をシンジの方へと向ける。
シンジの顔を見ながら、2回ほど瞬きをして。
そして顔を正面に向け、視線を暗い地面へと落とす。
「…命令だから…」
少女の掠れた呟き。
「そっか…」
シンジはその掠れた呟きと共に、夜空を見上げていた視線を、まるで少女の視線を追うように暗い地べたに落とす。
「「綾波レイ」は…」
「え?」
この岩場に落とされてから初めての少女からの問い掛けに、シンジは少しだけ驚いて少女の横顔を見つめた。
少女は地べたを見つめたまま続ける。
「「綾波レイ」は…、どう答えたの?」
少女の問い掛けの意味を、シンジはすぐに理解できなかった。
「いつか、遠い昔に…、碇くんから同じようなこと、訊かれたような気がする…」
「君は…、あの時の記憶があるの…?」
そのシンジの問い掛けに、少女は頭を振る。縦とも横ともとれるような、曖昧な動作で。
「私たちの記憶は定期的にバックアップしてる。もしその個体がダメになっても、保存された記憶は次の個体にリストアできるよう」
「それじゃあ…」
「でも代を重ねていくごとに、データは劣化していくから、…昔の記憶は曖昧…」
「僕のことは、分かるの?」
そのシンジの問い掛けに、少女はやはり肯定とも否定ともとれるような曖昧な動作で頭を振る。
「第三の少年…。碇司令の一人息子…。2001年生まれ…」
少女はシンジのプロフィールを、まるで用意された台本を読み上げるように、淡々と話していく。
「エヴァ初号機のパイロット…。第3新東京市立第壱中学校の生徒…。葛城ミサトの被保護者…」
そこまで言って、少女は視線を地べたから離し、隣の少年の顔へと向けた。
「「綾波レイ」の同僚…。「綾波レイ」のクラスメイト…。「綾波レイ」の……」
それ以上は続かず、少女は目を伏せ、再び地べたを見やる。そのまま黙りこくってしまった。
少女の横顔を見て、シンジもこれ以上あれこれ訊ねる気になれず、視線を星々が散りばめられた夜空へと向けた。
長い沈黙の後。
「「綾波レイ」は…」
少女が口を開く。
「「綾波レイ」は…、どんな人…、だったの…?」
奇妙な質問だ、とシンジは思った。
隣に座る少女は、自らを「あやなみれい」と名乗ったのに。その「あやなみれい」自身が、「綾波レイ」とはどんな人かと問うてくるのだ。
答えに困る質問だ、ともシンジは思った。
自分は誰かに説明できるほど、「彼女」のことを知っていただろうか。
それでもシンジは少女の質問に頑張って答えようと思った。
「綾波は…その…、ちょっと変なコだったな…」
第一印象の感想を正直に口にした。いや、正直ではない。実際の第一印象は「めちゃくちゃ変なコ」だったが、そこはちょっと控えめにしておいた。
「だって、いきなり大怪我した格好で僕の前に連れてこられたんだよ。あんな状態でエヴァに乗ろうなんて、ちょっとどうかしてるよ。まあ、どうかしてたのは父さんとか周りの大人たちだったんだけど」
当時のあの理不尽という文字を絵にしたような状況を振り返り、今は却って笑いが込み上げてしまうシンジである。
「ずっと一人だったし。誰とも交わろうとしないし。唯一まともに話す相手があの父さんだけって。やっぱどうかしてるよね。おまけにあの部屋だよ。あの部屋。女の子の部屋なのに何もないんだ。まともに掃除もしてなさそうだったし。僕の前にすっぽんぽんで現れるしさ」
「すっぽんぽん…?」
「あ、い、いや。僕が綾波の部屋に勝手に入ったのがいけないんだけどさ。いくら自分の部屋で、周りも誰も住んでないからって、女の子の一人暮らしであんな無防備はなしだよね。おまけに父さんの悪口言ったらいきなり殴ってくるしさ。何もあんな往来で殴ることないじゃないか」
「殴られた…?」
「そうなんだよ。僕、女の子から殴られたのあれが初めてだったんだよ。おまけに瀕死の状態から目覚めた僕に、さっさとメシ食えって言うしさ。僕がぐずってたら「じゃあ寝てろ」とか言うしさ」
思い出話に耽るシンジの横顔を、じっと見つめていた少女。
「碇くんは…」
「え?」
「碇くんは…、「綾波レイ」のことが…、嫌いだったの…?」
「え、ええ? ど…、どうしてそうなるのか…?」
少女の問い掛けに戸惑うシンジだが、そう言えばさっきから自分は彼女についてのネガティブなことばかりを話していたことに気付く。
「でも…」
少女は再び目を伏せ、地べたに視線を落とす。
「「綾波レイ」は…、とっても怖い人…、だったのね…」
そう思われても仕方がない。今の自分の説明ではそう思われても仕方がないのだが、シンジは慌てて全力で否定する。
「そそ、そんなわけないじゃないか! とっても優しいコだったよ!」
そう心の底から熱弁している内に、シンジの中で彼女との思い出がふつふつと蘇っていく。
「とっても優しいコで…、とっても強い人…だったよ…」
目の前に突き付けられた死に、僕は半分、生きることを諦めていて。
そんな僕を、彼女は守り抜くと誓ってくれて。
「絆」という儚く曖昧なもの一つを胸に戦場に身を置いて。
絶対の死を約束する光の束に、躊躇いなく飛び出して。
泣いている僕に、優しく微笑んでくれて。
熱っぽく語るシンジの横顔を見つめていた少女。ぽつりと呟く。
「「綾波レイ」は…、強い…人…」
「そうなんだよ」
理解してくれて嬉しいのか、シンジは少し得意げな顔で少女を見た。気のせいか、少女の表情に影が見える。
少女は膝を抱く自分の手の指を見つめながら言う。
「私は…、とても弱い…ヒト…」
「そうなの?」
少女のその弱々しい告白に、シンジは意外そうな顔をする。少なくとも、この少女も自分が知る「彼女」のようにどんな過酷な任務に対しても臆することなく就いているように見えるが。
「そうは、見えないけど…」
少女は僅かばかり頭を横に振る。
「私は…、ただ命令に従っているだけ…。誰かを守るためだとか…、絆のためとか…。そんなことを思って…、エヴァに乗ったことは…、一度もない…」
「そっか…」
「…私は…、「綾波レイ」とは…、全然違う…」
そう呟いて、少女は自身を抱き締めるように膝を抱く腕に力を籠める。
「でも…、それは仕方ないんじゃないかな…」
シンジも少女と同じように膝を抱き締める。
「君は君なんだから…。僕が知っている「綾波」じゃないんだから…」
「「綾波」じゃ…ない…?」
「うん…」
「でも…、私は「アヤナミレイ」…」
「ああ、うん。そうなんだけどね…」
何だか禅問答のようになってしまった。シンジ自身、自分の言いたいことが何なのかはっきりとしておらず、続く言葉が見つからずに黙ってしまった。
長い沈黙。
お互い、膝を抱き締めながら、少年は空を、少女は地べたを見つめている。
シンジは膝を抱える腕に、益々力を籠めている。肩が小刻みに震え始めていた。
震えているシンジに気付き、少女はタープの奥に置いていたバッグに手を伸ばし、中身をごそごそと探る。
隣の少女から、何かを差し出された。
手の平に収まる程度の、小さなスタッフバッグ。
「あ、ありがとう」
中身が何かも分からずに、差し出されたものを受け取る。
スタッフバッグにある表記には「Emergency Sheet」の文字。
中身を取り出し、折りたたまれたものを広げてみると、布団くらいの広さのアルミシートだった。スタッフバッグの英語の説明書きを見ると、どうやらこれは体に羽織るものらしい。説明書きの指示に従い、シンジはそのアルミシートを背中から羽織ってみた。
陽が暮れてからというもの、外気温はどんどん下がっていく。学生ズボンのTシャツ姿という薄着のシンジの体温は、どんどん奪われていた。寒さに体を震わせていたところに、少女から渡されたこの薄っぺらいアルミシート。なるほど。シートが体から発せらる熱を反射してくれるので、体温が奪われるのを防いでくれる。
「…ありがとう」
少女は小さく頷くことで、シンジの謝意に答える。
「これもあのバッグから?」
少女は小さく頷く。
「お店が開けるね」
少女は言っている意味がよく分からないとばかりに、首を傾げる。
「君は寒くないの?」
シートを独占してしまっていることが申し訳なく、シンジは少女に尋ねた。
「プラグスーツが、スーツ内を適温に保ってくれる…」
「そうなの」
「続きは…?」
「え?」
「「綾波レイ」の話し…。もう、終わり…?」
「聴きたいの?」
少女は小さく頷く。
「そうだね…」
次に思い出すのは、みんなで海洋研究所に行ったことだろうか。
水槽の前で、「自分はここでしか生きられない」と語った彼女。その表情はいつもと変わらないように見えたが、どこか寂し気にも見えた。
「ああ、そう言えば」
ふと、海洋研究所での印象的な思い出の一つを思い出したシンジ。
「綾波って、肉が嫌いだって…」
「ニク?」
「そう。やっぱり君も、肉が嫌いなの?」
「ニクって、…あの肉?」
「うん」
「碇くんは…、お肉を、食べるの…?」
「え? う、うん。そうだけど…」
ここまで殆ど表情というものを宿らせることのなかった少女の顔が、何か恐ろしいものでも見るかのように少しだけ歪んだ。
「そう…」
「…うん」
気のせいか、少女の体がまるで自分から距離を置こうとしているかのように、斜めに傾いている。
この少女の反応の理由を少し考えてみて。
そう言えば、「この世界」で目覚めて以来、自分は一度も肉を、少なくとも目にして肉と分かるようなものを、口にしていない。食用の人造肉も出たことがないし、家畜は勿論のこと、人間以外の動物を目にしたこともない。この世界で肉といったらエヴァを構成するとても食品用には転嫁できない人工筋肉か、あるいは…。
それに思い当たって、シンジは自分の話しが少女にあらぬ誤解を植え付けていたことに気付いたが、その時はすでに少女の思考はドツボに嵌っていた。
「碇くんは…、人を…食べるんだ…」