勝手にシン・エヴァンゲリオン   作:hekusokazura

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第壱拾七話

 

 

 

 少女が抱いたあらぬ誤解を何とか解いたシンジは、「彼女」との思い出話を続けた。

 

 肉が食べれないという彼女に、お味噌汁が入ったカップを渡したところ、おずおずとお味噌汁を口にし、「美味しい」と言ってくれたこと。

 普段からお昼ご飯を食べていない様子だった彼女に、作ってきたお弁当を渡したら、ちょっと戸惑った顔をさせてしまったこと。

 それから暫く彼女は学校を休んでしまい、もしかしたら渡したお弁当が痛んでいて、お腹でも壊したんじゃないかと心配したこと。

 数日振りに学校に来たと思ったら、手のあちこちに絆創膏を巻いてきてちょっと驚かされたこと。

 とても優しい人で強い人だけど、何だか実は色んなところが抜けてて、どこか危なっかしくて、何だかそわそわさせられて、何だかほっとけなくて、気が付いたら彼女の姿を目で追っていたこと。

 そんな彼女に突然食事会に招待されて、とてもびっくりして、そしてとても嬉しかったこと。

 

「ああ、そっか…」

 シンジは膝に頬杖を付き、ぼんやりとつま先を見つめる。

 

 あれから色々な事があり過ぎてすっかり忘れていたが、あの日、彼女は自分と父親との食事会を準備してくれていたのだ。

 たった1度の食事会で何がどう変わるわけでもないだろうが、もし彼女を挟んで父親と食卓を囲んでいたら、自分と父親との関係もこうまで拗れてしまうことはなかったかも知れない。そうすれば、アスカを取り込んだ3号機の使徒化という事態にも、父親と協力し合うことでもっと別の結末を迎えることができたかも知れない。

 全てが今更どうしようも出来ない、とうの昔に確定してしまった過去なのだが。

 

 そう、過ぎ去った過去を、変える事なんてできない。

 覆すことなんてできっこない。

 

 左右を交差させていたつま先を、じっと見つめていたら。

「「綾波レイ」は…」

 隣から投げかけるか細い声。視線をつま先から隣に座る彼女へと向ける。

「「綾波レイ」は…、お料理を、よくしていたの…?」

「え? 綾波が?」

 問い返すシンジに、小さく頷く少女。

「えっと。どーかな。少なくとも普段から料理してる風には見えなかったけど…。彼女の部屋にも、料理道具らしいものなんて、何も無かったし…」

 食事会に招待されたのは嬉しかったが、出される料理を想像して胃薬を準備した方がいいかな?と不埒なことを考えていた自分を思い出したシンジである。

「なら…、「綾波レイ」は…、普段は何をして過ごしていたの…?」

 そう少女に訊ねられ、実のところ彼女の私生活については殆ど知らないシンジは、少し答えに窮してしまった。ただ、自分が知る限りでは。

「よく本を読んでいたな…。学校の休み時間とか、実験の合間とか。病室の僕を見舞ってくれた時も、確か僕が目を覚ますまで本を読んでいたよ」

「そう…」

 シンジのその言葉を聴いて、少女は何かに納得したように、小さな頷きを何度か繰り返した。

「だから碇くんは、私にたくさんの本を持ってきてくれたのね…」

「うん…。君は、本は読まないの?」

 少女は小さく頷く。

「本、読めないから…」

「どうして? 図書館にはたくさん本があったじゃないか」

「字、殆ど読めないから…」

「え?」

 少女の意外な告白に、シンジは言葉を詰まらせた。少女は淡々と続ける。

「エヴァに乗るため以外の知識や技術は…、私には必要ないから…。あの中での生活も、字が読めなくても、問題ない、から…」

 そう言いながら少女は視線を遠くに投げる。シンジも釣られて少女の視線の先を追う。そこには闇の中に聳え立つ、巨大な塔。シンジはあの塔の中での少女の暮らし振りを思い出した。任務に就く以外は、あの部屋ですらない天幕の中で、ただ命令を待っていた少女の生活振りを。

 天幕とエヴァのエントリープラグとの行き来だけを繰り返す生活。エヴァの操縦も、シンジ自身、チュートリアルなど一切読まずに動かすことができた。確かに、少女があの塔の中で生きていく上で、「文字」という「記憶」は必須ではないようだ。

 記憶のバックアップとリストアを繰り返していく度に古い記憶は劣化していったという。その中で、「文字」という記憶も劣化していったのかもしれない。幾ら生きていく上で必ずしも必要とされないものであったとしても、人として身に付けるべき最低限の知識をも劣化したのであれば、それを補うための教育をあの塔に住む大人たちはするべきではなかったのか、とシンジは憤慨しそうになったが、あの塔に住む大人たちにそのようなことを期待するのは端から無駄だと言うことを思い出し、怒るのも馬鹿らしくなった。

 そして、自分自身はすでにあの塔に住む大人たちと敵対する組織に身を寄せる決意をしており、つまりは隣に座る少女とは敵同士となる訳だが、そんな敵である少女に対する同情の念は一層高まっていくのだった。

 

「「綾波レイ」は、よく、本を読んでいたのね…」

「うん…、そうなんだ」

 シンジは、教室の窓際の席で本を読んでいた「彼女」の後姿を頭に思い浮かべながら答える。

 

 「彼女」と過ごした時間なんて、そう多くはないのに。

 父親から離れ、何年も預けられていた家の人の顔なんて、もう全然思い出せないのに。

 不思議と「彼女」の姿、仕草、立ち振る舞いはよく思い出せた。

 

「彼女は、本が好きだったよ…」

 

 まるで「彼女」がそこに居るかのように暗闇を見つめながら話すシンジの横顎を無言で見つめていた少女。

 僅かな沈黙の後、その少女の口から洩れた言葉に、シンジは慌てふためくことになる。

 

「好き…」

 

「は!? え…、ええ!?」

 

 自分の顔をじっと見つめる隣の少女の口から放たれた、思春期ど真ん中の少年の心を抉ってはぶち抜くその言葉に、腰を5センチばかり浮かせて顔を真っ赤にさせてしまうシンジである。

 

「好きって…、なに…?」

 慌てふためくシンジを他所に、隣の少女は相変わらずの涼やかな表情と声音で続けた。

 

 瞬間湯沸かし器と化していた頭が、今度は急速冷凍されていく。そして盛大に勘違いしていた自分を恥ずかしく思い、再び顔を真っ赤にさせてしまうシンジである。

 そんな自分の心の中の動揺を隠すように、シンジは隣の少女から投げ掛けられた質問に、しどろもどろになりながら必死に答えた。

 

「え、えっと。好きっていうのは…さ。例えば、こう、さ。心が惹き付けられるというかさ。それに対して、夢中になったり…、他のことが考えられないくらいに、…熱中したりだとか…さ。それを大切にしたい…だとか、大事にしたい…だとか。そんな気持ちのことを、好きって…、言う…、んじゃないかな…、って…僕は思っちゃったり…してるわけ…なんだけど…」

 

「そう…」

 自分の拙い説明を理解してくれたのだろうか。シンジはシンジの言葉を心の中で咀嚼しているかのように頷く少女の顔を、不安げに見つめる。その少女の赤い瞳が、そっとシンジの瞳を見つめた。

 

「それなら…」

 

「うん…」

 

「それなら…、碇くんは…、「綾波レイ」のことが、好き、だったのね…」

 

 重なり合う2人の視線。

 少女の言葉に虚を突かれたように固まってしまったシンジ。

 相手の答えを、じっと待ち続ける少女。

 暫しの沈黙。

 

「好き…」

 まるで初めて聴く音とでも言いたげに、シンジはその2文字を静かに口の中で転がした。

 

 少女の瞳から、少しずつ視線を逸らしていき、その視線は地べたを這い、やがて漆黒の闇の中へと溶けていく。

 

「そっか…」

 シンジは何かに納得しかのようにそう呟く。

 

「好きだった…んだ…」

 心の中に立ち込めていた霧の一つが、少しだけ晴れたような気がした。

 

「綾波の…ことが…」

 心の中が晴れていくと同時に。

 

「好き…、だったんだ…」

 霧が晴れた先に立っていた彼女が、すでに遠い遠い存在であることにも気付かされて。

 

「僕は…」

 

 

 独り言を呟いていた少年の声に嗚咽が混じり始め、少女は不思議そうに少年の顔を覗き込む。

「泣いてるの…?」

 その少女の問いに、少年は腕で目を覆い、下唇を噛みしめながら頷いた。

 

 

 自分の中に芽生えていた生まれて初めての感情に気付かされて。

 しかしその心を育んでくれた彼女はもうこの世界には居なくて。

 

 心に空いたぽっかりとした穴を涙で埋めるかのように、シンジは泣き続けた。

 

 

 過ぎ去った過去を、変える事なんてできない。

 覆すことなんてできっこない。

 

 分かっていたはずだ。

 あの槍を抜けば、全てが元通りになる。

 そんなバカげたことを信じて、制止する彼の声に耳を貸さず、強引に止めに入った彼女を排除して、槍を抜いてしまった。

 取り返しのつかないことをしてしまった。

 取り返しのつかないことをしてしまった僕の罪を、彼は全て背負いこみ、彼は笑顔で散っていった。

 

 過ぎ去った過去を、変える事なんてできない。

 覆すことなんてできっこない。

 

 身に染みているはずなのに。

 自分は、また同じ過ちを繰り返している。

 

 あの時は、目の前で殺戮される「彼女」そっくりの「あれ」を助けたい一心だった。

 だからあんなその場での思い付きの詭弁を弄した。

 そんな事できっこない。分かってるはずなのに。

 彼女は言った。

 自分のその甘い考え方そのものが、生命に対する冒涜だ、と。

 全くもって、その通りだ。

 

 過ぎ去った過去を、変える事なんてできない。

 覆すことなんてできっこない。

 

 そこにあるのは過去という名の事実。

 

 僕は彼女を、助けられなかった。

 

 好きな人を、助けることができなかった。

 

 綾波を、助けることが、できなかった。

 

 その厳然たる事実だけが、目の前に横たわっている。

 

 

 抱えた膝に額をくっ付け、肩を震わせて泣いている少年。

 その少年の隣に座る少女の手が、少年の肩へと躊躇いがちに伸びる。

 少女の手が少年の肩に触れようとして。

 しかし少女の手は少年の肩に触れることのないまま、何度か虚空を握った後、そのまま少女自身の膝へと戻る。

 

 少女は口を開く

「ごめん…なさい…」

 少年は顔を伏せたまま言う。

「なぜ…、君が…謝るの…?」

 少年に問われ、少女は目を伏せる。少女自身、なぜ自分が少年に対して謝罪の言葉を口にしたのか、理解できておらず戸惑っている様子だった。暫しの間地面とにらめっこをして、そしてその視線を横にずらし、少年のつま先を見つめる。そして少女はぼそりと呟いた。

「あなたの隣に居るのが…、私で…」

 少年は顔を伏せたまま頭を横に振る。

「そんなことで…、謝る必要なんて…ないよ…」

「でも…、私は「綾波レイ」のように強くない…」

 少年は伏せていた顔を少しだけ上げ、隣の少女を見る。

「「綾波レイ」のように、優しくもないし…。「綾波レイ」のように、人に勇気を与えることもできない…。「綾波レイ」のように…、笑うこともできない…。「綾波レイ」のように「美味しい」と言うこともできない…。「綾波レイ」のようにお料理をすることもできないし、本を読むこともできない…」

 何かに憑かれたように、否定の言葉を並べていく少女。

 少年はそんな少女の横顔を見て、何故か少しだけ笑った。そして、再び少年は顔を伏せ、膝を額にくっ付ける。

「当然じゃないか…。君は…、綾波じゃないんだから」

「綾波…じゃ…ない…」

 少年が呟いたその言葉を繰り返す少女の手が、ぎゅっと自身の膝小僧に爪を立てる。

「君は君だよ…」

 膝小僧に立てられていた爪が、ふっと緩んだ。

「私は…私…?」

「うん。君は君さ…。わざわざ僕が知ってる「綾波レイ」になろうなんて思う必要はないんじゃないかな…。君は君で、君なりの「君」になればいいんだよ…」

 

 

 隣にいる少女は「自分なんかが側に居て」と妙なことで謝ってきたけれど、きっと自分が延々と「彼女」の思い出話をしてしまったものだから、居たたまれなくなってしまったのだろう。

 でもシンジは涙を流しながらも、隣に座る少女の感謝していた。もし隣に少女が居なかったら、自分は失ったものばかりを考えて、底のない沼へと嵌り込んで2度と抜け出せなくなっていただろうから。

 少女が自分の取り留めのない、まるでうわ言のような独り言を聴いてくれたおかげで、ほら、自分の涙はすぐに止まった。

 

 何度か鼻を啜り、目じりの液体を拭って。

「ははっ。泣いちゃったよ…」

 照れ隠しに笑って。女の子の前で男がだらなしないな、と自嘲しながら、ふと隣を見て。

「え? ええ?」

 シンジは驚いて、間抜けな悲鳴を上げてしまった。

 

 隣で膝を抱えてちんまりと座っている少女。

 その少女の赤い双眸から、大粒の涙が零れ落ちている。

 

「あれ? え? ど、どうしたの?」

 目の前で女の子がぼろぼろと涙を流して泣いているという、齢14の少年の人生の中で初めてのシチュエーションに、大いに戸惑ってしまうシンジだった。

 

「…え?」

 どうやらシンジに声を掛けられるまで、自分が涙を流していることに気付いていなかったらしい。

「え? え?」

 少女は自分の目もとに手をやり、指で目尻を撫でると、その指を見つめた。確かに濡れている。

 自らの身に起きている現象をよく理解できていないらしい。しばらく指の先の液体を見つめていた少女は、目をまん丸にして、隣のシンジの顔を見つめた。

 

 お互い戸惑い顔のまま見つめ合う2人。

 

 

 少女の卵のようなつるつるとした眉間に次第に皺がより、お月様のようにまん丸だった目が細くなり、ぽかんと開いていた口が「へ」の字にひん曲がり。

 

 ガン泣きである。

 マジ泣きの始まりである。

 

 声を上げながら泣く少女。

 まるで幼子のように、人目もはばからずに泣き始めた少女。

 

「ご、ごめん」

 どうしたらよいのか分からず、とりあえずとばかりに謝ってしまった。

「僕が、何か傷つけるようなこと、言ってしまったんだね…」

 この場には自分と少女だけ。少女を悲しませてしまう原因は、自分にあるに違いないとシンジは思った。

 そんなシンジの言葉に、少女は両手で目を覆いながら、空色の髪をふるふると揺らし、懸命に頭を横に振る。

「え? じゃあどうして…」

「分からない…」

「え?」

「分からないけど…、勝手に…」

「勝手に…?」

 少女はこくこくと、小刻みに頷く。

「碇くんに…、「君は君」って言われて…。それを聞いて、胸の中が急に軽くなって…。そしたらお腹の中から…、色んなものが溢れてきてしまいそうで…」 

「それで泣いちゃったの?」

 少女はこくこくと、小刻みに頷く。

「…えっと…、僕に「君は君」って言われて…、その…、嬉しかったのかな?」

 シンジのその問い掛けに、少女は両手で目を覆いながら言う。

「「嬉しい」って…、なに?」

「え? えっと、心がぽかぽかしたりだとか、晴れ晴れしたようだったりとか。そんな気分のことだよ」

「じゃあ、それ」

「そ、そっか…」

 

 少女は相変わらずしゃくり上げて泣いている。

 その姿を横から見ていたシンジは気付いてしまった。

 おいおいと泣く少女の口から吐き出される白い息に。

 陽が暮れてからというもの、気温はぐんぐん下がっている。体のラインが丸見えのピッタリのスーツを着ている少女のその細い体は、見るからに寒そうだ。少女から与えられたアルミシートを羽織ってぬくぬくとしている自分が、何とも情けないと思ってしまうシンジである。

 

 何度も何度も思案を重ねた末。

 シンジは羽織ったアルミシートの左腕部分を広げると、自分の左腕を隣の少女の右腕にぴたっとくっ付ける。少女はスーツが適温に保ってくれると言っていたが、少女の腕は氷のように冷たかったので、シンジは慌ててアルミシートを少女の左肩に羽織らせ、2人でシートの中に包まった。

 シートに隙間があると外の冷気が入ってきてしまうので、なるべく2人寄り添って、密着しあって、シートの中に収まる。

 外の空気は凍てつくような冷たさだけれど、シートの中は2人分の体温に温められ、ぽかぽかと温かかった。

 シンジは少女が泣き止むまで、少女の冷たくなった体に自分の体温を分け与えていた。

 

 

 

 

 


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