勝手にシン・エヴァンゲリオン   作:hekusokazura

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第壱拾九話

 自分たちが降り立った台地は想像していたよりも遥かに広い場所だったらしい。延々と続く断崖絶壁を辿りながら、ようやく下界へと下りることができそうな緩やかな斜面を見つけ、引き返してきた時には、少女のもとを離れてから半日近くが経過していた。

 少女が待つ岩場へと戻る。

 少女は、自分が出発した時と変わらない姿で、ベンチ代わりの岩の上にちょこんと座っていた。

 

「やあ、ただいま」

 少女に向かって手を振りながら声を掛ける。

 

「…おか…えり…」

 少女は遠慮がちに返事をする。

 

 シンジは少女の隣に座った。

 岩の上に置かれたペットボトルに手を伸ばし、中身の水を少し口にする。

 Tシャツの襟口で汗の浮く額を拭った。

 

 

「ここから、ええと、太陽があっちから昇ったから、多分西だね。西の方に2時間ほど歩いたところに、下に行けそうな場所があったよ」

「…うん…」

 シンジの説明に、少女は小さく頷く。

「僕はそこから下に下りて、とにかくあの塔から離れようと思うんだけど」

「…うん…」

「君はどうするか、決めた?」

「私…?」

 シンジに問われ、少女は少し不思議そうな顔でシンジの横顔を見つめる。

「うん。ああそう言えば、呼び方は?」

「呼び方…?」

「うん。君の呼び方は決めた? まさか「クロ」じゃないよね」

「クロ…?」

「うん」」

 少女はやはり不思議そうな顔でシンジの横顔を見つめている。

 

「私はアヤナミレイ…」

 

「え?」

 今度はシンジの方が意外そうな顔で少女を見返す。

「私はアヤナミレイ…」

 淀みない声で繰り返す少女。

「そっか…」

 シンジは少女の返答を聴き、少しだけ残念そうに眉尻を下げる。少女の顔から視線を外し、数メートル先の断崖の向こう側に広がる広大な渓谷を見つめた。

「君がそう決めたんだったら…、うん」

 シンジは大きく頷く。少女がこれからもその名前を名乗るのが、何故か少しだけ残念だったけれど、少女の意志は尊重したかった。

「分かったよ…、アヤナミ…」

 改めて、少女の名を呼んだ。

 

 隣の少女の体が、大きく震えたような気がした。

 

 どこか様子のおかしい少女を、シンジは心配そうに見つめる。

「大丈夫? アヤナミ…」

 シンジのその問い掛けに少女は答えず、指を広げた自分の両手を何度かひっくり返しながら、じっと見つめている。

 まるでその手が、本当に自分の手であるかを確かめるかのように。

 20秒ほど手を見つめていた少女は、今度はその手を自分の両頬に当てた。まるで自分の顔の形を確かめるように、顔の上をペタペタと這っていく少女の両手。

 

 少女は自分の両頬を両手で挟んだまま、ゆっくりとシンジの方へ向いた。

 

「いかり…、くん…?」

 

「なんだい? アヤナミ…」

 

 少女の小さな鼻の孔が両方とも大きく開き、深く深く空気を吸った。

 

 少女は息を吸ったまま、何も喋らない。

 息を吸ったなら、今度は吐き出さないと苦しくなっちゃうよ、と心配し始めたシンジ。

 

 そのシンジの耳に、遠くの空から鳴り響く爆音が飛び込んできた。

 

 少女のどこか呆けたような顔から視線を外し、爆音が響いてくる空へと向ける。

 青い空の上に、染みのように浮かぶ何か。

 シンジには、そのシルエットに、見覚えがあった。

 

「ネルフだ…」

 

 シンジは慌てて岩から腰を上げる。

 

「アヤナミ。僕、行かなきゃ」

 少女は青い空に浮かぶ染みを見つめている。

「君はどうする? アヤナミ」

 少女に決断を促すシンジ。本心では、少女に向けて自分の手を差し伸べたかった。だが、これは少女自身が決めなければならないことだと思い、両手をぎゅっと握り、その拳を地面へと向ける。

 少女の答えを待った。

 

 空の染みを見上げていた少女。

 ゆっくりと、シンジへと顔を向ける。

 

 シンジは少女のルビーのような赤い瞳を見つめる。

 その瞳が、左右に一度ずつ揺れた。

 

「ここに…残る…」

 

 シンジは下唇を噛んだ。

 しかし、2度ほど、まるで自分に言い聞かせるように、大きく頷く。

 

「うん…。分かったよ…」

 

 改めて少女の顔を見つめた。

 

「アヤナミがそう決めたんだったら…」

 

 空を見上げる。

 空に浮かぶ黒い染みは、どんどんこちらに近づいてくる。

 

「じゃあ、アヤナミ…、僕…」

 この場から立ち去ろうとして、

「碇くん…」

 少女に呼び止められる。

 少女は携帯食料や水の入ったペットボトルなどを手早く搔き集めると、ボディバッグの中に詰め、シンジに差し出す。

「あ、ありがとう…」

「これ…」

 少女はシンジに手渡す荷物の中の一つを指差す。

「これは…」

「通信機…。これで、ヴィレの人、呼べばいい…」

「ヴィレとも通信できるの?」

「ネルフはヴィレの暗号通信技術を全て解析しているから。傍聴もできるし、通話もできる」

「そ、そうなんだ…」

 シンジは少女からバッグを受け取り、自分の肩に背負った。

 

「じゃあアヤナミ…」

 別れを切り出すシンジに、少女は小さく頷く。

 シンジは岩の上にちょこんと座る少女の顔を見つめながら、一歩、二歩と、後ずさりを始める。

 少しずつ遠くなっていく少女。

 心のどこかにある、この場を去り難い気持ちをどうにかねじ伏せて、シンジは踵を返し、走り始めようとして。

 

「碇くん…」

 

 再び少女のか細い声に呼び止められる。

 振り返ると、岩に座っていたはずの少女が、立ち上がっていた。痛めた左足を庇うように、少し右側に傾きながら。

 

「アヤナミ…」

 

 すでに遠く離れてしまった。

 少女の小さな顔はよく見えず、その表情をうかがい知ることはできない。

 

「碇くん…」

 

 空から鳴り響く爆音に掻き消されそうな、少女の小さな声。

 

 

「好きよ…、碇くん…」

 

 

 シンジの耳には、空から轟く爆音も、地表を撫でる風の音をも消え去り、その少女の声のみが響いた。

 

 唐突なその言葉に、目をまん丸にしてしまうシンジ。

 頬が硬直し、みるみるうちに赤くなる。

 

 忘れていた息遣いを思い出したように、ふう、と深く息を吐いた。

 

 やがてシンジは微笑んだ。

 

「うん、ありがとう…、アヤナミ…」

 

 シンジの微笑みに誘われるように、少女も微笑む。

 

 未だに頬を赤く染めたまま少女を見つめるシンジ。

 その少女もまた、白磁のような頬を少しだけピンク色に染めている。

 

「またいつか。どこかで」

 

 シンジのその言葉に、少女はほんの少しだけ間を置いて、やがてゆっくりと頷いた。

 

 シンジは名残惜しそうに少女を見つめながら踵を返し、やがて少女に背を向け、走り出した。

 

 

 

 

 

 

 数分ほど走って。

 

 背後から空気の抜けるような音がし、振り返る。

 空に向かって、眩い光を放つ火の球が、煙を引きながらぐんぐんと昇っている。おそらく、少女がネルフのVTOL機に向かって照明弾か何かを撃ったのだろう。

 シンジは歯を食いしばってその煙に背を向け、懸命に走り続ける。

 

 走って。走って。

 

 走り続けて。

 

 

 我武者羅に地面を蹴り続けていたシンジの足。

 

「アヤナミ」

 

 その足が少しずつ遅くなっていき、

 

「アヤナミ…」

 

 やがてその足は止まり。

 

「あやなみ…」

 

 立ち止まったシンジは後ろを振り返った。

 

「綾波…?」

 

 

 再びシンジは走り始める。

 引き返し、あの岩場に戻るために、走り出す。

 

「綾波…! 綾波…! 綾波…!」

 

 両腕を強く振って。

 大地を思い切り蹴って。

 時折地上に突き出た小さな岩に足を取られるのも構わず。

 必死に走り続けて。

 

 目の前に地面に広がる白いパラシュートが見えて。

 

 

「綾波!!」

 

 平べったい岩があった。

 

 少女がベンチ替わりに腰かけていた岩。

 

 あの少女がちょこんと座っているはずの岩。

 

 しかしその岩の上には人の影はなく。

 

 携帯音楽プレイヤーがぽつんと置かれているだけ。

 

 遠くの空には、こちらにお尻を向けて飛び去っていくVTOL機。

 

 

 シンジは岩の上に残された携帯音楽プレイヤーを拾い上げる。

 

「綾波…」

 

 彼女の名前を呟きながらしばしの間プレイヤーを見つめ、そしてVTOL機が去っていった空を見上げた。

 

 

 バッグのファスナーを開け、プレイヤーを大事そうに中に収める。

 

 VTOL機が去っていった空に背を向け、シンジは歩き始めた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 緩やかな斜面を下り、ようやく下界へと降り立つ。

 とはいえ景色の変化は乏しく、岩がごろごろ転がった荒野が続いている。

 台地から降りたところで遭難2日目の夜を迎えたシンジは、アルミシートに包まって一夜を明かした。

 

 人肌のない夜が、こんなにも寒いだなんて。

 アルミシートの中で震えるシンジは、堪らず意味もなく電池残量が少ないランタンを点す。そしてバッグの中から携帯音楽プレイヤーを取り出し、イヤフォンを耳に入れ、再生ボタンを押した。

 イヤフォンから流れてくる、もはや聴き飽きた音楽を聴きながら、手の中のプレイヤーを見つめる。

「綾波…」

 このプレイヤーを自分の手もとに届けてくれた少女の名を呟いた。

 

 プレイヤーは全ての曲を再生し終えたら、勝手にテープを巻き戻し、冒頭から再生を始める。

 もはや聴き飽きたはずなのに、どこかいつもと違うように聴こえる音楽に耳を傾けながら、シンジは眠れない夜を明かすのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 荒野をとぼとぼと歩き続ける。

 時折立ち止まり、少女から渡された通信機に語り掛ける。

 

「誰か…。誰か居ませんか…」

 

 通信機の側面のスイッチから手を離すと、スピーカーから聴こえるのはノイズのみ。

 

 あの少女が手にしていた時にはまるで何でも出てくる魔法のポケットのようだったバッグ。しかし今は中身にあるのは音楽プレイヤーとアルミシートだけ。食糧は食べつくし、空になったペットボトルは風に飛ばされてどこかに行ってしまった。

 凍えるような寒さだった夜とは打って変わって、昼間の大地の上は灼熱と化す。

 視界が霞み、大地を踏む足にも力が入らない。

 

 通信機のマイクを口に近づける。

 もう半分諦めの境地に達しながらも、今日20回目のコール。

「誰か聴いていませんか…。こちら…碇シンジです…。アスカ…、ミサトさん…。誰か…」

 

 スイッチを離す。

 

 スピーカーから聴こえるのは、ノイズのみ。

 

 堪らず、通信機を地面に投げ付けようとして。

 

 

『……ばれて…飛び出て…ジャジャジャジャーン!』

 

 

 こちらの切迫した状況とは真逆のような、バカみたいに明るい声がスピーカーから鳴り響いた。

 シンジは思わず両手で通信機を握り締める。

 

「誰!?誰ですか!」

 

『ワンコく~ん。元気してた~?』

 

「え? 誰?」

 

『あたしだよ! あたし!』

 

「だから誰?」

 

『も~つれないな~。マリだよぉ。真希波マリっちでーす』

 

「ごめんなさい。誰?」

 

 

 

 突如、背後からの激しい地響きと突風に襲われ、シンジは前のめりに地面に倒れてしまった。

 地面にしたたかに打った鼻を抑えながら、後ろを振り返る。

 

『もー! 屋上であたしのおっぱい揉んだの忘れちゃった~?』

 

 八つ目の巨人が、意味不明なことを言いながら立っていた。

 

 

 

 

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