「くそっ…」
アスカは悔しそうに呻いた。
少女の頭部目掛けて振り下ろされたハンマー。
そのハンマーが少女の頭部にあと5センチと迫ったところで止まってしまったのだ。
ハンマーの先端を中心にして広がる、オレンジ色に光る八角形の輪。
「AT…フィールド…」
自身の渾身の一撃を阻んだ絶対不可侵の壁の通称を呟いた。
オレンジ色の八角形の輪の向こうで、ギョロっと少女の瞳が動き、アスカの顔を見る。
「あなたに…、大事なシンジは…、やれないわ…。出直して…、らっしゃい…」
少女の足もとの床が弾け飛び、その下から飛び出した数十本ものケーブルの束が、アスカの腹部にめり込む。
アスカの体は「く」の字に曲がって吹き飛び、数百メートルもある筒状のエアロック室を縦断してて、その背中は格納庫へ通じる扉に叩き付けられた。
床へと崩れ落ち、動かなくなったアスカを、無感動な眼差しで見つめる少女。
ふと何かを察知し、虚空を見つめながら3回ほど瞬きをする。
「あのコの相手を…、していたから…、気付かなかったわ…」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「やりました! セキュリティプログラムが侵入者を排除! 武器管制システムは我々の支配下にあります! やったな、マヤ!」
画面上の赤い警告が全て緑に変わったのを確認し、日向はマヤに労いの言葉を掛けながらその肩を叩いた。
「この程度…、朝飯前よ…」
そう強がるマヤだったが、全精力を使い果たしたとばかりに額から大量の汗を流しながら深く息を吐き、だらしなくぐったりと背もたれに寄り掛かった。
差し迫った危機は脱し、艦橋のあちこちで歓声が上がる中、ミサトはインターカムに話しかける。
「こちら艦橋。リツコ、こっちは何とかなった。マヤがやってくれたわ」
「敵」が立て籠もる第5エアロック室前の格納庫。
リツコ、マリの他、駆けつけた保安部の警備兵たちがエアロック室前の扉に詰めている。
「こっちはアスカが突入して以来変化なしよ」
リツコがインターカムからのミサトの応答に答える。2人の会話に、マヤが割って入った。
『先輩。艦内セキュリティを「敵」から取り戻しました。今、エアロック室内の映像を出します』
「マヤ、よくやったわね」
『はい』
ミサト、リツコが持つそれぞれの端末機の画面に、エアロック室内に備え付けられたカメラの映像が映し出された。
「アスカ…!?」
まず最初に目に飛び込んできたものに、ミサトは悲痛な呻き声を上げる。
エアロック室の白い床。その上に横たわって、動かなくなっている人影。
白い床に広がる、短くなった赤い髪。
「リツコ!」
ミサトはすぐにエアロック室前に詰めているリツコの名を呼んだ。
『だめよ! 扉は内側からロックされてる!』
「艦内での爆発物使用を許可します! すぐに突入を!」
『分かってる。…えっ…?』
エアロック室内を映し出す映像に変化があり、ミサトもリツコも画面を凝視した。
艦の外へと通じるハッチに向かって、筒状の形をしているエアロック室。
その一番奥、ハッチの前に佇む空色髪の少女。
その少女の背中から、まるで鳥の翼のような、白い扇状のものが広がっており、ハッチを塞いでいる。
その少女の前に浮かぶ、八角形の光の輪。
ミサトは息を呑んだ。
「ATフィールド…」
「あれ」は初号機の分身のようもの。
であれば、「あれ」が初号機をはじめとするエヴァや使徒のみにその使役を許された、絶対不可侵の壁を操ることができたとしても、不思議ではない。
そしてその壁の発生は、「あれ」の前ではあらゆる通常兵器の使用は意味を成さないことを、ミサトらに知らしめるものだった。
ミサトは歯噛みしながらインターカムに囁く。
「突入…中止…」
通話相手も意見を交わさないままで、ミサトの見解に同意したらしい。
『分かったわ…』
リツコの返事が聴こえた。
映像内の変化は続く。
少女は背中に生やした6枚の翼を切り離すと、すっと移動を始めた。その足は床に付いておらず、空中を浮遊しながら、長い長いエアロック室内を移動している。数百メートルはあるエアロック室の丁度真ん中まで移動を終えて、少女の2本の足は床へと降り立った。
少女の前に1つだけ発生していた光の輪。
それが、少女が床へと降り立った後から1つ増え、2つ増え。
次々と光の輪が出現していく。
まるで少女を囲むように発生していく幾つもの光の輪は、やがてその範囲をどんどん拡大していき、筒状の室内を埋め尽くしていく。
そして。
最後に一瞬、画面一杯に光の輪が広がり。
それを最後に画面は真っ暗になった。
「カメラが物理的に破壊されたようです」
一緒に映像を見ていたマヤが報告した。
「エアロック室内はATフィールドで満たされています。こんな強力なフィールドを観測したのは、本部を破壊したあの「第10の使徒」以来です」
「鉄壁の防御という訳ね…」
マヤの報告を聴き、ミサトは頷きながらも何処か納得できないような表情をした。
「…あんなところに立て籠もって、一体何をするつもり…?」
スピーカーの向こうで、ミサトが黙ってしまった。
リツコはそんなミサトに進言する。
「艦長。エアロック室を含む、第5区画の放棄を提案します」
そのリツコの提案に、その横でサクラから手当てを受けていたマリが顔を上げた。
「放棄後、即刻第5区画を本艦から切り離し、主砲をもってこれを破壊するべきです」
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
マリが珍しく慌てた様子でリツコに食って掛かる。
「あの中にはまだ姫もワンコくんも居るんですよ!」
「両名の生存は未確認です。今は本艦の安全を優先するべきです」
「だああああ! この血も涙もない冷酷科学者が!」
マリは自身の栗色の髪を両手で掻き混ぜた。
「そもそも2人いっぺんに失ったら、誰がエヴァ動かすってゆーの!」
「あなたが居るでしょう」
「あたしを過労死させる気か!」
インターカムのスピーカーから2人の言い争いが聞こえてくる。
リツコの提案は、「敵」が艦の一角に立て籠もった時点でミサトも真っ先に思いついたものだった。一方で、マリの主張も無視できないものだ。組織の最高責任者として、今は一切の私情を排しているこの頭であっても、あの2人を同時に、特にヴィレのエースパイロットであるアスカを失うのは、ヴィレにとって大きな痛手となる。
ミサトが逡巡している間にも、事態は刻一刻と変化していた。
床が。
いや床どころの話ではない。
艦全体が、大きく揺れたのだ。
「なにが起きてるの!」
ミサトは部下に状況報告を求める。
「艦のスラスターが動いてます!」
宇宙空間での艦の姿勢制御を司るスラスター。ミサトが艦の軌道修正を指示した覚えはない。
一体誰がそんなこと、とミサトは原因の追究を求めるようなことはしなかった。
誰の仕業か。
それは考えるまでもない。
「くそっ! 今度は艦の自動操舵システムに…!」
マヤが悪態を吐きながら、慌てて端末機のキーボードを叩き始めている。
艦の操舵を担っている大柄の女性が叫ぶ。
「艦の軌道が変わります! 仰角が下がっています!」
「すぐに修正を! このままでは衛星軌道を外れるわ!」
「やってます!やってますけど…!」
操舵手が報告を言い終える前に、異変は起きた。
「なに!?」
騒めきが起こる艦橋。
艦橋内のあらゆる照明が一斉に消えたのだ。
一瞬にして暗闇に包まれる艦橋内。
「こんな時に停電…?」
マヤが、艦のシステムとの接続が断たれてしまい、画面がフリーズしてしまっている端末機を悔しそうに見つめている。あと2秒もあれば、自動操舵システムに侵入していた「敵」を排除できていたのに。
その横で、日向が真っ暗になったコンソールの中で、唯一光っている警告ランプを見て叫んだ。
「主機から…、初号機から本艦へのエネルギー供給が断たれました!」
ミサトは舌打ちをする。
「立て籠もってる側が兵糧攻めとはね…! すぐに予備電源に切り替えて!」
「はい!」
ミサトの指示から10秒後に、艦内は文明の光を取り戻した。
「予備電源に切り替え完了!」
その報告に、マヤはすぐさま端末機を起動させ、艦内システム全てのコンピュータセキュリティをチェックする。
「…消えてる…」
見つけ次第、秒で消してやろうと思っていた、自動操舵システムを占拠し掛けていたはずの侵入者は、その姿をシステム上から消していた。
「艦長! 自動操舵システムをオフにしました! マニュアルで姿勢制御が可能です!」
マヤからの報告に、ミサトは操舵輪を握る操舵手に言った。
「すぐに軌道修正を! 艦を衛星軌道に戻して!」
「了解! …あ、…あれ?」
大柄な女性の操舵手は必死に総舵輪を操っているが。
「軌道修正できないんですけど…」
「はあ?」
ミサトは操舵手を睨んだ。
「スラスターが動いてないんです…」
日向が叫んだ。
「艦長!予備電源から動力機関へのエネルギー供給ができません! 」
「なんですって…!」
今度は日向を睨む。
「中継器となる初号機がエネルギー供給を妨害しています…!」
日向のその報告に、ミサトはコンソールの端を拳で殴る。
「「敵」の狙いはこれか…! 初号機を機関部の中心に据えたのが仇となったわね…」
ミサトは悔いるように歯噛みしながら、艦橋の正面に設置された巨大な画面を見つめた。
画面上には、巨大な円。
その円を囲む、一回り大きな、点線で描かれた円。
内部の円は、地球を、外部の円は、艦の軌道を示している。
艦の位置を示す光の点滅が、点線を少しずつ外れ、内部の円へと少しずつ近づいている。
「艦長…」
日向は言う。
「今現在、我が艦はあらゆる動力を喪失しています」
日向の報告に、マヤの顔が青ざめた。
「それって…、操舵不能…ってこと…?」
「艦の墜落まで、あとどれくらい?」
ミサトは日向に訊ねた。
「あと、20分です…」
日向は事実をありのまま伝えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「副長、艦長に8号機の発艦許可貰っといて!」
マリはそう言い残し、サクラによる手当ても終わらないまま床から腰を上げ、出入り口へ向かい始めた。
「マリ! どこに行くの!」
リツコがマリを呼び止める。
「艦が沈んでるってんなら、やるこた決まってんでしょ!」
「まさか! 無茶よ! いくらエヴァでも!」
「「無茶は承知」がヴィレのモットーでしょ。んじゃ、よろぴく~」
軽やかな声を残して、マリは走り去ってく。
第三章 《終》