勝手にシン・エヴァンゲリオン   作:hekusokazura

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最終章
第弐拾伍話


   

   

     

   

 青。

 

 視界一杯に、青。

 

 これは空。

 

 青い空。

 

 瞳を動かす。

 

 手が見える。

 

 黒い手が。

 

 赤褐色の岩に投げ出された黒い腕が見える。

 

 その黒い腕を空に掲げてみる。

 

 黒い指の隙間から覗く太陽。

 

 その眩しさに思わず目を細める。

 

 背中に硬くて冷たい感触。

 

 平べったい岩の上に寝ていたらしい体を起こしてみる。

 

 体を起こすと、頭の位置が高くなる。

 

 途端に、激しい頭痛。

 

 脳味噌が内側から破裂したのかと錯覚するほどの頭痛。

 

 右手で額を抑えながら、左手を岩に付き、倒れそうになった体を支える。

 

 頭の中にミキサーでも突っ込まれ、撹拌されたような感覚。 

 全身を支配する震えと発汗。

 

 いつ終わるとも知れない頭痛に耐えながら、同じ姿勢のままでたっぷりと1時間。

 

 ようやく頭痛が引く。

 呼吸が落ち着いてきた。

 

 鼻の周りに違和感がし、右手の甲で鼻の周りを拭ってみる。甲に、干からびた血が付着していた。口の端にも涎が伝った痕があり、それも手で拭う。

 

 周囲を見渡す。

 大きな岩がそこかしこに転がる荒野。

 少し遠くに目をやれば、たくさんの岩山を抱えた台地が幾つも重なって続く。

 時折吹き付ける強い風が、地面の上の土を巻き上げている。

 

 冷たい風が肌を撫で、髪を揺らす。

 それでも、不思議と風の音はしなかった。

 

 耳に違和感。

 耳に触れてみる。

 耳の孔に、「何か」が突っ込まれている。

 耳の孔に突っ込まれた「何か」から、紐が伸びている。

 耳から伸びている黒い紐。

 紐は腰掛けている岩の端っこまで続いている。

 その紐を、手繰り寄せてみる。

 暫く引っ張っていると、岩の下から引きずり上げられた黒い物体が現れた。

 手を伸ばし、その黒い物体を拾い上げる。

 

 手のひらサイズの箱のような物体。

 箱の側面には、幾つかのボタンが並んでいる。

 その内の、三角形を横に寝かしたような表記のある一番大きなボタンを押してみる。

 

 

 耳の孔に突っ込まれた「何か」に、僅かな変化。「何か」から、ほんの微かに、小さな音。サーーという、耳を澄まさなければ聴き取れないほどの小さなノイズが鳴っている。

 しかしそれ以上の変化はなく、小さなノイズが鳴り続けるだけ。

 両手で持った黒い箱を見つめ、微かに鳴るサーーという小さなノイズに耳を傾けながら、何もせず、ただぼんやりと佇み、たっぷりと1時間。

 

 

 

『あーあー、テステス』

 

 突如人の声。

 

『本日は晴天也、本日は晴天也。…ちゃんと録れてるのかな? これ…』

 

 耳の孔に突っ込んだ「何か」から、突然、男性の声。

 

『まあいいや。誰か知らないけど、こんにちは、これを聴いている人』

 

 まるで一陣の涼やかな風のような、若い男性の声。

 

『そっちの世界はどうかな?

 

 空はどうかな? 青いままかな?

 

 海はどうかな? 生命の青を取り戻しているだろうか?

 

 地上はどうだろう。 人々の笑顔は戻ってきているかな?

 

 それらは、みんな彼が望んだものなのだけれど。

 

 もし、彼の望みが叶えられていて。

 

 世界がすっかり元通りになっていたならば、このテープはここで止めてほしい。

 

 もし、彼の望みが叶えられず、海も大地も赤いままであったならば、どうかこのまま聴いていてほしい。

 

 ……。

 

 ……。

 

 ……。

 

 …そっか。

 

 どうやら…。

 

 僕たちは失敗したようだね。

 

 そうか。僕は彼の望みを叶えられなかったんだ。

 

 彼には、また辛い思いをさせてしまったようだね。

 

 そうか…。

 

 …そっか…。

 

 …うん。

 

 …こんなこと、誰とも知らない君にお願いするのは、とても変なことなんだろうけれど。

 

 もし…。

 

 もしこれを聴いている君の側に彼が居て。

 

 もし彼がとても困っているようだったら。

 

 その時は、どうかお願いだ。

 

 彼を助けてやってはくれないだろうか。

 

 僕にはもう彼に手を差し伸べることはできない。

 

 きっと、僕にはもう差し伸べる手すらないだろうから。

 

 きっと、僕の頭と首から下は、もう離れ離れになってしまっているだろうからね。

 

 でも、今、これを聴いている君なら、きっと彼に手を差し伸べることができる。

 

 だって、君はまだ生きているんだから。

 

 だから、どうか、彼に手を差し伸べてほしい。

 

 彼を救ってやってほしい。

 

 彼がもう2度と、絶望に打ちひしがれないで済むように。

 

 彼の前に再び大きな困難が立ち塞がったとしても、恐れず強い心で前に進むことができるように。

 

 彼に手を差し伸べ、彼の背中を押してやってほしいんだ。

 

 君に手を差し伸べてやってほしい少年。

 

 その名前は、碇シンジ』

 

 

「…いかり…、しんじ…」

 

 

『無茶苦茶なお願いをしてるってことは分かってるんだけどね。

 

 でもなぜか、不思議と、これを一番に聴いてくれた人は、僕の願いを聞き届けてくれると思うんだ。

 

 きっとこのプレイヤーを手に取った人は、彼のとっても近しい人で。

 

 それでいて、きっと、彼のことがとても大好きな人だろうから。

 

 そうだとしたら、僕らは同志だ。

 

 僕の願いは、きっとそのまま君の願いだろうから。

 

 だからきっと君はやってくれると信じているよ。

 

 ははっ、ちょっとプレッシャーになっちゃったかな?

 

 じゃあ、頼んだよ。

 

 最後まで聴いてくれて、

 

 ありがとう…』

 

 

 

 耳の孔のイヤフォンから、ブツリと音がした。

 再び、サーーと鳴る小さなノイズ。

 身体にぴったりと引っ付いた黒いスーツを纏った少女は、紐を引っ張って両耳からイヤフォンを外した。

 手の中に収まる黒い携帯音楽プレイヤーを見つめる。

 

「いかり…、しんじ…」

 

 イヤフォンから聴こえた名前を、小さく呟いてみた。

 

 

 足音がした。

 はっとして、顔を上げる。

 

 少し大きな岩の向こうから、人影が現れた。

 

「やあ、ただいま」

 

 岩の向こうから現れたのは、一人の少年。

 華奢な体つき。短くまとまった髪。黒曜石のような瞳。

 

 何故か、胸が高鳴った。

 

「…おか…えり…」

 少年の急な呼び掛けに、たどたどしく返事をする。

 

 少年は少女の隣に座る。肘と肘が触れ合いそうになるほどの、近い距離。ペットボトルの水を飲む少年が鳴らす、喉の音までもがよく聴こえてくる。 

 少年は彼が現れた岩の方を眺めながら言った。

「ここから、ええと、太陽があっちから昇ったから、多分西だね。西の方に2時間ほど歩いたところに、下に行けそうな場所があったよ」

「…うん…」

 少年が何の説明をしているのか、よく理解できなかったが、取り合えずとばかりに頷いた。

「僕はそこから下に下りて、とにかくあの塔から離れようと思うんだけど」

「…うん…」

 少年がいう「あの塔」。周囲を見渡した時にちらりと見えた、遠くで天高く聳え立つ巨大な塔のことを言っているのだろう。

「君はどうするか、決めた?」

「私…?」

 突然話を振られ、慌てて少年の横顔を見つめる。

「うん。ああそう言えば、呼び方は?」

「呼び方…?」

「うん。君の呼び方は決めた? まさか「クロ」じゃないよね」

「クロ…?」

「うん」

 状況が。少年の言っていることの意味が分からず、ひたすら混乱してしまう。 

 

 

 

 

 私は…。

 

 

 

     私は…誰…。

 

 

 

 

 

「私は綾波レイ…」

 

「え?」

 少年が意外そうな顔で少女を見返した。

 

「私は綾波レイ…」

 

 

 

 そう…、  私は…、  綾波レイ…。

 

 

 

 

 

  私は

 

 

 

     綾波

 

 

 

        レイ

 

 

 

 

 

 ネルフ所属。

 第一の少女。

 エヴァンゲリオン零号機専属パイロット。

 綾波レイ。

 

 

「そっか…」

 少年は少し低い声で呟く。

「君がそう決めたんだったら…」

 自分を納得させるように頷く少年。

「うん、分かったよ…」

 そしてこちらに顔を向けて言った。

 

「綾波…」

 

 

 

 

     『あやなみ』

 

 

 

 

 少年の声で、その名前を呼ばれた瞬間。

 

 少女の目の前を、眩い光が瞬いたような気がした。

 

 痛みでぼんやりとしていた頭の中が、急に今の空のように隅々まで晴れ渡ったような気がした。

 

 

「大丈夫? 綾波…」

 隣の少年が、心配そうに声を掛けてきた。 

 

 自分の両手を見つめる。

 真っ黒な両手。初めて見る、黒のプラグスーツ。

 その手を自分の顔にぺたぺたと這わせ、自分の顔の形を確かめる。

 

 そう。これは間違いなく私。

 この手も、この顔も。

 これは、綾波レイ。

 

 でも、感じる。

 私の中に居る、もう一人の誰かを。

 

 綾波レイの中に居る、もう一人のアヤナミレイを…。

 

 では。

 

 それでは今、隣に座っている少年は。

 

 

 ―――その名前は、碇シンジ。

 

 

「いかり…、くん…?」

 

 

「なんだい? 綾波…」

 

 

 自分の問い掛けに、淀みなく返事をする少年。

 

 

 いる。

 

 彼が、すぐ隣に、いる。

 

 私を、見つめて、くれている。

 

 

 

 暫く見つめあっていた2人。

 少年はふと少女から目を離し、空を見上げた。

 空の彼方から爆音が聴こえてくる。

「ネルフだ…」

 少年は、苦い顔をした。慌てて岩から腰を上げる。

「綾波。僕、行かなきゃ」

 その顔に強い焦燥を浮かべながら少女を見下ろす。 

 少女は青い空に浮かぶ飛行物体を見つめている。

「君はどうする? 綾波」

 

 空を見上げ、飛行物体を見ていた少女。

 ゆっくりと、少年へと顔を向けた。

 

 

   あなたに付いていく。

 

 

 喉まで出かけていた言葉。

 

 しかし、何故かその言葉を素直に口にすることを躊躇われた。

 

 少年の顔を見つめる。

 

 

 ―――もし彼がとても困っているようだったら。

    

    その時は、どうかお願いだ。

 

 

 箱から出したばかりのジグソーパズルのようにバラバラになっていた頭の中身が、少しずつ組み上がっていく。

 

 

 ―――彼を助けてやってはくれないだろうか。

 

 

 彼を助ける。

 

 彼を助ける。

 

 碇シンジを助ける。

 

 

 そのために、今、自分がしなければならないこと…。

 

 

 彼と一緒に行く?

 

 いいえ。

 

 彼を引き留める?

 

 いいえ。

 

 彼を助けるために、今、自分がしなければならないこと…。

 

 

 

 少女はゆっくりと頭を横に振った。

 

「ここに…残る…」

 少女のその返事に、少年は少しだけ表情を曇らせた。その顔に、少女の胸がズキリと痛む。

「うん…。分かったよ…。綾波がそう決めたんだったら…」

 

 大きさを増していく爆音。

 

「じゃあ、綾波…、僕…」

 少年が別れの言葉を言いかけて。

「碇くん…」

 少女が引き留める。

 少女は携帯食料や水の入ったペットボトルなどを手早くかき集めてボディバッグの中に詰め、少年に差し出した。

「あ、ありがとう…」

「これ…」

 少女は少年に手渡す荷物の中の一つを指差す。

「これは…」

「通信機…。これで、ヴィレの人、呼べばいい…」

 

 ヴィレ…。

 

 ヴィレって…なに?

 

「ヴィレとも通信できるの?」

「ネルフはヴィレの通信暗号技術を全て解析しているから。傍聴もできるし、通話もできる」

 

 何故か自分の口から、自分が知るはずもないことがポロポロと漏れていく。

 

 そう。

 これはきっと、私の中に居る、もう一人の…。

 

「そ、そうなんだ…」

 少年は少女からバッグを受け取り、肩に背負った。

 

「じゃあ綾波…」

 別れを切り出す少年に、少女は小さく頷く。

 少年は一歩、二歩と、後ずさりを始める。

 少しずつ遠くなっていく少年。

 そして少年は踵を返して。

 

 何かが胸の中から溢れそうになる。

 

 心が張り裂けそうになる。

 

 叫んでしまいたい。

 

      待って!

 

 

 その背中に抱き着いてしまいたい。

 

           行かないで!

 

 

 咄嗟に立ち上がって、しかしすぐに左足に痛みが走り、続く1歩が出ない。

 

「碇くん…」

 

 自分でも気付かないうちに、少年の名前を呼んでいた。

 

 足を止めてくれた彼。

 振り返ってくれた彼。

 

「綾波…」

 

 彼が名前を呼んでくれている。

 

 その声を、何時までも聴いていたいと思った。

 

 すぐにでも、少し離れてしまった彼のもとに駆け寄りたいと思った。

 

 でも今は…。

 

「碇くん…」

 

 今、自分がしなければならないことは、彼のもとに駆け寄ることではないから。

 

 今の自分に許されることは、これくらいだから。 

 

 

「好きよ…、碇くん…」

 

 

 自分の想いを彼に伝える。

 そんな機会は決して訪れないであろうと思っていた、この瞬間。

 今は、このひと時を噛み締めて。 

 短い言葉に、今の自分の全てを乗せて。

 

 

 

 遠くの彼の顔が、微笑んだように見えた。

 

「うん、ありがとう…、綾波…」

 

 彼の微笑みに誘われるように、少女も微笑む。

 

「またいつか。どこかで」

 

 彼のその言葉に、少女はゆっくりと頷く。

 

 彼は名残惜しそうに少女を見つめながら踵を返し、やがて少女に背を向け、走り出した。

 少女は離れていく少年の後ろ姿を、見えなくなるまでずっと見つめ続けていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 彼は去っていった。

 残された少女は、彼の姿が消えた方向を、しばらくぼんやりと見つめていた。

 

 空から轟く轟音が間近まで迫っている。

 少女は手もとに残しておいた信号拳銃を天に向かって掲げ、引き金を引いた。

 銃口から放たれた照明弾は煙の尾を引きながらぐんぐん空へと昇っていき、空中で眩い光を放つ。

 

 

 VTOL機が少女の居る岩場の比較的平坦な場所へと着陸する。2つの回転翼が巻き起こす突風が、少女と少年を守ったパラシュートを何処かへ吹き飛ばしてしまった。VTOL機の側面からタラップが降り、そこから長身の男が、武装した兵士たちを伴って降りてくる。地上に降り立つと同時に兵士たちは散開し、周辺の警戒に当たり始める。

 

 VTOL機が着陸する様子を岩に腰かけたままぼんやりと見つめていた少女。男の姿を認め、すくっと立ち上がる。相変わらず左脚は痛むので、左脚に体重を掛けないよう少し右側に傾きながら。

 びっこを引きつつも、男のもとに向かって歩いていこうとしたら、少女が足を怪我しているらしいことに気付いた男は右手を上げ、その場で待っているよう少女に指示を出した。

 

 男が少女のもとに歩み寄ってくる。目もとは細いバイザーで隠れているため、外からその表情を伺い知ることはできない。

 男が少女のすぐそばに立つ。少女を一瞥した後、周囲をぐるりと見渡す。少女は黙って、男の顔を見上げている。

 一通り周囲を確認して、男は低い声で少女に言った。

 

「あれは…?」

 

 短い問い掛け。

 少女には、男が言う「あれ」の意味がすぐに理解できた。

 

 少女は地面を指さす。

 細い指がさす地面には、一人分の足跡。少女や男のものではない靴の足跡。VTOL機が起こす突風によって消えかかっている足跡が、2人が居る場所から西へと向かって続いている。

 

「そうか…」

 

 足跡の存在を認め、男は深く頷いた。

 

「よくやった…」

 

 不意に男から掛けられたその言葉に、ぼんやりと地面の足跡を眺めていた少女は、視線を上げて男の横顔を見た。

 

「あれが死ぬと、ユイが悲しむからな…」

 

 男は足跡が向かっている西の空を見つめている。男の表情は相変わらず読めないが、口角が少しだけ上がっているように少女には見えた。

 

 男はVTOL機に向かって歩き出す。

 少女はびっこを引きながら、男の背中を追った。

 

 

 VTOL機のタラップの側まで行くと、兵士の一人がゲンドウに話しかけた。

「西に向かって何者かの足跡が続いています。追跡しますか?」

 ゲンドウは首を横に振る。

「目的は果たした」

 そう言って、背後に立つ少女を見る。

「撤収だ」

 そう言い残し、ゲンドウはタラップの急な階段を上っていき、機内へと入っていく。

 少女もゲンドウの後を追う。

 左脚を痛めているため、手すりに寄り掛かりながら一段一段、慎重に。

 

 最後の一段になって、ふと振り返る。

 VTOL機から少し離れた岩に、一晩、彼女と彼を温めてくれた白いパラシュートが引っ掛かっていた。そこからさらに視線を上げ、少年が去っていった西の空を見つめる。

 手すりを握る少女の両手に、ぎゅっと力が籠もった。

 

 階段の最後の一段になって立ち往生している少女の顔の前に、白い手袋を嵌めた手が差し出された。

 びっくりした様子の少女は少し目を丸くして、厳つい手の持ち主の顔を見上げる。

 機内から、ゲンドウが少女に向けて手を差し伸べていた。

 

 少女は今一度西の空を見つめると、振り返り、差し伸べられたゲンドウの手を遠慮がちに握る。

 ゲンドウに導かれるままに、機内へと入った。

 

 

 

 斜向かい向いの席に座るネルフの最高司令官、碇ゲンドウ。

 ゲンドウは、窓ガラスから見える眼下の赤茶けた大地を見ている。

 ゲンドウと行動を共にし、彼が乗る機に同乗するのはこれが初めてではない。そんな時は決まって、ボックス席の窓側にゲンドウが座り、少女はその斜向かいの廊下側の席に座る。交わされる会話はほぼなく、ゲンドウは機内でこなすべき仕事がなければ窓ガラスの外の風景に目をやって、機が目的地に着くのを静かに待っていた。

 

 この日もゲンドウは窓側の席、少女はその斜向かいの廊下側の席。会話はなく、ゲンドウは肘掛に立てた腕に顎を乗せ、窓ガラスから外の景色を眺めている。

 それはいつもと変わらない光景。

 ただ、その様子を向かいの席からそっと見守る少女には、ゲンドウの姿がいつもと違って見えた。

 いつも彼の周りを漂う張り詰めた空気が、この日は少しだけ柔らかいように感じた。

 目は相変わらず細いバイザーで隠れているが、その横顔は、いつもよりも少しだけ穏やかに見えた。

 ゲンドウは肘掛から体を起こすと、背中を座席の背もたれに預け、お尻の位置を少し前にずらし、足を向いの席の下まで伸ばす。

 

 少女の顔に、少しだけ驚きの表情が浮かぶ。

 

 随分とリラックスした姿勢。

 視線は変わらず窓ガラスの外へやったまま。

 しかし、その口角は間違いなく曲線を描いている。

 お腹の上に組まれたゲンドウの手。親指同士が忙しなく、くっ付いたり離れたりしている。

 

 そんな見たことのない最高司令官の姿を横目で見つめていた少女に対し、ゲンドウは不意に声を掛けた。

「レイ…」

 急に声を掛けられてしまい、観察でもするかのようにゲンドウを見つめていた少女は、咄嗟にゲンドウから視線を逸らした。目の前の空いた座席を見つめながら一呼吸置き、今度は顔ごとゲンドウに向ける。

 ゲンドウは変わらず視線を窓ガラスの外に向けたまま。

 彼からの言葉を、じっとして待つ。

 

「今まで苦労を掛けたな…」

 

 最高司令官からの思いもよらぬ言葉に、少女は刹那の間に3回瞬きをした。ゲンドウに向けていた顔をゆっくりと正面に戻す。もう一度ぎゅっと、今度は少し長めの瞬きをし、再び顔をゲンドウの方へと向ける。

 ゲンドウは変わらず視線を窓ガラスの外に向けたまま。

 少女は続くゲンドウからの言葉を待ってみたが、それっきり、ゲンドウの口から少女へ言葉が発せられることはなかった。

 窓ガラスに映るゲンドウの顔が見えないだろうかと少しだけ頭を上げ、視線の位置を変えてみたが、太陽の光が窓ガラスを明るく照らして邪魔をする。ゲンドウの表情を見ることは叶わないと悟った少女は、視線を膝の上に交差させていた自分の手に落とす。

 

 少女は自分の手を見つめて。男は窓の外を見つめて。

 以後、2人の間に交わされた会話はなく、機は静かな2人を粛々と目的地へと運んでいく。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 VTOL機から降りてくる碇ゲンドウを、副司令の冬月コウゾウが待っていた。

「素体の捜索隊が消息を絶った。最後の連絡直後にエヴァ8号機の飛翔を確認。素体はヴィレに渡ったと考えるべきだろうな」

「そうか」

 冬月の報告に、ゲンドウは短く答える。まるで他人事のような態度の最高司令官に、冬月は不満げに言った。

「どうする。我々にエヴァのパイロットは残されていないぞ」

「問題ない」

 冬月はタラップを踏む、今にも消え入りそう軽い足音に気付いた。

 視線を上げると、タラップの上に黒スーツの少女の姿。足を怪我でもしているのか、手すりに体重を預けながら急な階段を苦労して降りてきている。

「生きていたか…」

 冬月は半分呆れ気味に鼻から溜息を吐いた。

「お前の息子は?」

「無事だそうだ」

 2人が会話している間に、少女は何とか最後の段まで辿り着く。

 搭乗時と同様に、ゲンドウは少女に向かって手を差し伸べた。やはり少女はゲンドウの手を躊躇いがちに手に取り、やや高い位置にある最後の段を降り切り、地面へと立った。

 

 冬月は少女を見下ろす。

「本当に問題ないのか」

 それはゲンドウに向けられた言葉。

「ああ」

 ゲンドウの何の根拠も添えられない短い返事に、冬月は再び不満げに鼻から溜息を吐く。

 

「第一の少女」

 冬月は見下ろしている少女に声を掛ける。目の前に立っているのに、目を合わせようともせず、冬月の胸の辺りをじっと見つめている少女に。

「君は誰だね?」

 そう訊ねられ、少女は初めて顔を上げ、冬月と目を合わせた。

 

 冬月は昨日も全く同じ質問を少女に投げ掛けた。

 その時の少女は今にも自我崩壊を始めてしまいそうな、目も虚ろで憔悴し切った酷い顔をしていたものだ。

 しかし今、自分を見上げている少女。一晩の野宿で疲労が伺えるが、顔の一番目立つところに収められた2つの瞳が放つ輝きは、昨日とは全く違うものだった。

 ただそれだけで、昨日の少女とは全くの別人物のように見えてしまう。

 

 少女が、その小さな唇を動かした。

 

「私は…、綾波レイです…」

 

 その名を名乗るに最も相応しい声音で。

 誰も疑う余地など抱かせない、妙な説得力さえ持ち合わせる口調で、少女は名乗った。

 

 

「レイ」

 ゲンドウからの呼び掛けに、少女は冬月から視線を逸らした。

「休め。疲れただろう。あとで部屋に医者を向かわせる」

 ゲンドウはそれだけを言い残して去っていく。

 

 離れていくゲンドウの背中を目で追う少女。

 

 その少女の横顔を、冬月はじっと見つめている。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ゲンドウが指示した部屋。

 天幕が張られただけの、部屋とすら呼べない部屋。

 カーテンを開けて、中に入る。

 

「碇くん…」

 

 ぽつりと彼の名前を呟く。

 部屋の中にほのかに残る、あの少年の匂いを感じた。

 部屋の隅にあるゴミ箱に目をやると、中には固形食の包装紙が丸めて投げ込まれている。

 いつも適当に丸めて部屋の隅に投げている寝袋が、丁寧に畳まれて置かれている。

 

 簡素なパイプ椅子に腰を下ろす。

 

「碇くんが…、ここにいた…」

 

 噛みしめる様に、少女は呟いた。

 

 

 ゲンドウが予告した通り、医者がやって来た。

 少女の痛めた左足を診察し、中等度の内反捻挫と診断され、足首にサポーターが巻かれた。

 医者は少女に鎮痛剤を渡し、部屋から去っていった。

 

 部屋に少女以外、誰も居なくなって。

 少女は椅子から立ち上がり、びっこを引きながら部屋の隅へと歩いていく。

 部屋の隅にあるゴミ箱を覗き込む。

 その中には、使用済みの白い包帯。

 医者が少女の足首の診察のために、既に巻かれていたものを取り外し、ゴミ箱に捨てたものだ。

 少女はゴミ箱から包帯を拾い上げ、再びびっこを引きながら椅子へと戻る。

 椅子に腰かけ、手にした包帯を見つめた。

 暫く、じっと包帯を見つめていて。

 そして包帯を左の前腕に巻き付け、包帯の端を片手のみで器用に結ぶ。

 椅子から腰を上げ、カーテンをくぐって部屋の外へと出た。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 照明が落とされた司令室。

 部屋の中央に配置されている、背もたれたが限界まで下ろされたリクライニングシートに、深く腰掛けるゲンドウ。

 真っ暗な天井を見上げながら、ただひたすらその時を待つ。

 他者に運命を委ねることを最も忌むべきものとし、望むべき状況は自らの手で作り出すことを信条としてきたゲンドウにとって、「待つ」ことだけに費やされる時間は苦痛以外のなにものでもない、はずだった。

 

 ネルフ本部開設以来、長年使い続けてきたこの椅子。

 今日、初めてリクライニング機能を使った。

 ベッドに入って休むことすら少ないゲンドウにとって、ここまでリラックスして何かに身を預けるのは、「彼女」がその姿を消した日以来のことだった。

 

 そしてその時はやってきた。

 背もたれから体を起こすゲンドウ。

 天井を見上げたまま、立ち上がった。

 

「戻ったか…」

 

 まるで見つめる先に居る誰かに語り掛けるように呟く。

 

「初号機の覚醒…、13号機の覚醒…、そして君の受肉…、全て君の預言通りだ…」

 

 椅子の前のテーブルに備えられたスイッチの一つを押す。

 

「冬月」

 呼びかけから数秒後。

『なんだ?』

 彼の腹心からの応答。

「レイを呼べ…」

「……分かった」 

 

 

 

 

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