薄暗い廊下の奥から少女が歩いてくる。
びっこを引いて、歩いてくる。
「碇から部屋で休むよう言われていたのではないか」
少女を探していた冬月はようやくその姿を見つけ、溜息を零しながら少女に言った。
少女は冬月に向かって歩きながら、軽く頭を下げる。どうやら冬月に対して謝罪しているらしい。
「もういい。碇が呼んでいる。司令室に行きたまえ」
少女は冬月の側を通り過ぎながら小さく頷き、最寄りのエレベーターの前で立ち止まった。
エレベーターが来るのを待つ少女。痛めた左足に体重を掛けないよう、右に傾きながら、じっと立っている。
その姿を暫し観察し、ふと、少女が歩いてきた方に目を向ける冬月。
廊下の突き当りにあるもの。
扉。
あの扉の向こうは何があったか。あまりにも大き過ぎる構造物であるため、どの階のどの部屋に何があるかなど、いちいち覚えてなどいない。
ただ、あの扉の向こうが何であったか。
冬月は覚えていた。
そこにあるのは資料室。ネルフにまつわるあらゆる文献が収められた書庫。
「資料室に何の用が…」
少女に訊ねようとして、再びエレベーターの方へと視線を向ける。
エレベーターに乗ってしまったのか、すでにそこには少女の姿はなかった。
資料室へ入る冬月。
人の出入りが殆どない部屋なので、空気は淀み、あらゆる場所を埃が被っている。
資料室には紙ベースで蓄積された様々な文献が雑然と積み重なって保管されているが、全ては電子化されサーバーに保存されているため、部屋の真ん中にぽつんと置かれた端末機で閲覧が可能になっている。
冬月は端末機を起動させ、閲覧履歴を確認する。最終閲覧日時はつい10分前。
どれもこれも一昔前であれば第一級の極秘資料であるが、人類の殆どが「消え」、秘匿する相手が居なくなった今では、この資料室に立ち入れる者ならば誰でも閲覧が可能な状態である。
冬月は怪訝そうに眉を顰めながら画面に見入る。
「なぜ、「あれ」はわざわざこれを…」
「綾波レイ」という存在がこの世に誕生して以来、「綾波レイ」を名乗ってきた彼女たちは、冬月らネルフの大人たちにとって、命令に従順な使い勝手の良い道具だった。そして運用していく上で様々な問題を孕んだ彼女たちも、下された命令に一切の疑問を抱かず盲目なまでに従うという一点においては、実に優秀な道具だった。
彼女たちは彼女たちに命令する組織に対して、「なぜ」を持たない。だから、知ろうともしない。
この部屋に立ち入る権限を持つ者はほんの一握りしかおらず、彼女はそのほんの一握りの1人だったが、この本部が誕生して20年近く。その間、彼女がこの部屋に立ち入ったことなど、一度もなかった。
なぜ、今更になって。
彼女は「過去」の資料を読む必要があったのか。
タッチパネルでページを捲っていた冬月の手が止まった。
いや。そもそもなぜ彼女は…。
「なぜ彼女は…これを読めるのだ…」
テーブルの隅に設置された通信機からコール音。
ゲンドウはスイッチを押す。
『碇』
「冬月。レイはどうした?」
出頭を命じた少女は、まだ司令室にその姿を現してはいない。
『碇』
しかし冬月はゲンドウの質問に答えず、逆に質問を返してきた。
『お前が連れて帰った少女。あれは本当にレイか?』
ゲンドウの眉間に皺が寄る。
「何を言っている」
『あれが資料室で文献を読んだ履歴がある』
「文献を、「読んだ」?」
『ああ。主にジャイアントインパクト。そして25年前のコアへのダイレクトエントリーとサルベージ実験に関する資料だ』
ゲンドウはバイザーの奥の目を細めた。
スピーカーの向こうで冬月は続ける。
『碇、繰り返し問うが、あれは本当にレイか?』
ゲンドウは冬月の問い掛けには答えず、低い声で言う。
「レイはどこだ?」
エレベーターの前に来た冬月。
エレベーターのカゴの位置を示す電子表示に目をやる。
奥歯を噛み締めた。
通信機のスイッチを押す。
「「あれ」は地下に向かっている…!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
巨大な縦穴の真ん中を通る巨大なリフト。本来は巨大な人型兵器の昇降用に設置されたリフトの、これまだ巨大な踏み台の隅っこに、まるで箸の先端に引っ付いたお米粒のように、ちょこんとその少女は座っていた。
縦穴の中は照明の類は一切ない。少女が着こむ黒いスーツ。グローブの甲の部分に仕込まれたライトが青白い光を灯している。しかし縦穴はあまりにも巨大すぎて、小さなライト程度では少女の周辺をぼんやりと照らすことしかできない。縦穴の壁ははるか遠くにあるはずなのだが、とてもそこまで光は届かず、少女の位置からは真っ黒な壁がすぐ目の前にあるように見える。
降下を続けるリフト。数メートル先も見通せない闇。常人であれば平衡感覚と時間感覚を失い、発狂してしまいそうになるような空間だったが、リフトの隅っこにぽつんと座る少女は、微動だにせず涼やかな眼差しで暗闇を見つめていた。
リフトは何時間も掛けて降下し、ようやく縦穴の最深部へと至る。
少女は踏み台からぴょんと跳ね、地面へと着地。左足を痛めていたことを忘れていたようで、着地した瞬間にバランスを崩し、その場に尻餅を付いてしまう。お尻を擦りながら立ち上がり、下半身に付いた埃を叩いて払って歩き始めた。
少女の足が踏む地面。何かが風化し、小さく細かく砕けた、白い残骸のようなものが敷き詰められている。まるで砕けた白骨のようなものの上を、少女は涼やかな顔で歩いていく。
縦穴の底も、やはり真っ暗闇。底がどのような形状で、どれくらいの広さなのかも分からない。
小さなライトの乏しい明かりのみで、少女は暗闇の中を歩いていく。
何時間歩き続けただろう。
もはや少女を地上へと戻すためのリフトの位置すら分からない。しかし少女ははなから地上へと戻ることなど考えてないかのように、暗闇の中を彷徨い続けた。
そしてその声は、何の前触れもなく、突然に暗闇の中から掛けられた。
「ああこっち。こっちだよ。そこの君」
少女は足を止めた。
声がした方へと目を向けるが、そこは相変わらずの闇。
「うん君だ。君を呼んだんだ」
少女は声のする方へと歩き出す。
「そうそう。こっちだこっち。そのまままっすぐ」
声の導きのままに歩いていく。
「はいストップ。ストップだよー。おーい」
声に言わるままに、歩みを止める。
「うん。よく来てくれたね。ありがとう。でもごめん。君、僕のこと踏んでるんだけど」
声が真下から聴こえたので、少女は視線を自身の足もとに落とす。
言われて気付いたが、今までの何かの白い残骸が敷き詰められた地面とは明らかに違う感触が、足の裏にある。
足をどけてみる。
少女の足のあった場所に、人の目があった。
グローブのライトを人の目がある部分に向ける。
そこには奇妙なものがあった。
それは人の顔。
と思われるもの。
ただし、人の顔というには、色々なものが足りない。
確かに目はあるし、まつ毛も眉毛もあるし、耳も頬もある。
しかしそれだけだ。
本来2ずつ対となってあるはずのそれらは、1つしかない。
その顔は、本来あるべき頭部の4分の3を失っていた。
口も鼻もないし、頭部の下にあるべき四肢、体幹もない。
そんな頭部の4分の1しかない姿で、少女に語り掛けてくる「顔」。
常人であれば驚愕、または恐怖し、悲鳴の一つでもあげるなり、腰を抜かすなりしそうなものだが、少女は平然とした表情のまま、無感動にその「顔」を見つめている。また、同時に何故そんな状態で生きているのか。口すらない状態でどうやって声を出しているのか。そんな疑問も湧いてくるはずだが、少女は表情を一切変えず、涼やかにその「顔」を見つめている。
「あー、ちょっとライトを避けてくるかな。眩しくてかなわないよ。うん、ありがとう。…あれ? 君って」
「顔」は少女の顔を初めて確認できたらしい。
「やあ君だったのか。「こっち」に戻ってきていたんだね。もしかしたらあの録音、聴いてくれたのかな」
少女は小さく頭を縦に振る。
「それでわざわざこんなところまで僕に会いに来てくれたんだね」
その言葉に対しては、少女は小さく頭を横に振った。
「そうなのかい? ああ、なるほど。目的は「あれ」ってことか」
「顔」の瞳がぎょろりと動き、闇の奥を見つめる。
「「あれ」なら多分、あの辺りに落っこちてると思うよ」
少女も、「顔」が見つめる闇の奥に視線を向ける。グローブのライトをその方向に照らしてみるが、乏しい明かりでは闇の奥までは照らすことが出来ない。
「でも君」
「顔」に呼び掛けられ、少女は足もとに視線を落とす。
「見たところエヴァもないようだし。どうやってあれをここから運び出すつもりだい?」
「顔」にそう問われ、少女はぱちくりと瞬きをする。
そんな少女の反応に、「顔」の目が愉快そうに細まった。
「ははは。そこまで頭が回っていなかったのかな」
「顔」のそんな言葉に、少女は口の両端を少しだけ下げる。どうやら笑われて、少しだけ不機嫌になっているらしい。
「きっと彼を助けたい一心で、他のことは目に入らなかったんだろうね。あの時の彼と一緒だ」
少女の不機嫌さを察知した「顔」は、慌ててフォローを入れる。「彼と一緒」という「顔」の言葉に、少女の顔が少しだけ和らいだ。
暗闇の中から現れて以来、殆ど表情を変えることがなかった少女。
自分のこんな姿を見ても、驚きも恐怖も見せず、涼やかな表情で自分を見下ろした少女。
しかし、そんな少女であっても、注意深く観察してみれば、心の動きに合わせてその表情に変化させている。
そんな少女を、「顔」はどこか嬉し気に見上げた。
「彼のことが好きなんだね?」
唐突な「顔」の指摘に、少女は再び目をぱちくりとさせる。
やがて両頬を染めつつ、こくりと静かに頷いた。
心の動きに合わせて変化する少女の表情。
特に「彼」のことであれば、その変化はより顕著に表れるらしい。
「ありがとう、彼を好きでいてくれて」
そう言った「顔」は、少女の赤く染まった頬を見て、一つしかない頬を満足そうに緩めている。
「僕も彼のこと、好きだよ。彼を好きな者同士、きっと僕らは協力し合えるだろうね」
少女は深く頷く。
「うん。…彼は今、困った状況なのかな?」
少女は目もとを引き締め、少し険しい眼差しで頷く。
「彼を助けるためには、「あれ」が必要なんだね?」
「顔」は再び闇の奥に一つしかない瞳を向けた。
少女も「顔」が見つめる闇の奥を見ながら、頷く。
「じゃあ「あれ」を持って、すぐに駆け付けてあげないとね」
少女は「どうやって?」と言いたげに、首を傾げている。
「知らないかな? アダムとリリスの禁じられた融合の話しを」
少女は「でも」と言いたげに、「顔」を見つめる。
「うん、そうだね。僕は第一から第十三に堕とされた身。君も第二の欠片でしかない。だから融合は不完全なものになるだろうけれど、それでも僕たちの目的を達成するにはそれで十分じゃないかな?」
少女は暫く考え込む様子を見せ、そしてゆっくりと頷いた。
その少女の返事に、「顔」は満足げに目を細める。
「じゃあ決まりだ。ごめんね。ホントは協力し合う証に、君と握手くらいはしたいんだけれど、今の僕はこんな有様だから」
少女は「構わない」と頭を横に振る。
「ありがとう。ここに来てくれたのが君で、本当に良かったよ」
「顔」の心からの謝意に、少女は頷くことで答えた。
そして少女はゆっくりとその場に膝を折る。
地面の「顔」に向けて、両手を差し伸べる。
水を掬うような動作で、そっと、大事そうに「顔」を両手で拾い上げた。
膝を伸ばして立ち上がり、手の中の「顔」を見つめる。
「顔」の一つしかない目も、少女を見上げる。
「まさかこんな状態になってしまっても、彼の役に立てるなんて思わなかったよ」
嬉し気な「顔」の表情に釣られるように、少女も少しだけ口角を上げた。
「あれ? そう言えば」
何かを思い出したように、「顔」は目をぱちくりとさせた。
「確か君って、肉が苦手なんじゃなかったっけ?」
「顔」のそんな指摘に、少女は口を開く。
「碇くんのためだもの…。我慢するわ…」
そんな少女の答えに、「顔」は目を細める。
「愛、だね」
その一文字がこの世界で最も尊いものであるかのように呟く「顔」。そんな「顔」に、少女は顔を近づけ、その小さな口を大きく広げた。
少女の口の端から覗く小さな犬歯が、「顔」の眼球に触れ、そしてブチュリと潰していく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
高速エレベーターが地下の最深部へと到着する。
エレベーターから降り立つ、1人の人物。
左手に持った、手のひらサイズの端末機の画面を見た。その画面に映し出される発信機の信号を辿って、暗闇の中を歩き始める。右手に持った懐中電灯の強烈な光が、闇を切り裂いていく。
暫く歩いて。
懐中電灯の光の中に、闇の中で佇む人影が浮かび上がった。
足を止める。
「レイ…」
黒のスーツを着た人影に、呼びかけた。
こちらに背を向けていた人影は、ゆっくりと振り向く。
やがて現れた人影の顔に、ゲンドウは少しだけ息を呑んだ。
振り向いた少女は、お椀のように組んだ両手で、何かを大切そうに持っている。
少女は声を掛けてきたゲンドウをじっと見つめながら、両手を口に近づけ、手に残っていた最後の一欠片を口に入れた。
もぐもぐと咀嚼。まるでリスのように膨らむ少女の両頬。
口の中のものを歯でこなごなに砕いたら、ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
口を開けて、はあ、と一息漏らす。少女の吐息が白い蒸気となって、宙へと立ち昇り、そして消えていった。
少女は口の周りにべっとりと付いた真っ赤な液体を、右腕で拭う。
まだ口の周りには赤い液体が残っていたが、少女は気付いていないのかそれ以上拭おうとはせず、空っぽになった手をぶらんと下げた。
「碇司令…」
少女は自分に声を掛けた男の名を静かに言う。
「何をしている。…レイ」
ゲンドウは低い声で訊ねる。
「食事を…」
少女は答えようとして、咄嗟に口を噤み、手で口を覆った。
両手で口を押さえている少女を、ゲンドウは見つめている。
少女まではあと数歩の距離。
しかしゲンドウの足は、これ以上少女に近づくことを拒否している。
そんな自分の体の反応に戸惑いながら、ゲンドウは少女に問いかけた。
「お前は本当に、アヤナミレイか…?」
相変わらず両手で口を押えている少女。ゲンドウから問われても、沈黙を守ったまま。
両頬を膨らませ、肩で深く呼吸をしている。
少女の目はまん丸に開かれ、額には脂汗が伝い、何処か顔色も悪い。
どうやらえずいてしまったようだ。久しく口にするの事のなかった動物性たんぱく質と脂質に、胃がびっくりしてしまったらしい。今口を開いてしまえば戻してしまいそうなのか、少女はゲンドウの問い掛けに答えることなく口を両手で塞ぎ続け、ゆっくりと鼻で息をしながら、食道をせり上がってきそうなものを、胃の中へと落とし込んでいる。
「答えろ…、レイ…」
そんな少女の事情など知らないゲンドウは、再度問いかける。
口を開けることすらままならず、一人、消化管の不快感と闘っていた少女は、ゲンドウの催促に仕方なしに目を閉じ、乱れた呼吸を強引に封じ込めた。
口から手を離す。
涙目になりながら、ゲンドウを見つめる。
「はい。私は綾波レイです…」
鼻の奥に胃酸の臭いを感じながら、少女は答えた。
ゲンドウは少女の顔をじっと見つめる。
「何を食べていた…?」
「そこに落ちていたものを…」
「腹が減っていたのか…」
「はい…」
「美味かったか…?」
「酷い味でした…」
「拾い食いは行儀が悪い上に不衛生だ…」
「はい…、2度としません…」
「うむ…」
会話を重ねていく内に、少女の顔からは脂汗が引いていき、血色も少しだけ良くなり、呼吸も落ち着いてきた。
ゲンドウは硬直していた足をようやく前に出し、一歩、少女に近づく。
「レイ…」
「はい…」
ゲンドウの呼び掛けに、少女は静かに返事する。
「お前に頼みたいことがある」
「はい…」
「13号機を単座式に換装した」
「はい…」
「今から13号機に乗れ」
「……」
「13号機で、ユイを迎えに行ってほしい」
「……」
少女は返事をしない。
ゲンドウは、少女を見つめたまま黙って少女の返事を待つ。
長い沈黙。
この地下に音源となるようなものはなく、また酷く広大な空間のため音を反射させるものも少なく、向かい合った2人が声を発しなければ周囲は全くの無音に包まれる。
鼓膜を震わせるものがなく、ゲンドウの耳に耳鳴りが響き始めた頃になって、ようやく少女は口を開いた。
「碇司令…」
「なんだ…」
「それは出来ません…」
「綾波レイ」という存在がこの世界に誕生して約20年。幾度も代替わりを重ね、個体ごとに多少の差異はあったとしても、その本質は変わらない。
碇ゲンドウの命令に対する、絶対的な服従。
碇ゲンドウは、この日初めて「綾波レイ」という存在からその言葉を聴いた。
自分の命令に対する、否定の言葉を。
バイザーの奥の目が険しくなる。
「なぜだ…」
少女は抑揚のない声で答える。
「不可能だからです」
「なぜ、不可能なのだ」
「この世界に、碇ユイというヒトは、存在しないからです。存在しないものを、迎えにいくことはできません」
ゲンドウはゆっくりと首を横に振った。
「それは違う」
ゲンドウは、この男にしては珍しく、少女に対して言葉多めに丁寧に話しかける。
「今しがた、ユイはお前の素体を使ってこの世界に復活を遂げたばかりだ。ヴィレの戦艦で、彼女は私たちの迎えを待っている」
少女に向かって、促すように右手を差し伸べる。
「レイ。13号機に乗れ。ユイを迎えに行くのだ…」
白い手袋に覆われたゲンドウの手を、赤い双眸で見つめる少女。
その手から視線を上げ、ゲンドウの顔を見つめる。
そしてゆっくりと頭を横に振った少女に、ゲンドウの顔は再び険しくなった。
「司令。それは彼女ではありません」
「なぜ、お前がそんなことを言う」
問い質すゲンドウの声が、僅かばかり荒くなる。
「知っているからです」
「なぜ、知っている」
「司令。初号機の中に居たのは、あなたの最愛の人ではありませんでした。「あれ」は、エヴァ、いいえ。あなた方リリンや使徒の祖となるもの。アダムやリリスをしてさらに遡るもの。この地球上に存在した全ての生命の始祖」
少女に差し伸べていた手。
その手を下ろし、少女から一歩遠ざかる。
「レイ…、お前…、もしや…」
何かに気付いた様子のゲンドウ。その顔に、バイザー越しでも分かる程の驚愕の表情が浮かぶ。
少女は、その半生の大半を沈黙と共に過ごしてきた少女は、珍しく滔々と話しを続ける。
「あなた方が初めてエヴァへの直接接触を試みた時、被験者となったあなたの最愛の人は、エヴァの中の「それ」の存在に気付きました。そして接触を試みた自分たちの行いが、「それ」を目覚めさせ、ひいてはセカンドインパクトの再来を促す結果となりうることにも気づいた彼女は、自らを犠牲にして「それ」をエヴァの中に封じ込めました。その時点で彼女の自我は崩壊しましたが、彼女は強い人でした。自我を滅ぼされてもなお、エヴァの中に留まり、エヴァの制御システムとして「それ」をエヴァの中に封印し続けたたのですから」
そう話す少女の声には、世界を救うためにその身を犠牲にした女性。少女の素となった女性に対する敬畏を抱いているのか、少なからず熱量が籠っていた。
しかし、そんな少女の顔に、一筋の影が宿る。
「しかし「それ」は巧妙でした。彼女が施した封印を自らの力では解けないと悟った「それ」は、外からその封印を破るようしむけたのです。碇司令。あなたが彼女のサルベージを試みた時、彼女は自我を失ってもなおサルベージを拒否しました。しかし彼女に成りすました「それ」は、あなたにあるメッセージを授けたはずです」
少女に言われ、ゲンドウは眉間に深い皺が寄った。
「そう。あたなが彼女が立てた計画と信じ、人類補完計画として実行してきたものは、「それ」が彼女が施した封印を破るために企てたものです。そして今日、彼女の封印は破られました」
少女はゲンドウを見つめる。その瞳に、微かな憐憫の情を籠めて。
「碇司令。「あれ」は碇ユイではありません。長い間彼女の封印の中で過ごした結果、「あれ」は彼女の残留思念と溶け合い、あたかも彼女のようにふるまってはいますが。碇司令」
「やめろ…」
否定の言葉を言うゲンドウの声が震えている。
「「あれ」は決して碇ユイではありません」
しかし少女は追い打ちを止めない。「見てきた」事実を、淡々とゲンドウに告げていく。
「やめろと言っている…」
「碇ユイという人格は、もうこの世界には存在しないのです」
乾いた破裂音。
「ユイを愚弄するな…」
碇ゲンドウが握った拳銃の先から立ち昇る硝煙。
銃口が睨む先にあるのは、黒いスーツを纏った空色髪の少女。
その胸に、大きな穴がぽっかりと空いていた。
少女の上半身が大きく波打ち、喉奥からせり上がってきた大量の血液が、少女の口から溢れ出す。
「碇司令…」
大量の血を吐き出す口で、少女は彼女が慕ってきた者の名を呼ぶ。
碇ゲンドウが構える拳銃は続けて3発の銃弾を発射する。
放たれた銃弾は少女の脇腹を、肩を貫き、そして少女の首を貫いた。
「ユイは消えん。ユイは永遠だ…」
低く、震えた、まるで呪詛を吐くような声でゲンドウは言った。
少女の細い首は一発の銃弾で肉と骨の半分以上を抉り取られる。頭部の重さを支えきれなくなった首は根元から折れ、大量の血飛沫を吹き出しながら少女の頭部は背中の方へと倒れていった。
しかし体と文字通りの首の皮一枚繋がっていた頭部は、地面に落下することなく首からぶらんとぶら下がる。
ゲンドウは拳銃の短い銃身の先にある少女の体を睨む。
鼻で、荒く空気を出し入れしながら。
胸、腹、肩に大穴を開け、首が折れた少女。
自分が放った銃弾によって、その細い体を無残なまでに破壊された少女。
しかし少女の体は倒れない。
「リリンの王に資する才覚をもった男」
その声は、少女の体から聴こえてきた。
「そんな君であっても、最愛の人を失えばこうも簡単に理性と知性を手放してしまうんだね」
しかしその声は、明らかに少女の声ではない。
「君のその姿はとても悲しいけれど、でもとても愛おしいとも思ってしまうよ」
少女の両手が動き、千切れかけた頭部を持ち上げる。
「愛に突き動かされるままに己の身すら焼き、全てを捧げるその姿はとても美しいよ…。でも…」
折れた首の根元に、頭部をぐいぐいと押し付けた。
「碇ゲンドウ…」
白銀の髪の下に収まる2つの紅玉の瞳が、ゲンドウを見つめた。
「かわいそうに…」
憐れみを漂わせた瞳に見つめられ。
「黙れ…!」
ゲンドウはさらに拳銃を撃つ。
「碇ゲンドウ。君とは色々と語り合いたいことがあるけれど、ごめん。今は君と話している暇はないんだ」
何故か放たれた銃弾は全て少女の体に辿り着く前に、まるでそこに見えない壁でもあるかのように跳ね返された。
少女。いや、体は少女のままだが、首から上は少年の顔をしたそれは踵を返し、ゲンドウに背を向ける。
ゲンドウは少年の顔をした少女の背中に、悲痛な叫びを叩き付けた。
「待て…! レイ…! 待ってくれ…!」
少年の顔をした少女は、2度と、ゲンドウに振り向くことはなかった。
「すまない。シンジくんが待っている」