「立てるかい?」
シンジが差し伸べたその手を、じっと見つめる赤い瞳。
赤い瞳の持ち主は、おずおずと手を上げ、差し伸べられた手を握った。
手を握り、しかし「それ」のお尻は水槽の天井に引っ付いたまま。
「ほら。立ってみて」
首を傾げられる。
「分かる? 立つ。ほら、こんな風に足を地面につけて」
シンジは空いた手で自分の両足を指差してみせた。
シンジの両足を見て、そして握られた手を見て、そしてシンジの顔を見上げて。
「あぁぁ……」
「それ」の口から、意味を成さない声が漏れた。
シンジが「それ」を立ち上がらせるため、その手を握ってから早2分。「それ」はシンジの顔をきょとんとした顔で見つめたまま、一向に立ち上がろうとしない。
「ああもう! 時間がないのよ!」
アスカは苛立った声を上げて「それ」の背後に立つと、「それ」の両脇に手を差し入れて強引にその体を引き上げた。「それ」の腰を浮かせることには成功したが、その細くて白い足はまるで踏ん張ろうとせず、アスカが腕を離すとあっという間に尻餅を付いてしまうだろう。
「自分の足で立ちなさいよ! 赤ちゃんじゃないんだから!」
我慢しきれなくなり、アスカは「それ」の小ぶりなお尻を引っぱたいてやった。
「ひぃっ!」
お尻を叩かれた「それ」は悲鳴を上げると、弾かれたように跳び上がり、そしてようやく自分の足で立った。
そのままトコトコと駆け、
「わっ、わっ」
急に抱き着いてきた「それ」に、シンジは素っ頓狂な声を上げた。
シンジの体に纏わりつく「それ」は、そのままシンジの背中に回った。シンジの肩から、ひょっこりと顔を出す。赤い瞳が、怯えたような眼差しでアスカを見つめた。
シンジの体に抱き着き、シンジの体を盾にするようにして、まるで化け物を見るような眼差しでこちら見つめてくる「それ」。
なんだか色々とムカっとした。
「ちょ、ちょっとあんた、シンジから離れなさいよ!」
シンジのシャツにしがみ付く「それ」の手を掴もうとしたが、
「わっ! わっ!」
「それ」はやはりシンジの体を盾にするようにアスカの手から逃げ回り、「それ」の動きに振り回されるシンジは間抜けな声を上げ続けるのだった。
「ほら、ゆっくり。ゆっくり」
何とも危なっかしい足取りで巨大な水槽の側面に備え付けられた梯子を下りてくる「それ」を、シンジは心配そうな面持ちで下から見上げていた。水槽から引き揚げられたままの格好で下りてくる「それ」は、もちろん今も素っ裸のまんまで、シンジの位置から「それ」のお尻が丸見えである。すでに梯子を下りたアスカに真っ赤な顔が見られないようにしながら、「それ」の先導を続けた。
梯子は床から1メートルの高さで終わっている。
梯子の一段目に立つ「それ」はたった1メートル下の床を不安げに見つめている。
「ほら。ジャンプ。梯子から手を離すんだよ」
梯子の側に立つシンジは身振り手振りを交えながら、「それ」に梯子から飛び降りるよう指示するが、「それ」は床とシンジの顔を交互に見つめるだけ。
「あぁぁ…」
「だいじょぶ。だいじょぶ。怖くないよ」
努めて優しい声で呼びかける。
シンジの何度目かの呼びかけに、ようやく「それ」はしがみ付いていた梯子を離した。あとはその足で、梯子を蹴るだけ。
「うーう!」
奇妙な掛け声と共に、「それ」は梯子を蹴った。
そのままふわりと床に着地…とはいかず、「それ」は梯子の側で「それ」が飛び降りるのを待っていたシンジの胸へと頭から飛び込んだ。
「ぐへっ!」
蛙が潰れたような悲鳴を漏らしながら、シンジは「それ」の下敷きとなる。
「それ」は着地の衝撃が思いのほか柔らかかったことに安心した様子で、シンジの体に抱き着いている。
「もう!シンジから離れなさいよ!」
アスカの怒号が空間に木霊した。
エレベーターシャフトの梯子を上り、1つ上の階に出た。廊下をてくてくと歩く。
「とりあえず」
アスカは隣を歩くシンジを睨んだ。
正確には、シンジの腕に抱き着いて歩いている「それ」を睨んだ。
「そいつの服をどうにかしないとね」
「そうだね。何か着ないと風邪引いちゃうよ」
「違うわ。このままじゃあんたが平常心保ってらんないでしょ」
「え?」
「さっきからずっと鼻血垂らしっ放しなんですけど」
「え? え?」
そこは見覚えのある場所だった。
巨大な水槽があったドーム状の空間よりも、さらに広い広大な空間。空間の真ん中には大きな縦穴があり、その中にはこれまた巨大な柱が六角形を形作るような配置で垂直に突き刺さっている。
その穴の縁にぽつんと立つ、粗末な天幕。
それはシンジが足繁く通った場所。「カノジョ」に好きだった本を何冊も届けた場所。
「カノジョ」は、もうこの世界には居ないという事実を、突き付けられた場所。
天幕に灯りは灯っておらず、シンジに事実を突き付けた天幕の住人は、今は居ないらしい。
天幕の入り口の前には、散乱した何冊もの本。その側に置かれた段ボール箱。
その中に、まるで捨てられたように入っているものを拾い上げる。
「アスカ、これ」
「あら。懐かし」
シンジから差し出されたものを見て、アスカは思わず表情を綻ばせた。
シンジの手にあるもの。それはアスカがシンジと共にかつて通っていた中学校指定の制服だった。
「とりあえず、これを彼女に着てもらおうよ」
「そうね」
「うん」
「……」
「……」
「……」
「……」
「え? 何よ」
「え?」
「え?」
「え?」
「だから何よ」
「だから、これ。彼女に着てもらおうよ」
「だから着せなさいよ」
「え?」
「え?」
「え?」
「え?」
「ぼ、僕が?」
「は? 私に着せろっての?」
「僕が着せさることができるわけないだろ?」
「どうしてよ」
「お、女の子に服なんか着させたことないんだから」
「へー、脱がせたことはあるんだ」
「そんな訳ないだろ!」
「とにかく! あんたが勝手にやり始めたことなんだから、あんたが最後まで責任持ちなさいよ!」
「そ、そんな…」
「いいから! ブラウス着せて、スカート履かせるだけよ! さっさとしなさい!」
「うう…」
シンジは困った顔をしながら、仕方なしに制服を手に持ったまま、2人のやりとりをぼんやりと見つめて突っ立っている「それ」の方へと向かった。
向かおうとして、ふと足を止める。
「え? もしかしてアスカは、男に服着させられたり脱がされたことがあるの?」
シンジの右側頭部にアスカの真空飛び膝蹴りが炸裂したことは言うまでもない。
得体の知れないものを身に付けさせられることに恐怖したのか、腕と足をじたばたさせて暴れる「それ」を何とか宥めつつ、ブラウスの袖に腕を通させ、スカートに足を通させる。
装飾品までつける必要はないが、ついでだからと赤いリボンタイも結んでやった。
制服の下に下着はないし、靴下も靴もないが、とりあえず素っ裸の状況からは脱し、逆さまに置いた段ボール箱にちょこんと座る「それ」を見つめる。
白い肌。
赤い瞳。
空色の髪。
その顔は相変わらず空虚でぼんやりとしているが、見慣れた制服に身を包んだ「それ」の姿を見て、シンジの瞳が僅かに潤んだ。
「あやな…」
思わずその名を口にしそうになって、
「だからそいつは綾波レイじゃないの」
背後からアスカの冷たい声が飛んできた。
「何なの、ここの住人は。霞みでも食べてたのかしら。ろくな食糧がないじゃない」
天幕の中を家捜ししていたアスカは、見つけ出したブロックタイプの栄養食品の幾つかをシンジに向かって投げた。
栄養食品の包装を破って中身を出し、「それ」に渡してやる。手に持った、人差し指大の食品を、ぽかんと見つめる「それ」。
「ほら。口にこうやって入れるんだよ」
そう言いながら、実演してみせるシンジ。自分の手にも包装を破って食品を出し、その先端を齧って見せた。
シンジのその行為をじっと見つめていた「それ」。見様見真似で、食品に口を近づけ、その先端にかぶり付く。
「あむあむあむ…。ほら、噛んで…」
「あむあむあむあむあむあ」
「んぐぐぐ。飲み込んで」
「んんんん」
「美味しい?」
「ほひひい?」
シンジの言葉をそのまま真似た「それ」の口から、咀嚼された食品がボロボロと零れ落ちた。
「わ、わ、飲み込まなきゃ!」
「何やってんだか…」
2人のやり取りを呆れたように見やるアスカだった。
だだっ広い空間。
全く人の気配がない。
自分たちが追われている身であることは分かっているが、さすがに疲れてしまったので、少しだけこの場所で休息を取ることにした。
「いいの? アスカ?」
天幕の中からシンジが顔を出す。
「いいわよ。そいつと枕並べて寝るなんて、冗談じゃないわ」
アスカは天幕の中にあった寝袋を天幕の外の床に敷いて、その中に潜り込んだ。シンジと「それ」は天幕の中で、アスカは天幕の外で仮眠を取ることにした。
潜り込んだ寝袋は薄っぺらい安物だったがそれなりに温かく、アスカの意識は急速に眠りの底へと落ちていった。
どこかで声がする。
「…え? …どうしたの?」
「うぅ…、うぅ…」
「ん?」
「うぅ…、うぅ…」
「なに? 震えてるよ?」
「うぅ…、うぅ…」
「寒いの…?」
「うぅ…、うぅ…」
「体は冷たくないな…。あ、あれ。も、もしかして…!」
「うぅ…、うぅ…」
「ああダメダメ。ここでしちゃダメだよ。外でしなきゃ」
「うぅぅ…、うぅぅ…」
「ほらもうちょっと我慢して。外に行こう」
「うぅぅぅぅ」
天幕の布が擦れる音。
ペタペタと、2人分の足音。
「んー、何処でしたらいいんだろ。分かんないや」
「ううううう!」
「あー分かったから。しかたない、ほら、あっちの。あの隅っこでしちゃおう」
「うぅぅぅぅぅ」
「大丈夫だよ。怖くないから」
「うぅぅぅぅぅぅ」
「どっかに行ったりなんてしないよ」
「うぅぅぅぅぅぅ」
「僕がそばに居るから」
「うぅぅぅぅぅ」
「僕がちゃんと見ててあげるから、怖くないよ」
「このど変態がああああ!!」
今度はシンジの左側頭部にアスカの真空飛び膝蹴りが炸裂した。
ぶっ倒れたシンジを足蹴にして天幕の中に叩き込んだ後、天幕の床に敷かれてあったブルーシートを持って、天幕から離れた場所で、内股気味でもじもじ立っている「それ」のもとに行く。
「ほら、来なさい」
おっかないお姉さんの登場にびくついている「それ」の手を強引に引っ張って、大きな穴の淵に行く。
ブルーシートを広げて、「それ」が外から見えないよう囲んでやる。
「ほら、そこに出してしまいなさい」
いくら「それ」が魂の入っていないただの抜け殻とは言え、生物学上の女子である以上、隠さず、ましてや男の前でさせてしまうことはアスカの中の何かが許せなかった。
ブルーシートに囲まれたそれが不安げにこちらを見上げてくる。
「ほら、しーしーすんの。スカート濡らすんじゃないわよ」
自分は絶対に子供なんて要らない。
我が子に、自分のような思いを絶対にさせたくないから。
幼い頃から、そう心に誓っていた。
それでもこれは。
何だかこれはお母さんになったような気分だ。
子供と言うにはでっか過ぎる赤ん坊だけど。
思えば自分は見た目こそ少女の頃のまんまだが、実際はもうアラサー。
子供の一人や二人居たって、おかしくない年齢だ。
しゃがんでいた「それ」がすくっと立ち上がり、ブルーシートの端からひょこっと顔を出した。
「終わった?」
「あぁぁ…」
「じゃあ、これで拭いて」
ブルーシートを取り払うと、「それ」は相変わらずのぼんやり顔だが、どこかすっきりしたような表情で立っている。
その顔に、思わず笑ってしまった。
「もう。スカートが捲れてんじゃない」
「それ」が着ている制服を整えてやる。
「んじゃ、もう少し寝ましょ」
ブルーシートをたたみ、天幕に向かって歩き始めた。
不意に、右手に感触。
見ると、背後から伸びた「それ」の手が、自分の手を握っている。
「な、何すんのよ」
突然のことに、思わず「それ」の手を振り払ってしまう。
「あぅ…」
振り払われてしまった手を見つめる「それ」。
次第にその口が「へ」の字に曲がり、どこか悲しそうにアスカを見つめた。
「うぅぅぅ…」
「ああもう…!」
「それ」にそんな表情を向けられ、アスカは仕方なく「それ」に向けて手を差し出す。「それ」は差し伸べられたアスカの手をすぐに握った。
「…調子狂うわ…」
ぼそりと呟きながら、手を繋いで天幕へと戻った。
天幕の入り口にあるカーテンを捲り、「それ」が中に入ったらカーテンを下ろした。
すぐに「それ」がカーテンの隙間から顔を出す。
「あぁぁぁ…」
「は? あたし?」
「あぁぁぁ…」
「あたしは外で寝んのよ」
カーテンの隙間からすっと真っ白な腕が伸び、アスカが着るシャツの裾を引っ張る。
「何すんのよ」
「あぁぁぁ…」
「い、嫌よ。あんたと一緒に寝るなんて」
「あぁぁぁ…」
「ちょ、離しなさいよ」
「あぁぁぁ…」
「んもう…!」
ただでさえ狭い天幕。
そこに3人も入ったらすし詰め状態になる。
「…もう…、なんであたしが…」
川の字で寝る3人。
右端はアスカに足蹴にされて気絶状態のシンジ。
中央に「それ」。
左端にはぶつぶつ文句を垂れているアスカ。
アスカが使っていた封筒型の寝袋を布団状に広げ、3人で共有し合う。
ちらりと右隣の「それ」を見る。
口をあんぐりと開けた無防備な顔で、くーくーと寝息を立てている。右隣にシンジが居て。左隣にアスカが居て。2人に囲まれて、安心し切ったような表情。
「ほんと…、調子狂うわ…」
アスカはぽつりと言って、目を閉じた。
「んんもおおお…」
小声で呻くアスカ。
シンジよりもアスカの方が体温が高いからか、眠ったままの「それ」が暖を求めてアスカの体に抱き着いてくるのだ。
仮眠時間は1時間程度だったが、結局一睡もできなかったアスカであった。