勝手にシン・エヴァンゲリオン   作:hekusokazura

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第二章
第八話


 

 

 

 

 相変わらず人格や知性というものが感じられない、ぼんやりとした表情。

「あぁぁぁ…」

 それでも目にするもの、触れるもの全てが初めてのものだから。

「うぅぅぅ…」

 空に鳥が飛び交えば掴んでみようと手を伸ばし。

「おっおっおっおっ…」

 砂地に足が沈めば慌てて足をばたつかせ。

「およよよよ…」

 強めの風が脇を通り抜けたらくすぐったそうに肩を竦ませる。

 

 目にするもの触れるものにいちいち大袈裟に反応する「それ」。最初こそそんな「それ」の様子を愉快そうにみていたアスカだったが、あっちへふらふらこっちへふらふら寄り道してしまう「それ」に合わせていては、歩くペースは一向に上がらない。このままでは何処にも辿り着けないまま陽が暮れてしまうため、途中から「それ」の腕を強引に引っ張って歩みを進めた。

 

 そうしている内に、変化の乏しい風景が延々と続く赤い砂漠にいい加減飽きてしまったらしい「それ」は、今はいかにもやる気なさげに両腕をぶらんと下げ、力なく歩いている。 

「ちょっと。しっかり歩いてよ」

 ずっと「それ」の手を引っ張り続けて歩いてきて、さすがのアスカも疲れてきた。まるで歩き疲れた子供のように、両肩を左右に大袈裟に揺らしながらという余計に体力を消耗しそうな歩き方をする「それ」を叱咤する。

 

「あぁぅぅぅ…」

「ああもう抱き着かないでよ! 嫌よ! あんたをおんぶするなんて!」

「うぅぅぅ…」

「そんな風に睨んでも無駄よ。それよりもほら、見て、あれ」

 自分の体に纏わりついてくる「それ」を引き離しながら、アスカは前方を指差した。

「あそこまで頑張って歩こ。ね?」

 アスカが指差す方向。真っ赤な砂地が延々と続く砂漠の向こうに、廃墟と化した小さな街が見えた。

 

 

 

 遠目から見ればそれは小さな街に見えたが、実際に近づいてみれば、かつてはそれなりに大きな街だったらしい。平屋の低い建物に見えた建造物は、砂に埋もれた建物のてっぺんの部分で、砂を全て取り除けば砂の下からそれなりに大きなビルが現れるに違いない。そんな頭だけをぽつんと出した建物が、方々に点在している。

 アスカと「それ」がその廃墟化した街に入った頃には、陽はすっかり暮れてしまい、周囲を夜の帳が包み始めていた。

 手近の建物の中に入って、そこで一晩を過ごすことにした。

 

 

 VTOL機から持ち出した緊急脱出時用の背嚢。中にはサバイバルに必要な物品が一通り揃っていた。

「おぉぉぉ…」

 その一つである、床に置かれたシングルバーナー。その先端から立ち昇る青白い炎を、「それ」はまるで猫のように床に這いつくばりながら、物珍しそうに見つめている。

 目を輝かせている「それ」の様子に、アスカは口許を綻ばせた。

「ふふっ。「人類、火を発見す」、ね」

 シングルバーナーのゴトクに乗せていたコッヘルの蓋を開ける。中身の様子を確認した後にコッヘルを持ち上げ、中身の半分を別の小さなコッヘルに移す。

「そんじゃ、人類史上最大の発明をあんたにご覧に入れましょうか…」

 コッヘルの中身にフォークを突き刺し、「それ」の前に置いてやる。体を起こした「それ」は、アスカが置いたコッヘルの中身を覗き込んだ。コッヘルの中には濁った液体と、その中に浮かぶ幾つもの長細い糸状のもの。

「いんすたんとらあめーん!」

 どこかの未来の青狸型ロボットのような口調で自慢げに言ったアスカは、自分の手に残ったコッヘルのラーメンをフォークで掬い、ずずずと欧州出身にしては実に慣れた様子で盛大な音を立てながら啜り始めた。

「うっまーい! もうさいっこー! ラーメンなんて何年ぶりだろぉ…」

 一口啜った途端に手を頬に当て、うっとりとした表情で天井を見上げる。

「おぉぉぉ…」

 そんなアスカのどこか恍惚とした表情を、ぼんやりと見つめていた「それ」。

 コッヘルの中身を、真上から覗いてみる。立ち昇る湯気と共に、嗅覚をくすぐる匂い。

「おぉぉ…」

 初めて体験する、摩訶不思議な、何だか嗅ぐだけでふわふわと良い気分になるような匂い。

 もう一度、アスカを見る。

「このいかにも体に悪そうな味がまた堪んないんだよね~」

 相変わらず美味しそうにコッヘルの中身を啜っている。

 ごくりと、生唾を飲み込んだ。

 じっとコッヘルを見つめて。ゆっくりと、コッヘルに手を伸ばして。丸いコッヘルを両手で包み込むように手に取って。

「あうっ」

 熱々のコッヘルに直に触れてしまい、「それ」はびっくりして手を引っ込めてしまう。まるで警戒するように、じっとコッヘルを睨んだ。

「もう何やってんのよ。ここを持つのよ。ほら」

 アスカは自分のコッヘルを床に置くと、「それ」の前に置いたコッヘルの取っ手を「それ」の左手に握らせ、ついでにフォークも「それ」の右手に握らせてやった。

「早く食べなさい。伸びちゃうわよ」

 そう「それ」に告げて、再びラーメンを啜り始めるアスカ。

 そのアスカの動きを、まるで観察するようにじっと見つめる「それ」。

 

 

 赤毛の彼女は何やら先端が奇妙な形をした平べったい板状の棒を器に突っ込み、しばらく器の中をごそごそした後で棒を引き抜くと、棒の奇妙な形をした先端に何本もの糸状のものが絡みついている。その糸状のものは開いた少女の口の中に吸い込まれ、ずずずという音と共に少女の口の中に消えていった。そして、

「んんんん!」

 彼女の幸せそうな顔。

 

 温かい器。器から漂う香り。

 「それ」に与えられた、初めての真っ当な食事。。

 

 ぐぅぅ、と「それ」の腹から音が漏れる。

 「それ」は正面のアスカの様子を窺いながら、見様見真似でフォークの先端をコッヘルの中に突っ込む。汁の中に沈めて、ごそごそ動かしてみて、そしてフォークを引っこ抜いてみる。

 何も引っ掛かっていないフォークの先端。

 もう一度突っ込む。ごそごそ動かして、そして引っこ抜く。やはりフォークには何も引っ掛かっていない。

 もう一度突っ込む。ごそごそ動かして、そして引っこ抜く。一本の麺がフォークの刃の隙間に引っ掛かったが、引っこ抜いた瞬間にするすると汁の中に戻ってしまう。

 突っ込む。引っこ抜く。突っ込む。引っこ抜く。

 不毛な動作を繰り返す「それ」。 

「あーー!」

 堪えきれなくなった「それ」は、癇癪を起こしてフォークを床に投げてしまった。そして、

「うぅぅぅ」

 コッヘルの中に顔を突っ込み、口で直接ラーメンを啜り始めた。

「ちょっとやめてよ。犬じゃないんだから」

「げほっ、げほっ!」

 たちまち咳き込んでしまい、コッヘルから顔を離す「それ」。

 「それ」の口の周りは汁で汚れ、小さな鼻には麺が一本ぶら下がっている。

「ぷっ!」

 「それ」のあまりにも下品な喫食手段に顔を顰めていたアスカだが。

「はははははっ!」

 滑稽な「それ」の顔を見て盛大に吹き出してしまった。

 

 床を転げ回って笑っているアスカを、ぼんやりと見ている「それ」。

「うぅぅぅ…」

 とりあえず初めて口にしたラーメンの味はいたく気に入ったようで、笑い過ぎてひきつけを起しているアスカの事は放っておいて、再びラーメンの中に顔を突っ込もうとした。

「もう待ちなさい。こうするのよ」

 アスカは床に転がったフォークを拾い上げえると、シャツの裾でフォークを拭き、「それ」が持つコッヘルの中へとフォークの先端を突っ込んだ。フォークを摘まんだ指を捻り、フォークをくるくると回していく。

 ゆっくりとフォークを引き上げていく。

 徐々にコッヘルの中からその姿を現していくフォーク。

 固唾を呑んで見守っていた「それ」の目が、大きく見開かれていく。

「おぉぉぉぉ…!」

 「それ」の口から感嘆の声が漏れた。

 フォークの先端には汁を纏ってまるで黄金のように光輝く麺の塊。

「おぉぉぉぉ…!」

 どんな魔法を掛けたのだろう、とでも言いたげな表情で、アスカの顔を見つめる「それ」。

「人からこんなにも素直な尊敬の眼差しを受けたのは初めてだわ…。ほら、口開けて。あーん」

 アスカに促されるままに開けた「それ」の口に、アスカはそっとフォークの先端を入れた。

「あむ」

 口に入れたものを絶対に逃すまいとばかりに、すぐに口を閉じる。

 もごもごと、この1日でようやく覚えた「咀嚼」を始める。

 ごくんと、「それ」の喉が鳴った。

「んーーー」

 口を閉じたまま、頭を左右に揺らす「それ」。

「美味しい?」

 アスカの問い掛けに「それ」は返事をしないが、弾むように頭を左右に揺らすその仕草は、「それ」が「美味しい」と言っているようにアスカには見えた。

「美味しかったら笑いなさいよ」

「あうあうあう」

 アスカの呼びかけに、しかし「それ」は「次、次」とばかりに口をぱくぱく開閉させ始めた。

「もう。まるで鳥の餌やりね」

 フォークの先端にラーメンを絡ませ、「それ」の口に運んでやる。

「あむあむあむ」

 頭を左右に揺らしながら口の中のものを咀嚼する「それ」。その表情は、ぼんやりとしたまま。感情を表情で表すことが出来ない代わりに、動きで表現しているような「それ」を、アスカは優し気な眼差しで見つめる。

「アタシ、さっき何年か振りに腹を抱えて笑ったわ…」

 3口目を、「それ」の口に運んでやる。

「あんたも笑えたらいいね」

 頭を左右に揺らしながら、あむあむと咀嚼する「それ」。

「大声で泣いて…、顔をくしゃくしゃにして笑って…、美味しいものをお腹一杯食べて…」 

 4口目を運んでやる。

「それはきっと、えこひいきにも出来なかったことよ…」

「げぅっ」

「わっ、げっぷしないの!」」

 

 

 

 背嚢に入っていた寝袋は成人男性用。少々きついが、2人の少女は何とか一つの寝袋の中に収まった。

 「それ」と共にする2回目の寝床。やっぱり「それ」は暖を求めてアスカの体に抱き着いてくるが、もう慣れたというか諦めてしまったアスカは、好きなようにさせてやっている。

 

 ふと、視線を頭上へと向けた。

「わぁ…」

 思わず感嘆の声を漏らしてしまった。

 隣ですでに口を開けて寝息を立て始めている「それ」の腕を肘で小突く。

「うぅぅ…」

 「それ」は眠いまなこを擦りながらアスカを見る。

 アスカは顎をくいくいっと2度動かして、「それ」に視線を上に向けるよう促した。

 アスカの形の良い顎が指し示す方向に視線をやる「それ」。

「おぉぉ…」

 「それ」の口からも、やはり感嘆の声が漏れた。

 

 2人の視線の先にあるガラスのない窓。

 その窓から見える濃紺の夜空。

 その一面に、無数の星々が瞬いている。

 

「ふふっ」

 初めて見る満天の星空を食い入るように見ていた「それ」。不意に隣の赤毛の彼女が声に出して笑ったので、視線を隣に向けた。

 「それ」から投げ掛けられる視線に、アスカは自分が気付かない間に笑っていたことに気付く。

「いや。こんな風にゆっくりと星を見るのも、久しぶりだな~と思ってね…」

 アスカは星空に向けていた視線を、ゆっくりと隣の「それ」へと向ける。

「ごめんね…、レイ…」

 「それ」に向けられた、アスカの掠れた声での呟き。アスカの言葉をこれっぽっちも理解していない「それ」は、ただぼんやりとアスカを見つめている。

「あんたを壊そうとして…。あんたの姉妹たちを…壊してしまって…」

 

 あの地下の空間で、自分がやったこと。

 それはヴィレのパイロットとしては、当然の行為。

 敵戦力を削ぐためにやった自分の行為に、何ら恥ずべきものはないはず。

 それでも。

 

「あんたたちには何の罪もないのにね…」

 まだ何者でもない「彼女たち」を、無抵抗な「彼女たち」を破壊した自分の行為に、果たして正当性はあっただろうか。

 

 アスカはぐっと、「それ」の胸に自分の顔を押し付ける。

「あんたも…、生きてるのにね…」

 「それ」の胸から聴こえる鼓動。「それ」の体から伝わってくる温もり。

 「それ」が生きている証を肌で感じて。

 

 アスカの頭が、小刻みに震え出した。

「ねえ…、レイ…」

 アスカの口から呟かれる声も、震えていた。

「シンジ…、本当に死んじゃった…のかな…」

 自身の顔を「それ」の胸で隠し、アスカは嗚咽を漏らし始めた。

 

 

 頭に感触。

 何かが頭に触れている。

 何かが自分の頭を撫でている。

 「それ」の手が、自分の頭を撫でてくれている。

 

「なに…? アタシを慰めてくれるの…?」

「あぁぁぁ」

 相手の胸に顔を押し付けたまま呻くように言うアスカの声に、まるで返事をするように「それ」は唸る。

「ありがと…ね…」

「あぁぁぁ…」

「ありがと…、レイ…」

「あぁぁぁ…」

「優しいね…、あんた…」

「あぁぁぁ…」

「えこひいきも、ああ見えて優しいところあったんだよ…」

「あぁぁぁ…」

「悩んでるアタシに声かけてくれたり…、食事会に招待してくれたり…」

「あぁぁぁ…」

「まあとことん不器用な奴だったから全部空回りしてたけど…」

「あぁぁぁ…」

「もう少し一緒に過ごせたら…、えこひいきとも友達になれてたかもね…」

「あぁぁぁ…」

「ああ、でももう少ししたら、えこひいきと会えるのかな…」

「あぁぁぁ…」

「あんたをヴンダーまで連れていって…」

「あぁぁぁ…」

「あんたの中にあいつの魂を入れて…」

「あぁぁぁ…」

「あれ…? でもそしたらあんたは…、って、いてててて!」

 突然頭皮に痛みが走り、アスカは悲鳴を上げる。

「ちょ、ちょっとあんた何やってんのよ!」

 自分の髪の毛を引っ張る「それ」にアスカは怒鳴った。 

 「それ」はアスカの頭を撫でているのではなかった。アスカの頭に付いていた何かを、取り外そうとしていたのだ。

「あんた、それ!」

 ついにアスカの頭から目的のものを奪い取った「それ」。

「それはダメよ。返して」

 「それ」の手に握られたもの。

 

 エヴァンゲリオン・パイロットに与えられる、インターフェイス・ヘッドセット。

 エヴァを操縦する時以外には身に着ける必要のないものだが、エヴァのパイロットであることに強い誇りを持っているアスカは、平時においても髪留め代わりとして頭に被っていた。いつもは寝る前に外しているのだが、色々あり過ぎた今日は頭に被ったそのままで寝袋に入ってしまっていた。

 

 ヘッドセットをぐねぐねと折り曲げたり振り回したりして、玩具にしている「それ」。どうやら不思議な形状をしたヘッドセットが、いたく気に入ったらしい。

 エヴァパイロットとしての象徴であるヘッドセット。いくら何も知らない「それ」であっても、自身の誇りを玩具にすることは許せない。

 

「返しなさい」

 やや語気を強めて言う。

「うぅぅぅ…」

「ほら。返して」

「うぅぅぅ…」

「怒るわよ?」

「うぅぅぅぅぅ…」

 アスカが本当に怒り始めているのを察したのか、「それ」は渋々といった様子でアスカにヘッドセットを返した。

 どこか落ち込んでいるような、拗ねているような「それ」の顔。

 そんな「それ」の様子に、ヘッドセットを被りなおしたアスカは少々呆れながら。

「…もう、仕方ないわね」

 「それ」に両腕を伸ばし、慰めるようにその体を優しく包み込んでやった。

 アスカの温もりに包まれて、しばらくは拗ねた顔をしていた「それ」も、やがて表情は柔らかくなり、目を閉じ、すぐに寝息を立て始める。

 暫く「それ」の気持ちよさそうな寝顔を見つめていたアスカ。

 彼女の意識も、そう間を置かずして眠りの底へと沈んでいった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 何やら外が騒がしい。

 喧騒に意識の扉を叩かれ、眠りの底に落ちていたアスカの意識がゆっくりと浮き上がってくる。

 瞼を薄く開く。眼球を、柔らかな自然光が刺激する。

 いつの間にか夜は終わり、世界は朝を迎えていたようだ。

 

 太陽光に刺激された視覚。続いてアスカの聴覚を、しとしとという雑音が刺激する。次に嗅覚と触覚を、むわっとした湿気が刺激する。

 どうやら外は雨らしい。

 雨の中を歩いて移動する気にはなれない。

 どうせすぐ止むだろうから、それまでもう暫く寝ていよう。

 そう思い、寝返りを打とうとして。

 隣にあるはずの感触がない。

 一緒の寝袋にくるまっていたはずの、「それ」が居ない。

「えーなに? どこ行ったの、あいつ…」

 寝起きの悪さは折り紙付きのアスカは、整った顔をしわくちゃに顰めながら体を起こした。

 

 窓の方へ目をやる。

 やはり外では雨が降っている。地表を撫でるような、しとしとと降る静かな雨。

 所謂「お天気雨」というものだろうか。雨だというのに外は明るく、天から降り注ぐのは雨だけでなく柔らかな陽射しも降り注いでいて、地上を明るく照らしている。

 陽の光を雨粒が反射し、地面に出来たばかりの水溜まりは雲と青空を映し出す。

 そこら中がきらきらと輝く、光に満たされた空間。

 その中に佇む、一人の少女。

 

 

 それはとても不思議な現象。

 何もない空間から、大量の水が落ちてくる。

 しばらくぼんやりと天を仰いでいた「それ」は、広げた両腕を空に向けて伸ばし始めた。

 

 

 すでに全身はぐっしょり。コバルト色のスカートからはぽたぽたと水滴が滴り落ち、白のブラウスはその下に何も着ていない肌にぴったりとくっ付いて、お臍から胸の隆起までがはっきりと見える。

 そんなあられもない格好の「それ」が、しかしアスカの目には酷く幻想的に見えた。

 光に満ち溢れた空間で、全身に水滴が付いた少女もまたきらきらと光を纏い、そんな少女が天を仰ぎ、空に向けて腕を伸ばしている。

 

「えこひいき…?」

 

 どこか現実離れした「それ」の姿が、何故かアスカに14年前に消えてしまった少女を想起させた。

 

 しかし、

 

「おぉぉぉ…」

 

 「それ」が両腕は伸ばしたままで奇妙な唸り声を上げ、まるでスキップでもするかのように軽やかに飛び跳ねながらくるくると回り始めたものだから、妖精と見紛うような幻想的な空気を纏っていた「それ」は、途端に雨の下ではしゃぎまわる無邪気な子供へと姿を変える。

 アスカはくすりと口元を綻ばせた。

「なんだ。やっぱあいつだ…」

 アスカは床に頬杖を付きながら、窓の外の「それ」を見つめた。

 「それ」は相変わらず両腕を空に伸ばし、くるくると回り、わざと水が飛び跳ねるように水溜まりの上でステップを踏んでいる。

 何か心を大きく突き動かすような物事に出会った時、声を上げたり、腕を上げたり、スキップしたり、踊りだしたり。全身のあらゆる器官を使って心の中の衝動を表現しようとするところは、「それ」も自分たち人間と大して変わらないらしい。 

 「それ」は初めて体験する雨という奇妙な現象の下で、実に楽しそうにはしゃぎ回っている。

 時折、きゃっきゃと声を上げながら。

 

 え?

 

 と言うか。

 

「なんだ…。あいつ笑えるんじゃない…」

 

 今もくるくると回っているためその顔はよく見えないが、「それ」の口角は確かに上がっていて、その口からは控えめながら確かな笑い声が漏れていた。

 

 

 ずっとくるくると回っていていい加減目が回ってきたようで、「それ」の足もとがふらふらとし始めた時。

 

「ひゃっほーい!」

 

 突然、どこからか元気のよい奇声が聴こえてきたので、「それ」はびっくりして足を止め、声がした方を見た。

 「それ」の視線の先では、窓から外へと飛び出したアスカが、着ていた男物のワイシャツを脱ぎ始めているところだった。

 

 シャツを脱ぎ捨てたアスカは途端に両腕を抱き、肩を竦め、

「つめたーい!」

 と悲鳴を上げる。しかしその悲鳴はすぐに、

「でもきんもちいいーー!」

 歓喜の悲鳴に変わる。

「ああ、シャワーなんて何時以来だろう」

 顔を上げ、目を閉じ、全身で雨を受け止めた。

 全身の隅々まで天からの恵みを行き渡らせたアスカは、顎を下ろすと、驚いたように目を丸くしてこちらを見ている「それ」に視線を向けた。

「なーにぼんやり突っ立ってんのよ」

 アスカは「それ」の側に駆け寄ると、両腕を伸ばし、「それ」の両手首を掴む。

「ほーら」

 そして手を繋いだまま、「それ」と一緒にくるくると回り始めた。

「はっはっは。それそれそれぇ!」

 アスカは声を上げて笑いながら回転する速度をどんどん上げていく。

「あうあうあうあうあう」

 すでに十分に目が回っている「それ」は、アスカに強引に振り回されて、ますます目を回していく。

「うあ!」

「わわっ!」

 ついに「それ」の両足が絡まってしまい、背中から地面に倒れてしまった。「それ」の腕を握っていたアスカも、「それ」に引っ張られる形で地面に倒れてしまう。

 

 地面に大の字になっているアスカと「それ」。

 雨は小降りになり始め、小さな雨粒は2人の顔を柔らかく撫でている。

 ふと隣を見ると、「それ」が口をだらしなく開けながら「あぁぁぁ」と情けなく呻き、開いた瞼の内側では眼球が渦を巻くようにくるくると回っている。

 その顔があまりにも滑稽で、

「はっはっはっは!」

 アスカはまた大声を上げて笑いだす。

 何度か瞬きをし、ようやく泳いでいた視界が定まってきた「それ」は、隣で馬鹿笑いしているアスカの顔を不思議そうに見つめた。

 

 

 赤毛の彼女が口を大きく開けて奇声を発している。口角を上げ、目を細め、眉尻を下げ、顔中をくしゃくしゃにして。

 何だかとっても疲れそうなことをしているが、でもそんな顔をして奇声を発し続ける彼女の姿は、どこかとても気分が良さそう。

 そんなに気分が良いものであれば、自分もやってみたい。

 「それ」の頭の中で、そんな極めて単純な公式が出来上がった。

 

 

「はっはっはっはっ!」

 突如隣から湧き上がった大きな笑い声に、アスカは驚いて「それ」を見た。

「はっはっはっはっ!」

 「それ」が、盛大に笑い声を上げている。ただし、表情は真顔のままで。

 口を大きく開けて、肩を上下に揺らして、大きな笑い声を上げる「それ」。ただし、表情は真顔のままで。

 実に気持ち良さそうに豪快に笑うアスカを真似て、一緒に大声で笑ってみた「それ」だったが、声に出して笑うことと、笑顔を作ることという、2つの作業を同時に行う器用さは持ち合わせてなかったらしい。

 真顔で笑い声を上げる「それ」。それがまた可笑しくて、

「きゃははははは!」

 アスカの笑い声は収まるどころか更に高鳴った。

 

「はっはっはっは」

 一生懸命アスカを真似て、真顔で笑い声を上げ続ける「それ」。

「きゃはははは!」

 「それ」の姿が可笑しすぎて、腹が捩れるほどに笑い続けるアスカ。

 

「はっはっはっはっ」

「きゃはははは!」

 

「はっはっ…はっ…」

「きゃはははは!」

 

「はっ…は…」

「きゃはははは!」

 

 アスカが相変わらず馬鹿笑いを続けている隣で、「それ」は次第に口を閉じて行って。

 そして。

 

「ふふ…」

 肩が震え始めて。

 

「ふふふ…」

 口角が上がって。

 

「ふふふは…」

 目が細くなって。

 

「あははは…」

 眉尻が下がって。

 

「あははははははは」

 

 

 馬鹿笑いを止めたアスカ。

 まじまじと、すぐ隣で、笑い声を上げている「それ」の笑顔を見つめる。

 純真な笑顔。無垢な笑い声。

 

 

 へー、こんな顔で笑うんだ。

 

 

 見る者全てを幸せにするような笑顔。

 見ているこっちもついつい釣られて笑ってしまいそうな笑顔。

 別に釣られるのを我慢する必要はないから。

 

「はははははは!」

 結局アスカも一緒に笑った。

 

 雨に濡れ、陽光に照らされ、きらきらと光る廃墟の街を、2人の少女の笑い声が木霊した。

 

 

 

 

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