勝手にシン・エヴァンゲリオン   作:hekusokazura

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第九話

 

 

 雨が止み、天から降り注ぐものは強烈な太陽の光のみ。容赦のない日差しは、雨に濡れた地上のものをたちまち乾かしていく。

 建物の屋上から伸びる電線らしきケーブルに干された男物のワイシャツと学校の制服。アスカも「それ」も、風に揺れる服が作る陰の下で地面の上に大の字となり、服と一緒に体を乾かしていた。アスカは立ち上がると干された服に手を伸ばして乾いたことを確認し、ワイシャツに袖を通す。コバルト色のスカートと白のブラウスも取り込み、「それ」に着せてやった。忘れずに、赤いリボンタイも結んでやる。

 荷物を詰め込んだ背嚢を背負った。

 

 さて、何処に行こうか。

 行く当てなんてまるでないけれど、とりあえず、自分たちが脱出したあの塔からはなるべく離れた方がいいだろう。遠くに目をやると、昨日半日掛けて歩いたというのに、未だにあの巨大過ぎる塔の姿を、地平線の彼方に見ることができる。せめて、今日中にあの塔が見えなくなるところまで行きたい。

 おのずと、向かう方向は決まった。

 

「じゃあ、行こっか」

 天然のシャワーを浴びてすっきりした様子のアスカは、「それ」に向けて手を差し伸べた。

 「それ」も、すっかり板についた笑顔を浮かべながら、アスカの手を握り締める。

 

 塔に背を向けて、肩を並べて歩き出す2人。

 砂の上に裸足の足跡を付けながら、てくてくと歩く2人。

 砂に埋まった建物の数は少しずつ少なくなり、やがて2人は街の外へと出た。

 2人の目の前に広がるのは、果てしない赤の砂漠。

 地平線は遥か向こうにあり、全く行き先の見えない場所に、しかし2人の足は少しも躊躇うことなく進んでいく。お互いの手を、しっかりと握り締めながら。

 

 後にした廃墟の街が見えなくなり始めた、その時だった。

 

 

 彼方から轟く爆音。

 

 

 それを耳にした瞬間、アスカは握った「それ」の手を一旦離すと、「それ」に目配せでここに居るよう指示し、近くの砂の丘へと走る。

 丘の頂上まで一息で駆け上がったアスカは、音がする方向に顔を向け、目を凝らした。

 その顔が、たちまち険しくなる。

 

「…もう。ヴィレは何やってんのよ…!」

 

 今度は砂の丘を一気に滑り降りると、指示された通りぼんやりと突っ立ていた「それ」の手を握り、そのまま走り続ける。ついさっき、発ったばかりの廃墟の街に向かって。

 

 空の彼方から轟いた爆音はどんどん近くなり、そして身を隠すところなどなにもない砂漠の上を駆ける2人を中心にして、上空を大きく旋回し始めた。

 背後に回った爆音は、まっすぐに2人の背中を目指す。迫ってくる爆音から逃げようと、アスカは「それ」を引っ張りながら懸命に走り続けるが、爆音の迫る速度は2人が走る速度を遥かに凌駕していた。

 

 よく晴れ渡った空。

 空から降り注ぐ太陽の光は廃墟の街の隅々までを明るく照らしていたが、突如、地上を駆ける2人の周辺だけが真っ暗になった。

 アスカは走りながら空を見上げる。

 

 

 空を覆いつくした巨大な機影。

 アスカたちが巨大な塔からの脱出に利用した機とは比較にならないほどの大きさを誇る、地上強襲用の超大型VTOL機。

 大型VTOL機の底に備え付けられた機関銃座。その銃身が、まっすぐに地上の2人へと向けられる。

 

 

 突然、目の前の地面が爆ぜた。

「あう!」

 舞い上がった砂を頭から被り、「それ」は悲鳴を上げるが、アスカは構わず「それ」の手を握ったまま走り続ける。

 それが大型VTOL機からの機銃掃射であることは、もちろんアスカは分かっていたが、アスカは無視した。2人の行く手の地面が、上空から降り注ぐ無数の銃弾で次々と爆ぜるが、アスカの足は止まらなかった。

 

 あの地下の水槽にストックされていたクローンたちを尽く破壊した今、「それ」はネルフにとって唯一残された貴重なバックアップだ。「それ」が自分の側に居る限り、敵は強引な手は打てないはず。現に、敵は上空から丸見えの自分たちを一息に殺そうとはしていない。もし敵が本気であれば、最初の一撃で2人は蜂の巣になっていたはずだ。

 「それ」には申し訳ないが、アスカは「それ」を人質にすることが、この窮地を乗り越えるための材料の一つになると目論んでいた。

 

 目指す廃墟の街まであと少し。

 街まで戻れたら、とりあえず、どこかの建物に身を隠そう。

 隠して、それから次の手段を考えよう。

 

 

 大型VTOL機の側面に備えられた砲座。砲座からにょきっと水平に伸びる、長い砲身。

 大型VTOL機はその巨体を大きく傾ける。機体の傾きと合わせて、砲身の先端でぽっかりと口を開けた大きな砲口が地上を睨んだ。

 

 

「え?」

 

 頭上から鈍い爆発音が轟き、アスカは小さな声を上げて視線を上げた。

 空を見上げて。

 しかし見上げたその時には、すでに何かが視界の隅を横切っていた。

 

 

 

 眼下の廃墟の街が、雷鳴のような爆発音を響かせながら一瞬にして巨大な土煙に包まれる。

 地上に向けて一発の榴弾を撃ち込んだ大型VTOL機。砲弾の着弾点を中心に、上空をぐるりと旋回し、水平飛行から垂直飛行へと移行する。上空をホバリングする大型VTOL機が発生させる強烈な吹き下ろし風が、地上を包んでいた土煙をたちまちに掻き消してしまう。土煙の下から現れたのは瓦礫の山。大型VTOL機から放たれた砲弾は、たった一発で廃墟の街の一角を破壊してしまっていた。

 限界ぎりぎりまで高度を下げた大型VTOL機。地上に向けて、何本かのロープを垂らす。ロープ伝いに、機内から地上へと降りていく何人もの人影。武装した兵士たちを降ろし終えた大型VTOL機は、機首を上げてぐんぐんと高度を上げていく。

 

 大型VTOL機が響かせる爆音の下で、兵士たちはお互い身振り手振りで合図を送り合った後、ある地点を目指して走り始める。そこは、大型VTOL機が地上に砲弾を撃ち込む寸前まで、2人の少女が地面を走っていた場所。砲弾が落ちたのはその場所からずっと西だったが、砲弾の強力な破壊力は着弾点から遥か離れたその場所にまで、爆風と土砂と瓦礫をまき散らしていた。

 砂埃が立ち込めるその場所で、兵士たちは自動小銃を常に構えるという強い警戒心を持ちながら周辺を捜索する。何しろ彼らが捜している2人の少女の片割れは敵対する組織のエースパイロットであり、さらにはつい昨日、彼らの本部で多数の兵士を殺害し、猟犬型兵器を大量に破壊し、本部の中枢機能の一つを機能停止に追いやった恐ろしい敵なのだ。どんなに警戒したところで警戒し過ぎるということはない。

 

 うず高く積み上がった瓦礫の山の上で、一人の兵士が手を上げた。周囲を捜索していた兵士たちが、瓦礫の山に集まってくる。

 合図を送った兵士が持つ自動小銃の銃口が睨む先。

 大きな壁の瓦礫を背に、2人の少女が倒れていた。

 仰向けになって、ぐったりと力なく倒れている2人。

 全身に泥を被って顔も区別できないほどの2人。

 背中まで伸びた髪の少女と、首筋で切り揃えた短い髪の少女と。

 2人、仲良く手を繋ぎ合って、倒れていた。

 

 彼女らを最初に見つけた兵士は、一歩一歩慎重に2人に近づいていく。

 2人のすぐ側に立ち、銃口は長い髪の少女の額に向けたまま、つま先で長い髪の少女の頭を小突いてみる。

 1度、2度、と何度も何度も少女の頭を小突く。

 反応なし。

 その兵士は、今度はその隣で倒れている短い髪の少女に銃口を向け、そしてその少女の頭部をつま先で小突いた。

 1度、2度。

 そして3度目になって。

「うぅ…」

 短い髪の少女の口から呻き声が漏れ、眉根に皺が寄った。

 短い髪の少女の生存を確認し、その兵士は様子を遠巻きに見ていた仲間の兵士たちに顔を向け、手を上げて合図を送った。

 

「あっ」

 

 その声は、少女たちの生存確認をしていた兵士を、遠巻きに見ていた兵士たちの1人が上げたものだった。

 兵士の足もとで倒れていた長い髪の少女が、いつの間にか上半身を起こし、いつの間にか兵士の腰に手を伸ばし、いつの間にか兵士の腰のホルスターの拳銃に手を掛け、いつの間にか拳銃をホルスターから抜き出し、いつの間にか兵士のわき腹に銃口を突き付け。

 

 パン!

 

 いつの間にかその兵士は脇腹を銃弾で撃ち抜かれていた。

 

 それはほんの一瞬の出来事。

 声を上げた兵士は、仲間の兵士が膝から地面に崩れ落ちる様を、呆気に取られて眺めていた。

 そして、いつの間にか一人の兵士の命を奪い去っていた長い髪の女の子は、いつの間にかこちらに拳銃の銃口を向けていて、いつの間にかその銃口は閃光を瞬かせ、いつの間にか銃口を向けられていた兵士の意識はブラックアウトしていた。

 

 

 3発目、4発目、5発目。

 限られた残弾で、一人の眉間に一発ずつと、着実に仕留めていく。

 6発目、7発目。

 ついに弾倉の中の銃弾が尽きる。

 立っている敵は、まだ3人も残っている。

 

 少女が拳銃を投げ捨てた時になって、ようやく石化の呪縛から解き放たれた兵士たちは、慌てて手にした自動小銃の引き金を絞った。

 

 

 拳銃を投げ捨てた瞬間に敵の反撃がくることを予測していたアスカは、すぐ側で地面に正座をした姿勢で絶命してる兵士の服を両手でむんずと掴み、自分の体へ引き寄せた。自身の体を折りたたみ、兵士の死体の影に隠れる。直後に銃弾の雨霰が、兵士の死体に降り注いだ。

 兵士の死体を盾する一方で、手を死体の右腕に伸ばす。死体の右手には、まだ自動小銃が握られている。死体の手から自動小銃を奪い取ったアスカは、すぐさま残り3人の兵士を屠りに掛かった。

 

 

 

 全員が動かなくなったことを確認したアスカは、盾にするためにずっと抱いていた兵士の死体をぞんざいに投げ捨てると、別の兵士の死体のもとに這い寄る。兵士が腰に巻いていた装弾ベルトを自身の腰に巻き、奪った自動小銃の先端に銃剣を取り付け、小脇に抱えると、倒れたままの「それ」のもとへと駆け寄った。

 

「レイ…! レイ…!」

 「それ」の頬を、ぺちぺちと叩く。

 うっすらと瞼を開く「それ」。

「レイ! 返事して!」

「あ…ぁ…」

 反応が薄い。朧げな「それ」の返事。瞼の隙間から覗く、虚ろな「それ」の瞳。

 脳震盪を起しているのか。それとも何か重大な怪我でも負っているのか。

 いずれにしろ自分の足で歩ける状態ではない。

 アスカは右手で自動小銃を握り、左手で「それ」が着るブラウスの胸元を掴んだ。そのまま「それ」の体を引き寄せ、

「よっと…」

 「それ」の体を「く」の字にさせて、自分の左肩に抱え上げる。

「ちっ、軽いのね…」

 それほど背丈は変わらないはずなのに、自分よりもずっと軽い「それ」の体。変なところで女としてのプライドが刺激され、舌打ちを漏らしてしまう自分に笑ってしまった。

 遥か上空で轟いていた爆音に変化があり、アスカは空を睨んだ。

 自分たちが居る場所を中心にして、上空をぐるぐると旋回していた大型VTOL機。それが急激に高度を下げ始めている。

 ぐずぐずしては居られない。アスカは「それ」を抱えたまま、瓦礫の山を駆け降りた。

「…絶対に見捨てないわよ…」

 上空では一気に降下してきた大型VTOL機が、機体の底の扉を開き、そこから大量の何かを投下し始めている。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 VTOL機から投下された大量の何か。

 綺麗な球体をしたそれらは、地上に到達する寸前に球体を解き、正体を現した姿で地上に着地する。

 4つ足歩行の獣のような怪物。廃墟の街の一角を埋め尽くすほどの大量の怪物の群れは、一斉に少女たちを追いかけ始めた。

 

 

 時折振り返っては、自動小銃をぶっ放す。

 しかしアスカが確保している銃弾の量を遥かに上回る数の怪物相手に、自動小銃での応戦など焼け石に水だ。

「とりゃっ」

 装弾ベルトにぶら下がっていた手榴弾を投げてみる。爆発と共に怪物の群れのうち先頭の数体が吹っ飛んだが、それもやはり焼け石に水。少女たちを追いかける怪物たちの群れの足は、一向に怯む気配がない。

「くっ!」

 瓦礫に足を取られ、すっ転んでしまった。右手は自動小銃を構え、左手は肩に抱えた少女のお尻を支えているアスカは、顔面から地面に突っ込んでしまう。

「ええい、くそっ!」

 それでもアスカはすぐに立ち上がる。立ち上がって、走り始める。泥だらけの顔。血を垂らす鼻。拭うための手は全て塞がっているので、構わず走り続ける。

 しかしさしものアスカも、人一人抱えた状態で怪物の群れから逃げ切ることはできそうにない。あるいは、ここで左肩に抱えたものを打ち棄て、身軽になってしまえば、怪物たちとの追いかけっこにも勝てる可能性は十分にあったが、そんな選択肢はアスカの頭に掠めもしなかった。

 

 走って、走って、走り続けて。

 榴弾の爆風で瓦礫と化した街並みが続いた中で、前方に形を保った建物が見えてきた。

 

 その判断が果たして吉か凶かは分からなかい。この状況で屋内に逃げ込めば、逆に袋小路に追いやられる結果となってしまうかもしれない。

 しかしアスカの足はその建物に向かっていた。

 入り口は1つしかない。

 その中に駆け込む。

 建物の中に足を踏み入れ、アスカはすぐに振り返った。

 入り口の外では、すぐそこまで迫っている怪物の群れ。

 アスカは腰に巻いた装弾ベルトを外すと、残った手榴弾全てのピンを抜き、入り口に向かってベルトごと投擲。

 そして「それ」を庇うように体の下に隠し、地面へと伏せた。

 

 

 爆発。

 

 続けて爆風。

 

 巻き上がった土砂。

 それらに混じって。

 

「いてっ」

 

 砕かれたコンクリートの破片がアスカの背中に降り注ぐ。

 

 

 土砂とコンクリート片混じりの爆風が止む。顔を起こし、手榴弾の束を投げた方向を睨んだ。

 この建物唯一の入り口が、爆発によって崩れたコンクリートの塊で塞がれている。

 アスカはほっと安堵の溜息を漏らした。しかしその表情はすぐに険しくなる。

 何とか間一髪のところで怪物たちとの建物への侵入は防げたが、しかしこの急ごしらえのバリケードが何時までももつとは考えられない。ここに立て籠もったところで救援の望みが無いのであれば、敵に囲まれて逃げ場を失っている状態と変わりない。

 すぐに次の行動に移さねば。

 

 部屋の壁を背もたれにして、「それ」を床に座らせる。

「レイ…、レイ…」

 アスカの呼びかけに、「それ」がすっと瞼を薄く開ける。

 その瞳は相変わらずぼんやりとしていて、焦点は定まっていない。まだ「それ」の意識ははっきりとしていない様子だ。それでも、

「あぁぁぁ…」 

 それは目の前のアスカの顔を見て、少しだけ笑った。どうやら泥塗れのアスカの顔が可笑しかったらしい。

 呑気な「それ」の笑顔に釣られるように、アスカも笑う。

「…まったく、あんたの笑顔には救われるわ…」

 

 バリケードの方でガツガツと激しい音がする。どうやら外では怪物たちがバリケードに体当たりでもして突破を試みているらしい。大きなコンクリートの塊がそこかしこで揺れ、今にも崩れてしまいそうだ。もう間もなく、このバリケードは突破されてしまう。

 

 今にも崩れそうなバリケードを見つめて。

 逃げ場のない室内を見渡して。

 そして口元に緩やかな笑みを浮かべたまま、また目を閉じてしまった「それ」を見つめて。

 バリケードを見つめて。

 室内を見渡して。

 「それ」を見つめて。

 

 アスカは決断する。

 

「ちょっとごめんね…、レイ…」

 アスカは自動小銃を足もとに置くと、両手を「それ」の両肩へと伸ばす。「それ」が履く吊りスカートの吊り紐を肩から下ろし、そのままするすると吊り紐を腕から外した。続けて「それ」の腰に手を回し、スカートのホックを外す。裾を引っ張り、「それ」からスカートを脱がせた。

 立ち上がると、今度は「それ」から脱がせたばかりの泥だらけのスカートを、アスカ自身が履き始めた。スカートの口を広げ、足を差し入れる。

「わぁ…、スカート履くなんて何時以来だろ…」

 変なところで感動してしまう。

 スカートを腰まで上げて、ホックを締めようとして。

「ちっ」

 腰回りがきつくてなかなか締まらないホックにイラっとしてしまう。何とかお腹を引っ込めて、ホックを留め、吊り紐を肩に掛ける。

 スカートを履き終えたアスカは、その場でくるっと回ってみた。

 

「見た目はJC! 頭脳はアラサー!」

 

 久しぶりの女の子らしい格好にちょっと浮かれて変なセリフを口走ってしまい、壮絶な後悔に打ちのめされ、落ち込みたくなったアスカ。両手で頬をぱんぱんと叩き、気持ちをリセットする。

 足もとに置いていた自動小銃の先端から、銃剣を取り外した。

 あまり手入れが行き届いてないと見えて、刃こぼれや錆が浮いている銃剣。刃に映る、自身の青い瞳を見つめる。

 多少の未練を感じつつも、覚悟を決めたアスカは後ろ髪を掻き上げて一つに纏めた。

 銃剣の刃を自身の後頭部へと向ける。

 後ろ髪の束の付け根に、銃剣の刃を押し付けた。

 

 パサ、パサ、とアスカの足もとに大量の髪の毛が落ちていく。

 手入れの行き届いていない銃剣の刃では、アスカの豊富な髪を一気に切断とはいかないようで、アスカは髪に押し付けた歯をノコギリの要領で前後に動かし、泥まみれの髪を挽いていった。

 

 手に握った一束の髪を見つめる。

「せっかくここまで伸ばしてあげたのに…。…ごめんね…」

 そう呟いた後、手を広げる。一束の髪は重力に引かれ、ふわりと地面に落ちた。

 

 首を振り、頭に残っていた切断された髪を振り落とす。

「ショートカットなんて、それこそ赤ん坊の頃以来じゃないかしら…」

 風通しのよくなった首回りが冷たい。

 アスカは首もとを摩りながら、地面に銃剣を捨てた。

 

 「それ」が自分の側に居る限り、敵は簡単に強硬手段をとれないはず。そう高を括っていたアスカにとって、アスカと「それ」を泥まみれにしたあの一発の榴弾は、アスカの淡い期待を粉々に打ち砕いた、かに思えた。

 しかし、もし敵が自分も「それ」も諸共に殺害するつもりでいたのなら、わざわざ砲弾の着弾点を大きく外すような真似はすまい。自分たちの頭上に直接砲弾を落として、その体を粉々にして終わらせていたはずだ。

 すでに多数のネルフ兵士を殺害し、中枢機能の一部を破壊した自分はともかく、「それ」は敵にとって生きたまま確保しなければならない価値がまだ残っているのではないか。

 であるとしたら。

 

 部屋の中は随分と荒れている。

 風に吹かれて周辺からこの部屋に流れ着いてきたのか、そこら中に色々な物が散乱している。アスカは木材やトタン板、ブルーシートなど、とにかく使えそうなものを手当たり次第にかき集めた。

 そしてかき集めたものを、目を閉じたままの「それ」の上に被せていく。

 スカートを脱がされた素足にトタン板を被せ、白いブラウスを着た胴体をブルーシートで覆い、両腕はそれぞれをビニール袋で隠し。それらが簡単に動いたりずれたりしてしまわないよう、周囲を木材や石で固定した。

 露出している部分は、あとは顔だけ。

 その顔に、逆さにした段ボール箱を被せようとしたところで。

 「それ」の瞼が、うっすらと開いた。

 

「あぁぁぁ…」

 

 暫く呆けた顔で視線を宙に彷徨わせていた「それ」。ふらふらしていた視線がアスカに留まり、途端に笑顔になる。

 それに応えるようにアスカもにっこりと笑った。

「ぉぉお?」

 「それ」の唸り声の語尾が上がり、薄く広げられただけの目が、まん丸に広がる。

 頭を左右に振って、アスカの顔の形を確認するかのように、色々な角度から見つめる。どうやら、長かったはずのアスカの髪が、すっかり短くなっていることに驚いているらしい。

「ふふ、あんたとお揃いよ」

 アスカは笑顔のままで、「それ」の短い髪の毛先をぽんぽんと撫でた。

「あぁ…」

 少し驚いていた様子の「それ」も笑顔に戻り、アスカの真似をしようとしたのか、アスカの髪に手を伸ばそうとした。

 

 

 伸ばそうとした右手が動かない。

 動かそうと肩を揺らしてみるが、肩から下が何かに縛られたように動かせない。

 仕方ないので、今度は左手を伸ばそうとする。

 伸ばして、目の前の、自分とお揃いになった彼女の髪を撫でようと思った。

 ところが、左手も動かない。

 肩も揺らしてみたが、やはり肩から下が何かに縛られたように動かない。

 腕だけではなかった。

 お腹もお尻も、両足も、首から下が、何かに縛られたかのように動かない。

 

 

 「それ」が、自分の体を見下ろして、また目をまん丸にしている。

 ブルーシートやトタン板、木材や石ですっかり埋められてしまっている自分の体を見て。

「あぁ!」

 「それ」は目をまん丸に広げたまま、アスカを見た。

「あぁ!」

 瞳が、なぜ、と言っている。

 

 アスカは真剣な顔で言う。

「ねえ、聴いて、レイ」

「あぁ!」

「これからあんたの顔にこれを被せる」

 手に持った段ボール箱を「それ」の目の前に寄せる。

「あぁ! あぁ!」

 アスカの言葉の意味が分かっているのか。「それ」は頭をぶんぶんと横に振った。

「あたしがこれを被せたら、それからは絶対に動かないで。静かにしてて。ここでジッとしているの」

 少しずつ、「それ」の頭に段ボール箱を被せていくアスカ。

「あぁぁぁ!」

 「それ」はアスカの思惑に逆らおうと、必死で全身を揺さぶる。

「そうね。周りが静かになって、何も聴こえなくなったら、その時は動いていいわよ」

 しかし幾ら「それ」が体をじたばた動かそうが、アスカが組んだ即席の隠れ蓑はびくともしない。

 ゆっくりと降りてくる、段ボール箱。

 目の前のアスカの顔が、段ボール箱によって少しずつ欠けてゆく。

 

「最後まで一緒に居てあげたかったけど…」

 

「ああああああ!」

 

「ごめんね。レイ…」

 

「ああああああ!」

 

「生きて…、レイ…」

 

「あああああああ!」

 

 アスカの顔が消え、視界を暗闇が包んだ。

 

 

 

 

「あああああああ!」

 

 彼女に言われたのに。

 

「あああああああ!」

 

 静かにしていてと言われたのに。

 

「あああああああ!」

 

 「それ」は叫び続ける。

 

「あああああああ!」

 

 喉が枯れるのも構わず叫び続ける。

 

「あああああああ!」

 

 暗闇の中で叫び続ける。

 

「あああああああ!」

 

 この世界に生まれて。

 

「あああああああ!」

 

 ずっと長い間、水の中にぷかぷかと浮かんでいて。

 

「あああああああ!」

 

 何の変化もない、平穏な日々は過ぎて行って。

 

「あああああああ!」

 

 一人、また一人と、水の中から引き揚げられていった姉妹たちは、誰一人として戻ってこなくて。

 

「あああああああ!」

 

 それでも相変わらず平穏な日々は続いて。

 

「あああああああ!」

 

 でも、その日々は唐突に終わって。

 

「あああああああ!」

 

 姉妹たちは次々ともがき苦しみながら水の中に消えていって。

 

「あああああああ!」

 

 自分ひとりになってしまったと思っていたら。

 

「あああああああ!」

 

 彼に手を引っ張られて。

 

「あああああああ!」

 

 彼が消えてしまったと思ったら。

 

「あああああああ!」

 

 今度は、彼女が手を引いてくれて。

 

「あああああああ!」

 

 この世界に生まれて以来、自分の側には必ず誰かが居てくれたのに。

 

「あああああああ!」

 

 これっぽっちも寂しい思いはしなかったのに。

 

「あああああああ!」

 

 でもここは違う。

 

「あああああああ!」

 

 真っ暗闇。

 

「あああああああ!」

 

 真の孤独。

 

「あああああああ!」

 

 嫌だ。嫌だ。

 

「あああああああ!」

 

 嫌だ! 助けて!

 

「あああああああ!」

 

 私を一人にしないで!

 

 

 

 

「ああもおお!」

 うんざりとしたようなその声と共に、ぱっと視界が明るくなった。

 暗闇の向こうから現れた、彼女の顔。

 さっきまで真剣な表情だった顔が、大粒の涙に濡れている。

「世話の焼けるコね! まったく!」

 

 

 

 

 頭を隠すために段ボール箱を被せた。

 箱の中で、「それ」は泣き喚いているが、いずれ諦めて泣き止んでくれるだろう。そう思って暫く待っていたが、箱の中からの泣き声は収まるどころかさらに大きくなっていく。

 この世界でここまで人の胸を抉る、不快な音があっただろうか。

 だからきっと、これは生理的不快感からくるものだろう。

 あまりの不快さに、自分の目から涙が溢れ始めている。

 待っても待っても、段ボール箱の中からの不快な音は止まない。

 下唇を噛んだ。

 すでに、視界は涙で霞んでしまった。これでは、これから自分がする行動にも支障を来してしまう。

 だから仕方ない。

 仕方ないから、被せた段ボール箱を除けてしまったのだ。

 

 被せていた段ボール箱の向こうに現れたのは、本当にもうどうしようもないほどにみっともなく情けない顔で泣きわめている「それ」。

「世話の焼けるコね! まったく!」

 そう怒鳴りつけてはみたものの、「それ」と同じように大量の涙を流していたアスカは、まるで吸い寄せられるように「それ」に手を伸ばし、「それ」の頭を抱き締めていた。

 散々言い聞かせたのに、「それ」は自分の言葉をてんで理解できていないようである。だから。他に方法が無さそうだから。他に「それ」を大人しくさせる方法が浮かばなかったから。

 だから仕方なく、「それ」を抱き締めたのだ。

 

 「それ」の泣き声を聴いていて。

 急に人肌が恋しくなって。

 急に「それ」との別れが怖くなって。

 それで段ボール箱を除けたわけでも、「それ」を抱き締めた訳でも、決してないのだ。

 

 お願い。

 泣き止んで。

 あんたが泣き止んでくれないと。

 あたしはここから離れることができない。

 

 ママは泣きじゃくる幼いあたしを、こうやって抱き締めてあやしてくれた。

 だからきっとこのコも。

 ああもう。お母さんになるつもりなんて、これっぽっちもないのに。

 嫌なことばっかりさせて。

 人の世話をしたりとか、誰かのために命を投げ出したりとか。

 そんなの、私のキャラじゃないのに。

 あたしもこんなに我慢してるんだから。

 だからね、レイ。

 お願い、レイ。

 お願いよ…。

 

 

 アスカの願いが重ねた肌の温もりを通して伝わったのか。

 「それ」の泣き声が少しずつ大人しくなっていく。

 

 アスカは「それ」からゆっくりと顔を離した。泥と涙と鼻水でたいそう汚れた「それ」の顔を見つめる。

 何度も鼻を啜り、しゃくりあげている「それ」。

 頑張って涙を堪えようとしているらしい。

 自分の欲求に素直に従い、我慢することなんて知らなかったはずの「それ」が、こちらの願いを感じ取り、頑張って泣き止もうとしている。

 そんな様子の「それ」を見て、アスカは泣きながら笑った。

 

 ああもう、可愛い奴だなぁ…!

 

「ああ、そうだ。あんたにこれあげるわ」

 そう言うと、アスカは自身の頭からそれを取り外し、「それ」の前に差し出してやる。

 

「ひっく…、ひっく…」

 しゃくり上げていた「それ」は、

 

「うぅ…うぅ…」

 アスカが差し出したものをみて、

 

「う……う……」

 徐々に涙は収まっていき、

 

「おぉぉぉ…」

 アスカが差し出したものを興味深げに見つめ始めた。

 

「もう髪留めは必要ないし、今は動かせるエヴァもないしね」

 アスカは少し寂しそうにそう呟きながら、手に持ったものを「それ」の頭に被せてやった。

 「それ」の頭の上にちょこんと乗っかった、赤いインターフェイス・ヘッドセット。

「ぷっ、似合わないわねー」

 やっぱりエヴァのパイロットの中で赤を着こなせるのは自分だけだと、よく分からない自己満足に浸りつつ、ヘッドセットを整え、乱れた「それ」の髪を梳いてやる。

「これあげるから、大人しくしてんのよ」

「あぁぁぁ…」

 ご機嫌な声で返事する「それ」。

「これにも出力は弱いけど発信装置が付いてるから、いずれヴィレの連中があんたを見つけてくれるはずだわ」

「あぁぁぁ…」

 アスカは自分の目尻に溜まった水滴を拭うと、両手で「それ」の頬を包む。顔を「それ」に近づけ、こつんと額を「それ」の額に当てた。

「ごめんね…。本当なら…、このままネルフに帰った方が…、あんたにとっては幸せなのかもしれないのにね…」

「あぁぁぁ…」

「でもあんたは、シンジが残した最後の遺志だから…」

「あぁぁぁ…」

「あんたをヴンダーに連れていくって、シンジに約束させられちゃったから…」

「あぁぁぁ…」

「あたしも「最後」まで頑張るから…」

「あぁぁぁ…」

「あんたも頑張るのよ…」

「あぁぁぁ…」

「もう。ホントにあたしの言ってること分かってんのかしら」

「あぁぁぁ?」

 

 

 「それ」の頭に、そっと段ボール箱を被せていく。

「じゃあね、レイ…」

「あぁぁ…」

 段ボールの向こうに隠れていく「それ」の顔。

 アスカが最後に見た「それ」の顔は、にっこりとした笑顔だった。

 

「うぅぅぅ…」

 視界を塞がれ、「それ」の口から低い声が漏れるが、先ほどのように泣き叫ぶようなことはない。あんなヘッドセットでも、「それ」を落ち着かせる効果が少しはあったようだ。

 アスカは「それ」の側からそっと離れると、自動小銃を手に取り、立ち上がる。

 小銃の弾倉を確認する。中はすでに空っぽ。小銃を地面に投げ捨てる。

 周囲をきょろきょろと見渡した。

 

「あら、いいものがあるじゃない」

 

 周辺から色々なものが流れ込んでいる部屋。建物の近くに工事現場でもあったのか、あるいは建物自体が建造中か解体中だったのか、部屋の隅には様々な工事用具が雑然と転がっている。

 その中の一つ。

 柄の長さは1メートルほど、その先端には巨大な金属の塊が付いてる、大型ハンマーに手を伸ばす。

 

 大の男でも持てばふらついてしまいそうな重さを誇るハンマーを、アスカは軽々と持ち上げる。

 随分と手に馴染むハンマー。そう言えば昨日も一日中、小さなハンマーを振り回したっけ。

「もし生きて帰れて…、新しいエヴァが支給されたら…。今度は兵装に超大型ハンマーでも加えてもらおうかしらね」

 

 バリケードから響く音が一際大きくなった。

 間もなく、バリケードは突破される。

 

 アスカはもう一度、段ボール箱を被った「それ」を見た。

 よしよし。大人しく座っている。

 自分が施したカモフラージュも完璧だ。傍から見ればどう見ても集積されたゴミの山にしか見えない。

 念のため、足もとの地面の泥を掬い上げ、自分の頭にペタペタと塗りたくる。短くなった汚れた髪はすっかり泥まみれになって、彼女自慢の赤毛は土色に染まった。

 

 アスカは「それ」が座っている壁とは反対側の壁の前に立った。

 ふう、と深呼吸を一つ。

 ハンマーを両手で構えると、その先端を頭上に掲げる。

 

「どっせえええーー!!」

 

 奇妙な掛け声と共に、ハンマーを壁に打ち下ろす。

 コンクリート製の壁は、アスカが振り下ろしたハンマーのたった一撃で崩れ、大きな穴が開く。外から強烈な日差しが室内に刺し込んだ。

 壁の外では、一面を埋め尽くす怪物たちの群れ。

 アスカはスカートをなびかせながら、躊躇いなく外へと躍り出た。

 

 

 

 

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