港までの道程   作:紫 李鳥

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 湯気を上げている鍋に酒を注いだ徳利を入れると、おでん鍋から自分の好きな種を皿に取り分けた。玄三が盛り付けしたもつ煮込みと鰊の煮付けを盆に載せると、玄三が鍋から出した徳利の底を布巾(ふきん)で拭いていた。

 

「おまちどおさまです。このにしんの煮付け、私が味付けしたんです。味見をしてくれませんか」

 

 注文した物に箸を付けない客が峰子は嫌いだった。だから、すぐに箸を持たなかった勇人を焦れったく思い、食べるように促した。味見をしてくれと言われて食べない人は居まい。それが峰子の方策だった。

 

 勇人は口に含むと、ゆっくりと咀嚼(そしゃく)した。

 

「うむ……(うま)いっ」

 

 勇人が初めて表情を緩めた。峰子は嬉しかった。

 

「ひゃーひゃー、おまちどおさん。一杯どうぞ」

 

 片足が不自由な玄三が、徳利を手にして厨房から出てくると、金ちゃんに酌をした。

 

「なんで大将が酌をするんだよ。しなくていいって」

 

 金ちゃんが迷惑そうな顔をした。

 

「あんら、うちっちじゃおえんかしら(私じゃ駄目かしら)?」

 

 女形の声を真似た玄三が、口元を隠して方言で返した。他の客が哄笑(こうしょう)した。

 

「ほら、どうぞって」

 

 玄三は執拗(しつよう)だった。

 

「いらにゃーって」

 

「そんなこと言わにゃーで、ほら、どうぞって」

 

「いらにゃーって」

 

 金ちゃんも調子に乗っていた。勇人を見ると、二人の掛け合い漫才で緊張が(ほぐ)れたのか、子供のように笑っていた。27、8だろうか、タートルネックにジャケットの格好から、サラリーマンでないことは察しがついた。初めての店で、知らない人達と一緒になって笑ってくれた。そのことが、峰子はなぜかしら嬉しかった。

 

 

 帰宅すると、真太郎が寝息を立てていた。自分の布団の横に峰子の布団も敷いてくれていた。それは峰子が言い付けた訳ではなく、真太郎自らがやってくれていることだった。優しい人間に育ってくれたことに峰子は感謝した。

 

 台所に行くと、いつものように洗った茶碗を水切りかごに伏せてあった。明日の分の米を研ぎ終えた峰子は、化粧を洗い落とすと布団に潜った。縁側の障子からの月明かりが、真太郎の寝顔を淡く照らしていた。峰子は手を伸ばして真太郎の頭を優しく撫でると、声を殺して泣いた。――

 

 

 翌日の夕刻。〈玄三庵〉は珍しく暇だった。峰子が鰊の味付けをしていると戸が開いた。振り向くと勇人だった。

 

「いらっしゃいませ!」

 

 割烹着(かっぽうぎ)を脱ぐといそいそと厨房を出た。勇人は昨日と同じ、隅の席に座った。

 

「いらっしゃいませ。ご注文は」

 

「昨日と同じで」

 

 俯いたままだった。

 

「かしこまりました。ただいま」

 

 峰子は浮き浮きしながら厨房に入った。玄三が酒の用意をすると、峰子はもつの煮込みやおでんを皿に盛り付けた。

 

「おまちどおさまです」

 

 勇人の前に皿やぐい呑みを置くと、徳利を持った。

 

「どうぞ」

 

 峰子の言葉にぐい呑みを手にした。今日は勇人の手は震えてなかった。

 

「一杯、いかがですか」

 

 勇人が酒を勧めた。

 

「ありがとうございます。でも、仕事中なので……」

 

 峰子が遠慮すると、

 

「おみねちゃん、お客さんいにゃーで大丈夫だよ、一杯ぐりゃー」

 

 玄三が声をかけた。

 

「それじゃ、一杯だけ」

 

 峰子は玄三からぐい呑みを受け取ると戻ってきて、勇人の前に座った。徳利を持った勇人の手が少し震えていた。峰子は微笑むと勇人を見た。

 

「いただきます」

 

「どうぞ」

 

 勇人もぐい呑みを持った。

 

「昨日が初めてですか?ここ」

 

「はい。こっちに転勤になって。仕事帰りに一杯呑もうかとぶらぶら歩いていたら、あなたの笑顔が見えて、誘われるように入ってきました」

 

「それはどうも、ありがとうございます」

 

 峰子が頭を下げた。

 

「吉岡勇人と言います」

 

「はやとさん。どんな字を書くんですか」

 

「勇気の勇に、(ひと)です」

 

「素敵なお名前ですね」

 

「ありがとうございます」

 

 その時、戸が開いた。

 

「いらっしゃいませ!どうぞ、ごゆっくり」

 

 峰子は急いで腰を上げた。――

 

 

 それから数日後だった。客が帰った閉店間際、今日は勇人は来ないのかと思っていると、戸が開いた。そこにいたのは、酩酊(めいてい)状態の勇人だった。へたり込むように椅子に腰を下ろした。

 

「大丈夫ですか」

 

 峰子が声をかけた。

 

「……水を」

 

 勇人が弱々しく言った。峰子は厨房に行くと、水を入れてくれたグラスを玄三から受け取った。

 

「はい、飲んで」

 

 勇人にグラスを握らせた。それを一気に飲み干すと、

 

「……親友が……死んだ」

 

 ぽつりとそう言って、テーブルに顔を伏せると、(すす)り泣いた。困惑の表情で玄三を見ると、玄三が手招きした。

 

「先に帰るで話を聞いてやりなせゃー。鍵を渡すで、裏の水瓶の下にでも置いといてくれ。火の元に気を付けて。それじゃね」

 

 玄三は峰子に鍵を渡すと、静かに店を出て行った。峰子は暖簾を入れると、鍵をした。空になったグラスに水を入れて戻ってくると、勇人が寝息を立てていた。電気を消すと、勇人の前に腰を下ろし、目を覚ますのを待った。――いつの間にか峰子も眠っていた。

 

 間もなくして、峰子はびくっとして目を覚ました。顔を上げると、窓の障子から差し込む街灯の明かりに、峰子を見つめる勇人の顔があった。

 

「……起きた?」

 

 峰子が訊いたが、勇人は何も言わないで突然立ち上がり、峰子の手を引っ張った。

 

「痛っ」

 

 強引に引き寄せると、峰子の唇を奪った。

 

「うっ」

 

 峰子は力の限りに抵抗して腕から逃れると、思いっきり勇人の頬を叩いた。勇人は頬に手を当てると俯いた。

 

「……がっかりした。酒の勢いを借りないと何もできないんですか。……まさか、友人が死んだと言うのも嘘?」

 

「……」

 

 勇人は返事をしなかった。

 

「……どうして、そんな嘘を……」

 

 峰子は呆れた顔をした。

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