港までの道程   作:紫 李鳥

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「おみねちゃんはいい女だら?俺は嫁さんに欲しいんだが、なかなか口に出せにゃー。……他に好きな男が居るようなんだ」

 

 独り言のように呟く金ちゃんの話を聞きながら、もしそれが俺のことならどんなにいいだろうと勇人は思った。ついでに、ふとした疑問が湧いた。

 

 ……どうして峰子は酌をしなかったのだろう。酌をする手が震えるからではないだろうか。俺も初めて峰子に会った時、興奮からか、手が震えた。震えるほどに興奮することが峰子にあるとすれば、それは俺の見解どおり、“白骨死体”の件しかなかった。この事件に、峰子が関わっていると言うのか?

 

 吉岡勇人は、この港町に転勤してきた刑事だった。

 

「吉岡さんは、どんな仕事をしてるんですか」

 

 しらす()えを口に入れた金ちゃんが訊いた。

 

「……オランダ語の翻訳をしています」

 

 咄嗟(とっさ)に話を作った。

 

「えー!じゃ、蘭語もペラペラ?」

 

 金ちゃんはギョロ目を見開くと、興味津々に勇人に向きを変えた。

 

「いや、ペラぐらいですよ」

 

 勇人が謙遜した。

 

「じゃあ、……手はなんて言うの?」

 

「ハント」

 

「ハントか。じゃあ、頭は?」

 

「ホーフト」

 

「すげぇ、すげぇ。じゃあ、膝は?」

 

「クニーかな」

 

「クニーか……クニーって、ナニー?なんちゃって」

 

 金ちゃんは一人で喋って、一人でウケていた。

 

「あら、呼んだ?ジーって」

 

 片足を引きずりながら、玄三が厨房から出てきた。

 

「ジーじゃにゃーよ、ニーだよ」

 

 金ちゃんが嫌な顔をした。

 

「えー?なんだって?サンだって?」

 

 耳が遠い振りをすると、金ちゃんの前に座って、持ってきたぐい呑みに金ちゃんの徳利を傾けると、一口呑んだ。

 

「俺の酒を勝手に呑んでからに。あー、もう空だ」

 

 徳利を覗きながら金ちゃんが嘆いた。

 

「なんて?ニー?」

 

「そう。ニー」

 

「お銚子、ニー!」

 

 玄三が厨房の峰子に注文した。

 

「はーい!お銚子二本ね?」

 

 洗い場から峰子が返事をした。

 

「誰も注文してにゃーら」

 

「えー?なんだって?サンだって?」

 

 玄三がまた、聞こえない振りをした。

 

「サンじゃにゃーよ、ニーだよ」

 

 二人の押し問答に勇人も笑っていた。

 

「はい、おまちどおさま」

 

 徳利を一本手にした峰子が、金ちゃんに酌をした。

 

「ほれ、見てみぃ。おみねちゃんは優しいね。一本しか持ってこにゃーよ」

 

 金ちゃんがにやけた。

 

「同時に持ってきたら、一方が冷めるからよ。伝票には二本つけたわよ」

 

 峰子が淡々と言った。

 

「ガクッ」

 

 金ちゃんが大袈裟(おおげさ)にテーブルから肘を滑らせた。

 

「どうよ、いい子だら?」

 

 玄三が峰子を褒めた。

 

「どうぞ」

 

 峰子が勇人にも酌をした。

 

 勇人は、峰子が手にした徳利に目を()えたが震えてなかった。このとき勇人は、峰子は聡明な女だと思った。先刻、酌をしなかった理由を手が震えるからだと推測した。だが、いま酌をした手は震えてなかった。これを、時間の経過に因るものだと捉えるか、もしくは、背中が硬直して見えたのも、顔が青ざめて見えたのも錯覚で、そもそも手の震えとは無関係だ。たまたま酌をしなかっただけで、“白骨死体”とは関係ないと捉えるか。

 

 仮に意図的に酌をせず、動揺を収めるために時間の経過を待ったとしても、手の震えに関しては何も立証するものはない。結果、手の震えを見せなかったことで、後者の捉え方に適合する。――

 

 客が帰ると、片付けを終えた峰子が前に座った。

 

「……手紙を読んでくれましたか」

 

 勇人が俯き加減で訊いた。

 

「……えぇ」

 

「申し訳なかった」

 

 頭を下げた。

 

「やめてください。もう気にしてませんから」

 

「ありがとうございます。大将にも迷惑かけて、すみませんでした」

 

 厨房の玄三に謝った。

 

「気にしにゃーで。呑めば誰でもそうですよ」

 

 玄三が配慮を見せた。

 

「それじゃ、勘定を」

 

 勇人が腰を上げた。

 

「また、待ってますよ」

 

 玄三が声をかけた。峰子も、柔らかな眼差しで勇人を見た。――

 

 翌日。峰子が出勤する前に、勇人は〈玄三庵〉に行った。峰子の身元を調査するため、勇人は身分を明かした。

 

「……やっぱり、そうでしたか」

 

 玄三がそこまで喋って、勇人は、ハッとした。方言がなかった。

 

「初めて見た時から、同じ匂いを感じてましたよ。なぁに、東京に居た頃、刑事をやってた時期がありましてね」

 

「えっ……」

 

 予想だにしなかった展開だった。

 

「吉岡さんが知りたいのは、白骨死体とおみねちゃんの接点でしょ?昨晩の吉岡さんからは、おみねちゃんの背中が見えていたが、俺のほうからはおみねちゃんの横顔が見えていた。顔のほうが正直だ。白骨死体の話が出た途端、おみねちゃんはびっくりしたように顔を強張(こわば)らせて、目を見開いていた。確実に事件に関わっていると直感した。

 

 おみねちゃんがこの店に来たのは九年前だ。白骨死体と符号する。九年前、おみねちゃんと初めて会った時のことは昨日のことのように鮮明に覚えている。

 

 あれは、枯れ葉の舞う今頃の時分だった。乳飲み子を抱えたおみねちゃんが、働きたいと言ってな。訳ありだと直感した俺は、即決した。初めて会った時は(かげ)のようなものを感じたが、いざ仕事となると笑顔を絶やさなかった。乳飲み子を抱えながら、一日も休まず働いてくれた。余程の信念がなければ続かない。芯の強い女だと感心した。

 

 吉岡さん。俺はこう推測する。白骨死体には関わっているが、人殺しではない。つまり、殺人幇助(ほうじょ)や目撃者の(たぐ)いだと。人を殺した人間には必ず、(おび)えというものが付きまとうものだ。毎日、戦々恐々(せんせんきょうきょう)として、雨の音にも、風の音にも怯えるものだ。

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