幻想怪異譚 ~無意識に救われる程度の御話~ 作:まほろばの夢
――そこにはまさしく、知識の海が広がっていた。
これを言ったのは、もはや誰であったか。少なくとも、名を遺すような人物でなかったことは確かである。故人の遺した世迷言。あるいは、その故人はまさしく桃源郷とも呼べる場所にたどり着いたのか。真相など分からぬまま、そんな噂が忘れ去られようとしたときに、また誰かが、今度は酒の席で声を潜めて呟いた。
「ありゃあ、浄土だね」
そこには望んだものが、望むだけ存在したらしい。この世のモノとは思えない美味しい飯があった。筆舌に尽くしがたい美味い酒があった。太陽と月が偏在した。一晩限りの夢物語の体験談。それはまさしく、仏道でいうところの「極楽浄土」であったと話した。
そう話した者も、気づけば故人になっていた。酔えば酒の席で、そんなことがあったんだと口癖のように呟く者も居なくなり、誰も覚えがなくなるような頃にまた、今度は神妙な面持ちで口にするのだ。
「神の御住いであった」
争いごとはなく、花々が美しく咲き誇り、見たことのない動物たちが微睡む、この世ならざる美しい景色が広がっていたと。
噂は小さく、しかし途切れることなく、何処ともわからぬまま、連綿と繋がっていた。故に、大妖怪は「その噂を全て知っていた」としても、只人の見た胡蝶の夢だと切って捨て。あるいは、気にも留めなかったことだろう。
力ある者たちも、そんな世迷言を聞いて何かを起こすわけもなく。
だからこそ、その場所は誰かにしか知られず、しかして決して誰にも認められない。泡沫の夢として。あるいは、名も知れぬ花が道の端にひっそりと咲くように。これからも、滅び去るその時までひっそりと、在り続けたであろうその場所は。
「わぁ、すっごーい。みんなに教えてあげよー!」
とある少女によって、少しずつ、着実に。
変化が訪れ始めるのだ。
◆◆◆
緑葉が太陽にきらめいた。肌にまとわりつく焼くような暑さ。額から伝う汗は頬から顎に伝い、雫となって石畳にしみ込み、しかしすぐに光に焼かれて消え失せる。
「あっつい……」
うんざりと、性根尽き果てたように、掃けの柄に両手を乗せて頬杖を突く。濡れ羽色の髪は額に、頬にべったりとはり付けて、「あぁぁ~」と亡者の如き恨み節を声に乗せる。紅白の衣も、すっかり肌に吸いついたように密着している。それが余計に鬱陶しく感じたのか、風を送るようにはり付いた衣を摘まんではためかせる。パタパタ、というよりもべったりとした嫌な湿り気が余計に感じられて、爽快感はまるでない。
「……」
口をつぐむ。掃けを片手にとっとと縁側に引っ込むと、背中からぱたりと倒れ込む。
夏用に仕立てられた薄めの紅白の布地は、すっかり湿り透けていた。中途半端に、細い二の腕の肌色が衣の上からも見て取れた。もともと脇は曝け出した意匠で、万歳と脱力していたために、衣の隙間からは影のしみ込んださらしが大胆に覗いている。さらしによって隠れているといえど、胸部は確かに女性らしい淡い膨らみが、密着した衣によってぷくりと際立たせる。腹部に至っては、シミひとつない肌が半分ほどはっきりと透けて見えている。
果たして気づいているのか、無頓着であるのか。少女はそのまま、ぼうっと天井の木目を見つめた。頬を撫でるそよ風の心地に、その瞳は徐々に焦点を失っていき、微睡み始める。
「おお~い! 霊夢~!」
途端、聞こえてきた幼い少女の声に、意識が覚醒した。このまま不貞寝しようか、と一瞬だけ思いはしたものの、彼女はけだるげに視線を動かし、声のした方を見た。
大きな角に、小さな体。あぁ、やっぱり厄介な鬼だ、とため息を吐く。
「大変だ! 大変だ! 一大事だよ! 異変だよ!」
「あんたを今とっちめれば、その異変、無かったことにならないかしら」
「おっ、やるかぁ? 私としちゃそれでも……って、そうじゃなくて! 大変なんだって!」
「なにがよ」
鬼は嘘を吐かない。だが、話を大きく盛ることがよくある。特に目の前の鬼、伊吹萃香に至っていえば、それこそ誇大に面白おかしく伝聞することは珍しいことでもないのである。
鬱陶しそうに、身に纏う衣のようにジトリとした視線を向けても、鬼は図太く、何の反応もせずに話を続けた。
「幻想郷の地図が変わるかもしれないんだ!」
「あー、何? 天変地異の前触れでもあったの?」
だとすれば原因を突き止めるか、災害を治めるための神降ろしをしなければならないだろう。面倒ごとの予感に、眉が少しずつ吊り上がる。
「そうじゃなくてさ! あるんだってさ!」
「なにが」
「秘境! まだ私たちが見知らぬ土地が、この幻想郷に!」
「ん? ……建物でも生えたの?」
建物が生える。一見、馬鹿らしく思えるこの発言も、実のところ幻想郷では時折有り得るのだ。例えば紅魔館。例えば、守矢神社。キノコのようにぽんぽこ生えはしないが、異変のせいでというか、異変の元凶が生やしてくることはあったりする。また、元からそこにあったのに、意外と知られていない場所などもある。その例えとしては、迷いの竹林の中にある永遠亭がそれに当たる。
見知らぬ土地。見知らぬ建物。異変の臭いに鼻を摘まみたくなる。ついでに目をつむりたい。
「建物か知らないけど。そこには強い人間が居る! そこには美味い酒がある! そこには至上の月がある! 自然の中に隠れて、誰にも目のつかなかった、まさしく秘境だって! 私にとっちゃ理想郷! 今、その秘境をいろんな奴らが探し回ってるんだよ!」
「なにそれ。うちで宴会すればいいじゃない」
宴会の会場。博麗神社には、四季折々の木々がある。風情のある月もよく見える。境内はそれなりに広いし、集まり易さは一入、といったところ。酒だって、参加者が良いものを自前で持ってくる。強い人間は……まぁ、代り映えしない面子ばかりであるし、ほとんど人間じゃないけれど。
面白い話、とは言えなかった。異変、というには少々強引な気もする。こんなことに時間をとられたのか、と口からため息が漏れた。
「強い人間が居るって聞いちゃ、鬼として黙ってらんないのさ! でも、これがさっぱり見つからなくてね」
「……はぁ? つまり誤報ってわけ?」
あほらしい、と切って捨てようとしたらすかさず「違うって!」と萃香から否定の声が割り込んだ。
「実際、噂は昔からあるんだよ! それこそ、幻想郷出来て少し後からね!」
「それ、本当に人間居るわけ?」
幻想郷が出来てから。これを「博麗大結界」が出来てからと仮定しても、130年近くの歳月が経っている。いくら長生きといえども、130年近く生きた強い人間が居るとは思えない。
「居る! というか居なきゃつまんない!」
「それあんたの願望じゃない」
いよいよ信憑性に乏しくなってきて、視線を切って再び天井の木目をぼうっと見つめ始める。
「とにかくさ! 何かわかったら教えてくれよー! こういう時こそ巫女の出番だろー?」
「巫女は便利屋じゃないっての」
「じゃ、私はもう行くから! 他の奴に先越されちゃ堪んないからね!」
ばいばーい、と声を残すと、その気配はまさしく霧散した。
一体何だったのか。萃香のよくわからない行動に、しかし「いつものことか」と結論付けて、彼女は今度こそ微睡みに意識を預ける。
そして、彼女が次に目を開けた時には。
「あぁ、いらっしゃい。最近はお客人が多いね」
「――は?」
見知らぬ土地が。
見知らぬ男が。
そして見知らぬ景色が。
博麗の巫女は、まさしく白昼夢のような光景を、目の当たりにするのであった。
ほのぼのと、しんみりと、郷愁を誘うように、あるいは欲に忠実に。
不思議で、現実味がなく、掴みどころのない。
そんな話に仕上げたい。