幻想怪異譚 ~無意識に救われる程度の御話~ 作:まほろばの夢
ぱらり、と頁を捲る。静寂もしばらく、また乾いた音が短く擦れる。
ランタンの中、半分ほどになった蝋燭から、ぽたりとその欠片が溶け出し垂れ落ちた。机の上には本と、そのランタンだけが置かれている。
灯は近くにあるというのに、椅子に座るその者の貌だけは陰に隠れている。
静寂が包み込む。たった一人の空間。
頁の端に指を掛け、捲ろうとしたとき。
ランタンの灯が、ふとその形を変えて揺らめき、しかし次の瞬間には元の姿を取り戻す。
「はて……近頃はお客人が多いね」
何かを感じ取ったのだろう。頁に掛けた指を本の裏表紙に掛け直し、ぱたりと音を立てて閉じる。ランタンを片手に、時代錯誤な探索者が、古臭い家屋からのそりと出る。
静謐なる三日月が、しんしんと草花を白く照らしていた。絨毯のように短く生い茂る緑に囲まれ、その先にはキンモクセイが黄色く咲き誇る。ツンと、甘く芳醇な香りが、風に運ばれて鼻を突く。
「今宵、夢と現のまにまに。切なる想いを叶えよう」
静かに呟き、その者の貌が月明かりのもと露わとなる。精巧ながら彫りの深い、一昔前の武将を彷彿とさせるような、益荒男の如き面持ち。されど、目元だけは幼さが抜けきらない、男の貌。
彼は一歩を踏み出して、寝込む有角の少女に近づくのであった。
◆◆◆
「うへへ~」
酔っ払いが、賽銭箱の前に陣取って飲んだくれていた。真っ赤な顔に、だらしのないにやけ顔。しかし、見た目だけは可憐で華奢な幼い少女。瓢箪からぐびり、ぐびりと音を立て、太陽が頂上に座す頃合いにも臆さず、自由気ままに振舞う姿。両の側頭部から生えた立派な角も合わせて、まさしく自由奔放な鬼らしい姿。少なくとも幻想郷では、何ら不思議のない光景である。
「はぁ。飛び出していったと思ったら、昨日の今日で飲んだくれてからに」
「いやぁ、飲まずにいられないってー! 良かった! ほんと良かった!」
「あっそ。私は掃除の邪魔されて良くないけど」
上機嫌なうわばみの相手ほど面倒なものはない。そっけなく返す巫女服の少女。霊夢は炎天下の中、掃けで境内の掃除に勤しむ。
「聞いてくれよー! 昨晩、さいっこうッ! だったんだよ! ほんと、夢見心地ってやつさ!」
「美味しい酒でも見つけたわけ? ならこっちにも寄越しなさい」
「いやぁ、全部飲んじゃったから無いよ! いや、酒も良かったんだけど。何より居たんだよ! 本当に居たんだって!」
「こいつ……!」
掃けを握る手に力がこもり、軋むような音が持ち手から上がる。暑い中、境内の掃除を一人でする少女に対して、その自慢話はまさしく聞くだけで毒を服用するようなものだった。何せこの少女も、酒が大好きなのだ。今、飲めず、苦行を強いられている人間に手の届かない自慢話。少女の苛立ちが急速に溜まっていく。
「初めてさ! 初めて、負けたッ! 真剣勝負、人間との真剣勝負に初めて負けたッ!」
「あぁ、夢ね。夢でしょ。あんたと真剣勝負して勝てる人間が居るかっての」
鬼と、歩く大災害との真剣勝負。それはまさしく、たった一人の人間が嵐や大地震に立ち向かうような、無理難題である。肉体の強度が違う。身体能力が違う。能力の規模が違う。扱う力さえ全く違う。そもそも、軸を捉えられるような矮小な存在ではない。
伊吹萃香は、その能力を以てすれば山ひとつ塵に返すことも容易く行える大妖怪である。純粋な身体能力だけでいっても、比喩抜きに「拳ひとつで山を崩せる」のである。それを相手に、いくら武装を固めたところで、術を極めたところで。人間1人が太刀打ちするには、あまりにも強大すぎる。
それが、鬼。伊吹萃香という、大妖怪なのだ。
だから、霊夢は冷たくも切って捨てる。本気で「良い夢でも見たんだろう」と思った。
「確かに! ありゃあ夢みたいなもんさ。でもね、現実だった! 全部、人間一人の仕業で、この私が正面から叩き潰された!」
はいはい、と流そうとした霊夢。あまりに上機嫌に語るものだから、とりあえず恨み半分鬱陶しさ半分で睨んでやろう、と視線を向けたところで。
「ほら、これが証拠さ!」
痴女の如く、真っ赤なリボンを解き、上着をはだけさせて胸を見せつける。その幼い少女らしい、透き通るような肌、平坦な胸に注目――させたいのではない。
まさしく絹のように滑らかな肌。その胸の中心部に――抉られたような、皮がまだ隆起し、赤黒く染まった――大きな傷跡が、残っていた。
直視して、思わず顔をしかめて、ついで「うっわ」と引き気味に声を上げた。
「へへへ。もう一週間もすれば消えちゃうけどさ。確かに、負けたんだ。凄かったよ。最初は期待なんてしてなかった。ちっぽけな奴だと、王者気取りで戦って――いつの間にか、殴り合ってた。一晩中、殴り合ってた。凄いんだよ、あいつの拳。私とかち合った時、こっちの拳が砕けそうなくらい痛くって、実際、負ける直前には骨なんて砕けてた。あいつの拳も血まみれだったけど、それでも、次で最後、って時にね。私の拳は、あいつの胸を確かに叩いて、あいつの拳も私の胸に届いて――この有様ってわけ」
「……お相手は、ご愁傷様ね。念仏でも唱えればいいかしら」
その呟きは、吹き抜ける一陣の風にさらわれた。
萃香の拳を直撃。そんなもの、ただの人間が食らったなら木っ端微塵に吹き飛ぶだろう。原形を留めるどころか、その骨や肉が残っているかさえ怪しい。
なるほど、確かに相打ち覚悟で鬼にこれほどの大打撃を与えたのであれば。鬼の感性からすれば、あっぱれと、完敗だと、気持ちよく言い切ることもあるだろう。脆弱な人間が、真正面から鬼に立ち向かったのだ。それくらいの贔屓はしてもいいかもしれない。
人里の中でもなし。人間が妖怪に殺されることは、幻想郷にとっては日常で。
例え目の前で自白されたとしても、博麗の巫女として思うところはなかった。
「人間も捨てたもんじゃないなぁ。まだ、あいつみたいなの居るのかなぁ。これからどんどん、生まれてくるのかなぁ……!」
「……ふん」
眉をひそめて、少女はそれ以上取り合わず、風にさらわれた落ち葉を掃いて集める。聞こえてくる惚気話には、もう微塵も耳を傾けなかった。聞くだけで暑くて仕方がないのだ。
掃き掃除が終わる。そんな時になってもまだ、萃香は酒を水のように飲み、その口から炎天下に負けない言葉を紡いでいた。つとめて、その話に耳を傾けないようにしながら、手を日除けに空を見上げる。
どこまでも憎たらしい青が広がっている。太陽のご加護は、大地に惜しみなく降り注いでいる。
打ち水でもしようかと、掃きを片手に顔を正面に戻そうとしたとき。
ふと、青い空が紫紺に染まったような気がした。
「……ん?」
目をこすり、もう一度空を見るが、相も変わらず真っ青な空が広がるばかり。
「あー、なんだっけ。……ま、いっか」
何かを思い出したような気もしたが、大したことじゃないだろうと決めつけて、少女はさっさと軒の下に退散する。
「よかったね」
――小さな鬼は、少女が水を持ってきてもまだ、語り明かしているのだった。
◆◆◆
「綻びが生まれている」
咲き誇る色とりどりの花の中心に立ち、太陽と月を見上げて、男はぼそりと呟いた。その声音は低く、わずかに震えている。
手のひらを握り込み、歯を食いしばり、瞳を閉じる。
「その純真に報いるには、あと、いくつ」
次に瞳を開けば、太陽がさんさんと輝き、周囲は鮮やかな黄色に染め上げられた。
その変化は即ち、来客の報せであった。
「お客人……果たして、どちらか」
どちらであっても、男がやることは決まっていた。
「救われぬ者に、救いの手を」
最後の希望として。
男は手を差し伸べるのだ。
キンモクセイ
花言葉「謙虚」「気高い人」「真実」「真実の愛」「初恋」「陶酔」