中学の同級生 最終話1 今井礼子
5月9日(日) PM 1:41 (7年前)
支払いを終えた私は、レジの人ごみからようやく解放され、エレベーター側にある休憩所でほっと一息ついた。ふう、今日のバーゲンは大収穫ね。わざわざバスに乗って中心街のデパートまで来た甲斐があったわ。私は紙袋の中の本日の戦利品を見つめる。家族みんなのために買った物。利夫さんと亜弥、喜んでくれるかな?
利夫さんにはネクタイとネクタイピン。少し地味な柄だけど、利夫さん、派手なの似合わないし、これ、喜んでくれると思う。
亜弥には赤のジャケット。バーゲン品にしては少し高かったけど、思い切って買っちゃった。だって、すごくかわいいんだもの。絶対、亜弥に似合う。
で、申し訳ないけど、私のも買っちゃった。私、自分で言うのもなんだけど、結構主婦業がんばってるから、たまにはいいわよね。すごく安い物だし。赤いコート。亜弥とおそろいの色。今年の冬は2人でこれを着てお出かけしよう。ウフ。楽しみだな。
さて、まだ早い時間だけど、そろそろ帰らないと。お夕飯の支度もしなきゃいけないしね。地下の食料品売り場で材料買って帰ろう。私はエレベーターのボタンを押した。
――あら? 利夫さん?
エレベーター到着までの時間、何気なく辺りを見回すと、売り場の方に見慣れた背中を発見。間違いなく、利夫さんだ。なんと、女の人と一緒にいる。長い黒髪の、赤いコートを着た女の人。もう5月だから暑いでしょうに。でも利夫さん、今日は午前中、急に会社から呼び出しがあって、お仕事に出かけたはず。なのになんで、女の人と一緒にいるんだろう? ……そうか。会社の人と、何か買出しに来たのね。……なんて訳は無い。だってあの2人、腕組んで歩いてるもの。これって……これってもしかして!?
利夫さんは私に気付かなかったので、私は2人のあとをこっそりつけた。2人は婦人服売り場や貴金属品売り場を見て回る。ずっと、腕は組んだまま。利夫さん、時々、服やアクセサリーを買ってあげてる。絶対にバーゲン品じゃないような商品ばっかり。遠いから2人の会話は聞こえないけど、とても楽しそう。
あ……。
その瞬間、私の魂は凍りついた。
利夫さんがアクセサリーを渡した時、女の人が、利夫さんの頬に、キスをしたのだ。
その後、2人は1時間ほどデパートの中を本当に楽しそうに見て回り、外に出た。私はまだあとをつけてる。
何であとをつけてるかと言うと、実は私、まだ心のどこかで、これは利夫さんの不倫じゃないって信じているからなの。
身内じゃない女の人と腕を組んで歩いて、頬にキスする。常識的に考えれば、これって間違いなく不倫だけど、でも、テレビで弁護士の先生が言ってたわ。キスだけなら不貞行為に当たらず、不倫ではない、って。その弁護士先生、女心がちっとも解ってないとは思う。女の私からすればとても許せないけど、でも、男の人は違うのかもしれないじゃない? 納得はいかないけど、キスだけじゃ不倫じゃないかもしれないのよ。だから私、まだあとをつけてるって訳。
でも、そんな私のほんのわずかな期待もむなしく。
2人は表通りからどんどん離れて行き、着いた先はいかがわしいホテルが立ち並ぶ通り。2人はその中から昼間から営業している店を選んで……。
それ以上は見ていられなかったので、私は逃げるように、その通りから走り去った。
表通りに戻ってきた私。乱れた息を整える。頭の中は真っ白で、何も考えられないけど、考えなくても答えは出ている。あれは間違いなく……利夫さんの不倫現場。
どうしてこんなことになったの?
結婚して8年。私は利夫さんの妻として、本当に頑張ってきたと思う。毎朝早く起きて、必ず朝食を作る。和食がメインだけど。洋食も、時々作るのよ。で、利夫さんと亜弥を送り出した後は、掃除に洗濯、お皿もちゃんと洗う。そりゃ、午後からテレビで昼ドラやワイドショー見ることもあるし、お昼寝することもあるわよ? でも、それはお仕事をちゃんと片付けてから。夕方前には買い物に行く。近所の奥さんと無駄話することもあるけど、お夕飯も、必ず用意するもの。もちろん、お風呂の準備もバッチリ。利夫さんがおうちに帰ってきて、お風呂と夕飯、どちらを先に希望しても、どちらもできるようにしてるの。利夫さんのお風呂とお夕飯が終わったら、後片付けをして、ちゃんと家計簿もつけてる。生活は豊かとはいえないけど、絶対に赤字にはしないように、きちんとやりくりしてる。少しずつだけど、貯金も増えてきた。亜弥をいい学校に通わせるために。
そう、亜弥! 私と亜弥、血の繋がりは無いけれど、私、実の娘のように、ううん、実の娘以上に、愛情を持って育ててきたのよ! 少し厳しくしてきたところもあるけど、でも、それも亜弥のことを思えばこそ! あの子は、すごくいい子に育ってる! すごくかわいい……いい子に……。
なのに、なのに!
この仕打ちは何!?
私は妻として、母として、精いっぱいやってきた! そのことには、すごく誇りを持ってる! なのに、何でこんなことに!?
あの女は一体何なのよ!?
妻の私が一生懸命やりくりして、たまの休日にバーゲンセールにやってきて、季節外れの商品買って満足してるっていうのに、あの女は! 突然現れたあの女は、身内でもないのに利夫さんにバーゲン品じゃない服やアクセサリーを買ってもらってる! なんてずうずうしい女!
紙袋の中の商品を見つめる。今日の戦利品。利夫さんのネクタイとネクタイピン。亜弥のジャケット。私の赤いコート。
忌々しいことに。
あの女の人が着てた赤いコート、今日私が買ったバーゲン品のコートにそっくりだ。
もちろん、あの女の人のコートはバーゲン品じゃないと思う。遠くから見ただけでも判る。あれは絶対、高級ブランド品。
悔しい……。
私は、紙袋をぐしゃぐしゃに潰し、そして、デパートのゴミ箱に投げ捨てた。
その後、記憶はかなり曖昧なんだけど、私はバスに乗り、うちの近くのバス停まで戻ってきた。
――あ、お夕飯の材料、買い忘れちゃった。
しょうがない。有り合わせで何とかしよう。特売デーでたくさん買ったひき肉を冷凍保存してるから、あれでハンバーグを作ろうかな。卵も玉ねぎもパン粉も牛乳あるし。付け合せはわかめのおみそ汁と……近所のスーパーでお惣菜を買おう。確か今日は、ポテトサラダが安かったはず。後、チーズも買わなくちゃね。ウフ。亜弥、チーズの入った私の手作りハンバーグ、大好きだから、喜んでくれるかな? 利夫さん、今日は早く帰ってくれるといいな。
――利夫さん。
…………。
何言ってるの、私。
ああ、ほんとに私、悲しいくらい、とことん主婦だわ。夕飯のこと考えてたら、一瞬、さっきのこと忘れかけた。
…………。
私は近所のスーパーでポテトサラダとスライスチーズを買い、家に帰った。
「ただいま」
言っても返事は無かった。利夫さんは当然まだ帰ってないし、亜弥の靴も無い。そう言えば、今日は友達と出かけるって言ってたっけ。
私はポテトサラダとチーズを冷蔵庫にしまうと、着替えてまずはお風呂掃除。早く済ませないと、お夕飯が遅れちゃう。20分ほどで掃除を済ませ、今度は夕食の支度。冷凍庫からひき肉を取り出し、レンジで解凍。その間にお米を研ぐ。炊飯器にセットし、タイマーのスイッチを入れたところで、電話が鳴った。あ、亜弥かな? もうすぐ5時だから、早く帰ってくるように言わないと。私は受話器を取った。
「はい、今井です」
「あ、礼子か? 俺だ」
ドクン。心臓が大きく血を送り出す。
「と……利夫さん?」
「ああ。……どうした? 声が変だぞ?」
「え? そ……そんな事無いわよ。で、何?」
「ああ。すまん。ちょっと仕事、やっかいなことになってて、まだまだ帰れそうにないんだ。飯は外で済ませるから、先に食べててくれ。何時になるか判らないから、寝ててもいいぞ」
利夫さんはいつもの口調で言う。あたしに不倫現場を見られてたなんて、思ってもいない。
――うそつき! 私見たんだから! あなたがデパートで女の人に服やアクセサリー買ってあげてるところ! ほっぺにキスされてるところ! 2人でホテルに入っていくところ! 全部、見たんだから! あの人誰!? 誰なのよ!?
そう言ってやりたい。私は利夫さんの妻。そう言ってヒステリックにわめき、娘と一緒に家を出て、夫が土下座するまで帰らず、この家を放っておくこともできる。非は完全に利夫さんにあるんだから。さあ、言ってやりなさい、礼子!
でも、私の口から出たのは。
「そうなの。判ったわ。お仕事、がんばって。でもムリしないでね」
「ああ。じゃあ」
電話は切れたけど、私は受話器をしばらく耳に押し当てたまま、その場に立ち尽くす。「いや、やっぱり早く帰るよ。お前のご飯が食べたいからな。今日のメニューは何だ?」と、言ってくれることを期待して。でも、電話の向こうの相手はもういない。ただ、無機質で規則的な機械の音を繰り返すだけ。
私、ほんとにバカだ。この後に及んでまだ、実は利夫さんの不倫じゃなかったんじゃないかって、思おうとしてる。そんなこと、ある訳ないのに。
私はあきらめて受話器を置き、台所に戻ってハンバーグ作りを再開した。玉ねぎをみじん切りにする。目にしみる。冷蔵庫に入れておけば良かったな。冷やしておけば、目にしみないもの。今日は突然ハンバーグを作ることになったから、そこまで準備してなかった。ああ、ほんとに目にしみる。涙が止まらない。止まらないよ。
玉ねぎを炒め、ひき肉や卵などと混ぜ、こね始めても涙は止まらなかった。火を通したから、玉ねぎ、もうしみないはずなのに、なんでかな……。
ガタン。
2階で物音がした。2階――亜弥の部屋。亜弥、帰ってきたのかしら? ただいまくらい言えばいいのに。
私は階段の下に行く。
「亜弥? 帰ってるの?」
「あ、はーい」部屋から亜弥の声。
「帰ったら、ただいまくらい言いなさい!」
「あ、ごめんなさい」
「まったく……」
いつも挨拶はちゃんとしなさいって言ってるのに。こんな簡単なこともできないのかしら!
私は台所に戻り、ハンバーグの形を整える。それを3つ作る。
――3つ?
私と亜弥と……利夫さんの分。
思わず、作っちゃった。
…………。
そう言えば。
お昼のドラマで、こんなシーンがあったわね。内緒で女に会っていた夫に、妻が「今日の夕飯はコロッケよ」と言って、たわしをお皿に乗せて出すの。あのシーン、見たときはまるでコントみたいで思わず笑っちゃったけど、今ならあの妻の気持ち、判るわ。でも、たわしじゃダメよね。いくらなんでも気がつくもの。私だったら……そうね。このハンバーグの中に、針を入れて……。
や……やだ、私ったら、何考えてるのかしら! いけないいけない。冗談でも、こんなこと考えちゃダメよ。
私はバカな考えを頭から追い払い、フライパンを火にかけ、油をひいた。あっと。おみそ汁も作らなくちゃ。なべに水を入れ、こちらも火をかけた。棚から粉末だしと乾燥わかめを取り出す。あ、普段は私、おだしはちゃんと削り節や煮干から取るのよ。今日はなんだかそんな気分になれないから、粉末だしを使うの。あ、フライパン、煙が上がってる。早くハンバーグ入れなきゃ。ハンバーグの真ん中にくぼみをいれ、フライパンに投入。おいしそうな音とにおいに気を取られていると、今度はおなべが噴いてる。粉末スープを入れ、乾燥わかめを入れた。そしたら今度はハンバーグをひっくり返さなきゃ。慌ててひっくり返す。ああ、もう。お味噌も入れないと。冷蔵庫からおみそを取り出し、おなべに溶き入れた。……ん? なんだか焦げ臭い。やだ、ハンバーグ焦げてるじゃない! 火が強すぎたかしら? 少し火を弱め、もう1度ひっくり返す。あん! おみそ汁が煮立っちゃった。慌てて火を止める。風味が飛んじゃったじゃないの!
どうしたんだろう私。普段ならハンバーグとおみそ汁同時に作るくらい、何でもないのに。今日は失敗ばかり。すごくイライラする。もう! 亜弥は何やってるのかしら? 階段の下に行く。
「亜弥、ご飯の支度、少し手伝って!」
「はーい!」
また台所に戻り、食器棚から私と亜弥の分のお茶碗とグラスを取り出し、お盆に並べる。亜弥が下りてきたので、お盆を渡した。
「これ、運んでちょうだい」
そして私はフライパンのハンバーグをお皿に移そうとする。でも、亜弥はお盆のお茶碗をじっと見つめたまま、動こうとしない。何やってるの、この子は!
「早くしてちょうだい」
亜弥は、慌ててお盆を居間へ運んだ。まったく、何をボーっとしてるのかしら。
私はハンバーグをお皿に移し、冷蔵庫から取り出したポテトサラダを横に添えた。亜弥が戻ってきたので渡す。おみそ汁をつぎ、亜弥がご飯をよそおい、ようやく準備が整った。
「いただきまーす」
夕食の始まり。
私と亜弥。2人だけの夕食。利夫さんのいない夕食。珍しいことではないけれど、今日はいつもと違う。利夫さんは、知らない女の人といる。仕事で遅くなっているわけじゃない。もしかしたら、いつも帰りが遅いのも、仕事なんかじゃなく、あの女の人のところにいたの? それなのに私、毎晩ご飯を作って、お風呂の準備をして、帰りを待ってたの? なんて……なんてバカなの!
と、亜弥が箸をかんでいるのが目に入った。
もう! この子ったら! その癖、何度注意したら直るの!
「亜弥! 箸の先をかんじゃダメって、いつも言ってるでしょ!」
私、思わず怒鳴ってしまった。亜弥、ビクッとなって、箸を口から離す、でもその手がおみそ汁のお椀に当たり、ひっくり返った。
「何やってるの!」
私はますます頭に血が上る。台所から布巾を持ってきて、テーブルの上を拭くけど、亜弥はその場に座ったまま。何もしないで見てるだけ。私の苛立ちは頂点に達し。
「もうご飯は終わり! 部屋に戻ってなさい!」
「……あ、でも……」
「早くしなさい!」
そのときの私は、本当に、鬼のような形相をしていたかもしれない。亜弥はとぼとぼと居間を出て、階段を上がり、部屋に戻った。そして、私はテーブルを拭き終えたところで、自分のしてしまったとことに気付き、深く後悔する。
ああ、やっちゃった。俊夫さんのことでイライラして、亜弥に当たっちゃった。
亜弥が箸をかむ。確かに何度も注意しているクセ。でも普段なら、ここまでは怒らない。普通に注意して、亜弥がかむのをやめて、それで終わり。クセなんだから、すぐには直らないのが当たり前。根気よく注意していくしかないのに。それなのに、あんなに怒鳴っちゃって。亜弥がビックリするのも無理はない。おみそ汁をひっくり返したのも、私があんなに怒鳴ったからでしょ? あんな風に怒鳴れば、まだ子供なんだから、ビックリしてすくみあがっちゃうのが普通でしょ? なのに私、私! 自分が恥ずかしい!
でも、これも全部、利夫さんがいけないのよ! あの人が、あたしを裏切ったから! あの人が! あの人が! あの人が!
憎い! あの人が!
さっき、なぜが利夫さんの分まで用意してしまったハンバーグが、頭をよぎる。
あの中に針を入れようと思った。でも、針じゃダメだよね。どうやったって、横にしか入らないもの。これじゃ、噛んだときに気付いちゃう。刺さる可能性は低いわ。そうね……そうなると、カッターの刃のほうがいいかしら? あれなら縦にして仕込むことができそう。噛んだときに口の中を切る可能性が格段に高くなるわ。そうね、そうしましょう。
…………。
ああ!
また私は! 私は! なんて恐ろしいことを考えるの!
自己嫌悪の極み。夫の不倫現場を目撃して、そのことで娘に当り散らし、あまつさえ、夫の食事に針やカッターの刃を仕込もうとするなんて。私はこんな人間だったんだ……。
このままじゃダメだ、私。いつか、取り返しのつかないことをしてしまう。何とかしないと……。
ああ、今日、お買い物になんか行くんじゃなかった。そうすれば、利夫さんの不倫現場に遭遇しなかったのに。あんな嫌なもの、見ずにすんだのに……。
…………。
そうか。見なかったことにすればいいんだわ。
ゴキブリさんと同じよ。
ゴキブリさん。この家は古いから、夏になると、台所とかお風呂場とか、ゴキブリさんが出るの。もちろん私、ホウサン団子を置いたり、殺虫プレートを吊るしたり、水回りを清潔にしたりって、対策はしてるけど、それでもやっぱり、たまに出ちゃうのよね。
でもね、私思うの。ゴキブリさんが出る、って言う表現は、ちょっと正しくない。ゴキブリさんとたまたま出会う、って言う方が、正しいんじゃないかな?
この家でゴキブリさんを見る回数って、シーズン中5、6匹程度。でも実際は、もっといっぱいいると思うのよ。なんたって、1匹見たら30匹はいる、って言うくらいだもん。じゃ、残りの29匹がどうしてるのかって言うと、暗くてジメジメした所が大好きなゴキブリさんのこと、排水溝の中とか、床下とかにいると思うのよね。わざわざ台所までやってくるゴキブリさんって、変わり者だと思う。そんな変わり者のゴキブリさんが台所にいる時に、たまたま私が同じ台所にいたから、ゴキブリさんが出た、ってことになるの。
でも、もしそのとき、私が台所じゃなくて、居間にいたとしたら?
ゴキブリさんは台所をウロウロした後、飽きて巣に帰っちゃうか、ホウサン団子食べて死ぬか、殺虫プレートの効果で死ぬか、どれかだと思う。
つまり、台所をゴキブリさんがウロウロしていても、私が台所じゃなくて居間にいた場合、ゴキブリさんと私は出会わないから、ゴキブリさんは出なかった、ってことになるのよ(ホウサン団子とかで死んだ場合は死骸を発見するかもしれないけど、生きてるゴキブリさんに会わなければ、会ってないのと同じなの)。
だからね。
私、ゴキブリさんを見かけても、見なかったことにするの。
私は今、台所にいるんじゃなくて、居間にいることにするの。そうすれば、ゴキブリさんに会わないじゃない? ゴキブリさんは出なかったのと同じ。ね? 簡単でしょ?
利夫さんの不倫も同じだわ。
私と不倫中の利夫さんが、たまたまデパートで出会ってしまっただけ。あたしが今日デパートに行かなければ、利夫さんの不倫は、無かったのと同じなのよ。
だから、私は見なかったことにする。
私は今日デパートのバーゲンセールなんて行ってないし(現に私、何も買って帰ってないじゃない?)、利夫さんを見かけなかったし、長い黒髪で赤いコートの女の人なんて知らないし、ましてその女の人が利夫さんのほっぺにキスしたり、一緒にいかがわしいホテルに入ったりなんて、そんなこと、あるわけ無いわよ。見てない見てない。
……あ、でもね。
私、台所やお風呂場のゴキブリさんは見なかったことにできる。放っておけば、巣に帰るもの。
でもね。
たまにいるのよ。巣に帰らず、居間の方に来ちゃうゴキブリさんが。
居間、私の寝室。私の、安らぎの場。
ここまで来ちゃったゴキブリさんは。
絶対に、やっつけちゃう。逃がしたりはしない。だって、ゴキブリさんがいるかもしれない部屋なんかで、落ち着いて眠れないじゃない?
だからね、利夫さん。
台所やお風呂場でウロウロしている間は、見なかったことにするわ。でももし、居間まで来ちゃったら、そのときは、覚悟してね。
バタン。ガチャリ。
これ、私の心の扉に鍵をかけた音。もう開かない。これで、今日のお昼の出来事は、もう無かったのと同じ。
ああ、これで私、気分がかなり楽になった。さて、お片づけして、家計簿でもつけようかな。私は食べ残しのハンバーグとご飯にラップをかけて冷蔵庫に入れ、洗い物を済ませると、居間に戻って家計簿を取り出した。
さて、今日はまず郵便局で2万円の引き出し。で、出費はポテトサラダ(大)298円。スライスチーズ98円。っと。……あら? 財布の中のお金、家計簿と全然合わないわ? えっと……1万2千5百円? 何かしらこれ? 私今日、何か無駄遣いしちゃったかしら? でも今日は夕方まで家にいて、近所のスーパーでお夕飯の買い物をしただけだったと思うけど……。不思議だわ……。
「お母さん」
亜弥の声。見ると、廊下に亜弥が立っていた。何だか、恐る恐ると言う感じ。
「ん? 何?」
「その……さっきは、ごめんなさい」
亜弥、謝る。あ、そういえばさっきのお夕飯のとき、亜弥が箸をかんで、あたし、叱ったっけ。うーん。でも私、あのときなんであんなに大声上げちゃったのかしら? 亜弥に悪いことしちゃったわね。
「ああ。もういいわよ。お母さんも、ちょっときつく言いすぎたわ」
亜弥の顔が、ぱあっと明るくなる。
「……それでね、今日、明奈ちゃんたちと一緒に、お買い物に行ったの。母の日のプレゼント買いに。コレ」亜弥は、背中に隠し持ってた紙包みを取り出した。
「え? お母さんに?」
「うん!」
私は亜弥からのプレゼントを受取る。「ホントに? 何かしら? 開けていい?」
「うん。開けてみて」
包装紙を丁寧にはがす。そうだわ。すっかり忘れてたけど、今日は母の日。でもまさか、亜弥がプレゼントを用意してくれてるなんて。私、最近亜弥を叱ってばかりだったのに。それでも亜弥、プレゼントを用意してくれるなんて、なんて……なんていい子なの、亜弥は!
そして包装紙の中から現れたのは――赤いコート。
赤いコート?
心の中の、開けてはいけない扉が、開いていくのが判る。
赤いコート。デパートのバーゲン品。利夫さん。側にいる女。利夫さんの頬にキス。ラブホテル。女。長い黒髪。赤いコート。利夫さん。ハンバーグ。針。カッターの刃。赤いコート。赤いコート――。
ダメだダメだダメだ。この扉を開けちゃいけない。開けちゃダメ! こんな赤いコートがあるから、せっかく閉ざした扉が開いちゃう。赤いコートなんていらない。赤いコートなんていらない。赤いコートなんていらない。赤いコートなんていらない赤いコートなんていらない赤いコートなんていらない赤いコートなんていらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらないいらない扉を開けちゃう赤いコートなんていらないの!
「あのね、明奈ちゃんはハンカチを買ったの。結衣ちゃんと奈々ちゃんは、スカーフ。でもあたしは、そのコートにしたの。ちょっと高かったけど、お母さん、コートボロボロだったし、欲しがってたし。いつもご飯の支度や掃除に洗濯、大変なのに、あたし、最近お母さんに叱られてばっかりだったから、だから、その――」
「――いらないわ」
「え?」
亜弥、あたしの言葉が理解できなくて、きょとんとした顔。
「いらない、って言ったの。もう5月よ? これから暑くなるんだし、コートなんか着ないもの」
私はそう言って、亜弥のプレゼントをテーブルの上の横の方に置き、また家計簿に向かう。そうよ。そんなことより、今は1万2千5百円を合わさなきゃ。えっと。昨日の夜までは合ってるんだから、やっぱり今日、何かに使ったのよね。何だったかしら・・・?
「でもお母さんあたし――」
「うるさいわね! いらないと言ったらいらないの!」
私はテーブルの上の赤いコートを払いのけた。
亜弥は、そんな私をしばらく呆然と見つめ、そして畳の上のコートを拾い、2階の部屋へ戻っていった。居間を出るとき、亜弥の瞳に浮かぶ涙が見えた。
その涙を見て、私は正気を取り戻す。
――あ……亜弥。
私は……私はなんてことを! また、亜弥に当たってしまった。しかもこれは、さっき箸をかんでたことを叱ったよりも、もっとずっと、許されないことだ。亜弥に非は無い。亜弥はただ、私に喜んで欲しくて、あの赤いコートを買ったのに。たまたまそれが、利夫さんの不倫相手の着ていたものに似ていただけなのに! それなのに、それなのに私は! 亜弥に謝らなきゃ! でも、なんて言って謝ればいいの?
こうなったのも、全て利夫さんと、あの女のせい……。
もちろん最大の原因は私だけど、きっかけを作ったのは利夫さんだもんね。その償いはしてもらわないと。ハンバーグに針やカッターの刃を仕込むくらいじゃダメね。口の中切ったって、死ぬ可能性なんてほとんど無い。どうすればいいかしら? やっぱり、何か毒を入れるのが一番ね。私、学生時代、化学は大の苦手だったから、薬品の知識は全く無いけど、でも、こういうときに使うのって、やっぱり青酸カリかしら? ドラマとかじゃそうよね。どうやったら手に入るのかまでは判らないけど、後で調べてみよう。手に入りさえすれば、後は簡単。みそ汁にでも何にでも、ほんの少し入れるだけ。そう考えると、私が利夫さんを殺すのって、すごく簡単なことのように思えるわ。だって私、毎日必ず利夫さんのご飯を作るもの。今日だって、利夫さんはご飯はいらないって言ったのに、つい作っちゃった。それくらい、私が利夫さんにご飯を作るのは、自然なこと。つまり、私が利夫さんを殺すチャンスって、これから毎日毎日、あるのよ。何百回、何千回も、ね。その中のたった1回でいいの。青酸カリを入れれば、それで終わり。ウフフ。
…………。
ああ! だめ! そんなことしたらダメよ! だって、利夫さんは、亜弥の実お父さんだもん。私が利夫さんを殺したら、例えそれが完全犯罪になっても、亜弥は悲しむと思う。まして、私なんかに完全犯罪なんて、絶対にムリ。絶対に、警察に捕まっちゃう。そしたら亜弥、独りぼっちになっちゃうじゃない。そんなの、絶対にダメ!
そうよ。ゴキブリさん。
利夫さんの不倫は、ゴキブリさん。私が見なかったことにすれば、それで終わっちゃうの。そうよ!
だからゴメン、亜弥。私、今日のこと、無かったことにする。忘れるね。利夫さんの不倫のことも、あなたのプレゼントの赤いコートのことも……。全部忘れる。もう2度と思い出さない。もし街であの女の人を見かけても、赤いコートを見ても、これからは、絶対に思い出さない。もう、心の扉は完全に閉めた。鍵も掛け、その鍵も捨てちゃった。2度と開かない。2度と、今日のことは思い出さない。
じゃないと。
私、利夫さんを殺しちゃう。ううん、それよりも、あなたをまた傷つけちゃう。もしかしたら、今日以上に。
だから、今日のことは、全部忘れる。今日だけは、ごめんなさい、亜弥。
でも、その代わり。
明日からは、私はあなたのために、生きていくわ、亜弥。あなたの為に。あなたの幸せの為に。
そして。
あなたに何かあったときは、何があっても、私はあなたを護るわ。絶対に。
だから亜弥……今日だけは……今日だけは、本当にごめんなさい……。
でも、いつか必ず、今日のこと、あなたに謝るわ。許してくれるとは思えない。今日の私の罪は、本当に重いもの。でも、いつか必ず、謝るから。赤いコート、本当に、ごめんなさい。
赤い……コート……本当に……ごめんなさい……。
10月3日(火) PM 8:12 (現在)
薄れゆく意識の中で、私は、7年前のあの日のことを思い出してしまった。閉ざされた心の扉が、開いてしまった。
でも私、貴美子さんの幽霊に、首を絞められてる。貴美子さんの幽霊――ううん、そんな訳ない。ホントは判ってる。これは、幽霊の格好をした利夫さん。そして、1ヶ月前私が殴ったあの赤いコートの女の人は、多分貴美子さんじゃなかったんだ。だって平泉さん、貴美子さんは生きてるって言ってた。貴美子さんが生きてるってことは、死んだのは貴美子さんじゃないってこと。誰だか知らないし、知りたくもないけど、利夫さんの愛人。庭に死体が埋まってなかったのも、利夫さんが掘り返したのよね、きっと。
利夫さんの手にこもる力は、ますます強くなる。でも、私は抵抗なんてしない。
だって、これでいいんだ。きっと。
利夫さんの愛人を殺した私が利夫さんに殺されて、利夫さんが警察に捕まる。私も利夫さんもいなくなるけど、でも、それでいい。きっと、本物の貴美子さんが、亜弥を育ててくれる。本物の貴美子さん、優しい人だといいな。亜弥を大切にしてくれるといいな。本当の母親だもん。大切にしてくれるよね。その方が、亜弥も幸せだ。
唯一、心残りなのは。
7年前のあの日のことを、亜弥に謝れなかったこと。
7年前の母の日、私は亜弥を傷つけた。私の、最大の罪。もう、亜弥に謝ることはできない。
ならせめて。
今、謝ろう。亜弥には届かないけど、今ここで謝ろう。単なる自己満足でしかないけど、謝りたいの、亜弥に。亜弥……赤い……コート……本当に……ごめんなさい……。
何度もその言葉を口にする。完全に意識がなくなるまで、私は言い続ける。
亜弥、ごめんなさい。
そして、私の意識は無くなり……。
――お母さん! 死んじゃイヤあ!
死の間際、私は、亜弥の声を聞いたような気がした。
――亜弥。
亜弥が、私を呼んでる。
私の亜弥が……呼んでる。
私行かなきゃ。
亜弥のところに――。
中学の同級生 最終話2 今井亜弥
10月3日(火) PM 8:13
「刑事さん! 早く! こっちです!」
あたし、お母さんの病室の廊下の角で、手を振りながら叫ぶ。でも、手を振る先に刑事さんはいない。実は、もうとっくに帰っちゃった。
でも、効果はテキメン。私の叫び声を聞いた父、慌てて病室を飛び出し、あたしと目が合うと、反対の方へ逃げて行った。
お母さん!
あたし、お母さんの病室に飛び込む。間に合ったかな? だめだ! 息してない。このままじゃ死んじゃう!
「お母さん! 死んじゃイヤあ!」
あたしは心の底から叫び、お母さんの肩をゆする。ナースコールのボタンを押すのも忘れて、ただ、お母さんの名を呼び続ける。
お母さんに死んでほしくない。少し前までは、こんなこと思わなかっただろう。あたしは、自分のことばかり考えていた。でも、気付いた。お母さんの優しさに。お母さんが護ろうとしていたものに。
だから。お母さん! 死なないで!
叫ぶ。叫び続け――。
何度目の呼びかけか、もうわかんないけど、お母さんが大きく咳をした。
「お母さん!」
激しく咳き込むけど、それは呼吸が戻った証拠。やがて咳はおさまり、呼吸が安定する。
良かった……良かった! お母さん、生きてる。息してる。意識は戻らないけど、もう大丈夫だと思う。良かった、ホントに……。
10月4日(水) AM 0:12
小さい頃の話だけどね。
あたしが1歳のとき、父と前の母は離婚したんだけど、父は離婚後すぐに今のお母さんと再婚した訳じゃなく、半年くらい、1人であたしを育ててたらしいの。そのときの記憶、今のあたしにはもちろん無いけど、1歳のあたしは、お母さんがいないって、すぐに泣き出してたんだって。たぶん、その反動だと思うけど、小さい頃はあたし、すっごくお母さんっ子だった。何かあると、すぐ、お母さんお母さんって、泣いてたの。そしたらお母さん、あたしを抱きしめてくれた。あの頃お母さん、あたしが泣きながら呼んだら、何をしてても、絶対、あたしの所へ来てくれたの。なつかしいな――。
「……亜弥」
お母さんの声が聞こえ、目を覚ました。どうやらあたし、あの後病室でウトウトしてたらしい。
……あ、お母さん、気がついたんだ。
「お母さん……その、大丈夫?」
「ん、平気」少しかすれた声で答えた。首にはくっきりと父の手の形の痣が残っている。見ていて痛々しい。
「……お父さんは?」少し咳き込みながら、お母さんが言った。
って、お母さん、さっきの幽霊の格好をしたのがお父さんだって、気付いてたのか。
「あたしが騒いだら、逃げてったよ。よかったね……助かって」
「うん。亜弥が、泣きながら呼んでたような気がしたから」
「なっ……泣いてなんかないよ! 泣いてなんか!」
「そう?」お母さん、すごく嬉しそうに笑った。あ、ダメだ。あたし、多分顔真っ赤。
――――。
……何だか、気まずいな。
「亜弥――」お母さん、急に真剣な顔になって。「7年前の、あの赤いコートのこと。本当に、ごめんなさい」
そう言って、頭を下げた。
「……お母さん。思い出したんだ」
「亜弥。何を言ってもいい訳にしかならないけど、聞いてくれるかな? あの日の事」
そう言ってお母さんは、7年前の出来事を話し始めた。父の不倫の事。それを見たときのお母さんの気持ち。それを忘れなければいけないほど、追いつめられたお母さん――。
「……そうだったんだ」
あたし、7年前の母の日、お母さんに何があったのかを知り、言葉を失う。
あたしが傷ついたあの日、お母さんは、あたしよりもずっと傷ついていたんだ。そんなこと、思ってもみなかった……。
「どんなに言い訳しても、あの日私が亜弥を傷つけたことは、許されることじゃないわ。亜弥――本当に、ごめんなさい」
お母さん、また頭を下げる。あたしはそんなお母さんの手を取り。
「もういいよ。もう」
「亜弥――」
「もう7年も前のことだし、お母さんがあの日、そんなに苦しんでいたなんて、あたし、思いもしなかったから。それに、お母さんずっと私のこと、護ろうとしてくれてたもんね」
「――――」
「お母さん。ホントは気付いてたんでしょ? 瞳さん――貴美子さんに成りすましてた、お父さんの愛人を殺したの、本当はあたしだってことに――」
そうなのだ。お母さんは、ずっと前から気がついていたんだと思う。あたしが、瞳さんを殺したことに。知っていてあえて、その罪をかぶろうとしてたんだ。あたしを護るために。
7年前、お母さんはあたしを傷つけてしまったことを悔やみ、でも、そのことを忘れなきゃいけなかった。だからきっと、こう思ったんだ。忘れる代わりに、どんなことがあっても、あたしを護るって。それがこれだったんだよ。お母さんはあたしを護るために、あたしの罪をかぶり、そして、そのことを忘れ、自分が犯人であるように思いこもうとしていたんだ。お母さん、バカだよ。あたしなんて、お母さんに護られる資格なんてない。だってあたし、ずっと、お母さんなんていなくなれ、って、思ってたんだもん。
でもお母さん、にっこりと微笑み。「何言ってるの、亜弥。そんな訳ないでしょ。あの人を殺したのは私。私が、置物で殴って、殺したのよ。あなたは何もしてないわ。だから、もし警察に捕まるなら、私なの。それで良いのよ」
「良くないよ! だって、瞳さんを殺したのはお母さんじゃあない! 私が、この手で――」
「亜弥!」
お母さん。まっすぐな目であたしを見つめる。それ以上は言っちゃ駄目。そう言っている目。
「亜弥。あなたにはまだまだ、未来があるの。私はそれを護りたい。7年前、私は、あなたを傷つけたことを忘れる代わりに、必ずあなたを護るって誓ったから。あなたは何もしていない。あの女を殺したのは私。だから、2度とそんな事、言っちゃダメよ」
「でも、でも――」いつの間にか、あたしの頬を涙が伝ってる。あたしのためにお母さんが捕まる。今となっては、そんなこと許せない。だってお母さんは、あたしの大切なお母さんなんだもん!
「ありがとう、亜弥。お母さんのために泣いてくれて。私はそれだけで、十分に幸せよ」
お母さんは、あたしをぎゅっと抱きしめた。温かい。1ヶ月前の、貴美子さんと名のった瞳さんのあの偽りの抱擁とは全然違う、本当の温かさ。
「いい、亜弥。あなたは、お母さんのようになっちゃダメよ?」
「え――?」
「お母さんね、亜弥くらいの頃、勉強は全然ダメだったし、やりたいことも特になかったから、大人になって、結婚して、主婦になるしかなかったのよ。だからかな……結婚生活に異常なまでの執着心が芽生えてしまったの。結婚生活は、私の唯一の存在価値だった。お父さんの浮気を知ったとき、心が壊れそうになったのも、そのせいだと思う。亜弥にはそうなって欲しくない。亜弥、今、何かやりたいこととか、ある?」
そう聞かれ、あたしは少し考える。でも、何も思いつかない。あたしが困ってると。
「いいのよ、亜弥。まだ16歳だもん。やりたいことがわかんなくたって、大丈夫。これからきっと見つかるわ。だからね、亜弥。今はとりあえず、勉強だけはしておきなさい。何をやるにしたって、勉強をしておけば、必ず何かの役に立つから。だから、これからもっと勉強して、いい大学に入って、やりたいことを見つけてね。お母さん、応援するわ」
「うん、判った」あたし、お母さんの言うことを心に刻み付ける。
あ、でも。
今のお母さん、大切なことを言ってくれたけど、でもひとつだけ、間違ってることがある。
「お母さん」
「ん?」
「あたし、お母さんのことダメだなんて、全然、思わないよ。だってお母さん、誰よりも、主婦って仕事、がんばってたと思うもん」
「亜弥……」
「この前まではそんなこと、全然思ってなかったんだけどね。でも、今は判る。お母さんは、すごいって。あたし、尊敬してるよ。お母さんのこと」
「――ありがとう、亜弥」
お母さんは、もう1度あたしをやさしく抱きしめた。
「ねえ、お母さん。今日は、ここで一緒に寝ていい?」
「え? ここで?」
「いいでしょ? ね?」
「もう、しょうがないわね」
あたし、お母さんの布団の中にもぐりこむ。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
「あのコートね、実はまだ、押入れの中にあるんだ」
「ホントに?」
「今度は、受取ってくれるよね?」
「もちろんよ。ありがとう、亜弥」
「よかった……おやすみ、お母さん」
「おやすみ……亜弥」
その夜、あたしはお母さんの胸に抱かれ、眠った。
――亜弥、あなたのことは、私が必ず、護って見せる。
あたしを包み込むお母さんの腕は、ずっと、そう言っているようだった。
朝、あたしが目覚めると、側にお母さんの姿はなかった。
10月17日(火) PM 2:04
「こんにちは、今井亜弥さん。少し、お邪魔しますよ」
そう言ってあたしの病室に入ってきたのは、小太りの中年男と、若い男。見覚えがある。たしか、2週間前、お母さんの病室から出てきた刑事さん。2人は背広の胸ポケットから警察手帳を取り出し。
「私、警察の平泉、と申します。今日はちょっと、亜弥さんにお話があって参りました。亜弥さんには、少しつらい話になるんですが、お父さんとお母さんが、お亡くなりになりました――」
平泉さんの話によると。
16日夜、この街から遠く離れた小さな村の山奥で、包丁で胸を刺されて死んでいる父と、鈍器で後頭部と顔面を殴打され死んでいる父の会社の同僚の瞳さんの死体が発見された。さらにそこから100メートルほど離れた林の中で、お母さんが首を吊って死んでいるのが発見されたのだそうだ。お母さんは赤いコートを着ており、そのポケットの中から遺書が発見された。不倫関係にあった2人を殺し、自分も死ぬ、というような内容が書かれてあったと言う。
その後、警察は捜査を進めたが、お母さんの遺書に不審な点は無いと判断し、捜査はすぐに終了した。すぐに解決したせいか、マスコミもこの事件をあまり大きくは取り上げず、また、同時期にこの街で別の殺人事件があり、そちらの方は大きく取り上げられたため、あたしの事件はすぐにみんなの記憶から消えていった。
本当のことを話そうか。そう思うことがある。
でも、それはできない。話せば、お母さんが死んだことが、無駄になるから。
お母さんは、あたしを護るために死んだんだ。それを無駄にするなんて、できない。
本当のことを話さないのは、間違っていることだと思う。犯した罪は、正当な形で償うべきだ。それでもあたしは、お母さんの思いを護りたい。だからあたしは、決して、本当のことを言わない。この先、何があっても――。
2ヶ月後、あたしは退院した。家に戻り、部屋の押入れを探したけど、7年前のあの赤いコートは、どこにも無かった。
中学の同級生 最終話3 宮崎結衣
1月29日(月) PM 4:30
亜弥の家の幽霊事件から4ヶ月が経った。
10月、亜弥の母親の事件をニュースで見たときは、かなりのショックだった。まさか、あの優しそうなお母さんが……あの、仲の良さそうだった夫婦が、あんな悲惨な事件を起こすなんて……。
亜弥の行方は、いまだに判らない。どこかの病院に入院しているとのことだが、さすがにどこの病院かまではニュースで報道されず、近所の人も北高のクラスメートも誰も知らず、あたしには探しようが無かった。
――亜弥……一体、どこにいるんだろう……。
あたしは、ずっと悔やんでいる。あの夜のことを。
あの夜、助けを求める亜弥に、何もできなかった自分。
中学生の時、あたしは自分に霊感があることを、みんなに自慢していた。当時は怪談話が流行っていて、そのせいであたしは、みんなから一目置かれた存在で、それがいい気分だったんだと思う。本当は霊が見えるだけで、何にもできないのに。
亜弥は、幽霊の存在に苦しみ、あたしを頼ってきた。でも、あたしはそれを裏切った。何もせず、ただ脅えていただけ。悔やんでも悔やみきれない。
4ヶ月前、亜弥に再会した公園の近くを、あたしは歩いている。また、亜弥に合えるんじゃないか。そう思って。
――亜弥に会って謝りたい……亜弥……どこにいるの?
そう思っていたとき。
「結衣――」
…………。
……あ。
この声は。
あの日と同じ――。
あたしは振り返り、そして、その娘の名を呼ぶ。
「亜弥!」
「え? 結衣、そんな風に思ってたの?」
……へ?
あの日と同じく公園のベンチに座り、あたしがあの夜のことを謝ると、亜弥、何を言ってるの? みたいな顔をして、そんなことを言う。
「だ……だって亜弥ちゃん、あのとき、すごく恐がってたのに……あたし、何もできなくて……」
「あ、ごめん。あれ、演技」
「……はあ?」
亜弥の話によると。
幽霊が出たけど、母親が信じてくれず、どうにかして信じさせてやろうと思い、あたしを家に呼んだのだそうだ。霊感が強いと評判のあたしが、幽霊が出る、って言えば、説得力が増すんじゃないか、って。
つまり、あたし、利用されてたってこと?
「んー。まあ、はっきり言えばそうかな。だから、むしろ謝るのはあたしの方だよ。ゴメン、結衣」
「……あんたねぇ。あたしがどれだけ心配したと思ってんの……」
「あはは。ゴメンゴメン。でも、入院したのはホントなんだよ。結衣が来た日、あの幽霊、何だかパワーアップしちゃっててさ」
「何それ……意味わかんない」
亜弥のハイテンションぶりに、あたし、少し呆れ気味。
……って言うかこの娘、こんな娘だったっけ?
中学時代は少しおとなし目の子だった。4ヶ月前に再会した時は、まるでこの世の終わりを嘆いてるかのような、今にも死にそうなほど暗い子だった。でも今は、まるで奈々や明奈と話してるみたいな錯覚に陥りそうなほど、明るく元気になっている。
「……亜弥、何だか変わったね」
「ん? そう?」
「うん。すごく明るくなったよ」
「うーん。そうかもね。でも、それは結衣もだよ」
「へ? なんで?」
「だって、4ヶ月前、あたしの家に遊びに来たとき、すっごく他人行儀だったよ? あたしの事、『亜弥ちゃん』とか呼んだりして」
……そう言われてみたら。
確かにあたし、1歩引いて亜弥に接していたかもしれない。
中学を卒業して半年しか経ってなかったのに、ちょっと失礼だったかな。
「……そうだね。ゴメン」
「ああ。いいよそんなの。あたしだって『結衣ちゃん』なんて呼んでたし。同罪だね」
「ま、確かに」
そして2人で笑いあった。
さっきまで、あたしと亜弥の間には、見えない壁が存在していたけれど、その壁が崩壊していくのが判る。今は、中学時代と同じ、あたしと亜弥の関係。ううん。亜弥は、あの頃よりもずっと明るくなった。あの頃以上の関係。
「……それで亜弥。今、学校は?」
あたし、思い切って訊いてみる。両親が亡くなった亜弥は、今、どうしているのだろう?
「変わらないよ? 今も北高に行ってる。しばらく入院してたから、かなり勉強遅れちゃったけどね。ま、何とか付いて行ってる」
「そうなんだ」
「うん。本当は学校辞めて、働こうかとも思ったんだけどね。でも、北高卒業して、いい大学に入るのが、お母さんの夢だったから」
「亜弥……」
「お母さんがね、あたしが大学に行くためのお金、貯めてくれてたみたいなの。その思い、無駄にしたくないから」
「じゃあ、今、1人で暮らしてんの?」
「うん。あの家でね。貴美子さん――あ、あたしの産みの親。隣の県に住んでるんだけど――が、一緒に暮らさないか、って言ってくれたんだけど。あたし、絶対に北高は卒業したいから。バイトもしてるし。貴美子さんも、少し生活費を仕送りしてくれるって言うし。あたし、何とかがんばってみるよ。死んだお母さんのためにも。あたし、絶対に負けない――」
亜弥、そう言って、すっごく遠くを見るような目。
そのときあたし、ふと思った。亜弥、何か隠してる? 今回の事件のことで、何か、重要なことを。
でも、その言葉を、あたしは飲み込んだ。
亜弥のその決意に満ちた目を見ていると、彼女は決して、そのことをしゃべらないような気がする。あたし自身も、訊く必要は無いと、何故かそのときは思った。
「――あ、でも亜弥、幽霊、大丈夫なの?」
「あー。退院してから、あんまり出なくなったんだよね」
「あんまり?」
「そ。あんまり。居間にいると、たまに2階がギィギィ言ってるんだけど、でも、直接見ることは無くなったな。多分、お母さんが護ってくれてるんじゃないかって、思う」
「ふうん」
「それより結衣、あんたの方こそ大変だったんじゃない? 少し前にあった殺人事件。結衣の隣の家だったんでしょ? 確か、6年前、事故死したと思われていた男の子が、実は母親に殺されていて、それを知った父親がその母親を殺しちゃった事件!」
「あー。それ言わないで。もう思い出したくないの」
「何で? まさか! 真犯人は、あんただったとか?」
「……ばれた?」
「きゃー! 人殺しー!」
そしてまた、2人で笑いあった。
と、公園の入口の方から、亜弥を呼ぶ声がした。「おーい! 亜弥!」
見ると、北高の制服を着た女の子が、亜弥に向かって手を振っていた。亜弥も手を振り返す。「ごめーん! ちょっと待って!」
「友達?」
「うん。同じクラスの娘。これから、駅前のショッピングセンターの本屋に行くんだ」
「そうなんだ」
「ん。あの娘さ、すっごく変な娘なの。あたしはよく判んないんだけど、なんとかってドラマの、誰々って俳優がすっごくカッコイイとか何とか。そういうの、話し出したら止まんない娘なの。今日もその俳優の写真集買いに行くんだって」
「へえ。北高にもそんな娘いるんだね。勉強してる子ばっかりだと思ってた」
「あの娘は特別かな。勉強なんて全然しないの。でもね、それでもあの娘、あたしより成績いいんだから、参っちゃうよ」
「あはは、そうなんだ。亜弥もがんばらないとね」
「そうだね。あんなイケメンおたくに負けらんないよ。……じゃ、結衣。あたし、そろそろ行くね」
「うん。また家に遊びに行くね。今度は、みんなと一緒に」
「ん、待ってる。あ、でも幽霊屋敷だって、みんなに言っといてね」
「あはは。明奈なんか、かえって喜んじゃうと思うよ」
「言えてる。じゃ、またね」
「ん。また!」
亜弥は入口で待ってる友達の元に走っていく。そして振り返り、大きく手を振った。あたしも手を振り返す。
――あれ?
亜弥の側に、いつの間にか、女の人が立っていた。赤いコートを着た女の人。
それは、あの顔の潰れた幽霊なんかじゃなく――亜弥のお母さん。
あたしの方を見て微笑み、ゆっくりと、頭を下げ。
そして、消えた。
――お母さんが護ってくれてるんじゃないかって、思う。
そう言ったときの亜弥の顔を思い出す。
――――。
さて。あたしも行こうかな。
冬の日は短い。まだ5時過ぎだと言うのに、西の空はもう赤く燃えている。明日もいい天気だね、きっと。うん。
中学の同級生 最終話 終
(作者オリジナル)
(第1夜 終わり)