朝、眠い目をこすりながら、あたしは大学のロビーに向かう。いつもここでコーヒーを飲みながら理名と亜美とおしゃべりをし、それから授業に向かうのが日課。ぐるりとロビーを見回す。あ、理名いた。でも、亜美の姿は見えない。朝が弱いあたしと違って、亜美は朝から常にハイテンション。あたしより遅く学校に来ることなんて、めったに無いんだけどな。
「おはよー、理名。亜美は?」あたし、自販機で紙コップのコーヒーを買って、理名の正面の席に着いた。
「おはよ、結衣。亜美は研究室」
「研究室? なんで?」
「今日提出のレポートをまとめてるんだって、昨日の夜から徹夜でやってるみたいだよ」
「へえ。大変だね。何のレポート?」
「3秒ルールだって」
ぶっ。あたしは飲んでいたコーヒーを吹き出しかけた。
「さ……3秒ルールって、まさか……いやいや、あり得ないよ。そうか。あれだ。ボールを持ってるプレイヤーのチームの人が、フロントコートのフリースローゾーンに3秒以上入ってはいけない、ってやつでしょ?」
「なんで亜美がバスケのルールを研究しないといけないのよ。違うわよ。結衣、聞いたことない? 地面に落した食べ物は、3秒以内に拾えば食べても大丈夫。ってやつ」
もちろん、聞いたことはある。小学生のとき、男子がよく言ってた。
「それを研究してるの? 亜美が? 真面目に? なんでまた?」
「それは本人に聞いてみないと判らないけど、まあ、亜美だからね。なにか、とんでもないことに気がついたのかもしれないよ」
……あの娘なら、ありえるな。
亜美は、何故あたしなんかと同じ大学に通っているのか不思議なくらい、すごく頭が良いのだ。市内1の進学校である北高で3年間トップだったらしいし、優等生である理名よりも成績が良い。しかも驚いたことに、本人はまったく勉強らしきことはしないのだ。授業中はノートすら取らず、退屈そうにあくびをかみ殺しているだけだし、家で予習復習とかすることも無く、バイトに明け暮れている。ただ授業に出るだけで全てが頭に入ってしまうようなのだ。いわゆる天才と言う種族。だから、あたしみたいな凡人には考えもつかないようなことを平然とやってしまい、驚かされることも多い。
しかし、天才であるがゆえに、その考え方はあたしたち凡人には理解しがたい。前回の研究では、パンを食べると犯罪者になりやすい、というレポートを書いた。その前は、海水から金を抽出していた。あたしも理名も説明されても全く理解できなかったけれど、どちらのレポートも教授からは大絶賛だった。また、研究の内容に全く統一性が無いように見えるのも、きっとあたしが凡人だからだろう。
「あ、亜美だ」
と、理名がロビーのはずれにあるエレベーターを指差した。亜美、眠そうに大きなあくびをし、こっちへ来る。
「おはよー、結衣、理名」
「おはよ、亜美。またレポートまとめてるんだって?」
「うん。おかげで眠くて眠くて……コーヒー、もらうね」
と、亜美はあたしのコーヒーを飲む。
「で、できたの? 3秒ルールのレポート」
「ん、一応。読む?」
そう言って亜美はレポートを見せた。あたしは受け取り、目を通す。
…………。
「うん。よく判った。ありがとう」さっとレポートを返すあたし。
「つまり、判らなかったのね」理名が言った。さすがにすべてお見通しだ。
ざっと目を通してみたけれど、専門的な用語がいっぱいで、物理の苦手なあたしにはさっぱり理解できない。
「物理はあんまり関係ないけどね」呆れた口調の亜美。「要は、細菌学かな。まあ、簡単に言えば、床に落とした食べ物に細菌が付着するまでには3秒以上かかるから、3秒ルールというのは、あながち嘘ではない、ってこと」
…………。
マジか、おい。
思わず言葉が乱れてしまう。それほどの衝撃だった。お菓子を落とした子供が、それを食べるための言い訳だとばかり思ってたのに。
「まあ、当然条件にもよるけどね」亜美は続ける。「例えば、スナック菓子とか、おせんべいとか、比較的乾いた食べ物は、かなり細菌が付着しにくい。逆に、溶けかけのチョコレートとか、ソースがたっぷりかかったタコ焼とか、ベトベトした食べ物は、細菌が付着しやすいわね。同時に、落とす場所にも影響されやすい。雨が降ってドロドロの校庭とか、犬やネコが集まってトイレにしている公園の砂場とかに落とすと、細菌は付着しやすい。反対に、真夏の太陽がかんかんに照らすアスファルトの上とか、病院の無菌室の中とかは、比較的安全よ」
…………。
これはツッコミを入れるところなのだろうか? それとも、あたしが凡人だから真の意味を理解できないだけなのだろうか?
理名を見ると、「さあ?」と言う感じで、首をかしげた。どうやらあたしと同じく、話について行けないらしい。
とりあえず、あたしは何も言わないでおいた。ここで「そんなの当たり前じゃん」とか言うと、「その当たり前のことを証明するのが難しいのよ」と、さらに理解しがたい論理で大いに語り出すに違いない。この辺り、亜美は明奈と似ているところがある。
「あ、そろそろ授業始まるよ。行こうか」
理名が時計を見て言った。おっと、もうそんな時間か。あたしたちは席を立ち、講義室へ向かった。
そして後日。
亜美のこのレポートは、教授から大絶賛。その後、世界食糧サミットで発表され、近い未来想定される世界規模の食料危機を回避する鍵となりうる研究とされ、亜美は、ノーベル平和賞に最も近い研究者と呼ばれるようになった。
凡人は何も言うまい……。
(「アメリカ・イリノイ大学の研究グループが発表した実験結果」より)