休日の午後、明奈から電話がかかって来た。市川で買い物したいので、車で連れて行ってくれ、と、突然のお願い。はあ。またか。1人暮らしで貧乏人の明奈は、車も免許も持っておらず、あたしをよく足代わりに使うのだ。まあ、普通なら連れて行ってあげる義理はないのだけど、今日は違う。
「明奈、お待たせ」あたしはアパートの前で待ってる明奈のそばに車を停めた。
明奈、あたしの車を見て驚く。「あれ? 結衣、車変えたの?」
「へへ。いいでしょ」あたしは少し自慢げに笑った。以前乗っていたウン十年前の軽自動車から、新型のコンパクトカーに乗り換えたのである。この愛車を自慢したくて、明奈のいきなりの頼みごとにも応じたのだ。
「まあ、足になってくれれば別に何でもいいんだけどね」
助手席に乗り込んだ明奈、つまんないことを言う。拍子抜けだ。もっとこう、「すごいね。高かったでしょ?」とか、「どう? やっぱり、走りやすい?」とか、訊いてくれてもいいだろうに。
「じゃ、行くよ」
車を発進させる。以前の車では考えられないほどスムーズで力強いスタートだけど、当然明奈は気付かない。まあ、この娘と車の話で盛り上がることを期待したあたしが間違っていた。明奈にとっては新車なんかよりも、新型パソコンやゲーム機の方が良いのだろう。ああ、やっぱ家でおとなしくしてるんだったかな。後悔が押し寄せてくるけど、今さらそんなことを言っても遅い。あたしは諦めて、市川を目指した。
しばらく走り、堀北と市川のちょうど中間あたりの交差点。信号が赤になったので、ブレーキを踏む。
と、明奈が。
「うわ。出たよ」
何やらうんざりという口調で、前に停車してる車を指差した。白の軽自動車が停まっている。そのリアウインドウには、「赤ちゃんが乗ってます」のマークが。
「あれが何?」
「いや、あのマークってさ、結局何が言いたいのか、よくわかんないよね」
「何でよ。車の中に、赤ちゃんが乗ってるってことでしょ。そのままじゃん」
「いや、それは判るんだけど、でも、だからどうしたらいいの、って感じじゃない?」
「そりゃあ――」と、言いかけて、言葉が続かなかった。確かに、前の車に赤ちゃんが乗ってるからと言って、あたし、何をすればいいんだろう? おめでとう、と、心の中で祝福するくらいしかできないような。
あ、でも。
「こっちに何かしてほしいんじゃないのかもよ。例えば、『赤ちゃんが乗ってるから、ゆっくり、安全運転で行きます。お急ぎの方はお先にどうぞ』ってことじゃない?」
と、思いついたことを言ってみたけど、明奈はそれも納得できないという顔。
「それもおかしいでしょ? じゃあ、赤ちゃんが乗ってなかったら安全運転しなくてもいいの? って話になるじゃん」
むう。確かにそうだな。明奈にしてはまともなことを言う。赤ちゃんが乗ってようが乗ってまいが、安全運転はしなければならない。
「あたしが思うに、あれは要するに、『赤ちゃんが産まれて嬉しいよ。見て。かわいいでしょ?』ってことが言いたいのよ。車とは何の関係も無いの。単なる親バカアピール」
「そんなバカな。てか、なんであんたがそんなにあのマークを気にするのかが判らないんだけど?」
「んー。別に気にしてるわけじゃないよ。ただ、そう思っただけ」
なんてことを言ってる間に、信号は青になった。前の車が走り出したので、あたしも続く。
と――。
右側から、ものすごいスピードでトラックが走って来た。もちろん、そちら側は赤信号だ。でもそのトラック、スピードを落とす気配はない。まさか? 危ない!? と、思った瞬間!
――――!
トラックは、前を走行していた軽自動車の側面に激突!! 弾き飛ばされた軽自動車。2回転、3回転と転がる。そのまま信号機にぶつかり、あおむけの状態で止まった。車体はもはや原形をとどめていないほどボロボロだ。あたしも明奈も言葉を失う。しばらく呆然としていたけど、ようやく大変な事故が起こったと判り、すぐにケータイを取り出した。
「警察!? それとも救急車!?」半分パニックなあたし。
「判んないけど、両方でしょ。とりあえず結衣は110番。あたしは119番にかけるから!」
そう言って明奈もケータイを取り出した。あたしは言われた通り、110番にかけた。
その後、次はどうしよう? ケガ人の治療? そんなのできないよ。誰か助けを呼ぼう。でも誰もいないよ。などとオロオロしているうちに、パトカーと救急車とレスキュー隊が到着。あたしたちは少し離れたところで、警察の人に事故の状況を説明しながら、救助の状況を見守る。トラックの運転手はすぐ救助され、ケガも大したことはなさそうだった。でも、問題は軽自動車の方だ。運転手はひっくり返った車の中のわずかな隙間に挟まれているらしく、救出はかなり難しそうだ。
警察の人に事故の状況と、あたしの住所、連絡先を伝え、それであたしたちの役目は終わった。でも、とてもこの場を後にする気にはなれない。あたしたちはしばらく現場を見守っていた。
しばらくして。
レスキュー隊の人たちが歓声を上げる。どうやらうまく車を切断し、ドライバーを救出できたようだ。女の人だ。意識が無いみたい。かなりのケガだけど、とりあえずは良かった。ほっと胸をなでおろす。レスキュー隊の人たちにも、安堵の空気が流れた。
……いや、待てよ。
あの車、「赤ちゃんが乗ってます」のマークをつけてたよね。
でも、赤ちゃんは救出されていない。
つまり、まだ車の中に取り残されてるってこと? だとしたら大変だ。
「すみません! あの車、まだ中に赤ちゃんがいるかも!」
あたしは警察の人にそう告げた。すぐにレスキュー隊の人に伝えられ、再び車が調べられる。
そして。
「いたぞ! ここだ!」
レスキュー隊の1人が叫んだ。やっぱり! 良かった! 見つかって。
しばらくして、その赤ちゃんも救出された。車のシートの陰に挟まれた格好で、発見できなかったそうだ。幸い、大きなケガはしていないらしい。
良かった。とりあえず、これでひと安心だ。あたしたちは、今度こそ本当に胸をなでおろした。
何日かして、事故に遭った女の人からお礼の電話を貰った。ひどいケガだったけど、命に別条はなく、後遺症も残らないだろうとのことだった。トラックの運転手の人も同様。赤ちゃんはぴんぴんしているという。ヒドイ事故だったけど、死者が出なくて何よりだ。
でも。
もし、あの「赤ちゃんが乗ってます」のマークが無かったら、赤ちゃんの発見が遅れ、万が一の事態もあり得たかもしれない。
あのマークは、事故が起こったときに、赤ちゃんを助けてもらうために貼ってるのかもしれないな――あたしはふと、そんなことを思った。
(都市伝説「『赤ちゃんが乗ってます』を貼る意味」より