「へ? 理名、引っ越したの? いつ?」飲みかけのコーヒーをテーブルの上に置き、あたしは理名の方を見た。
「この前の土曜。いい物件見つけたのよ」嬉しそうに答える理名。
水曜日の午後。いつもの大学のロビーで、あたしと理名はいつものようにおしゃべりしている(ただひとつ、いつもと違い、亜美がいない。何やら怪しげな研究に没頭しているらしく、この前から姿が見えないのだ)。
「言ってくれれば、手伝ったのに」土曜のことを思い出す。あの日は確か、家でヒマを持て余していたっけ。
「んー。まあ、そんなに荷物も多くなかったからね。あんまり時間をかけたくも無かったし、業者に頼んだの。それにしても、いい部屋が見つかってよかったわ」
理名はずっと郊外のアパートで1人暮らしをしていた。安くて広い部屋だけど、大学から遠いのが玉に傷だ、と、普段から言ってた。
「前のアパートよりずっと学校に近いから、これから楽になるわ。部屋の広さもまあまあだし、何より、家賃がビックリするほど安いの」理名、目を輝かす。
「へぇ。いくら?」ずずっと、コーヒーをすするあたし。
「ビックリするわよ。1ヶ月、なんと9千円!」
ぶっ、っと、あたしはコーヒーを噴き出しそうになった。
1ヶ月9千円!? この堀北の街はどちらかと言えば田舎だけど、家賃1万円以下の物件なんて、あり得ない。あり得ないけど、あたしはその家賃の物件に心当たりがある。ありすぎる。
「……理名、そのアパートって、駅とコンビニとスーパーが近くにない?」
「うん。交通の便もいいし、買い物にも便利なの」
「階段が13段で、201号室じゃない?」
「階段は数えてないけど、201号室よ。よく判ったわね」
……間違いない。
これは、以前明奈が引っ越しを断念した、あの魔の201号室だ!!
あそこはヤバい、ヤバすぎる!
半年くらい前の話だ。明奈が、すごく安い部屋を見つけたと言って、引っ越した。その部屋は、住人が必ず2週間以内に引っ越すと言う、いわくつきの物件だった。
明奈が言うには、夜、部屋で眠っていると、毎晩2時、必ず目が覚めるのだそうだ。そして、階段が、コツンと鳴るらしい。
1日目は、コツン、と、1回だけ。
2日目には、コツン、コツン、と、2回。
3日目には、それが3回。
それはまるで、日を追うごとに、だんだんと、何かが部屋に近づいてきているようだったらしい。
明奈が階段の数を数えると、13段だった。
つまり、引っ越してから14日目に何かが起きる。
だからあの部屋は、住人が2週間以内に引っ越すのだ。恐怖に耐えられず。
「理名、悪いことは言わないから、すぐに引っ越して。できれば、今日中に!」あたしはテーブルの上に身を乗り出す。
「何よ、急に。せっかく引っ越したのに、そんなことできるわけないでしょ?」
「ダメよ、引っ越して。その部屋知ってるの! 前にあたしの友達が引っ越して、大変な目にあったんだから! 理名だって、月9千円なんて、おかしいと思うでしょ?」
「もちろん思ったわ。だから、引っ越しを決める前に、自分でそれなりに調べたの。欠陥住宅だったら、大変だもの」
……欠陥住宅? そうでなくて。
「でも調べた結果、別に問題は無かったわ。まあ、少し古いのと、当然セキュリティシステムなんてものもないのが欠点ではあったけど、そのくらいはしょうが無いでしょ。月9千円なら、我慢できるわ」
「違うの! あの部屋、出るのよ! 幽霊が! それも、超が付くほどヤバいヤツ!!」
と、あたしが言うと。
理名は、はぁ、と、深いため息をつき、頭を押さえてうつむいてしまった。
理名は、幽霊や超常現象などを全く信じていない、根っからの現実主義者だ。あたしが幽霊の話をすると、決まってこの反応をする。
「本当だって! 幽霊が出るの!」
「なるほど。それであの部屋、あんなに安かったのね。納得したわ。まったく、くだらないわね。まあ、そのおかげで激安の家賃で住めるんだから、幽霊もバカにしたものじゃないわね」あっけらかんと言う理名。
「そんなのんきなこと言ってる場合じゃないの。あの部屋、ホントにヤバいんだから」
「だから、どうヤバいのよ?」
「例えば……理名、夜眠ってると、夜中の2時に、必ず目が覚めるでしょ?」
あたしがそう言うと、理名は、うーんという感じで考え、そして言った。「別に、無いわね」
「へ? 無いの?」
「うん、無い。と言うか、その時間、寝てない」
……は? 寝てない?
「当たり前でしょ? 試験が近いのに、そんな早い時間から寝てられないわよ。毎晩4時くらいまでは勉強してるわ」
そっか。そう言えば理名、国家I種試験とかいうやつを受けるとかで、猛勉強してたっけ。毎晩そんな遅くまで勉強してるのか、偉いな。あたしにはマネできない。
……そうでなくて。
「起きてるんだったら、気が付いたでしょ? コツン、って音が、したでしょ? 階段から」
「さあ? 勉強に集中してるから、判んない」
「してるの! それも、1日目に1つだった音が、2日目には2つ、3日目には3つ……って、だんだん増えて行くのよ!? 理名の部屋に近づいてくるみたいに!!」
「はいはい。結衣が怖い話が好きなのは判ったから」
「作り話じゃなくて、本当のことなの! 今晩2時、注意して聞いてて! 土曜に引っ越したなら、えーっと……5回、鳴るはずだから!」
「判った判った。注意して聞いておくよ」
ひらひらと手を振ると、理名は参考書を取り出し、勉強を始めた。完全に適当にあしらわれた感じだ。あたしの話なんて、全く信じていない。大丈夫かな?
翌日。
登校し、ロビーに駆け込み、理名の姿を見つけたあたしは、駆け寄って、真っ先に訊く。
「おはよ、理名。昨日、どうだった?」
「おはよ、結衣。昨日って、何が?」
気の抜ける返事。
「何がじゃなくて! 幽霊よ! 幽霊!! 夜中の2時に、階段が、コツン、って鳴ったでしょ!?」
「ああ、あれね。確かに鳴ってたわ。結衣の言う通り、5回」
「でしょでしょ!? それ、幽霊よ!! 理名の部屋に近づいてきてるの!!」
これで少しは、事の重大さに気が付いてくれるだろう。いくら理名だって、得体の知れない何かが、毎日少しずつ近づいてくるのは、たまらなく怖いに違いない。
――しかし。
「どうせネコでしょ」
……は? ネコ?
「多いのよ、あの辺。近くにノラネコの集会場があるみたいで、そこら中ウロウロしてるの。この前なんか、玄関の前にウンコしててさ。とっ捕まえて、三味線にしてやろうかと思ったわ」理名、思い出しても腹が立つ、と言う口調。
ネコは気に入った場所を見つけると、すぐにトイレにするって言うからね。とにかく徹底的に掃除して、ここはトイレじゃない、あなたのテリトリーじゃない、ってことを、教えないといけないらしい。これから大変だろうな。
……だから、そうでなくて。
「ネコじゃない! 幽霊よ! 幽霊!! ネコが毎晩決まった時間に、それも、1日1段ずつ増やしながら上がってくるわけないでしょ!」
「そんなこと無いわよ。ネコだって、教えればそのくらいできるようになるわよ。誰かが餌付けでもしたんじゃないの?」
誰がそんなことをするんだ! 誰が!
「どうしてあんたはいつもそうなのよ? 幽霊だよ? 悪霊だよ? 呪われるかもしれないんだよ?」
「あんたこそ、どうしていつもそうなのよ? 幽霊? 悪霊? バカバカしい。そんなのを怖がって引っ越すなんて、ナンセンスだわ」
そう言って理名は、また参考書を取り出して勉強を始める。ダメだこりゃ。テコでも引っ越しそうもない。明奈も、面白がってなかなか引っ越さなかったけど、この娘はそれ以上にやっかいだ。何か、他の手を考えなきゃ。
とは言え。
霊感はあっても、除霊とか霊と戦うとか、そういった能力は一切ないあたしに何かできるはずもなく、ただ時は流れ、早くも翌週の金曜、つまり、引っ越して14日目になった。今日の夜、理名の部屋では、何かが起こる。
「……ねえ、理名。引っ越さなくてもいいからさ、せめて、今晩だけは、部屋にいないでよ。そうだ。あたしんちに泊まりに来なよ。久しぶりに、朝までおしゃべりしたいな」
「バカなこと言わないで。試験が近いって言ってるでしょ? 遊んでる暇なんて無いわ」
相変わらずあたしの話なんて意に介さず、勉強をする理名。目は参考書とノートを行き来するだけで、あたしの方など一切見ない。
このまま放っておくわけにはいかない。何か、理名を救う方法を考えなくちゃ。
「あれから、何か変わったことは無いの?」とりあえず訊いてみる。
「変わったことねぇ。そう言えば、2日前だったかな? 勉強してたら、なんでか判らないけど、妙に押し入れの中が気になったのよ。で、しょうがないから勉強は中断して、押し入れの掃除を始めたの。そしたら、奥から、見覚えの無い鏡が出てきたわ」
鏡? 何だろう?
「すごく古い手鏡。もちろんあたしのじゃないから、多分、前の住人の忘れものじゃないかと思うんだけど。それが変なんだよね。裏側に、お経みたいなのがびっしり書かれてるの。そばにはお札みたいなのも落ちてたわ」
それだ! と、あたしは叫びそうになった。
あの幽霊が部屋に近づいてくるのは、その鏡が原因じゃないだろうか?
何だか判らないけど、その鏡は、幽霊と深く繋がりがあるに違いない。多分、幽霊はずっとその鏡を探して続けているのだろう。だったら、その鏡をお寺に持って行って供養してあげれば、幽霊も成仏して、理名も助かるに違いない。
「その鏡、お寺に持って行きましょ! 供養してもらうの!」
「はぁ? そんなのムリよ」理名、いかにも迷惑気な顔になる。
「ああ。理名が勉強で忙しいのは判ったから。あたしだけで行って来るよ。だから、今から鏡、取りに行きましょう」
「だから、ムリだってば」
「何でムリなのよ?」
「だって、もう捨てたもの」
…………。
……は? 捨てた?
「大家さんに連絡したら、あの部屋は住人の入れ替わりが多くて、誰のものか判らないし、どうせ取りに来ないだろうから、こっちで処分しても構わない、って言われたから」何の罪悪感も後ろめたさも無い口調。
……ダメだ、この娘は。あたしの想像をはるかに超えたダメっぷりだ。
普通捨てるか? そんな不気味なもの、捨てたりしたらバチが当たるとか、思わないのか?
…………。
思わないんだろうな、この娘は。だから捨てたわけだし。
せめて燃えるゴミとして捨ててくれたのなら、大幅に間違っているけれども、一応、お焚き上げという形にはなる。もしかしたら幽霊も成仏するかもしれない。でも理名のことだ。堀北市のゴミ分別ルールに従い、不燃ゴミで捨てたに違いない。今からゴミ処理場に行って探そうか? そんなのムリに決まってる。
ああ、どうしよう? どうしたら、理名を救えるの? と、言うか、あたしがこんなに必死になって理名を救おうとしてるのに、なんなのこの娘の非協力っぷりは? ああ、でも神様。この娘はホントはいい娘なんです。だからお願いです。助けてください。この娘を護ってください。どうかお願いします。
あたしに残された道は、もう、神に祈るしか無かった。
そして日曜。理名が引っ越して15日目の朝。
目覚めると同時に、真っ先に理名に電話するあたし。しかし、出ない。どうやら電源が入っていないようだ。これはヤバい。あたしは身支度もそこそこに家を飛び出し、理名のアパートへ向かった。
アパートに着き、201号室を見上げる。それだけで、背中を冷たいものが走る。あたしの霊感が働く合図。あのときと変わらず、今もこの部屋は呪われているに違いない。
半年前のことを思い出す。明奈が引っ越して15日目の朝、玄関は蹴破られ、部屋の中にあった家具などはすべて倒され、壊されていた。それはまるで、何者かが暴れまわったかのようだった。そのとき明奈は部屋にいなかったから無事だったけど、もし部屋にいたら、どうなっていたか、考えただけでも恐ろしい。
理名は無事だろうか? あの娘のことだから、昨日の夜だけこの部屋には戻らなかった、なんて可能性はほとんど無いだろう。でも、万が一ということもある。今となってはそうであって欲しいと祈るしかない。
階段を上がる。本当はあの部屋に近づくだけでもイヤだけど、そんなことは言ってられない。理名、どうか無事でいて。
――と。
とんとんとん、と、理名が軽快なステップで階段を下りて来た。
「あら、おはよ、結衣。どうしたの、こんな朝っぱらから」
そして、何事も無かったかのような、気の抜ける言葉。
…………。
なんだろう、この温度差は。こっちは心配で心配でしょうがなかったのに、ごく普通の朝の挨拶。あたしは思わず腰が抜けそうになった。
「変なこと? あったわよ。なんで知ってるの?」
2人で近くの喫茶店に入り、モーニングセットを食べながら、あたしは理名にその夜のことを訊いた。やはり、何かあったらしい。
「えーっと、2時くらいだったかな、何だか知らないけど、ものすごい勢いで、玄関のドアを叩くヤツがいたのよ」
やっぱり来たんだ。でも、それなら理名はどうやって助かったのだろう?
「もちろん、警察に連絡したわ」当たり前のように答える理名。「きっと、酔っ払いか何かだったんだろうと思うけど、こっちは試験が近いっていうのに、いい迷惑だったわ、全く」
……まあ、理名だからそう思うのは仕方ない。でも、ドアは壊されなかったのだろうか?
「うん。それは平気。防犯には気をつけてるから」
「……防犯?」
「ええ。一応あたしも、か弱い女の子ちゃんだから。玄関には鍵3つ、チェーンを2つ付けてるわ。ドア自体も、大家さんに言って、丈夫なものに変えてもらってるし、酔っ払いごときに壊されたりしないわ。しばらく暴れてたみたいだったけど、警察が来たら、どこかに行っちゃった」
そう言って、理名はおいしそうにバターたっぷりのトーストを食べた。
……知らなかった。幽霊って、そんな現実的な対策で防げるんだ。
感心と呆れが入り混じって困惑するあたしをよそに、理名は、ぺろりとモーニングセットを平らげた。
その後も、しばらく怪奇現象は続いたようだ。
相変わらず2時にはコツンという階段を上る音が聞こえるし、毎日その回数は増えていくし、そして、14日後には、激しくドアが叩かれる。
でも、理名はそんなことなど気にせず、音が聞こえても勉強をし続け、ドアが叩かれたら、冷静に警察を呼んだ。
何度かそんなことが繰り返されが、いつの間にか、怪奇現象は起こらなくなったそうだ。きっと幽霊も、理名を相手にするのがバカバカしくなったんだろうな。ちょっと同情する。
そして理名は、無事、試験にも合格したのだった。
(作者オリジナル)