高校を卒業し、県外の大学へ進学した奈々が、休日を利用して久しぶりに帰って来たので、あたしたちは車で市川まで遊びに行った。これはその帰りに起こった話だ。
「ふあぁ。それにしても、今日は楽しかったなぁ。ありがとうね、結衣」助手席で大きく伸びをする奈々。
「ううん、あたしこそありがとう、こんな遅くまで付き合ってもらって」ハンドルを握りながら、あたしは答えた。
時計を見ると、すでに深夜2時を回っている。眠気も襲ってくるところだけど、楽しかった1日を思えば、ちっとも眠くはない。2人で遊ぶなんてひと月ぶりのこと。しかも奈々は明日には帰るというので、今日は思いっきり遊んだ。買い物はもちろん、食事にカラオケ、ボウリングからゲームセンターまでめぐりめぐった。このひと月の間、会えずにたまった思いを、今日1日にぶつけた。そんな感じ。そうしているうちに、すっかり遅くなってしまったので、普段は通らない山道を通って帰ることにした。あたしの住んでいる堀北の街から市川の街へ行くには、普通、海沿いの道を使う。道幅が狭く、街灯などほとんど無いこの山道を、この時間に使う人はほとんどいない。しかし、ここを通れば、海沿いの道路を使うよりもはるかに早いのだ。
「そう言えばさ、この道じゃなかったっけ?」奈々が思い出したように言った。
「ん? 何が?」
「ほら、中学のとき噂になったじゃない」奈々、突然意地の悪そうな顔になる。「この道、白いドレスの女の幽霊が出るって」
「ああ、そういえばそんな話もあったわね」
奈々に言われ、あたしは当時のことを思い出した。
中学時代、この道には白いドレスの女の幽霊が出る、と噂になったことがあった。友達の友達から聞いただの、知り合いの親が見ただの、どこどこのタクシーの運転手が見ただの、出所のはっきりとしない、今思えばうさんくさい話ではあったけど、あの頃はこのような話題で盛り上がったものである。あたしは当時を思い出し、懐かしさのあまり笑みをこぼした。
「あれ? 全然怖がってないね」奈々が少しつまらなそうに言った。
「そりゃそうでしょ。この歳になって、そんな話で怖がらないよ」
「ま、そうだよねー。今思えば、何であんな話で盛り上がってたんだか」
「あれってどんな話だったかな?」
「さぁ……白いドレスを着た女の幽霊、っていうのは覚えているけど、何だっけ、忘れちゃった」
「結局ホントに見た人って、いなかったよね。なんだったのかなぁ、あの噂」
「でも、ホントに出たらどうする?」
「どーするー?」
ふたりで見詰め合い、しばしの沈黙。それがたまらなくおかしくて、大声で笑いあった。
――と、奈々の顔が凍りつく。
「結衣! 前!」
弾かれたように、あたしは前を見る。
道路の真ん中に、女の人が立っていたのだ!
反射的にブレーキを踏むけど、気付くのが遅すぎた。車はそんなに簡単には止まってくれない。タイヤがロックされても、車体は無情にも滑っていく。
だめだ! 間に合わない!
あたしは目を閉じた。
人をはね飛ばす鈍い衝撃がハンドルから伝わってくる――はずであった。
しかし、何故だろう? ハンドルから衝撃は伝わってこなかった。タイヤとアスファルトが擦れる、ガリガリという振動のみ。やがてその振動も緩やかになり、ようやく車が止まる。恐る恐る目を開ける。奈々と目が合った。どうなったの? 目が問いかけている。あたしの目も同じように奈々を見ていることだろう。確認するのが怖かった。しかし、確かめないわけにはいかない。恐る恐る前を見る。
ヘッドライトに照らされた女の人が、車の数センチ手前に立っていた。
良かった! 間に合った!
全身の力が抜けた。同時に、どっと汗が吹き出した。危うく人をはねてしまうところだった。奈々も、大きく安堵の息を吐き出した。
あたしはウィンドウを開け、
「すみません! 大丈夫ですか!?」
顔を出し、女の人に問いかけた。
女の人は何も言わず、小さく頷いただけだった。
その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。はねられかけたことに対する怒りや恐怖も、はねられなかったことに対する安堵も、何も無い。ただじっと、冷たい目で車を見つめているだけだった。
たかぶった気分が落ち着いてくると、今度は、女の人の不自然さが気になってきた。
この人は、一体何をしているのだろうか?
ここは人気の無い山道。数キロに渡って、人家も何も無い。その上深夜の2時だ。女の人が1人で出歩くような場所ではない。
「あの……こんな所で、何をしているんですか?」
訊いてはいけないことを訊くような気分だ。ためらいもあったけど、あたしは思い切って訊いてみた。
女の人は……何も応えなかった。
「1人ですか?」さらに問う。
しかし、女の人は何も応えない。
あたしと奈々は顔を見合わせる。言いしれぬ不安が胸を覆うけど、「じゃあ、お気をつけて」と、そのまま行ってしまうことはできなかった。あたしは仕方なく、
「……良かったら、送っていきましょうか?」
そう言った。奈々が少し不安げな顔をしたけど、さすがに文句は言わなかった。普通に考えたら、こんな時間、こんな寂しい通りに、女の人を1人残して行くわけにはいかないだろう。ましてこちらには、事故を起こしかけた負い目もある。
女の人は、やはり、何の反応も見せなかった。必要無い、ということだろうか? だったら、無理に乗ってもらうことは無いだろう。もしかしたらこの近くに家があるのかもしれないし。そう考え、車を走らせようとしたとき。
女の人が、スッと動き。
そして、後部座席のドアの前に立った。
乗る、ということだろうか。
女の人は、じっと、車の中を見つめている。
あたしは、後部座席のロックを外した。女の人はドアを開け、静かに乗ってきた。
本当に、静かだった。
ドアを開ける音と閉める音、それだけだった。車に乗り込む足音、シートに座る音、そういった音が、全くしなかったのだ。
まるで、そこに誰も存在しないかのような感じ。
…………。
何言ってんだ。バカバカしい。あたしは考えを頭から追い出した。
「堀北に向かいますけど、いいですか?」
あたしの問いかけに、女の人は応えない。しかし、わずかに頷いた気がした。あたしはそのまま車を走らせた。
…………。
車の中を、重苦しい沈黙が支配する。さっきまでの楽しい空気は消え去ってしまった。女の人の雰囲気に圧されて、あたしも奈々も、何も話すことができない。
ときどき、ルームミラーで女の人の姿を確認する。うつむいたまま、微塵も動かず、ただ座っている。
そのまま10分ほど走っただろうか。突然女の人が、
「……右へ」
と、言った。聞こえるか聞こえないかの、本当に小さな声だった。
右? あたしは思わず首をかしげた。右へ。もちろん、右へ曲がってくれ、ということだろう。しかし、この道はずっと1本道のはずだ。まだしばらく分かれ道は無いと思ったけど……。
スピードを落とし、慎重に進む。よく見ると、右手側に細い道があった。
「あの道、ですか?」
ミラー越しに問いかける。女の人は、相変わらず応えない。あたしは仕方なく、ハンドルを右に切った。
車1台がやっと通れるほどの、細い道だった。左右を崖に挟まれた道は圧迫感があり、それがさらに窮屈さを感じさせる。舗装こそされているものの、状態はあまり良くないらしく、がたがたと揺れて走りにくかった。あたしはスピードを落とし、慎重に進んだ。
しかし、こんな所に道があっただろうか? この山道は何度か通っているけど、今まで気付かなかった。もちろん、どこに出るのかも判らない。知らない道、しかも、街灯も何も無い山道を、こんな夜中に走るのは、ひどく不安だった。心細いヘッドライトに照らされる道は、闇の中へと消えている。決して引き返すことのできない、そして、決して出ることのできない闇の道を進んでいるように思えてくる。
そのまま5分ほど進んだだろうか。
ふと、ルームミラーを見ると。
――誰もいない。
「え!?」
思わず声を上げる。何事か、と、奈々があたしの方を見る。
見間違えか? 車を停め、後部座席を振り返った。
しかし、やはり誰もいない。
まさかシートの下に倒れているのか。そう思って確認したけれど、もちろんそんなことは無い。
ようやく奈々も、女の人がいなくなったことに気が付いた。後部座席とあたしの顔を、交互に見つめる。
ドアを開けて出て行った様子も無いけれど、一応、外に出て、車の周りも確認してみる。奈々も外に出てきた。2人できょろきょろするけど、やはり、どこにもいない。
まるで煙のように消えてしまった。
呆然と立ち尽くすあたし。何が起こったのか、全く判らない。
「――――!」
奈々が、何かに気付いたようだった。言葉を失い、わなわなと震える指で、道端を指した。
見ると。
山肌に、たくさんの岩が並んでいる。そう見えた。でもそれは、岩にしては綺麗だった。長方形で、とても自然にできたものとは思えない。それも、ひとつやふたつではなく、その場所に並んでいる全ての岩が、人の手で丁寧に削られ、磨かれているかのようだった。
――いや。
あれは、岩ではない。
あたしはようやく気が付いた。
お墓だ。
左右の山肌に、お墓が並んでいるのだ!
お墓――亡くなった人を納骨し、供養する物。
あの石の下には、亡くなった人が眠っている。
墓石の数だけ――いや、それ以上の数の亡くなった人が、あの下には眠っている。
山肌に身を寄せ合うように並んだお墓は、はるか上の方にまで続いている。
それはまるで、無数の死者に見下ろされているかのような、異様な光景だった。
あたしと奈々は顔を見合わせ。
そして、どちらともなく、悲鳴を上げた。
それが合図だった。慌てて車に戻り、シートベルトを締めるのももどかしく、車を走らせた。
何が起こったのかは判らない。ただ、一刻も早く、この場から去りたかった。逃げ出したかった。すぐにお墓は見えなくなったけど、それでもアクセルを踏み続ける。やがて大きな通りに出た。そこで車を停め、また奈々と顔を合わす。
一体、何が起こったのだろう?
いくらか冷静になった頭で考える。
夜道に1人たたずむ女。
車に乗せ、言われるままに車を走らせると、辿り着いたのは墓地。
そして、消えた女。
あの女は、一体なんだったのだろう?
考えるまでも無い。あれは――。
プルプル。突然ケータイが鳴り、あたしはビクッと身体を大きくふるわせた。
……落ち着けあたし。ただケータイが鳴っただけだ。
大きく息を吐き出し、ケータイを取る。明奈からだった。ほっと胸をなでおろし、通話ボタンを押した。
「結衣? あんた、今どこにいるの?」いつも聞いているはずだけど、なぜかすごく懐かしく感じる、明奈の声。
「明奈? 奈々と市川に遊びに行って、今その帰りなんだけど、聞いてよ! あたし、見たのよ! 幽霊!!」興奮を抑えられず、思わず大きな声が出てしまう。
それに対し、意外にも明奈は冷静だった。
「……はあ? あんた、何言ってんの?」
反応が鈍い。
「ホントだって! 市川から堀北に帰る近道があるでしょ? 白いドレスを着た幽霊が出るって、中学のときウワサになった、あの山道! そこで、ぽつんと1人、道に立ってる女の人がいたの。こんな時間にこんな所で1人、危ないなぁ、って思って、車に乗せたのよ。で、その女の人の言う通り車を走らせたら、その女の人、消えたの! そしたらその場所が、お墓だったのよ! あたしも奈々も、もうビックリ!!」
早口で、たった今起こった出来事を話す。明奈はこういうたぐいの怪談話が大好物のはずだ。当然食いついて来るかと思ったんだけど。
「だから結衣、何言ってんの?」
どういうわけか、明奈は話に乗って来ない。それどころか、少し機嫌が悪くなったかのような口調。まさか、あたしの話を疑っているのだろうか?
「ホントだってば! あたしも奈々も、ちゃんと見たんだから!」
「結衣! いい加減にして!」
声を上げる明奈。
……何怒ってるんだろう? ガチガチの現実主義者の理名ならともかく、明奈にこの手の話をして、怒られるとは思わなかった。
「……何よ、怒鳴ることないでしょ? あたし何か、気に障ること言った? あ、もしかして、あたしと奈々が2人きりで遊びに行ったから怒ってるの? ゴメンゴメン。今度は明奈も誘うからさ」
謝るあたし。確かに、明奈を誘わなかったのは悪かったな。せっかくだから、3人で遊べば良かった。怒るのもムリは無い。
しかし。
「結衣……あなた、本気で言ってるの……?」
明奈、今度は一転、憐れむような、悲しむような、そんな声。
「どうしたのよ、明奈。あんた、なんか変だよ?」
「変なのはあなたよ……お願いだから、しっかりしてちょうだい……」
明奈の声から、力が無くなる。泣いているのだろうか? そんな風に思った。一体なんだというのだろう? さっぱり意味が判らない。
「落ち着きなよ、明奈。一体、どうしたって言うの?」
あたしがそう言うと、明奈は大きく息を吐き、そして、叫ぶように言った。
「奈々は……奈々は、もういないのよ!!」
――――。
その言葉が。
あたしの胸に、突き刺さった。
まるで、時間が止まったような感覚。
奈々が……もういない?
突き刺さった言葉を繰り返す。
何を言ってるんだろう、明奈は。判らない。
判らないけれど。
明奈は言う。
「奈々はもう死んだの! 先月、旧校舎の屋上から飛び降りたの。自殺したのよ……」
……奈々が……自殺?
旧校舎の屋上から……飛び降りた?
奈々が……死んだ!?
助手席を見る。
にっこりとほほ笑んだ奈々がいる――はずだった。
しかし。
そこには、誰もいなかった。
もちろん、後部座席にも誰もいない。
車の中にいるのは、あたし1人だった。
そして。
何かが……見える。
建物だ。随分古い、壊れかけの建物。
あれは……旧校舎?
そうだ。中学校の、旧校舎だ。幽霊が出ると噂の。
その屋上に、誰かいる。
フェンスの外側に、誰かいる。
奈々だ。
あんなところで、何をしているのだろうか?
奈々を呼ぶ。
その声は届かず。
一歩、踏み出す奈々。
そして、その姿は、地面に吸い込まれるように消え、残ったのは、なんだかよく判らない、黒い塊と、赤い、ドロッとした液体。
そして、誰かの泣き叫ぶ声。
あたしを抱きしめる理名。
誰かの泣き叫ぶ声。
泣き叫ぶ声。
叫ぶ声。
声。
声。
声。
…………。
……奈々が……死……。
…………。
…………。
…………。
……だめだ。
これは、思い出してはいけない。
思い出してはいけない。
……いや。
そんなことはあるわけが無いんだ。
そうだ。あるわけが無いんだよ。
だから……。
「どうしたの? 結衣?」
不意に、声をかけられた。
電話ではない。
助手席だ。見ると。
奈々が、微笑んでいた。
「――――?」
無邪気な笑顔。屈託の無い笑顔。いつもの、奈々の笑顔。
…………。
ピッ。あたしは、ケータイを切った。
「何でもない。なんか、明奈がまた変なこと言ってるの。多分、あたしと奈々が2人だけで遊びに行ったことを、怒ってるんだろうね」
「あはは。あの娘らしいね」
「うん。もうほっとこう。ねえ、それよりさ。なんだかあたし、帰りたくなくなってきちゃった。もう少し、どこかで遊んで行かない?」
「んー? 別にいいけど、でも、どこに行くの? こんな時間だよ?」
「大丈夫大丈夫。さ、行こう」
あたしは再び車を走らせる。市川に戻れば、こんな時間でもまだまだ遊ぶところはいくらでもあるだろう。24時間営業のカラオケ、ボウリング、インターネットカフェ、ファミレス、ハンバーガーショップ。なんなら、このまま一晩中ドライブしたって構わない。このままずっと、奈々と一緒にいられるのなら。
プルプル。ケータイが鳴る。明奈からだろう。うるさいなぁ。あたしはケータイを取り出すと、窓を開け、そのまま外に投げ捨てた。これでもう、2度と電話は鳴らない。明奈なんて、どうでもいい。あたしには奈々がいる。奈々さえいてくれれば、それでいい。
そう――。
あたしはずっと、このまま、奈々と一緒にいるんだ。
ずっとずっと、一緒にいるんだ――。
(作者オリジナル)