8月31日(木) PM 7:20
「よし、これでいいわ」
私は輪切りにした玉ねぎをナスの横に盛り付け、誇らしげにお皿を見た。今晩は焼肉。お皿には玉ねぎ、ナスの他に、ししとう、しいたけ、エリンギ、キャベツを盛り付けている。それを、居間のテーブルへと運ぶ。さて、お肉はさっき味付けして冷蔵庫に入れてあるし、カセットコンロと鉄板も準備OK。後は主人の帰宅を待つだけね。時計を見るともうすぐ7時30分。間もなく帰宅するだろう。主人は残業やら同僚との飲みやらで帰宅が深夜近くになることも少なくないが、今日は早く帰ると言っていた。亜弥は部屋にいる。今日は夏休み最終日だが、あの子は宿題を溜め込むような子じゃないので、今日はのんびり、最後の休みを満喫している。
そうしているうちに玄関が開く音がし、「ただいま」と主人の帰宅を告げる声。私は玄関まで迎えに出る。最近では主人が帰っても玄関に迎えに出ない妻が多いらしいが、私は違う。私は、彼の帰りがどんなに遅くなろうとも、必ず、玄関まで出迎えるようにしている。1日仕事をして帰ってきた主人を迎えるのは、妻として当然のことだもの。
「お帰りなさい、利夫さん」
「ああ、ただいま」
利夫さんから鞄を受取る。長年愛用している鞄は、もうくたくたにくたびれている。そろそろ新しい鞄を買わないといけないわね。身だしなみは働く男のステータス。鞄や背広がよれよれだと、仕事ができない人間のように思われる可能性がある。身だしなみを整えておくのも、妻の務めだわ。
利夫さんは居間で上着を脱ぎ、ネクタイをはずした。私はそれを受取り、ハンガーにかける。
「お風呂、先に入る? もう沸いてるわよ」
「ああ、そうしよう」
私はタンスからバスタオルと下着を出し、風呂場へ運んだ。利夫さんは食事の前に風呂に入るのが普通だが、帰宅が遅いときなど、お風呂には入らない事もある。なので私は、彼の帰宅後、どちらでもできるよう、常に準備をしている。これも、妻の務め。
あたしは利夫さんがお風呂に入っている間に、2階の亜弥に声をかける。「亜弥、もうすぐご飯にするから、少し手伝って」
「はーい」
返事がしてしばらくすると、亜弥が下りてきた。亜弥――私の自慢の娘。
「これ、運んでちょうだい」
亜弥にお茶碗とグラスを乗せたお盆を渡す。私は冷蔵庫からお肉を取り出した。いつもは豚や鶏がメインなんだけど、今日は奮発して牛肉。まあ、安いヤツだけどね。それでも豚や鶏よりは高い。給料日からそんなに経ってないし、今日は利夫さんが珍しく早く帰ってきたし、たまには、ささやかな贅沢もいいだろう。
利夫さんがお風呂から上がったようだ。私は冷蔵庫からビールと麦茶を取り出し、居間に運ぶ。そして、カセットコンロに火をつけた。亜弥は茶碗にご飯をよそおい、席に着く。
利夫さんが居間に戻って来た頃には、食事の準備はすでに終了していた。席に着くと同時に、グラスにビールを注ぐ。そして全員で。
「いただきます」
夕食の始まり。家族全員での夕食は、週に3、4回。まあ、我が家ではそう珍しいことでもないけど、それでもこの瞬間を迎えられると、ほっとする。私は肉と野菜を次々と鉄板に乗せる。利夫さんと亜弥、おいしそうに次々と食べる。
「コラ、亜弥。箸をかむのやめなさい」
「あ、ゴメン」
「まったく、いつまでたってもその癖、直らないんだから」
亜弥は小さい頃から、食事の際、料理を選ぶときなど、箸をかむ癖がある。行儀が悪いので直そうとしているのだが、これがなかなか直らない。まあ、そんなところがかわいくもあるのだけど。
亜弥に対する心配事がもうひとつある。こっちは、箸をかむという小さなことではなく、もう少し深刻な悩み。明日から2学期。亜弥は、学校でうまくやっているのだろうか? 小さい頃から人見知りが激しく、自分から友達を作るのが苦手な子だった。家に友達を呼んだことは1度も無い。まあ、あまり人に自慢できるような立派な家ではないので、それは仕方ないかもしれない。それでも中学生の頃はクラスメートからよく電話がかかってきたし、休日には遊びに行くことも少なくなかった。しかし、高校生になってから、それが1度も無くなった。亜弥の通う北高は、中学時代の友達が誰もいないのだ。もしかしたらクラスに友達がいなくて孤立しているんじゃないかと、ずっと心配している。
「亜弥、明日から学校だけど、大丈夫?」
「ん? 何が?」
「その……宿題とか、準備とか」
「うん。別に」
「そう……学校で何か困ったことがあったら、なんでも相談してね」
「うん、判った」
亜弥は焼きあがったお肉を自分のお皿にとる。私も食事に専念することにしよう。
小さな心配事はあるけれど、家族そろっての食事は、やはり楽しい。食材は豪華とはいえないが、家族全員そろう、ということが、最高の調味料。我が家の家計は、正直、そんなに豊かではない。借金するほどではないけれど、貯金もあまり多くはない。家は小さな借家だし、マイカーも無し。でも、私は十分に幸せだ。コツコツとまじめに働く利夫さんと、恥ずかしがり屋のかわいい娘。それを支えているのが私。この幸せは、いつまでも続くだろう。
いつまでも続く――そう信じていた、私は。
9月10日(日) PM 2:36
その日は日曜にしては珍しく、家に私1人。利夫さんも亜弥も、お昼を食べたらどこかへ出かけてしまった。私はお昼の片づけを終わらせると、ちょっとヒマになる。洗濯は朝すませてしまったし、掃除は平日にやるようにしているから、今日はしない。夕食の準備にはまだ早い。なので私、居間でお茶を飲みながらテレビを見ている。午後のテレビ。多分これも、主婦の務めよね。
ピンポーン。
玄関の呼び鈴が鳴った。誰だろう? 私は玄関に向かい、ドアを開けた。そこには、見知らぬ女性が立っていた。
「どちら様ですか?」私はなるべく笑顔で聞いた。
「大沢貴美子です」
その女の人はそう名乗った。大沢貴美子? どこかで聞いたことがあるような気がする。でも思い出せない。私はその女の人をまじまじと見た。黒いロングヘアーで、歳は私と同じくらい。奇妙なことに、まだ残暑厳しい9月の上旬だというのに、赤いロングコートを着ている。暑くないのかしら? よけいなことを考えてしまう。顔は見覚えがないと思う。多分。
そんな私の困った姿を見て察したのか、女性はもう1度名乗る。
「――亜弥さんの、その……母親の、大沢貴美子です」
――――!
私の心臓は、そのとき、凍りついた。
貴美子さんを居間へ通し、私は台所でお茶をくむ。その手の震えが止まらない。
大沢貴美子――利夫さんの前の妻。そう。利夫さんは初婚ではない。1度離婚しているのだ。その別れた妻がこの人、大沢貴美子さん。2人が離婚したのは15年前。亜弥は、利夫さんの連れ子だった。ああ、嫌な事を思い出してしまった。亜弥が、私の本当の娘ではない、ということを。できれば忘れたいのに。
私はお茶をお盆に載せ、居間へと戻った。テーブルの上に置く。
「ああ、おかまいなく」
貴美子さんが言う。私だってお構いなどしたくはない。と言うより私、何故この人を家に入れてしまったのだろう? いまさらながら後悔する。何か、すごく嫌な予感がする。入れるべきではなかった。入れる必要は無かったのに。この人、まさか亜弥に会いたいなんて言い出すんじゃないだろうか? それはダメだ! それはできない。だって、まだ亜弥には告げていないから。私が、本当の母親ではないということを。利夫さんと一緒になったとき、亜弥はまだ1歳になったばかりだった。だから、そのことは話さずに、今まで育ててきた。その方がいいと思ったから。もちろん、いつか言うつもりではいた。でも、まだ亜弥は高校生。まだ、言うのは早い。
「亜弥は、元気ですか?」お茶を一口飲んだ貴美子さんが言った。
私の娘を馴れ馴れしく呼び捨てにしないで!
という言葉を、私、何とか飲み込む。「ええ、元気ですよ。今は出かけてます。利夫さんと一緒に」
本当は一緒に出かけたわけではないが、家族仲良くやっていることを訴えたくて、私はそう答えた。
「そうですか」さほど興味がなさそうに、貴美子さんは答えた。
しばらく沈黙が続く。2人とも、ただお茶を飲むだけ。気まずい雰囲気……に見えるかもしれないが、私は別に気まずくはない。なぜなら、私はこの人に話すことは何も無いから。気まずいと思うのは、貴美子さんの方。嫌なら帰ればいいんだから。
「あの、礼子さん」
すっかりお茶を飲み干してしまった貴美子さん。意を決したように、私の方を見て、口を開いた。
「単刀直入に言います。私、亜弥を、引き取りたいと思っているんです」
…………。
ああ、ダメだ。この人、私の想像をはるかに超えたことを言ってしまった。
亜弥を引き取りたい、ですって!
冗談じゃない!
私の心に、黒い炎がともる。
「突然無理なことを言っているのは判っています。でも私、本気なんです! 亜弥と離れ離れになって15年。1度もあの子を思わない日は無かった! ずっと後悔していました。あの子を手放してしまったことを。私、もう1度、あの子の母親としてやり直したいんです! だから――」
「帰ってください!」
私、これ以上は無いってくらい、大きな声で言った。
こんなバカな話、これ以上聞いていたくない。
亜弥は私の娘だ。私が15年間も育ててきた。それを産みの親だからって、今ごろのこのこ出てきて、亜弥を育てたいなんて、ムシが良過ぎる。なんてずうずうしい人! そりゃ、利夫さんも嫌になるわけね。早く追い返さなくちゃ。そして今日のことは忘れよう。明日からも、今まで通りの生活。幸せな生活が待っている。だから、早く帰れ!
「……判りました。今日のところは帰ります。でも私、本気ですから。また来ます。必ず。今度は、利夫と亜弥も交えて、話をしましょう」
ダメだ。この人、危険だ。
私の心にともった黒い炎、さらに燃え上がる。
私は亜弥を渡す気など、断じて無い。亜弥は私の自慢の娘。渡してなるものですか! もちろんこの場合、亜弥が貴美子さんに渡る可能性はほとんど無いだろう。法律のことは詳しくないが、1度利夫さんが得た親権が、簡単に移行するとは思えない。家庭環境に大きな問題でもあれば別だろうが、私の家庭には何の問題も無い。裕福とは言えないが貧しいわけでもない。亜弥に暴力を振るったりもしない。仮に裁判で争うことになったとしても、私たちが勝つだろう。でも、でもでも、それじゃダメ。ダメなのよ! だって亜弥は、私の娘、私と利夫さんの娘なんだから! 母親は私だけ! 他の人が母親であってはいけないの! もちろん、産んだのは私じゃない。貴美子さん。これは、悔しいけど、認めざるを得ない。この事実だけは変えようがない。でも! 亜弥はそのことを知らない。もし亜弥がこのことを知ったら、どれだけショックを受けるだろう? 知られてはいけない。亜弥に、産みの親が別にいるなんて、絶対に知られてはいけないの! 私達は家族3人で幸せだった。そこに、あなたが入ってくることは許されない! いなくなれ、あなたなんていなくなれ! あなたがいなくなれば、私達は今まで通り幸せに暮らしていける。あなたさえいなければいい。あなたさえいなければいい。あなたさえいなければ。あなたさえいなければ。あなたさえいなければ。あなたさえいなければ。あなたさえいなければ。あなたさえいなければ。あなたさえいなければ。あなたさえいなければ。いなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなければいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれ私の前からいなくなれ!
「礼子……おい……礼子!」
利夫さんの呼ぶ声が聞こえた。あれ? 私、何をしていたのかしら? 時計を見ると、5時を少し過ぎている。いけない、夕飯の買い物に行かなきゃ。
「あ……利夫さん、お帰りなさい。ごめんなさい。お夕飯の支度、すぐ始めるわね」
「礼子……お前、何言ってんだ?」
「え? 何って?」
私、台所に向かおうとして、ずるっと、足が滑ってしまう。何か、どろっとした液体を踏んだようだ。足元を見ると、赤黒い液体が靴下についていた。やだ……何かしらこれ? 居間を見回すと、その赤黒い液体は、居間中に点々と飛び散っていて、そして、部屋の隅には、まるで水溜りのように、その液体が溜まっている。
そしてそこには、赤いロングコートを着た、長い黒髪の女性が倒れていた。
側には、テレビの上に飾ってあった、ブロンズ製の馬の置物が転がっている。赤黒い液体が、びっちりとこびりついていた。
――ああ、そうだった。
私、全てを思い出す。
貴美子さんが帰ろうとしたとき、私は彼女の後頭部をブロンズ像で殴った。そして、倒れたところを、何度も何度も殴って、そして、こうなったんだ。
「しっかりしろ、礼子。一体、何があったんだ」利夫さん、私の肩をゆする。私は、今日のこれまでのいきさつを話した。
話を聞いた利夫さん、見る見る青くなって、頭を抱え、なんてことを、なんてことを、と、繰り返している。でも私、とんでもないことをした、なんて、思っていない。だって貴美子さんは、私の幸せな家庭を壊そうとしたんだもの。私には、この家を守る義務がある。私は家を守ったのだ。これは、妻の、母親の、務め。
「だからって! お前!」
利夫さん、私を壁に押し付け、ものすごく怖い顔で、私を睨む。
「利夫さん、やめて。私、夕飯の支度しなきゃいけないから。離して。ね?」
「礼子――お前――」
と、そのとき、玄関のドアが開いて、
「ただいまー」
亜弥の声。
――――!
このときになって私、ようやく、自分がとんでもないことをしてしまったと気がついた。
後悔の念が、胸の奥から湧き上がる。
貴美子さんを殺した……これは、別に大した問題じゃない。でもこの場に亜弥が来たら、私はなんと説明すればいい? 倒れているのが亜弥の本当の母親だ、なんてばれたら、殺した意味が無くなってしまう。それに――そうだ。私、何でこんなことに気がつかなかったのだろう? 私が貴美子さんを殺したことが警察にばれたら、私、捕まってしまう。もしそうなったら、私の家庭はどうなるの? 私がこの家からいなくなる。これは、私の望んだ幸せな生活ではない。この家には、利夫さんがいて、亜弥がいて、私がいて、それで、幸せなんだ。誰が欠けても、この幸せは崩れてしまう。そのためには、貴美子さんを排除するだけでは不十分だったんだ。貴美子さんを排除し、なおかつ、それが発覚しないようにしなきゃ。ああ、それなのに私、何で3時間近くもボーっとしていたんだろう。亜弥が帰ってきてからじゃ、もうすべて遅いのに!
でも、神様は、私を見捨てなかった
亜弥、居間には来ずに、そのまま2階へ上がり、部屋に入ったのだ。
私、すぐに頭を切り替える。今の内に何とかしなきゃ。
「利夫さん、2階で亜弥のこと、引き止めておいて。少しの間でいいから、とにかく、下りてこないようにして」
「引き止めるって、おい、何を……」
「いいから早く!」
私、半ば強引に利夫さんを部屋から追い出す。利夫さん、私の迫力に圧倒されたのか、ためらいながらも2階に上がっていった。
さて、早いとこ片付けてしまわないと。だって亜弥、利夫さんのこと、最近嫌ってる。まあそれは、16歳の年頃なら別に不思議なことじゃない。あたしだって亜弥の歳の頃は、父親が嫌いだったもの。話なんてしたくなかった。だから、利夫さんが亜弥を引き止めるのって、結構難題だと思う。だから、とにかく早く片付けなきゃ。
私、まずは貴美子さんの死体を押入れに隠す。死体の隠し場所としては心もとないけど、今は仕方が無い。亜弥がこの押入れを開けることはまず無いと思うけど、念のため死体の上に布団を掛け、開けただけでは見つからないようにする。
さて、次は部屋の掃除だ。これが結構問題。点々と飛び散った血はすぐに落ちそうだけど、隅にある血溜りが問題。これは手強そう。でも、何とかなるだろう。私は洗面所から、ほうき、ちりとり、お湯を入れたバケツ、たわし、雑巾を、そして台所から小麦粉を持ってきた。これ、主婦の知恵。畳の上に子供やペットがおしっこをした時は、小麦粉や塩などをまいて、吸収させてから掃除をするの。亜弥がまだ小さかった頃、よくお世話になった。もちろん血では試したこと無いけど、多分大丈夫。私、固まりかけた血を溶かすため、少しお湯をまき、その上から小麦粉をまいた。少し待って小麦粉がなじんだところで、ほうきで回収。後はひたすら雑巾で拭く。とにかく拭いては雑巾を洗い、拭いては洗い、を繰り返す。畳の目につまった汚れはたわしでこする。ひたすらこする。その作業をくり返し、6時を過ぎる頃には、何とか片付いた。私、部屋を誇らしげに見回す。部屋の隅はまだ濡れている。乾いてみないとわからないが、少し黒ずんでいるかもしれない。でも多分大丈夫。私は女で、しかも生理がかなりひどい方。うたた寝している間に始まったと言えば、疑われることはまず無いだろう。後は夜になるのを待って、死体を処理すればいい。その方法も考えてある。死体は、庭に埋める。貴美子さんが我が家の敷地内にいるっていうのは嫌だけど、それくらいは我慢しよう。見えなければ大丈夫。下手に山奥に埋めたりしても、誰かに掘り返される可能性って、0では無い。でもうちの庭なら、私たちがここに住んでいる限り、誰かに掘り返される心配はまず無いだろう。庭の物置にはシャベルもあるから、今夜中には片付くだろう。大丈夫。私の生活は、明日からも大丈夫だ。
私は今を出て、階段の下から利夫さんを呼んだ「利夫さん、ちょっといい?」
利夫さんは不安そうな顔をして下りてきた。私は部屋の掃除が終わったことと、今夜死体を庭に埋めることを話した。
「そんな、無理だ。絶対にばれる。自首した方がいい」利夫さん弱気。
「ダメ、それはダメなの! 大丈夫、うまく行くわ。だから今日は、このまま普通にしていて。絶対に、亜弥に言ってはダメよ。ね?」
利夫さん、しぶしぶうなずく。うん、これで安心。だって利夫さんは、約束は絶対に守る人だもの。私、すっかり遅くなってしまった夕食の支度を始める。あ、そうだ。お風呂も沸かさなくちゃ。今日はくだらないことで、スケジュールがめちゃくちゃだ。でもいい。少し夕食とお風呂が遅れただけで、後はいつもと同じ休日。そう、今日も1日、私は幸せだった。
9月11日(月) AM 1:38
深夜、私と利夫さんは行動を開始した。押入れの中から貴美子さんの死体を運び出す。普通ならビニールシートか何かでくるんだ方がいいんだろうけど、残念ながら今日は用意するヒマが無かった。でも大丈夫。方法は考えてある。私は押入れから大型のビニールのゴミ袋を4枚取り出し、1枚を貴美子さんの頭、もう1枚を足にかぶせる。残り2枚ははさみで底を切り開き、筒状にして、上下の2枚に入りきらなかったお腹から腰の部分にかけて覆う。後はそれをガムテープでぐるぐる巻き。これで完成。
次は死体を埋める穴を掘らなければならない。私は庭の物置の中からシャベルを2本取り出し、1本を利夫さんに渡した。貴美子さんを埋めるには、畳1畳ほどの広さがあれば十分だろう。問題は深さだ。できるだけ深く掘りたいところだが、あまり時間は無い。今はまだ9月。5時には明るくなり始める。その頃には新聞や牛乳の配達も始まるだろうから、それまでには終わらせてしまわなければならない。私と利夫さんは、無言で地面にシャベルを付き立てた。
ザクッ。土をかき出す。それをもう1度繰り返す。利夫さんも同じ動き。
しまった。数回土を掘って私は気がついた。土を掘る音って、意外と大きい。夜中にやれば誰にも気付かれない、なんて思っていたけど、これじゃあ近所の人や亜弥が目を覚ましても、おかしくない。予想外の大問題。ああ、どうしよう。助けて、神様。
なんて祈りが通じたのか、しばらくすると、雨が降り始めた。しかもどしゃ降り。穴を掘る音が、完全にかき消えるくらいの。私、神様に感謝する。そして後は、利夫さんと2人、ただひたすら穴を掘る。2人とも無言。ただ機械のように、地面にシャベルを突き刺し、土をかき出し、また突き刺す。そのくり返し。ああ、ごめんなさいね、利夫さん。利夫さんは今日もお仕事なのに、こんなことにつき合わせてしまって。私は主婦だから、お昼にどうしようもなく眠くなれば、お昼寝をすればいいけれど、利夫さんはそうは行かない。仕事に差し支えてしまう。ああ、私って、妻失格かな。でも、それも今日だけ。今日だけは、許してね。これは家族を守るために、大切なことなの。だから今日だけは、ごめんなさい。
2時間くらい掘り続け、穴はようやく十分な大きさとなった。私と利夫さんは出来上がった穴に貴美子さんの死体を投げ込み、そして、今度はさっきと逆、穴を埋める作業。でも動作は同じ。シャベルを土に突き刺し、穴に入れる。私と利夫さん、また無言で、その動作を繰り返す。やがて、東の空が明るくなる頃、全てが終わった。貴美子さんは土の中。もう2度と、姿を見ることは無いだろう。これで全て終わり。私の家庭は、これでもう安心。
そう――もう安心なんだ。
9月24日(日) PM 7:40
それから2週間が経った。3日3晩続いた全身の筋肉痛も今ではすっかりおさまり、元通りの生活を送っている。今夜も家族3人での夕食。最近、利夫さんの帰りが早いので、私はすごくうれしい。今晩のおかずは利夫さんの大好きな焼き魚。大根おろしとポン酢でいただくのが我が家の定番。今日はサバだけど、そろそろサンマもいいわね。キノコもそえると秋らしくていい感じ。今度チャレンジしてみよう。
「亜弥、どんどん食べてね」私、笑顔で言う。
「うん……」亜弥はポツリと答えただけ。箸は全然進んでいない様子。
最近、亜弥はずっと元気が無い。食欲が無いのか、食事を残すことがほとんど。顔色も悪く、夜眠れていないのかもしれない。やっぱり、学校で何かあるのかしら……。よし。今日は思い切って訊いてみよう。
「亜弥、どうしたの? 最近元気が無いけど、何か悩みでもあるなら、お母さん聞くわよ」
「うん……大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ? もうずっと、食欲無いみたいだし。お母さんもお父さんも亜弥の力になるから、ね?」
私、箸を置き、まっすぐに亜弥の目を見つめ、そう言った。お母さんを信じなさい――そういう思いを込めて。
「でも……言っても多分、信じないよ」亜弥が言う。信じてもらえないような悩み、というのがちょっと想像できないが、これ、少し心外だ。
「何言ってるの。お母さん亜弥の言うことなら信じるに決まってるじゃないの。そんなの気にしないで、言ってみて」
「うん、わかった」亜弥、ようやく重い口を開き始める。「あのね、最近あたしの部屋に――幽霊が出るの」
――――。
え?
私、少し面食らう。
学校でいじめられているとか、成績がすごく落ちているとか、あるいはもしかしたら好きな人ができたとか、そういう話だと思っていたのに、かなり予想外の話だった。私と利夫さん、顔を見合わせる。
「幽霊が出る……って、ごめん亜弥、それ、どういうこと?」
「……やっぱり信じないよね、こんな話」亜弥の顔に、失望の色が浮かぶ。
「ううん、そうじゃないの。信じてないわけじゃないのよ」私は慌てて否定する。そうだ。さっき亜弥の言うことなら信じると言ったばかりだ。「ただ、突然だったから。もう少し詳しく話してみて。ね?」
「……うん。でもあたしにもよくわからないんだ。それまではそんなことは無かったんだけど、2週間くらい前から、突然出るようになったの」
ドクン……。
心臓が大きく鳴った。
2週間前から幽霊が出るようになった。
2週間前――思い出したくもない、あの忌まわしい出来事があった日。亜弥の産みの親が現れ、突然亜弥を引き取りたいと言い、私はそれを排除し、この家を守った、あの日。あの日以降、幽霊が出る、ですって?
亜弥の話は続く。「あたしが眠っていると、ギシ、ギシって、部屋を誰かが歩いているような音がして、でも、目を覚ましても誰もいないの。しばらくそれが続いて、そしたら、現れるの。ロングヘアーで、泥だらけの赤いコートを着た女の人が――」
「いいかげんにしなさい! そんなこと、あるわけないでしょう!」
私、思わず怒鳴ってしまった。黒いロングヘアーで、赤いコート。それって……それって、あの日の貴美子さんの格好と同じじゃない! そんなのありえない。絶対にありえない。だから私、断固、否定する。
亜弥、ビックリして、目を丸くしている。その目から涙があふれてくるのを見て、私、しまった、と思う。
「だから……だから言いたくなかったんだよ!」
「あ……亜弥、ごめんなさい、ごめんなさい」
私は慌てて謝ったが、亜弥は居間を飛び出し、階段を駆け上がり、部屋に閉じこもってしまった。
私と利夫さん、顔を見合わせる。どちらも声を出せない。亜弥を怒らせてしまった事は大失態だが、今はそれ以上に、亜弥が言った事の方が問題だ。2週間前から、黒いロングヘアーの、泥だらけの赤いコートの女の人の幽霊が出る――冗談であって欲しいと願うけど、今の様子を見ると冗談とも思えないし、そもそも亜弥はこんな冗談を言うような子じゃない。でもまさか、まさか!
後日、私たち3人はまた話をする。私は亜弥に疲れているから変な夢を見るんだ、と言って聞かせるが、亜弥は断固それを否定し、あれは夢じゃない、絶対に本物、と言う。
そしてその後も、その幽霊は出続けているらしい。
9月27日(水) PM 6:54
「ただいま……」
亜弥が帰宅した。珍しく、少し遅い時間だ。亜弥は部活動はやっておらず、学校が終わるとまっすぐ帰ってくるから、いつも5時には家にいる。私は夕食の準備を中断し、玄関に迎えに出た。
「お帰りなさい。今日は少し遅かったわね」
「うん。帰りに、中学の時の友達に会って、少し、話してた。宮崎結衣ちゃん」
それを聞いて私、自然と笑顔がこぼれる。亜弥が友達の話をするなんて、すごく久しぶり。
「そうなんだ、よかったわね」
「うん。でね、お母さん。今度の土曜日、結衣ちゃんがうちに泊まりに来るんだけど、いいかな?」
私、耳を疑う。亜弥が家に友達を連れてくるなんて、初めてのこと。しかも、お泊りだなんて! うれしくて、涙が出そう。こんなことで泣いたら笑われてしまう。私、何とかこらえて、答える。「もちろんいいわよ!」
私、うれしくてうれしくて、飛び跳ねてしまいそう。でも同時に、少しプレッシャーも感じる。だって、娘の友人をもてなすのって、初めてなんだもの。お夕飯、何を作ればいいかしら? 掃除もしっかりしなくちゃ。あ、美容院に行っておいた方がいいかしらね? 私、すっかり舞い上がっている。
そんな私とは対照的に、亜弥は、冷静な口調で話す。「結衣ちゃんね、昔から、霊感が強い子なの」
「――――」
私の上がりまくったテンション、ここで一気にダウンする。霊感が強い子? 亜弥、一体何を言ってるの?
亜弥は続ける。「あの幽霊、あたしは本物だと思うけど、お母さんの言うとおり、夢を見ているのかもしれない。だから、結衣ちゃん確かめてもらう。結衣ちゃんが本物だと言えば、絶対に本物だから」
亜弥はそれだけ言うと、階段を上がり、部屋へ入った。
私は黙ってその場に立ち尽くす。
亜弥の友達が家に来る。それはうれしい。素直に喜ぶべきだ。でも、霊感が強い子? 宮崎結衣。一体どんな子だろう? 亜弥の見た夢――そうよ、絶対に、亜弥の夢なの――を、否定してくれるのだろうか?
9月30日(土) PM 6:04
「いらっしゃい。さあ、狭いけど、あがってちょうだい」
土曜日、私は精いっぱいの豪華な料理を作り、宮崎結衣ちゃんを迎えた。結衣ちゃんは初めは戸惑っていたが、食事が終わる頃には、すっかり打ち解けていた。
「あ、そろそろお風呂が沸くわね。結衣ちゃん、先に入ってちょうだい」
「はい、ありがとうございます」結衣ちゃんは笑顔で答えた。
うちのお風呂は狭い。ちょっと恥ずかしいけど、年頃の女の子に一晩お風呂を我慢してもらうのも悪いので、まあ仕方が無い。
「宮崎結衣ちゃんか。明るいし、礼儀正しいし、いい子じゃない、亜弥」
「…………」
「おかしたくさん買っておいたから、お腹が空いたら部屋で食べなさい。今夜はどうせ、おそくまで起きてるんでしょ? でも、食べすぎは太るから、ホドホドにね。まあ、幽霊のことなんか忘れて、今夜は楽しみなさい」
「……あたし、ウソなんか言ってないから」
亜弥はポツリとそう言った。私は、聞こえないフリをした。
9月30日(土) PM 10:10
結衣ちゃんの後に亜弥もお風呂を出た。私は結衣ちゃんにおかしとジュースを乗せたお盆を渡した。2人は2階の亜弥の部屋へ向かう。私と利夫さんは、2人の姿を階段の下から見つめた。
結衣ちゃんが振り返った。私達は深く頭を下げる。
どうか、亜弥をお願いします。どうか――何もありませんように。
そして、居間に戻った。
「利夫さん――亜弥、大丈夫よね」
「ああ、心配ないさ。幽霊なんて……出るわけ無い。結衣さんがそう言ってくれれば、亜弥も、元気になるさ」
「そう……ですよね」
私はそう言ったものの、胸の奥の不安はぬぐいきれていなかった。
そして、その不安は的中する。
10月1日(日) AM 1:38
「おじさん! おばさん!」
深夜、結衣ちゃんの叫び声で、私達は目を覚ます。部屋に駆けつけると、亜弥は正気を失っていた。
利夫さんは救急車を呼ぶため、階段を駆け下りた。
「亜弥! 亜弥!」
私が呼びかけても、亜弥は全く反応しない。
「一体、何があったの?」結衣ちゃんにつかみかかるように訊いた。結衣ちゃんが悪いわけではない。それは判っていたけれど、どうしても、厳しい口調になってしまう。
「わ……判りません。眠っていたら、ギィ、ギィって、誰かが歩いているような音がして、でも誰もいなくて、怖かったけど、気にしないようにしてたら、そしたら、そしたら、泥だらけの赤いコートを着た女の人が現れて、亜弥ちゃんが……」
私、頭の中が真っ白になる。
泥だらけの赤いコートを着た女――まさか、本当に、貴美子さんの幽霊だというの? 亜弥だけでなく、この子まで見たなんて……そんな、ばかな!
利夫さんが階段を上がってくる。
「救急車はすぐに来る。結衣さん。タクシーを呼んでおいから、悪いけど、今日は帰ってくれないか?」
結衣ちゃんは困ったような表情だったが、この状況ではどうしようもない。私はタクシー代として1万円札を手渡すと、半ば追い出すように、帰ってもらった。
「どうしよう、利夫さん! やっぱり、やっぱり貴美子さんが……貴美子さんが!?」
「落ち着け! そんなはずは無い! とにかく、今は亜弥を!」
やがて救急車が到着する。私たちは着替えもそこそこに、亜弥に付き添って救急車に乗り、病院へと向かった。
「原因はわかりませんが、何か大きなショックを受けたものと思われます」
運びこまれた病院で、先生は亜弥を診て、そう言った。しばらく入院し、様子を見るのが良いと言う。
私はもう、何がなんだか判らなかった。亜弥だけでなく、友達まで――霊感の強いという友達までもが、赤いコートを着た女の人が、部屋の中にいたと言う。これは一体、どういうことなのよ!
私の心の叫びに、答えてくれる人はいなかった。
10月2日(月) AM 1:38
ギィ……。
まどろみの中で、私はその音を聞いていた。誰かが、階段を下りている音。亜弥がトイレにでも行くのだろう。普段ならそう思い、気にもしない。
でも……そうだ。亜弥は今、入院している。家にはいない。
じゃあ、利夫さん? 利夫さんが、2階に上がって、今下りてきているの? こんな時間に2階に何の用があるのかは判らないけど、亜弥じゃなければ利夫さんよね。
私、体をひねって横を向く。あれ? 利夫さん、いびきかいて寝てる。
ギィ……。
足音はゆっくりと、ゆっくりと、1段ずつ、下りてくる。私、ようやく意識がはっきりしてくる。
亜弥でもないし、利夫さんでもない。じゃあこの足音は、一体誰?
ギィ……。
音が少し変わった。それは、階段を踏む音が、廊下を踏む音に変わったと、私にはすぐに判る。音の主が、1階に来たのだ。そしてその音は、玄関ではなく、こちらへ向かってくる。近づいてくる。
――利夫さん、起きて!
助けを求めようとしたが、声が出ない。金魚のように、ただ口をパクパク動かすだけ。
足音はなおも近づいてくる。この部屋と廊下を隔てるものは、刷りガラス製の引き戸1枚だけ。そのガラス越しに、足音の主の姿が見えた。黒のロングヘアーで、赤のコートの女性のように見える。
引き戸が、ゆっくりと開き始める。
ああ、いやだ。やめて、お願い。夢なら覚めて。見たくない。見たくない。私、首をぐるぐる振る。そうすることで、この悪夢から逃れられることを期待して。でも無理だった。引き戸は完全に開き、私はその女の人の顔を見てしまった。忘れようとしても忘れられない、その人の顔――大沢貴美子。
私はとにかく――ただとにかく、声を出した。悲鳴なんてもんじゃない。言葉にならない、叫び声。助けを求めようとか、危険を知らせようとか、そんな目的じゃない。ただ、とにかく、声を出した。出し続けた。利夫さんが起きて、私の肩をゆすり、「礼子、どうした? 礼子、しっかりしろ!」って言うけど、私、お構いなしに、声を出し続ける。やがて救急車が来て、病院に運ばれ、何かの注射を打たれて、意識が無くなった。
10月3日(火) PM 7:27
「こんばんは、奥さん。ご気分はいかがですか?」部屋に入ってきたのは、小太りの中年男。確か、平泉という名の刑事。今朝、私が全てを話した男。
私は収容された病院に警察を呼び、全てを打ち明けた。大沢貴美子を殺したこと。死体を庭に埋めたこと。全て。
「……いいわけないでしょう。早く逮捕してください」私は冷たくそう言った。今朝会ったばかりだけど、何となくこの人、気に入らない。人を見下した、バカにしたようなしゃべり方をする。刑事ドラマによく出てくる、犯人をいやらしく追いつめるような、そんなタイプ。
亜弥が言ったことは本当だった。赤いコートを着た女の幽霊――貴美子さんの幽霊が出る。私がそれを信じてあげなかったばっかりに、亜弥は精神を患ってしまった。すべて私のせい。だから私は、全てを打ち明けた。私の罪を。あ、誤解しないでね。私の罪は、貴美子さんを殺したことじゃない。貴美子さんを殺したことは、今でも、別に悪いなんて思っていない。私の罪は、貴美子さんを殺したことで、亜弥を追いつめてしまったこと。そして、亜弥を信じなかったこと。亜弥を傷つけてしまったこと。
「まあまあ、そう慌てずに。何点か確認しておきたいことがあるのですが」ゆっくりとした口調の平泉さん。
「いまさら何を確認しようって言うんです! 早く私を逮捕してください!」
私は思わず声を荒らげる。全くこの男は、人をイライラさせるのがうまい。
「落ち着いてください、奥さん。これは重要なことなんです」
平泉さんの顔が少しまじめになったので、私も少し心を落ち着ける。
「えーっと、奥さんが今朝話された話をもう1度確認したいんですが――」平泉さんはスーツの胸ポケットから手帳を取り出し、それをパラパラとめくった「まず、9月10日。亜弥さんの産みの親である大沢貴美子さんがあなたを訪ねてくる。そこで、亜弥さんを引き取る引き取らないの話になり、かっとなったあなたはブロンズ像で貴美子さんの頭を殴り殺害。その後、遺体を一旦押入れに隠し、その日の深夜、ご主人の利夫さんと一緒に、2人で庭に埋めた……で、間違いなかったですね?」
「ええ、間違いありません」
「本当に?」
「本当ですよ! 何でいまさらそんなことを聞くんですか! 早く、私を逮捕してください!」
私、また声を上げた。
「ですから奥さん、落ち着いて聞いて下さい。我々としてはですね、殺した、と言う自白だけでは、逮捕はできないんです。ちゃんと、確証が取れないとね」
「だから、それを確認しに行ったんじゃないんですか?」
「ええ、そうなんです。捜査員を動員し、今日1日、奥さんの自宅の庭と、大沢貴美子さんの自宅を調べました。で、結論から言いますとですね――」
平泉さん、ここで大きく息を吐く。一体何が言いたいのか。
「大沢貴美子さん――生きてますよ」
「――え?」私は思わず聞き返す。平泉さんが何を言っているのか、理解できなかった。
「大沢貴美子さんは死んでいません。生きています」
「……え……そんな……え!?」平泉さんが2度言ったことはちゃんと聞こえたが、やはり理解できない。何を言っているの? この人。
「我々は隣の県に住んでいる貴美子さんの自宅を訪ねたんですが、貴美子さん本人が出迎えてくれました。詳しく話を聞いてみたのですが、しばらく県外には出かけていないそうで、もちろん、9月10日に奥さんの家を訪ねたりもしていないとのことです。亜弥さんのことは今でも心配はしていましたが、いまさら引き取ったり、名乗り出たりするつもりは無いそうです」
「そんなバカな! 私は確かに貴美子さんを殺しました! 平泉さん! からかうのはやめてください!」
「私はこんなことで冗談を言ったりしません。大沢貴美子さんは生きている。死んだように見えたが実は生きていた、というわけでもありません。貴美子さんの頭には、怪我をしたような痕もありませんでしたから」
「じゃ……じゃあ、私が殺したのは……貴美子さんじゃなかった……と言うのですか?」
「それなんですがねぇ、奥さん。先ほども言いました通り、我々は奥さんの自宅の庭も調べました。確かに奥さんの言う通り、庭に掘った跡がありました。ちょうど畳1畳分くらいですね。人1人埋めるには、十分すぎる大きさです。で、我々はそこを掘り返してみたんですが――」
平泉さんはまたここで大きく息を吐く。
「死体――ありませんでした」
――――!
私、言葉が出ない。何を――何を言っているんだ、この人は!
平泉さんは続ける。「深さは1メートルくらいですか。土も柔らかく、明らかに掘り返す手ごたえでした。奥さんが穴を掘ったと言うのは事実でしょう。ですが、何も出てこない。念のためもう1メートルほど掘ってもみたんですが、やっぱり何もありません」
「そ……そんな……そんなはずは。そんなはずは……」
私はうわごとのようにつぶやく。そんなことはありえない。私は確かにあの日、大沢貴美子をブロンズ像で殴り殺し、そして深夜、庭に穴を掘り、埋めた。全ての光景が、今でも写真のように脳裏に焼き付いている。記憶だけじゃない。頭を殴ったときの、あのぐしゃっという感触。血の臭い。シャベルを固い土にさす手ごたえ。それを何度も繰り返す疲労感。途中で降り始めた雨の冷たさ。全て、はっきりと覚えているのだ。だから、貴美子さんが生きているなんて、庭に死体が埋められていないなんて、絶対に、絶対にありえない!
「奥さん。娘さんが入院されて、疲れていらっしゃるんでしょう。少し休めば、きっとよくなります」
「そんなはずはありません。私は確かに貴美子さんを殺し、庭に埋めたんです。平泉さん、信じてください」
「そう言われましてもねぇ。現に大沢貴美子さんは生きてるし、庭からは何も出てこないんです。これでは信じろと言われても無理ですよ。では、失礼します」
「待って! 行かないで! お願い!」
私はすがりつくように言うが、平泉さんはもう見向きもしない。無情にも病室のドアは閉められ、私は1人になった。
私は病室の天上を見つめながら、平泉さんが今言ったことを考える。貴美子さんは生きている。庭に死体は埋められていない。そんなことが、ありえるだろうか?
すべては、私の妄想だったのだろうか?
――――。
――いや。
妄想ではない。
絶対に、妄想ではない。
だって――聞こえる。
ほら――足音が、聞こえる。
誰かが近づいてくる、足音。
その足音が、部屋の前で止まる。
ゆっくりと、ノブが回り、そしてまたゆっくりと、ドアが開く。
部屋に入ってきたのは、泥だらけの赤いロングコートを着た女。
私があの日殴り殺し、庭に埋めた女――大沢貴美子。
そうだ、やはりあれは妄想なんかじゃない、現実。
女はゆっくりと、私に近づいてくる。
私は助けを呼ぼうとはしない。なぜか、そんな気にはなれない。
もう疲れちゃった。ここで助けを呼んだとして、どうなる? 仮に平泉さんが来てくれたとしても、多分信じてもらえない。
女は、私の首に手をかける。氷のように冷たい手。まるで、死人のよう、なんて、変なことを考える。私は、抵抗しない。
私は、決してこの悪夢から逃れることはできないんだわ。それがわかってしまったから、もう、疲れた。ゴメンネ、亜弥。あなたの言ったことは、本当だった。あなたを傷つけて、ゴメンネ。私は、母親失格だね。でも、これだけは言える。私は、あなたを愛している。私はあなたの本当の母親ではなかったけれど、誰よりも、あなたを愛している。これは、絶対。でも、あなたは私を愛してくれていたかな? あの日、貴美子さんが突然現れ、亜弥を引き取りたいって言った時、私は、亜弥がいなくなってしまうんじゃないかって、それが怖くて、だから、貴美子さんを殺した。今思えば、それって、亜弥に愛されている自信が無かったからなんだろうね。ゴメンネ、亜弥。私、ダメな母親だったかもしれない。ゴメンネ。
薄れゆく意識の中で、私はただ、亜弥に謝りつづけた――。
中学の同級生 第2話 今井礼子 終
(作者オリジナル)