「ねえ、結衣。悪いんだけど、車貸してくれない?」
午後。大学の講義を終え、ロビーでコーヒーを飲みながらのんびりしていたあたし。そこへ、研究室に閉じこもってしばらく姿を見せなかった亜美が現れ、突然、そう言った。
「へ? 車? いいけど、亜美、免許なんて持ってたっけ?」
「ううん、持ってないよ。大丈夫。運転するわけじゃないから」
「運転しないのに、車なんてどうするの?」
「ちょっと、試したい実験があってね。壊したりしないから、1日だけ。お願い」
ぱん。と手を合わせ、お願いのポーズ。
亜美は、いわゆる天才という種族で、よく研究室に1人こもっては、様々な研究や実験をしている。その結果をまとめたレポートは、いずれもあたしのような凡人には理解しがたいものだが、何故か大学の教授は大絶賛。中には世界的に注目を集めるレポートもあり、今、日本人で最もノーベル賞に近い人物だとウワサされている。
そんな亜美の実験か。亜美のことだから壊したりはしないだろうけど、なんだかものすごくイヤな予感がするのは何故だろう?
まあ、亜美の頼みじゃ断りづらい。どんな実験か判らないけど(たぶん聞いてもあたしなんかには理解できないだろうし)、もしかしたら世界を変える程の実験かもしれない。何より亜美にはいつもお世話になってるからな。
「判った。いいよ。家に帰って取って来るから、待ってて」
OKすると、亜美はキラキラと目を輝かせる。「ホント!? ありがと! じゃあ、後で駐車場で待ってるね」
亜美はスキップしながら研究室へ戻って行った。
なんかすごく嬉しそうだな。そんなにすごい実験なのかな? 亜美が喜ぶ姿を見られるのはいいんだけど、不安はますます膨らむ。
ま、もう約束しちゃったから仕方ないか。あたしは荷物をまとめ、大学を後にした。
1時間後、車に乗って大学の駐車場に来ると、すでに亜美はスタンバイ状態だった。そばにはジャッキとか台車とか工具とか、車の整備屋さんでよく見かける道具がずらりと並んでいる。
「はい、じゃあ、これ、鍵」車を降りて、キーを渡す。「新車なんだから、気を付けてよね」
「ありがと。明日の朝には完成してると思うから、楽しみに待ってて」
キーを受け取った亜美は、さっそく工具を持って運転席に乗り、ハンドルの辺りをいじり始めた。
……って、本当に大丈夫なのだろうか? 車の整備って、免許とか資格がいるんじゃないのか? まあ、亜美だから持っててもおかしくはないけど。でも、車の免許を持ってない人が、整備士の資格を持ってたりするんだろうか?
不安はますます増大したけど、もう、どうしようもない。亜美、完全にスイッチが入ってしまっていて、作業に集中している。声をかけても聞こえないだろう。あたしは諦め、大学を後にした。
で、翌日。
少し早めに家を出たあたしは、大学に着くと、すぐに駐車場に向かった。
昨日と同じ場所に車があり、亜美はボンネットを開けて、中に身体を突っ込んでいた。徹夜で作業してたのだろうか? 今日も講義があるだろうに。まあ、あの娘ならそのくらい何でもないんだろうけど。
「おはよ、亜美。どう? 調子は?」声をかける。
「ああ、おはよ、結衣」亜美、体を起こす。顔は油で真っ黒だ。「今、終わったとこ。たぶん、完璧」
完璧なのにたぶんとはどういうことだろうか? ああ。やっぱり貸すんじゃなかったかな。
まあ、後悔しても、もう遅い。「で、何したの?」
「んっふっふ。聞いて驚かないでね。なんと、脳波で車を動かせるようにしたのよ」
え? 脳波で車を?
脳波については、以前亜美から説明されたことがある。人の脳には、電気信号を発生させる特殊な神経細胞が集まっていて、何かを感じたり、何かを考えたりするときに、脳は電気信号を発するのだ。それを、脳波と呼ぶ。
「そう。よく覚えてたね」軽く拍手をする亜美。褒められてるのかバカにされてるのかは判らない。
「で、その脳波で車が動くって、どういうこと?」
「うん。車に、脳波を感知する特殊な機械を取り付けたの。ま、早い話、『走れ』と念じれば車は走り出し、『停まれ』と念じれば、車は停まるってわけ」
…………。
それって、すごいじゃん。
SF映画とかで、そういう乗り物をよく見るけど、それが今、あたしの目の前にあるんだ。
亜美って、時々わけのわからないことをするけれど、やっぱり、本物の天才なんだな。
「じゃあ、さっそく実験してみようか。結衣の脳波に反応するように調整してあるから、何か念じてみて」
亜美にそう言われ、あたしは車を見つめる。これが、あたしが念じれば走るのか。よし。やってみよう。
あたしは、目を閉じ、精神を集中する。
そして念じた。
――走れ!
すると。
ばるるん!
車のエンジンがかかる。
そして、ゆっくりと、動き始めた。
すごい! 誰も乗ってないのに、ホントに動いてるよ!
「右に曲がれとか、左に曲がれとか、何でも念じてみて。その通りに動くはずよ」
あたしは言われた通りに念じてみる。車は念じた通り、右に曲がり、そして、左に曲がった。最後に停まれ念じると、車は静かに停まった。
「すごい、これ、ホントにすごいじゃん! 今までの亜美の研究の中で、ぶっちぎりで一番すごいよ!」興奮を抑えられないあたし。
「そんな大したことじゃないよ」謙遜しながらも、まんざらでもない様子の亜美。「これはね、第2次世界大戦当時、アメリカ軍が研究していたシステムで、『Y.U.I.システム』と言うの」
「Y.U.I.システム?」
「そう。Yield to Under the Imagination system. 直訳すると『想像の下に屈する』。当時アメリカ軍は、このシステムを使って、遠隔操作で戦車や戦闘機を操縦しようしていたの。遠隔操作なら、撃墜されても死者は出なくなる。死を恐れない戦車や戦闘機。まさに、究極の兵器となるはずだった。でも、研究は構想の段階で打ち切られ、結局実現することは無かったの」
「何で? こんなにすごいシステムなのに」
「理由はいくつもあるけど、最大の理由は、マンハッタン計画が始まったことだね。軍の予算の大半は、そのマンハッタン計画に回され、Y.U.I.システムの開発まで手が回らなくなったのよ。あ、マンハッタン計画っていうのは、原子爆弾開発の国家プロジェクトのことね。発端は、1939年。物理学者のレオ・シラードは、ナチス・ドイツが核兵器を持つことを恐れ、当時のアメリカ大統領ルーズベルトに親書を送ったの。それが始まり。その後、ルーズベルトは――」
長々と講釈を垂れ始めた亜美。ああ、こうなるとしばらく止まらないな。難しいことはあたしにはさっぱりわからないので、適当に聞き流すしかない。
……それにしても、おなかすいたなぁ。今朝は急いで来たから、朝ご飯を食べてないのよね。講義が始まるまで、まだ時間があるから、公園前のハンバーガーショップで、モーニングバーガーセットでも食べてこようかな。
なんて考えていると。
ばるるるん。車のエンジンがかかる音。
ん? 何?
と思う前に。
車は突然走り出し。
どーん。
そのまま、駐車場の壁にぶつかって止まった。
…………。
なんですとぉ!!
あれ、あたしの車だぞ? あたしの命の次の3番目くらいに大事な愛車だぞ? 先月買い換えたばかりの新車だぞ!? それが、勝手に走って、勝手に壁にぶつかったぞ!?
猛ダッシュで車に駆け寄る。壁に正面衝突した愛しの我が車は、ボンネット部分が大きくへこみ、ぷすぷすと煙を吐き出していた。
「あーあ。やっちゃったね」後ろから亜美の声。
「やっちゃったってどういうこと!? 何が起こったの!?」
「結衣、何か変なこと考えなかった?」
「変なこと? 別に何も考えてないよ! ただ、おなかすいたから、公園前のハンバーガーショップにでも行こうかなって」
「それだね」
亜美、納得したような口調。
「どういうこと?」
「結衣がハンバーガーショップに行きたいと思ったから、その脳波に反応して、車はハンバーガーショップに行こうとしたのよ。でも、結衣がちゃんとした道順を考えなかったから、そのまま壁にぶつかったってわけ」
なるほど、そういうことだったのか。
……なんて納得できるわけもなく。
「『壁にぶつかったってわけ』、じゃあない!! どうしてくれるのよ、これ!! 買ったばかりなんだよ!? あたしの大事な大事な新車なんだよ!?」
「そう言われても、ねえ。ぶつけたのは結衣でしょうが」
どこか他人事な亜美のその言い方に。
かっちーん。
ああ、ヤバイ。キレそう。
「もう。そんなに怖い顔しないでよ。冗談よ、冗談。ちゃんと直すから」
…………。
……は? 直す?
「そうね……夕方までには直ると思うから、待ってて」あっけらかんとした口調の亜美。
「待っててって、擦った傷直すんじゃないんだよ? こんな完全にぶつけちゃった車が、夕方までに直るわけないでしょ!」
「あたしを誰だと思ってるのよ? まかせなさーい」
どういう根拠があるのかわからないけれど、亜美は自信満々に言った。
……ホントにこれが直るのか? 疑わしい限りだけど、まあ、ここは亜美に任せるしかない。あたしは「絶対に直してね。直さないと、ヒドイからね!」と、何度も念を押し、「OK、OK」と、軽く流す亜美に大きな不信感を抱きながらも、講義へと向かった。
で、講義が終わり、夕方。
駐車場に降りてみると、そこには、朝起きた事故がまるで夢だったかのように、元の姿の愛車があった。
「ああ! あたしのかわいい愛車ちゃん! 無事だったのね!」
車に抱きつき、頬ずりをする。
「うん。ちょっと手こずったけど、完璧に元に戻ったから、安心して」誇らしげに言う亜美。
一体どんな魔法を使ったら、あんな廃車同然の車が半日で元に戻るのか。極めて謎ではあったけど、まあ、そんなことはどうでもいい。今は、あたしの大事な大事な愛車が無事だったことが、何よりも嬉しい。
「Y.U.I.システムも外しておいたから、安心して。まあ、このシステムはやっぱり欠陥品だね。アメリカ軍が研究を断念したのも、これが最大の理由かな」
「ん? どういうこと?」
「つまり、脳波なんて曖昧なもので操縦するよりも、手足を使って操縦した方が、ずっと安全で確実、ってこと。それが判っただけで、今回の実験をやった甲斐があったわ」満足げな表情の亜美。わざわざ人の新車をスクラップ寸前までしておいて、得た結論がそれかい。
「そんな怖い顔しないの。まあ、結衣には悪いことしたと思うから、お詫びに、ちょっとパワーアップしておいたから」と、亜美が言った。
……はい? パワーアップ?
「そう。大したことは無いんだけど、ちょっとだけ、スピードが出るようにしておいたわ。時速300キロは余裕で出るようになってるから、気を付けて運転してね。後、416キロを超えると、ターボ状態になって、一気に496キロで走行できるようにしてあるの。大丈夫。グリップも格段に向上するから、カーブもすいすい曲がれるわ。それからね、これは究極の技なんだけど、アクセルを1秒間に50回踏むとね、スーパーターボ状態になるの。これが発動すれば、一気にマッハを超えることも可能よ」
「亜美」
「何?」
「直せ」
「……判った」
その後、あたしと亜美はしばらく口を利くことはなかった――。
(作者オリジナル)