自慢じゃないが、あたしはこれまで、怖い体験を山ほどしてきた。
あたしの霊感が目覚めたのは、小学2年の頃だっただろうか。きっかけはなんだったのか今でもよく判らないが、とにかく、霊感が目覚めてからは、幽霊とか、亡霊とか、魑魅魍魎とか、とにかく、いろんなものを見るようになった。命の危険にさらされたことも、1度や2度ではない。数々の死線をくぐり抜けてきて、20歳の夏に至る。
しかし、今日。
これまでの恐怖をはるかに凌駕する存在が、あたしの前に現れた。それも、あたしの家の、キッチンに。
それは、幽霊よりも、死神よりも、悪魔よりも、明奈よりも。
これまであたしの命を脅かして来た、いかなる存在よりも、遥かに強大で、恐ろしい存在。
それは、G――ゴキブリ。
その姿を確認した瞬間、あたしは悲鳴を上げ、一目散にキッチンから飛び出した。
「……で、何でゴキブリが出たくらいで、あたしに電話してくるわけ?」
電話の向こうで明奈は、いかにもつまらなそうな、めんどくさそうな声で答える。
「だってしょうがないでしょ! 今日はお母さんは出かけてて、家にはあたし1人なのよ! 誰があのゴキブリを退治するのよ!」
「誰がって、家に結衣しかいないんなら、結衣が退治するしかないでしょうが」
「そんなことできるわけないでしょ! ゴキブリだよ? それも、超でっかいんだよ? 20センチくらいはあったのよ? マッハ3くらいの速さで移動したんだよ? あんなやつ、あたしがどうにかできるわけないでしょ!?」
「そんなゴキブリがいたら、あたしでもどうにもできないけどね。てかさ、ゴキブリが出たからって、あたしを頼りにするのがわかんないんだけど?」
「だって、あんたならゴキブリ慣れしてるでしょ? あたしの家にいるくらいなんだから、あんたのその汚い部屋にもいるでしょ!? いるはずよ! いなきゃウソよ!!」
「いきなり電話してきて失礼なことを言うわね。何がゴキブリ慣れよ。それはまあ、この季節はウジャウジャいるけどさ」
げ……ウジャウジャって、どんなだよ。今まであたし、結構明奈の部屋に泊まったりしたけど、そんな状態だったのか。もう2度と、あの部屋に足は運ぶまい。
「まあ、ゴキブリなんて慣れよ、慣れ。あたしも最初は怖くて手が出せなかったけど、今じゃなんともないわ」
「だから頼んでんでしょ! お願いよ、明奈、早くあいつ、やっつけて!!」
「やっつけて、たって、あたし、明日学校に提出するレポートまとめてて、それどころじゃないんだけど」
「あんたのレポートなんて、どうせまた金のエンジェル様が当たる確率とか、インターネットの普及率とか、くだらないものなんでしょ? レポートとあたしと、どっちが大事なのよ!?」
「レポート」
「……あんたがそんな薄情な人間だとは、思わなかったわ」
「そんな風に言われてもねぇ。大体、今からそっちに行って、間に合うわけないでしょ? ゴキブリがいつまでも同じ場所にいるわけないし。今、そのゴキブリはどうしてるの?」
「わかんないけど、さっきは冷蔵庫の下に隠れた」
「だったらいいじゃん。いなくなったと思えば」
「思えるわけないでしょ!! あの冷蔵庫の下にいるのよ!? 夜中にそこから抜け出して、台所から廊下に出てきて、階段を上って、あたしの部屋にやってきて、ベッドを上って、あたしの顔を這って、もしそのときあたしが口を開けて寝てたりしたら、どうなると思ってるのよ!!」
「……仮にそうなったとしても、死にゃしないわよ。毒持ってるわけじゃないんだし。それに、世界的にみれば、ゴキブリを食べる国は、結構あるんだから」
げ……ゴキブリを食べる? ありえない。ありえなさすぎる。
「じゃ、そういうわけだから、また今度ね」
明奈、薄情にも電話を切ろうとする。
「待て待て待て待て! あたしを見捨てないで! お願いよ! 助けてよ! 明奈しか頼れる人がいないんだよ!」
「大学にも友達がいるでしょ? ゴキブリが平気な友達、いないの?」
大学の友達……理名と亜美か。うーむ。どっちもゴキブリ見てキャーキャー言うタイプではないな。理名は「ただの虫でしょ?」とか言って、踏み潰しちゃいそうだし、亜美は「研究材料になる」とか言って、生け捕りにしそうだ。
「じゃ、そっちに頼みなさい。じゃあね」
「ダメだよ! 2人とも、勉強や研究で忙しくて、こんな時間に来てくれないよ!」
「あたしもレポートで忙しいっつーの!!」
「……そんなに怒らないでよ。悪かったわよ。でも、ホントにあたし、怖いの。頼れるの、明奈しかいないのよ。お願いだから、助けてよ」
「……しょうがないわね」
「じゃ、来てくれる!?」
「行かない」
「…………」
「でも、Gマニュアルを送るから」
「Gマニュアル?」
「そ。あたしが以前監修した、ゴキブリ決戦用マル秘マニュアル。これを読んで、頑張ってみなさい」
「そんなの読んでも、ムリに決まってるでしょ? あたしにゴキブリ倒すなんて、できないよ!」
「大丈夫よ」
きっぱりと、明奈は言い切った。
その自信に満ちた言葉を聞いて、不思議と、勇気が湧いてきたような気がする。
「このGマニュアルを読めば、結衣みたいな腰抜けででも、必ずゴキブリを倒せるようになる。安心して、戦いに挑んでちょうだい。じゃ、パソコンのメールで送っとくから」
そして、電話は切れた。
援軍は得られなかった。それは残念だったけど。
何故だろう? 不思議な安堵感がある。
Gマニュアル。
一体どんなマニュアルなのだろうか? それを読めば、あたしでもゴキブリを倒せるという。本当にそんなことが可能なのだろうか? 普通に考えれば疑わしい限りだが、しかし、不思議な期待感がある。
それから5分後。
パソコンに、明奈からメールが届いた。添付ファイル付だ。はやる気持ちを抑えつつ、マニュアルをダウンロードし、そして、開いた。
ちなみに、これは明奈が独自に研究して書いたマニュアルであり、科学的根拠はどこにも無い。信じるか信じないかは、あなた次第だ。また、長い割にはストーリーにあまり関係が無い。読むか読まないかも、あなた次第である。
☆
ゴキブリ決戦用マル秘マニュアル
第1章・ゴキブリを防ぐ
ゴキブリは、どこにでも現れる、と思ってはいないだろうか?
それは真でもあり、否でもある。
この章では、ゴキブリの侵入を防ぐ方法を紹介する。
1.侵入経路を閉ざす
ゴキブリは、見た目以上にスリムであり、小さな隙間にも簡単に入り込むことができる。
しかし、実体がある生命体である以上、自分の身体より小さな隙間をくぐり抜けることはできない。
また、ゴキブリの活動範囲は、主に台所やお風呂場など、水回り付近が中心だ。いかにゴキブリと言えど、水が無いと生きることができないからだ。
よって、台所やお風呂場など水回り付近の部屋を極力閉ざしておけば、ゴキブリの活動範囲をかなり狭くすることができるのだ。これで、「寝ている間にゴキブリがやってきて、身体を這ったらどうしよう?」なんて心配はなくなる。
2.明かりをつける
ゴキブリは夜行性の昆虫だ。暗闇を好み、光を嫌う傾向にある。
もちろん、光を浴びたからといって、吸血鬼のように燃えて灰になってしまうわけではないが、人間が夜中に明かりを持たずに暗闇に足を踏み入れるのを嫌うように、ゴキブリも、明るい場所には出たがらない。
よって、夜でも電気をつけておけば、ゴキブリの活動をかなり制限することができる。
もちろん、光の中でも元気に活動するゴキブリもいる。あまり過信はしないように。
3.気温を下げる
ゴキブリが寒さに弱いことは周知の事実だろう。冬はほぼ活動しないし、北海道など北の国には、夏でもゴキブリは出現しない。
つまり、夏でも部屋を冬並みの温度に保つことができれば、ゴキブリは出没しなくなるのだ。
もちろん、通常のエアコンでそこまで温度を下げるのは不可能なので、部屋を巨大冷蔵庫に改造するか、北国に引っ越すか、の、どちらかになる。
どちらも莫大な資金が必要ではあるが、効果は絶大なので、お金に余裕のある方はぜひ試してほしい。
第2章・対ゴキブリ用決戦兵器
ゴキブリ相手に素手で立ち向かうのは、あまりにも危険で愚かな行為だ。素早い動き、鋭い反射神経、タフな身体。それらに対抗するためには、こちらもそれなりの装備を整えておかなければならない。以下に、代表的な対ゴキブリ用決戦兵器をまとめておく。
1.打撃系
ゴキブリを仕留めるのに最もオーソドックスな方法が撲殺である。
ゴキブリはタフではあるが、決して頑丈ではないので、狙いさえ外さなければ、よほど軽い武器でない限り、一撃で仕留められるだろう。
そういう意味では、使うものよりも、使う人の精度が求められる武器である。
・スリッパ
威力:★★★★★
リーチ:★★☆☆☆
オススメ度:★★★★★
古くから対ゴキブリ決戦兵器として世界中の主婦たちに愛されてきた打撃武器。威力はかなりのもので、1撃で敵を葬り去ることも可能。リーチの短さが欠点で、素早いゴキブリ相手に翻弄されやすく、使いにくさは否めない。
しかし、その真価は、手に持つよりも、足に履いた状態でこそ発揮される。
全体重を浴びせた攻撃は、いかなるゴキブリも生き延びることができず、外れてもすぐに次の攻撃に移ることができるので、敵の素早い動きにも対応しやすい。
ゴキブリは地面を這うことが多いので、わざわざ手に持ち替えるよりは、そのまま足に履いての踏みつけ攻撃の方が、スムーズで、使い勝手もいい。
あなたが素足でゴキブリを踏むことにためらいが無いなら別だが、決戦時にはぜひとも装備しておきたい武器である。
・ハエたたき
威力:★★★☆☆
リーチ:★★★★★
オススメ度:★★★★☆
名前が示す通り、ハエ用に作られた打撃武器だが、対ゴキブリ兵器にも転用可能。最大の特徴はリーチの長さで、上記のスリッパよりも扱いやすい。その分、威力はスリッパより劣るが、クリーンヒットすれば、大物も1撃で仕留めることは可能。リーチの長さを生かし、主に、壁の上の方を這うゴキブリに対して使用するのが良いだろう。
また、物によっては柄の部分にピンセットが装備されていたり、ほうきとちり取りがついている物もある。後処理にも大活躍で、重宝する武器である。
・新聞紙、雑誌
威力:★★☆☆☆(物次第)
リーチ:★★☆☆☆(物次第)
オススメ度:★★★☆☆
新聞紙や雑誌などを丸め、打撃武器としたもの。威力、リーチともに使用する物によって様々で、安定した効果が得られず、対ゴキブリ決戦兵器としてはやや心細い。
しかし、ゴキブリとの決戦は、常に予想外に発生する。そのとき、あなたの周りに必ずしも武器があるとは限らないはずだ。そのような場合に急ごしらえの武器として非常に重宝するだろう。使いこなせるようになって損は無い。
2.射出系
いわゆる殺虫剤。
対ゴキブリ兵器としては、打撃武器に並んでオーソドックスなものだが、殺傷力に関しては打撃武器には劣る。最近は即効性の殺虫剤も増えてきたが、それでも、一瞬で動きを止めるには至っていないのが現状だ。
しかし、殺虫剤は、薬剤その物で殺すのではなく、打撃武器で戦うための布石として使用することで真価を発揮する。
例えば、ゴキブリが叩きにくい場所(壁の上の方や、物の陰)にいるときなど、こちらもゴキブリも動けない状態で使用することで、こう着状態を打破できる。
また、タンスや冷蔵庫の隙間に逃げ込んでしまった場合でも、ノズルで噴きつけることにより、あぶり出すことも可能。1度噴きつけさえすればいずれ死ぬので、万が一逃げられた場合の保険にもなる。
さらに、あらかじめ床などに吹き付けておけば、侵入を阻止することもでき、物によってはそれで殺すことも可能だ。
このように、使い方しだい無限の可能性を秘めているのが、殺虫剤の強みなのだ。
・ハエ・蚊用殺虫剤
威力:★☆☆☆☆
リーチ:★★★☆☆
オススメ度:★★★☆☆
恐らく最もオーソドックスな殺虫剤。威力、リーチ(噴射力)ともにやや低いが、ゴキブリにもそれなりの効果は得られる。
死ぬまでにはかなりの時間を要するが、じたばた這いずりまわる姿を見て楽しむことができる。
一回の使用量が少なく、他の物より長持ちするため、経済的な点は高評価。
無いよりははるかにましなので、予備として用意しておきたい。
・ゴキブリ用殺虫剤(ジェット式)
威力:★★★☆☆
リーチ:★★★★★
オススメ度:★★★★★
対ゴキブリに特化した殺虫剤。
ハエ、蚊用の物と比べると、はるかに殺傷力が高く、噴射力も強いため、離れたゴキブリにも対応しやすい。
しかし、キャッチコピーにある「ゴキブリの動きを瞬時に止める秒速ノックダウン効果」を得るためには、かなりの量を噴きつけなければならない。素早く逃げ回るゴキブリに吹き付け続けるのは、かなりの技術力が必要だ。
もっとも、殺傷するだけなら、ひと噴きでも十分効果は得られるだろう。
前述のとおり、殺虫剤は、薬剤そのもので殺すよりも、打撃攻撃への布石として使うと効果的なので、本格的なゴキブリ決戦には、ぜひ準備しておきたい武器だ。
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と、その後も、設置系武器や、拡散型武器の解説などがあり、非常に勉強になったけど、あたしは、次の章の一文に、釘付けになった。
第3章・ゴキブリに対する心構え
最後に、ゴキブリと対決するにあたっての心構えを記しておく。
対ゴキブリにおいて、最も重要なことは、恐れないことである。
ゴキブリは怖い。そう思っている人は多い。しかし、あなたがゴキブリを恐れている以上に、ゴキブリはあなたを恐れているのだ。
冷静に考えて、ゴキブリと人間との間には、圧倒的な戦力差がある。と、言うよりも、ゴキブリが人間を倒すことなど不可能なのだ。勝敗は、戦う前から決まっている。だから、ゴキブリなど恐れず、勇気を持って挑んでほしい。
――――。
その章を読み終えたあたしは、まるで、心が洗われるような、曇った空が晴れ渡るような、詰まっていたトイレが勢いよく流れ始めたような、そんな、すがすがしい気持ちになった。
――あなたがゴキブリを恐れている以上に、ゴキブリはあなたを恐れている。
そうだ。
ゴキブリとは言え、所詮、相手は虫だ。
人間様に、敵うはずがない。
まともに戦えば、あたしがあんな小さな虫に敗れることなど、ありえないのだ。
あんなヤツなど、その気になれば、いつでも殺せるのだ。
今まで、何を恐れていたのだ。過去の自分を恥じる。
よし。
やってやろうじゃないか。
あのチンケな虫けらに、あたしの怖さを、思い知らせてやろうじゃないの。
待ってろよ、ゴキブリ!
10分後。
右手にハエたたき、左手にハエ・蚊用殺虫剤、両足にスリッパと、完全装備に身を包んだあたし。ゴキブリ用殺虫剤が家に無かったのは残念だけど、まあ、仕方がない。まさかこの家にゴキブリが出るなんて、お母さんもあたしも想像すらしていなかったし、マニュアルにも、『無いよりははるかにまし』と書いてあった。
よし。結衣、行きまーす!
気合を込め、あたしはキッチンの前に立った。
キッチンのドアは閉ざされていた。ゴキブリは小さな隙間があれば出入りできるが、うちの家は密閉性は高い。仮にわずかな隙間があったとしても、開けっ放しにしておくよりははるかにましだっただろう。ヤツはここからは出ていないはず。ゴキブリを見て、パニックになってすぐに逃げだしたけれど、それでもドアを閉めていた自分の防衛本能に感心する。意外とあたしには、対ゴキブリ戦士の才能があるのかもしれない。
ゆっくりとドアを開け、中に入り、後ろ手にドアを閉めた。
キッチンは真っ暗だった。逃げ出すとき、無意識のうちに電気を消していたらしい。パチ。ドアの横のスイッチを押して、電気を点ける。
明るくなった部屋を見回す。どこにも、ヤツの姿はない。
まだ冷蔵庫の下にいるのだろうか? それなら、殺虫剤をまいておびき出すか……いや、その可能性は低い。今はゴキブリが最も活発に動き回る時間帯だ。あれから30分以上経っている。同じ場所にじっとしているとは思えない。
今さらながら、逃げ出したことが悔やまれる。敵のいる場所が判っていれば、対処もしやすかっただろうに。クソっ。ほんの僅かばかり前の自分だが、その勇気の無さを呪った。
まあいい。Gマニュアルを知らなかったあのときのあたしは、本当に弱い存在だった。悔やんでも仕方がない。これからどうするかを考えよう。
ヤツは十中八九、このキッチンのどこかに潜んでいるはず。だが、手当たり次第に探しても、体力を消耗するだけだろう。ここは我慢比べだ。ヤツはもう1度必ず、姿を現すはず。それを信じて、今は待つしかない。
ふう。大きく息を吐き、高ぶる気持ちを落ち着ける。目を閉じ、精神統一をする。
と、その時。
視線を感じた。
背中を、冷たい汗が伝う。
……いる。ヤツは今、すぐ近くにいる。
どこだ……?
目で見るな。感じろ。あたしにならできる。
ピロリロリローン!
見える! あたしにも敵が見えるぞ!
後ろか!
振り返り、見上げると。
ドアの上、天井と壁の角のところに、ヤツは、いた。
黒い身体、6本の脚、2本の触覚……間違いない。さっき見たヤツだ。
ゴキブリは、触覚をうにょうにょ動かしながら、あたしを見下ろす。
――さっきは尻尾を巻いて逃げだした小娘が、いまさら何の用だ?
そう言われている気がした。
フッ……さっきまでの、何も知らない少女だった結衣じゃないのよ。今のあたしには、Gマニュアルという、最強の武器がある。
さて、どうするか。
相手との間合いを図りながら考える。
天井に近い場所にいるとはいえ、ハエたたきを使えば、届かない距離ではない。だが、叩くにはあまりにも難しい場所だ。ハエたたきが天井に引っかかりでもすれば、威力が殺されて大きなダメージを与えることができない。それに、頭の高さより上の位置にいるゴキブリをむやみに攻撃するのは、あまりにも危険だ。撃ち洩らしてしまうと、ヤツは、ゴキブリ最強の攻撃に転じるかもしれない。
ゴキブリ最強の攻撃。それは、飛来。
飛来による特攻は、ゴキブリ最強の攻撃だ。あのGマニュアルにさえ、飛来に対する対処法は書かれていなかった。それほどまでに、飛来は恐ろしい攻撃なのだ。
今の状態で叩くことはムリだ。では、どうする? 相手が動くのを待つか? ゴキブリが自分に有利な場所を、わざわざ移動するとは思えない。とは言え、いつまでも同じ場所にとどまってもいられないだろう。まさに膠着状態だ。
そうか。こういう状況を打開するのが、殺虫剤だ。Gマニュアルを思い出した。
殺虫剤を握る手に、力が入る。
これは、ハエ・蚊用の殺虫剤だ。ゴキブリ用のジェットタイプではない。殺傷力も射程距離も低いが、それでも効果はあるはずだ。
だが。
射程距離が短い分、相手に近づかなければいけない。近づけば近づくほど、飛来の危険性が高まる。
――大丈夫だ、結衣。自分を信じろ。シュッ、と一吹きして、あとはバックステップで距離を取ればいい。ヤツはしばらく壁を這いまわった後、床に落ちるハズだ。そこを、スリッパでのストンピング攻撃。
よし、行ける! この作戦は完璧だ! 行くぞ! 結衣!
あたしは殺虫剤を構えた。狙いを定める。
ゴキブリは動かない。あたしの攻撃などいつでもかわせると思っているかのように。
その慢心が命取りだ!
シュッ! 殺虫剤を浴びせかけた。
勢いは弱いが、距離は十分縮めていた。薬剤は、見事にゴキブリの身体をとらえた。
よし! ガッツポーズをとりたくなったが、そんなヒマはない。あたしはバックステップ2回で、ゴキブリから十分な距離を取る。
殺虫剤を浴びたゴキブリは、2、3歩動き、ぴたりと止まる。そのまましばらく硬直。
まさか、薬剤が効かなかったか? やっぱりハエ・蚊用じゃダメなのか? そう思ったとき。
ゴキブリが、勢いよく走り始めた。
良し! 効いている! 大丈夫だ!
ゴキブリはしばらく壁を這いまわっていたが、やがて、ぼとり、と、床に落ちた。
今だ!
あたしは一気に距離を詰め。
右足を、振り上げた。
これで踏めば、全てが終わる。
足を振り下ろす。
が!
――本当に、あれを踏むの? いかにスリッパ越しでも、あれを踏むことが、あたしにできるの?
心の中に生じた迷いは、それがたとえ一瞬であったとしても、攻撃の制度を狂わせる。
ダン! 振り下ろされたあたしの足の横を。
カサカサカサ! ゴキブリが駆け抜けて行った。
しまった! 外した!
あたしの一撃をかわしたゴキブリは、そのまま冷蔵庫の方へ向かう。
まずい! 逃げられる!
あわてて追う。
……いや、待て。落ち着け、結衣。殺虫剤はかけたのだ。ヤツはいずれ死ぬだろう。躍起になって追い掛け回す必要はない。もう、あたしの勝利は確定だ。
そう。このまま奴が冷蔵庫の下に隠れれば、そこで命を落として、それで終わりなのだ。
…………。
そんな訳に行くか!
一瞬でもそんなことを考えた自分を恥じた。
死体も確認せずに死んだと決めつけるなど、アマチュアのすることだ。あたしはGマニュアルを読んだのだ。いわば、ゴキブリ退治のプロ、専門家、エキスパートだ。殺虫剤を吹きかけて終わりなんて、そんな甘えた考えは捨てろ! 確実にやつを仕留めるんだ! 行くぞ!
全力で、ゴキブリの後を追う。
そして、ヤツが冷蔵庫の下に入る寸前。
ドン!
あたしの、最後の一撃が炸裂した。
外してはいない。
確実に捉えた。
やった……あたしはやったぞ!
胸の奥から湧き上がる感情を、抑えることができない。空に向かって(?)吠えた。
やった! あたしはやったぞ! あのゴキブリを、1人でやっつけたんだ! 見ただろう? 明奈。あたし1人でゴキブリに勝ったよ。これで安心して未来の世界に帰れるね。
あたしは、勝利の余韻に浸り続けた――。
…………。
……で。
どうすんだ? コレ。
ゴキブリを踏んづけた右足を見つめる。
この下に、ゴキブリのつぶれた死骸がある。
そう考えると。
ぞわぞわぞわ。全身に泡が立つ。分厚いスリッパの底越しにも、ゴキブリの死骸の感触を感じられるようだった。
普通に考えれば、その死骸を、処理しなければならない。
でも、どうやって?
残念ながら、Gマニュアルに載っていたのは、戦い方だけだ。後処理までは書かれていなかった。
ほっとくか?
そう思った。このままにしておけば、誰かが処理してくれるだろう。
……まあ、あたしが処理しなければ、お母さんが処理することになるんだろうけど。
想像する。
お母さんが帰って来る。キッチンにスリッパがある。何かしら? と、スリッパを取る。下にゴキブリの死骸が。家じゅうに響き渡る悲鳴。そして、落ちる雷。
ダメだ。ゴキブリも怖いけど、怒ったお母さんはもっと怖い。帰って来るまでに、片づけなければいけない。
家に帰るまでが、遠足です。
ふと、小学生の時に聞いた先生の言葉を思い出す。
死骸を処理するまでが、ゴキブリ退治です。
そうだ。この死骸を放っておくなんて、できない。死骸を自分で処理してこそ、真のゴキブリ戦士なのだ。
あたしはとりあえずスリッパを脱ぎ、リビングから新聞紙を持ってきた。
さて。
3度、大きく息をし、心を落ち着かせる。
行くぞ!
気合を入れ、スリッパをどけた。
――――。
それを表現するには、『ぐちゃ』と言う擬音がふさわしい。
スリッパの裏のゴキブリは、見事なまでにつぶれていた。
それがスリッパ側に張り付いていたのなら、スリッパごと捨てれば済んだんだけど、残念なことに、床側に張り付いていた。
ふと、明奈の言葉を思い出す。
――世界には、ゴキブリを食べる国もあるんだから。
これを、食べるというのか。
あの、口の中を切りそうな、細く短く鋭い毛がたくさん生えそろった長い脚を食べるのか。
あの、身体からドロッとはみ出た白い液体をすするのか。
あの、千切れてなおぴくぴくと脈動している腹部が、舌の上で踊るのか。
……ああ、気分が悪くなってきた。今は、余計なことは考えまい。心を無にし、後処理に徹しよう。
新聞紙を3重にし、死骸を包み込む。ああ。ぴくぴく動いているような気がするのは気のせいか。
めまいに襲われながらも、何とか死骸をぐしゃぐしゃに丸めこんだ。
よし。これでいい。あとは、これをどうするかだな。
そのままゴミ箱にポイすればいいのだろうか? いや、ゴキブリの生命力は強い。死んだように見せかけて実は生きている、というのは、ゴキブリの最も得意とするところだ。足も腹も顔も千切れて、それでも生きているとも思えないが、念には念を入れておいて損はない。とどめを刺しておくべきだ。
よし、燃やそう。
少し考えて、その結論に達した。
燃やして灰にすれば、カント寺院でもない限り、蘇生は不可能だろう。それがいい。そうしよう。
あたしは、バケツいっぱいの水と着火マンを持ってきて、庭に出た。
そして。
カチ。新聞紙に火を点けた。
勢いよく燃え上がる炎。
あたしは、手を合わせ、そして、冥福を祈った。
こうして、あたしとゴキブリの、第1戦は終了した。
第1戦――。
そう、これはまだ、第1戦。戦いの始まりだ。
――ゴキブリを見たら、その30倍はいると思え。
ゴキブリに関する有名な格言だ。ゴキブリの繁殖力は強い。1匹倒したのなら、見えない所に残り29匹いると想定しておかなければならない。1匹倒したところで決着がつくほど、ゴキブリと人類の因縁は浅くはないのだ。この戦いは、まだまだ続く。
しかし、冷静に考えてみると。
なぜ、人類はこれほどまでに、ゴキブリを忌み嫌うのだろうか?
害虫だからか?
害虫――人に害をもたらす虫のことだ。
だが、何故ゴキブリは、害虫に指定されているのだろう? 蜂のように、毒を含んだ針で刺すわけでもない。蚊のように、伝染病を媒介するわけでもない。イナゴのように、農作物を食い荒らすわけでもない。
不衛生だからか? 確かに不衛生だ。床下や天井裏など、いたるところを這いまわるゴキブリだ。衛生的とは言えないだろう。
しかし、人体の中には、ゴキブリよりも不衛生だと言われるところも多い。足の裏とか、朝起きたときの口の中とか。外から帰って洗っていない手の方が、ゴキブリよりも不衛生だ、という説もあるくらいだ。
これほどまでに害のないゴキブリが、何故、害虫とされているのだろう?
判っている。ゴキブリが害虫に指定された理由はただ1つ。
気持ち悪いからだ。
あの、黒光りする身体が。あの、素早く動き回る姿が。あの、いつ羽ばたくか判らない恐怖感が。
そのすべてが気持ち悪いから、ゴキブリは、害虫とされたのだ。
しかし、その『気持ち悪い』という感情も、後天的に擦り込まれたに過ぎない。生まれたばかりの赤ん坊は、ゴキブリを気持ち悪がることは無い。周りの人間が、ゴキブリを見て、気持ち悪い、怖い、と言うから、それによって洗脳されていくのだ。
考えてみれば、ゴキブリほど人類から虐げられている生物はいないのではないだろうか?
何もしていない。ただ生きているだけで殺される。こんなに理不尽なことは無い。
ゴキブリたちは、いつまでこの状況に甘んじているのだろうか?
虐げられてきたものは、いずれ反旗を翻す。これまでの人類の歴史上でも、虐げられてきた者たちは多い。肌の色、住んでいるところ、宗教――たったそれだけの理由で虐げられてきた者たちは、やがて反旗を翻し、そして、自由を得た。
ゴキブリも、いつまでもやられっぱなしではないだろう。
ゴキブリの反撃など怖くない?
そうかもしれない。いかに反旗を翻したところで、所詮はゴキブリだ。人類との間には、圧倒的な戦力差がある。
しかし、ゴキブリがこれまで人類に対して本気で戦ってきたという確証は、どこにもない。
そして、もしゴキブリが本気を出したらどうなるのか、我々人類には、想像もつかないのだ。
人類は、長い年月をかけて、猿から人へと進化した。しかし、ゴキブリは、3億年もの長い間、その姿を変えていない。
そんなゴキブリに、ここ数十年で、大きな変化があるという。薬剤に耐性を持つゴキブリは広く知られているが、他にも、関東を中心に、ツノを持つゴキブリが確認されているという話もある。ごみ捨て場に捨てられたゴミ袋を破るためのツノだと言われているが、詳細はまだ不明だ。
そして、今後数十年以内には、毒を持つゴキブリが現れるとまで言われている。
もちろん、そんなゴキブリの進化に対し、我々人類も黙ってはいない。さらなる対ゴキブリ決戦兵器を作り出し、戦場へ投入してくるだろう。
そうなると、泥沼だ。決して抜け出すことはできない戦い。どちらかが全滅するまで続く。それは、人類にとっても、ゴキブリにとっても、決して望ましいことではない。何とか避けなければならない。
そんな方法が、あるのだろうか?
かつて、ブレンダの女王・エマ・ディアナスは、こう言った。
『相手のことを理解し、認めれば、1人では決して発揮することのできない力が生まれる』
そう。
相手のことを理解しようとしないから、認められない。認めないから、争いが起こる。
しかし、相手を理解し、認めることができれば、それは、お互いの強さへと変わるのだ。
つまり、人類とゴキブリとの共存。
人とゴキブリが、手を取り合って生きていく。それこそが、理想的な世界なのだ。
難しいかもしれない。不可能かもしれない。
しかし、『かもしれない』で諦めていたら、何も始まりはしない。その先に待っているのは悲劇だけだ。たとえ不可能と思えても、まずは行動しなければいけない。
あたしは諦めない。この困難に、挑んで見せる。
そう。あたしは、ゴキブリのことを、もっと知ろうと思う。
そして、ゴキブリにも、あたしのことを知ってもらおうと思う。
それが、人類とゴキブリとの長い長い戦いに終止符を打つ、第1歩となるかもしれないのだから――。
……プルプル。
ケータイが鳴った。明奈だった。
「もしもし結衣? そっちはどう?」
「うん。もう、バッチリやっつけたよ。Gマニュアル、すごく役に立ったよ。ありがとね」
「そう。良かった。でも、ちゃんと死骸は片づけたんでしょうね?」
「もちろん! 新聞紙で丸めて、今、燃やしてるところ」
「へ? 燃やしてるの?」
「うん。だって、生き返ったらヤだもん。燃やしとけば、さすがに復活はしないでしょ」
「……逃げて」
「……は?」
「逃げるのよ! 今すぐそこから!!」
明奈、何かに憑りつかれたように叫ぶ。
「ど……どうしたっての? 明奈。落ち着いて」
「落ち着いてる場合じゃないわよ! ゴキブリの死体を燃やすのは禁忌中の禁忌! 絶対タブーよ!!」
「へ? 何で?」
「オスならいいけど、それがメスだった場合、恐ろしいことになるわ。ゴキブリのメスは、死ぬ時、大量のフェロモンを分泌するの! それを燃やしたりなんかしたら、そこらじゅうゴキブリのメスフェロモンが浮遊することになるのよ!!」
ゴキブリのメスフェロモン?
フェロモンとはオスを引き寄せえるための分泌液のようなものだ。
…………。
オスを引き寄せる?
そのとき、あたしは背後に。
これまでにないほどの、恐ろしい気配を感じた。
ひとつやふたつではない。
何十、何百、何千もの気配を背中越しに感じる。
振り返るのが怖い。でも、振り返らずにはいられない。
勇気を振り絞り、振り返ると。
「――――!!」
そこには、何百、何千もの、うごめく黒い姿が、こちらを見つめていた――。
(「ゴキブリの都市伝説」より)