「うーん、結衣ちゃん、やっぱりあたし、できないよう」
奈々ちゃんは鉄棒を握ったまま、泣きそうな顔でそう言った。
「大丈夫だよ! 奈々ちゃんなら、絶対できる! ほら、こうやって、えい! ってやれば……」
そう言ってあたし、地面を蹴ってくるりと回り、鉄棒の上へ上がった。いわゆる、逆上がり。
明日は体育の授業で逆上がりをやることになっている。でも奈々ちゃん、逆上がりが大の苦手(って言うか、奈々ちゃん、かけっこも、ドッジボールも、跳び箱も、全部苦手だけどね)。だからあたしたち、放課後、校庭の鉄棒で大特訓中。最初は奈々ちゃん、「絶対に明日までにできるようになる!」って張り切ってたけど、何回チャレンジしてもできないので、今ではすっかり弱気。
「うん、そうやってるんだけど……」奈々ちゃん、あたしと同じように地面を蹴って足を上げるけど、勢いが足りず、途中で戻ってくる。また失敗。
そんな奈々ちゃんに、あたし、がんばれって、励ますことしかできない。逆上がりのコツは、地面を勢いよく蹴って、鉄棒をお腹につけること、って、先生が言っていたけど、こういうのって、なんと言うか、理屈じゃないんだよね。あたしも2年生まではできなかったけど、3年生になって、突然できるようになった。別に先生の言うことを意識してやったわけじゃない。いつの間にかできるようになってた、ってだけ。だから奈々ちゃんも、こうやって何度もやってたら、そのうちできるんじゃないかな、って思うんだけど、でも、そんなに簡単じゃないみたい。
「あ、ごめん、奈々ちゃん。あたし、ちょっとトイレに行ってくるね」
「うん」
奈々ちゃん、地面を蹴るけど、また失敗。あたし、心の中で「がんばれ!」って叫んで、トイレに向かう。
あ、しまった。やっぱり奈々ちゃんにも一緒に来てもらうんだったかな。あたし、少し走って、そう思った。だって、ここから一番近いトイレって、校庭の隅にあるトイレ。あのトイレって、古くて、暗くて、なんだか恐いんだもの。お昼休みなら校庭にみんながいて、賑やかだから大丈夫なんだけど、今はもう遅いから、校庭にいるのって、あたしと奈々ちゃんの他は、2、3人の上級生がいるだけ。ものすごく静か。うーん、急に心細くなってきた。でも、奈々ちゃんがんばってるから、今更一緒に来てとも言いにくいし、だからと言って校舎のトイレは遠いし……仕方ないからあたし、がんばれ! って自分で自分を励まし、校庭の隅のトイレに向かう。大丈夫。もうあたし、3年生なんだし、恐くない恐くない。
……なんて思いながらも、やっぱり恐いので、恐る恐る近づき、そっと、中を覗き込んだ。誰もいない。電気はついておらず、窓も無いこのトイレは、夕方のこの時間はかなり暗い。女子トイレの個室は全部で4つ。奥から2番目の個室のドアが、ほんの少しだけ開いてる。中は真っ暗。ああ、やだな、あそこ。中に何かいるんじゃないかな? って気がしてしょうがない。やっぱりやめようかな……。ううん、大丈夫。気にしすぎ。見なければ良いの。見なければ。あたしは足元だけを見ながら、さっと、一番手前の個室に入り、用を済ませると、逃げるように飛び出した。ふう、もう安心。あたしは水道の蛇口をひねり、手を洗う。そしてトイレから出ようと思ったそのとき――。
「……カミくれ……」
突然、不気味な声が聞こえてきた。呪いを込めたような、すごく、嫌な声。
あたしは辺りを見回すけど、入ってきたときと同様、誰もいない。何? 何なの?
「……カミくれ……」
また聞こえた。トイレの奥……奥から2番目の、あの少しだけ開いた個室から聞こえてくる。すぐに逃げればよかったんだけど、そのときのあたし、逃げる、って考えより、言うとおりにしなきゃ、って考えが勝ってしまって、慌てて用具室にあるトイレットペーパーを、その個室に投げ入れた。それでその不気味な声がしなくなれば逃げようと思ったんだけど、でもその声、それでも続くの。
「……カミくれ……」
あたし、どうしていいか判らず、もう1個、トイレットペーパーを投げ入れた。トイレットペーパーは暗闇に吸い込まれるように消えたけど、やっぱりその声、聞こえてくる。
「……カミくれ……」
どうしよう……もう、トイレットペーパーは無い。でもその声は、まだくれって言ってる。あたし、恐くて恐くて、泣きながら言う。「もう……紙、無いよ」
するとその声、聞こえなくなる。あ、よかった、あきらめてくれたのかな? そう思い、あたし、後ずさりしながら、トイレから出ようとする。でも、違った。その声、あきらめた訳じゃなかった。
「欲しいのは――このカミだああぁぁ!!」
バタン! と、勢いよく個室のドアが開き、暗闇の中から、黒い、細い、手が飛び出したの。そしてその手、あたしの髪をガシってつかんで、ものすごい力で引っ張る。ズルズルって引きずられ、あの暗い、すごく暗いトイレの個室に、引きずり込もうとする。やだやだやだ。あたし、あの中はいやだ。入りたくない。入りたくない! 放して! 放して! あたし、泣き叫びながら、その手を振りほどこうとするけど、でも、放してくれない。誰か、誰か助けて!
「結衣ちゃん!」
声がした。これ、奈々ちゃんの声だ!
「奈々ちゃん! 奈々ちゃん!」あたし、精いっぱいの声で叫ぶ。
奈々ちゃん、いつもはすごく恐がりなのに、あたしがトイレに引きずり込まれようとしているのを見て、あたしを助けようと、来てくれた。トイレを掃除するモップを持って、あたしの髪をつかんでいる手を、バシ、バシって、何度も叩く。そうしているうちに、トイレから、ウオーンってうなり声みたいなのがして、その手、あたしの髪を放した。そして、トイレの中に引っ込んだ後、バタン! って、ドアが閉まった。
あたしたちは泣きながら、その日は家へ帰った。
あの手が一体なんだったのか、今となってはわからない。その後、あたしたちは何があっても、そのトイレは使わないようにした。そして数ヶ月後、そのトイレは古くて暗くて危ないって理由で、取り壊される事となった。
(都市伝説「カミくれ」より)