日曜日、あたしは明奈と2人、市川へ映画を見に行くために、バスに乗った。市川はあたしたちが住む堀北の隣街で、堀北よりもずっと都会の大きな街だ。もちろん堀北にも映画館はあるけれど、大作と呼ばれるような有名作品しか上映しておらず、マイナーなミニシアター系を見るためには、市川まで行く必要があるのだ。
「でも、いつものオンボロ車はどうしたのよ?」明奈、窓際の席に座りながら、失礼なことを言う。まあ、確かにあたしの車は新車とは言い難い。お母さんが若いころから乗っているものだから、10年以上は走っている。
「うーん、ちょっと事情があって、今修理中。てか、オンボロ車とは失礼ね。いつも足代わりにしてるくせに、感謝の気持ちとかはないわけ?」
「んー。特には」明奈、あっけらかんとした顔。
明奈は車の免許を持っていないので、市川に出かけるときなどは、よくあたしを呼び出すのだけど、それを当然と思ってるフシがある。お礼を言われたことは、これまで1度もない。
「ま、たまにはバスもいいかな。結衣の車と違って、広々としてるし」
明奈、大きく伸びをしてくつろぎモード。まったく、こっちは交通費を請求してもいいくらいなのに。少しは感謝しろ。
まあ、たまにはバスもいい、というのは、あたしも同感だ。大学の友達である理名と亜美も車は持っていない。仲間内で車を持っているのはあたしだけだ。なので、遠くへ出かけるときは、必然的にあたしが運転手になってしまう。別にそれに不満があるというわけではないけれど、長時間の運転は意外に疲れるものだ。その点バスは、こうして座っているだけで市川につくのだから、楽なものだ。さて、あたしも今日はのんびり景色でも楽しむかな。
と、明奈がいきなり。
「あああああぁぁぁぁぁ!!」
窓の外を見ながら大声を上げる。何事かと、バスの中のお客さんの視線が、一斉に明奈に注がれる。
「ちょ……ちょっと、何?」お客さんの視線から隠れるように身を潜め、明奈の袖を引っ張るあたし。
「ソボマップ堀北店のオープン、今日だったんだ!」窓の外を指さしながら叫ぶ明奈。客の視線などお構いなしだ。
見ると、道路沿いに、ブルーを基調にした6階建ての新築ビルがあった。屋上には、でかでかと『SOBOMAP』の看板。『10月5日堂々オープン』と、今日の日付の垂れ幕も下がっている。
ソボマップとは、全国展開するパソコンショップのチェーン店である。パソコンオタクの明奈は、以前からソボマップの堀北進出を楽しみにしていたっけ。それが今日だったのか。入口からは、開店待ちであろう客の長蛇の列ができていた。
と、ピンポーン、の音とともに、『次、停まります』のアナウンスが社内に流れる。停車ボタンが押されたらしい。押したのはもちろん明奈だ。
「ちょっと、まさか、降りる気?」驚いて訊く。
「当たり前じゃん! このまま通り過ぎるなんて選択肢、ありえないっしょ!?」鼻息の荒い明奈。
「何言ってんのよ。あたしたち、今から映画見に行くんだよ?」
「あんたこそ何言ってんのよ!? 映画なんかいつでも見れるでしょうが! ソボマップのオープニングセールは、今日しかないんだよ? 数々のお買い得商品、掘り出し物があたしを読んでいるあの声が聞こえないの!?」
「聞こえない」
「ああ、あんたがそんな心の無い娘だとは思わなかったわ。もういい。あたし1人でも行く。はいはーい、あたし、次降りまーす。いや、次と言わず、今すぐ降りまーす。だから停まって。停まってよ、停まれっつーの!」
奇声を上げながら停車ボタンを連打する明奈。そのまま窓を開けて飛び降りそうな勢いだ。まあ、それでこの娘が怪我をしようが死のうが知ったこっちゃないが、小さい子が真似しちゃ困る。実際、隣の席の父子連れは、お父さんが男の子の目を両手で多い、「見たらだめだぞ」なんて言っている。他の乗客の視線も痛い。恥ずかしいなぁ。仕方がない。あたしは荒ぶる明奈を何とか落ち着かせ、次の停留所でバスを降りた。
「よっしゃ! 待ってなさい! あたしのソボマップちゃん!!」
バスを降りるやいなや、猛ダッシュで駆け出す明奈。はあ。あんなヤツ誘うんじゃなかった。ホントは他の娘を誘いたかったけど、理名は今、勉強で忙しく、亜美はまた何やら怪しげな研究をしていて、しばらく姿を見ていない。仕方ないから明奈を誘ったんだけど、これなら1人のほうがよかったかな。
まあ、いまさら嘆いてもしょうがない。時計を見る。9時45分。次のバスは……と。停留所の時刻表を見ると、市川行きの次のバスは10時15分で、その後は30分に1本のペースだ。市川まではバスで1時間少々。多少寄り道しても大丈夫ではあるけど、明奈のあの様子じゃ、多少ではすみそうにない。最悪映画はあきらめなきゃ。はあ。もうひとつため息をつき、あたしは明奈を追った。
5分ほど道を戻り、ようやくソボマップへと着く。入口から続く行列は、うお。さっきバスから見たときより増えてる。どう見ても100人以上は並んでるぞ? たかがパソコンショップのオープンになんでこんなに人が集まるんだろ? あたしには理解不能だ。
「おーい、結衣! こっちこっち!」
行列の最後尾に近いところで、明奈が手を振っている。あの行列に、あたしも並べというのだろうか? あたし、人ごみはあんまり好きじゃない。わざわざ並ばなくても、お店は逃げやしない。オープン後しばらくしてから入ればいいじゃないか、と、思ってしまう。
「そんなわけいかないでしょ。ほら!」と、明奈、どこから調達したのか、ソボマップオープニングセールのチラシを見せる。「今日の獲物はこれよ!」
明奈が指差したのは、なんとかボックスとかいうゲーム機だ。ソフトが2本ついて先着20名限定の2万5千円。よく判らないけれど、まあ、オープニングセールというくらいだから、きっと安いのだろう。
「でも明奈、このゲーム機持ってなかったっけ?」記憶を探る……までもなく、明奈は基本、発売されるゲーム機はすべて発売日に買う人だ。持っていないゲーム機などないだろう。そのなかでも、このなんとかボックスは、明奈のお気に入りのゲーム機だったはず。
「そりゃあ、持ってるけど、この価格なら、うまくネットオークションでさばけば、十分な利益が見込めるわ。もし売れなくても、あたしが持ってるのはファルコン。現行機種のヴァルハラとは構造が全然違うの。持ってて損はないわ」
どう見ても同じゲーム機なのだが、いったい何が違うというのだろう。相変わらず明奈の言うことは理解に苦しむが、まあ、理解しようとしてもムダなのは、長い付き合いでよく判っている。こういうときは、「ああ、そう」と、適当に相槌を打っておけばいい。
しばらくして、行列がゆっくりと進み始めた。ようやくオープンしたらしい。店員さんの威勢のいい掛け声とお客の熱気でにぎわう店内に入ったのはその5分後。猛ダッシュでゲーム売り場へ向かう明奈を見送り、あたしは人混みを避け、フロアの端のほうにある自動販売機のコーナーへ。缶コーヒーを買い、ベンチに座ってひと口。はあ。うっそうとした売り場と違い、ここの静けさは天国だ。自販機コーナーには数人の人しかいない。開店間もないこの時間、こんな隅っこの自販機コーナーに来るのは、あたしみたいに付添で来た人くらいだろう。あたしはしばらくコーヒーをすすりながら、売り場とは対照的なのんびりとした時間を過ごした。
しかし、それもほんのわずかな時間で、30分もすると、買い物を終え、一息入れようとするお客さんで、自販機コーナーも賑わいだしてきた。困ったな。明奈はまだ帰って来そうにない。目当ての商品が買えたかどうかは判らないけど、ま、明奈のことだ。買えようが買えまいが、他のコーナーを見て回ってるに違いない。しょうがない。あたしはコーヒーを一気に飲み干すと、空き缶をごみ箱へ捨て、売り場を見て回ることにした。
と、言っても、ゲームもパソコンもあんまり興味がないあたし。これが普通の電器屋さんなら、ドライヤーとか美顔器とか見に行くのだけど、残念ながらパソコンショップであるゾボマップにそんなものは無い。えーっと、なんかあたしの興味をそそるものはないものか。エスカレーターの前に貼ってあるフロアマップを見ると、3階にテレビの売り場があるようだ。ふむ。これなら多少は興味がある。よし。あたしはエスカレーターに乗った。
3階に到着すると、すぐ正面に、60インチの大型液晶テレビが展示されてあった。うわ、おっきいなぁ。あたしの部屋にあるテレビは19インチ。リビングのものでも、確か32インチだ。そんな粗末なテレビとは比べ物にならないほどの大きさ。まあ、今のテレビに不満があるわけじゃないけれど、こういうテレビがあれば、家でDVDとか見ても、映画館並みの迫力が得られそうだ。ちょっと欲しいかも。値段は……うわお。16万8千円。いい値段だな。エスカレーターの目の前なんて一等地に展示してあるくらいだから、きっとものすごくお買い得な値段なのだろうけど、あたしの大好物、ロッチリアの絶品エビバーガーセット680円で換算すると……約250食分か。つまり、絶品エビバーガーセットを250回我慢すれば買えることになる。頭の中でテレビとエビバーガーを秤にかける。ガコン! と、勢いよくエビバーガー側に傾いた。うん。今のあたしに必要なものとは思えない。エビバーガーを250回我慢? そんな苦行をしてまで欲しくはない。今のあたしには19インチのテレビがお似合いだ。まあ、そのうち就職して、毎月ウン十万も稼ぐキャリアウーマンになったら、考えてあげてもいいかな。今は眺めるだけで満足しておこう。あたしは、しばらく60インチの迫力を楽しむことにした。
…………。
うーん、イマイチ迫力が伝わってこないな。
それもそのはず。超がつくほど大きなモニターに映っているのは、地味なニュース番組。映画とかスポーツとかならともかく、ニュース番組をこのサイズで見ても、あんまり意味はないような。とは言え、お昼前のこの時間。どのチャンネルも放送しているのはニュースか、せいぜい料理番組。つまんないので、その場を離れようとしたとき。
「――速報です。本日11時頃、H県の堀北市の国道○号線で、落石事故がありました」
ん? 今、堀北って言った?
足を止め、再びモニターを見る。バラエティー番組とかでもよく見る人気の女性ニュースキャスターが、神妙な顔つきで原稿を読んでいる。
「――事故があった現場は、堀北市から市川市へ向かう国道○号線で、走行中の市川行きのバス1台が、落石に巻き込まれたとみられています。死傷者など、詳しい情報は判っておりません。繰り返します。本日11時頃、H県堀北市の国道○号線で、落石事故が発生しました――」
あたしは、食い入るようにモニターを見つめる。
堀北から市川へ向かう国道……市川行きのバス……それはつまり……。
「お、結衣。ここにいたんだ」後ろから声をかけられる。明奈だ。「いやあ、参った。箱○、開店2分で売り切れだってさ。マイナーゲーム機だからまだ残ってるだろって思ったけど、甘かったわ。でも海外のレアゲーたくさん買えたから、まあ、良しとするかな。で、何? あんたまさか、こんなでっかいテレビ買うつもり? さすが実家暮らしは違うわね」
のんきなことを言ってる明奈だったけど、ニュースを聞き、さすがに言葉を失った。
モニターには、堀北近辺の地図が表示され、事故現場と思われる場所に×印が記されてあった。その場所は、ここから10分ほど車で走ったところだ。
間違いない。
事故に巻き込まれたバスは、あたしたちが乗っていたバスだ。
さっきまで乗っていて、そして、明奈の気まぐれで降りることになった、あのバスだ!
堀北と市川を結ぶ国道は、山の中を通る。切り立った崖のそばを走ることもあり、『落石注意』の標識は珍しくない。「いったいどうやって注意するんだろ?」と、明奈とふざけあっていたけれど。
まさか、こんな身近に落石事故が起こるなんて。
もし、あのとき。
ソボマップのオープンに気づかず、明奈がわがままを言わずに、あのままバスに乗っていたとしたら……。
そう考えると、背筋が凍りつく思いだった。
その後、すっかりテンションが下がってしまったあたしたちは、当然今から映画を見に行く気分にはなれず、そのまま家に帰ることにした。
☆
「……でね、その娘、お父さんが夜中にじっとテレビの砂嵐を見ていたことを、ずっと、気にしてたみたいなの。お父さんが、マヨナカテレビを見たせいで、別人になってしまったんじゃないかって。でもね、その娘の彼氏が真相を見抜いたのよ。『夜中にエッチなビデオ見てて、急に誰か来て、ヤバイ! と思って停止ボタンを押したら、その状態になるんじゃないか?』だって。いい歳してエッチなビデオ見てたんだよ? 信じられないよね?」
あたしは大好物の絶品エビバーガーを頬張りながら、理名と亜美に向かって言った。
「うーん。まあ、そのくらいで怒るんなら、結衣もその友達も、まだまだ子供だね」理名がしょうゆマヨタツタチキンバーガーを食べながら答えた。
「そうだね。離婚してから男手ひとつで娘を育ててきたんでしょ? アダルトビデオ見るくらい、許してあげなよ? 浮気とかしてたわけじゃないんだし」亜美、サクサクソーセージロールを食べながら、理名に同意する。うーむ。そういうものなのだろうか? 判らん。
金曜日。怪しげな研究が終わったのか、久々に姿を見せた亜美と、勉強ばかりで根を詰めすぎている様子の理名を誘い、久しぶりに、大学近くのハンバーガーショップでのお喋りタイムだ。
「――しかし、結衣の調子のよさには呆れるわね。ついこの間まで、『危うく落石事故に巻き込まれるところだった』とか、この世の終わりみたいに嘆いてたのに、もう立ち直ってるんだから」理名、あたしのチキンからあげっとを1個取って言う。
「そりゃそうでしょ。いつまでもあんなことで落ち込んでられないよ」あたしは負けじと理名のポテトを奪った。
あの落石事故から、早5日。衝撃的な事件ではあったけど、実際何か被害にあったわけじゃないので、もうすっかり過去の出来事となっていた。明奈なんか、翌日には立ち直っていた。まあ、人間こんなものだろう。
「そういえば、結衣のお父さんって、会ったことないけど、何してる人なの?」亜美が言った。
「うん? えーっと、ちょっと今、遠くへ行ってる」
「遠くって、海外出張とか?」
「まあ、そんなところ」
「へえ。結衣のお父さんって、バリバリのビジネスマンだったんだ」
「へへへ。まあね」
あたしはそう言った後、バッグの中から鏡を取り出した。前髪と、表情を確認する。
そして、パッ、と後ろを振り返り、鏡をバッグに戻した。
「……今、何で後ろ向いたの?」亜美が訊く。
「え? ああ。あれね。ちょっとしたクセ、かな? 鏡を見た後って、なんか、後ろが気にならない?」
「別に気にならないけど」
「そう? やっぱりあたしだけか。あはは」
あたしは笑ってごまかした。
でも。
「……結衣。今、後ろが気になったのは、あの人が原因じゃないの?」理名が声のトーンを落として言った。
「へ? あの人って?」亜美が理名の視線を追う。
その先には。
店の一番奥の席。そこに、男の人が座っている。
その人が。
じっと、こちらを見ていた。
「あの人、お店に入ってきたときから、ずっと、こっちを見てるのよ」と、理名。
そうだったんだ。全然気づかなかった。
「あれ、あたしたち、じゃなく、絶対、結衣のこと見てるよ」
「え……」
そう言われ、もう1度振り返る。……やばい。目が合った。思わず目を逸らす。理名の言うとおり、確かにあの人、あたしを見ているようだ。でも、なんで? あんな人、全然知らないんだけど。
…………。
いや、待てよ……。
ちらちらと、男の人のほうを見る。その間もずっと、相手はあたしをじっと見ていた。まったく視線を逸らそうとはしない。
なんか、どこかで会ったような気がするな。
あたしがそう思ったとき。
その男の人が席を立った。
そして、こちらへ歩いてくる。
もちろん、その視線はあたしに注がれたまま。
やばい、どうしよう。
どうしようったって、べつにこっちが何か悪いことをしたわけじゃないんだから、堂々としてればいいんだろうけど。
理名と亜美を見る。キッ、っと、男の人を睨み返している。さすがだ。心強いことこの上ない。
男の人はあたしたちのテーブルの前まで来ると。
「……ろ……」
そのまま通り過ぎ、お店を出て行った。
「なんだったの、あれ」と、理名。
「さあ?」亜美が応える。「まあ、いいじゃん。ほっとこうよ」
「そうだね。多分、美人が珍しかったんだよね」
明るい声の2人。嫌な空気を変えようとしてくれているのが判る。
しかし。
あたしはその2人の気持ちに、応えることができなかった。
あの男が通り過ぎたそのとき、聞こえた言葉。
小さな声で、聞き取りづらかったけれど。
耳の奥に、はっきりと残った。
――ヒトゴロシ。
人殺し。
あの男は、確かに、そう言った。あたしに向かって。
あたしが、人殺し?
一体、どういう意味だ。
「……結衣、聞いてる?」亜美があたしの顔を覗き込む。
「へ!? えっ……と、ゴメン、何だっけ?」
「だから、この前結衣の車改造してるとき思ったんだけどさ、やっぱり、1秒間にアクセル50回踏むのって、普通の人には無理だと思うのよ。なんか、もっと現実的な方法は無いものかな?」
亜美は、話題を変え、あの男のことなんか考えないようにしている。よし、それに乗っかることにしよう。せっかく久々に3人で集まったんだ。この大切なお喋りタイム、わけわかんないおっさんの話題でつぶされたくない。
「大体、その1秒間に50回ってのがどこから出てきたのかがわかんないんだけど。あたしとしては、スピードが出るよりも、もっと役に立つ改造をしてほしいのよね。例えばさ――」
それからあたしたちは、くだらない話で大いに盛り上がり、日が暮れるまで話し込んだ。そして、お店を出るときまで、その男のことなんて、すっかり忘れていた。
そう。お店を出るまでは、忘れていたのだ。
お店を出て、2人と別れ、家に帰ろうとしたとき。
あたしはまた、その視線に気が付いた。
ハンバーガーショップの正面にある公園。そこに、あの男がいたのだ。
ベンチに1人座り。
じっと、こちらを見ていた。
あの人は。
ずっと、あそこにいたのだろうか?
あたしたちは3時間以上ハンバーガーショップにいた。その間、ずっとあそこにいて、あたしのことを見ていたのだろうか?
視線が合う。
やばい、どうしよう?
思わず目を逸らす。
辺りを見る。理名も亜美も、もう姿は見えない。助けてくれそうな人はいない。
あたしは、逃げるように、早足でその場を去った。
なるべく人通りの多い道を選び、時々後ろを振り返りながら、夜道を急ぐ。
幸い、あの男の姿を見ることはなく、無事家にたどり着いたけれど。
異変は、その日から始まった。
3日後。
理名は再び勉強。亜美もまた研究室に閉じこもってしまったので、大学での講義が終了した後は、あたしはやることも無く、そのまま帰宅した。
「ただいま~」
家に入る。返事は無い。お母さんは買い物に出かけたのかな? あたしは靴を脱いで家に上がり、まずはリビングに向かった。誰もいない。キッチンにもいなかった。やっぱりお母さんは出かけたみたいだ。あたしは2階の自分の部屋に行こうとして、電話機の、留守電のランプが点滅していることに気が付いた。何かメッセージが入っているらしい。確認すると、非通知1件となっていた。どうせセールスか何かだろう。特にこのところ、インターネットの勧誘がひどい。あたしが住んでいる地域にも光回線とか何とかが引かれたらしく、切り替えませんか? という電話が、ひっきりなしにかかってくる。いつも思うのだけど、ああいう電話って、効果あるのかな? いきなり電話をしてきて、こちらの都合もお構いなしに一方的に話し始め、断っても断っても、しつこく何度もかけてくる。もうあたし、絶対に光回線になんかするものか、って、心に決めたほどだ。完全にネガティブキャンペーンでしかないと思うんだけどな。
まあ、それはいいや。セールスとかじゃないかもしれないし。ピッ。あたしは再生ボタンを押した。
…………。
何も流れない。
何だ? イタズラ電話かな? 留守電に無言電話かけても意味は無いか。じゃあ、メッセージを残したいけど、言いたいことがまとめられなくて、言葉に詰まってるとか? あたしもそれはよくあるな。電話を掛けるときって、大体相手が出ると思ってるから、いざ出なかったりすると、なんて言っていいか判らないよね。
なんて思っていたら。
「……人殺し……」
――――。
電話は切れた。
メッセージは、その1件のみだった。
人殺し? 何のことだ? 意味が判らない。やっぱり、イタズラ電話かな?
そう思ったけれど。
不意に、3日前の出来事がよみがえる。
あの、大学近くのハンバーガーショップで、同じ言葉を聞いた。
その瞬間、あのときの声と、今の電話の声が、一致した。
今の電話は、まさか、あのときの男!?
肌が粟立つのが判った。あの日、あたしをじっと見ていた男。あたしに向かって「人殺し」と言った男。
あの人が、あたしの家に電話をかけてきたというのか? 何故、電話番号を知っている? 人殺しって、いったいどういうことだ。
さまざまな疑問が湧き上がるが、答えは1つも出てこない。
あたしは、留守電のメッセージを削除した。そして、家中の戸締りを念入りに確認し、2階の部屋へ向かった。
その電話は、その後も続いた。
家に帰ると、留守電のランプが点滅している。もちろん、お母さんの仕事関係の人とか、セールスの人とか、いろいろメッセージが入っているけれど。
その、「人殺し」という言葉だけは、毎日必ず入っていた。
不思議なことに、留守電にしか入っていない。
あたしやお母さんがいるときに、その電話はかかってこない。電話に出て、無言で切れることも無い。まるで、家に誰もいない時間が判っているかのように、必ず留守電に入っている。大学へ通うあたしはともかく、お母さんが外出する時間は特に決まっていない。どこかでこの家を見張ってないと、留守の時間を正確に狙って電話を掛けることなどできないはずだ。そう考えると、震えが止まらなくなる。
そんな電話が1週間ほど続き、警察に相談すべきか、と悩んでいたとき。
決定的な事件が起きた。
あのハンバーガーショップで、男に見つめられてから、ちょうど10日。
帰宅すると、玄関に、張り紙が貼ってあった。
A4のコピー用紙だ。それに、真っ赤な手書きの文字で。
『人殺し』
そう書かれてあった。
その不吉な色と、不吉な言葉が、血を連想させる。
そんな張り紙が、1枚や2枚でなく。
ドア一面に張られていた。
そして。
ドアの横の壁にも。
庭の方の、リビングの窓にも。
キッチンの外壁にも。
お風呂場の外壁にも。
あたしの家の、あらゆる壁、あらゆる窓、そのすべてが。
『人殺し』と書かれた紙で覆い尽くされていた。
朝、家を出たときは、もちろんこんな張り紙は無かった。お母さんは少なくともお昼過ぎまでは家にいたはずだ。今はまだ5時前。閑静な住宅街だが、人通りが無いわけではない。ほんの数時間の間に、人目を避けながら、これだけの大量の紙を張り付けたというのか? それ以前に、この1枚1枚すべて、機械を使わず、人の手で書いたのか?
――狂ってる。
そう思った。
誰が何の目的でこんなことをやったのかは判らない。判るはずもない。ただ言えるのは、こんなことをやった人は、狂ってる――。
あたしはしばらく、呆然と、玄関の前で立ち尽くしていた。
どれくらいの時間が流れたのか。お母さんの声で、あたしは正気に戻った。これは何なの!? と、悲鳴に近い声を上げている。あたしはお母さんの顔に胸をうずめ、泣いた。
あたしは警察に連絡し、全てを話した。毎日留守番電話に残っている『人殺し』というメッセージのこと。そして、10日前に出会ったあの男のことも。
しかし、1度聞いただけの声と、電話の声が似ている、というだけでは、その人が犯人だと断定することは難しい。そもそもどこの誰かも判らないので、警察としても、対応のしようが無いようだった。
結局、周辺のパトロールを強化する、何かあったらすぐ駆けつける、という、あまりあてになりそうもない約束だけで、警察の人は引き上げて行った。
それから数日間は、何事もなく過ぎた。
事情を話すと、理名は、毎日あたしを大学まで送り迎えしてくれた。理名の住んでいるアパートは堀北の郊外にある。あたしの家とは正反対の方向だ。あたしの家を経由して家に帰ると、いつもの倍近い時間がかかるはずだ。あたしの家には車があるから、「送って行こうか?」と言うけれど、「それだと結衣が1人で帰らなくちゃならなくなるから、意味が無いじゃない」と、笑顔で言ってくれた。本当に理名は、優しい娘だ。
その日も大学が終わり、理名と一緒に、あたしの家に向かう。
そして、家の前に。
あの男が、いた。
あたしが帰って来るのを待っていたかのように。
じっと、こちらを見ていた。
いつからあそこに立っていたのか。判らない。何の目的で立っているのか。判らない。
理名も、すぐにあのときの男だと気付いたようだ。あたしを庇うように、前に立った。
男が、何かつぶやいている。
男とあたしたちの間には、まだ距離がある。声は聞き取れない。でも、口の動きで、何と言っているのか判った。
――人殺し。
人殺し。
人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し人殺し……。
呪文のように、ずっと、同じ言葉を繰り返している。
そして。
男が、1歩、近づいた。
その右手が。
ギラリと、光った。
何か握っている。銀色の、光る何か。
刃物だった。
刃渡り10センチほどの刃物。果物ナイフか何かだろうか。
だが、そのギラリと光る刀身が、あるいは迫ってくる男への恐怖心が、何倍もの大きさに錯覚させる。まるで、日本刀を振りかざしているかのようだ。
男が近づいてくる。
口は『人殺し』と、呪文を唱え続けながら。
じっと、こちらを睨みつけたまま。
男が近づいてくる。
あたしは、ただ恐怖に立ちすくむことしかできない。
ついに、声が聞き取れる程の距離に縮まった。
男が、ナイフを振り上げた。
悲鳴を上げることすらできないあたし。
しかし。
理名は違った。
男が、ナイフを振り下ろす。
その腕を、理名は左手で受け止めた。
一見ひ弱な女にしか見えない理名が、そんな行動に出たのが予想外だったのか、男は驚きの表情になる。
理名は、右手で男の襟をつかみ。
そして、腰を入れて、体を反転させた。
その瞬間。
男の身体が宙を舞う。
きれいな弧を描き。
ドン! という大きな音とともに、男は、地面に叩きつけられた。
理名はそのまま男の腕をひねり上げた。言葉にならない悲鳴が上がり、ナイフが地面に落ちた。
「結衣! 警察に電話!!」
呆然と突っ立っていたあたしを、理名の言葉が現実に呼び戻す。あたしは慌ててケータイを取り出すと、警察へ通報した。すぐに駆けつけてくれるだろう。
それにしても。
理名が、こんなに強かったなんて、驚きだ。
男がナイフを振り下ろすのを受け止め、渾身の背負い投げ、そしてそこから腕をひねり上げる。その動きは、まるでプロの格闘家だ。
男の顔は苦痛で歪んでいる。完全に戦意を失っているようだ。もう離しても大丈夫そうだけど、もちろん理名は離さない。
そう言えば。
ハンバーガーショップでこの男を見たとき、どこかで会ったような気がしたけど。
今、じっくりとその顔を見て。
そして、思い出した。
――そうだ。この人、あのバスの中にいた。
それは、あたしと明奈が映画を見るために市川行きのバスに乗り、でも、ソボマップのオープニングセールを知って、バスを降りたあの日。
あのバスで、あたしたちの隣の席に座っていた親子連れの、お父さんだ! 間違いない!
でも。
その人が、何であたしを?
考えても判らないし、今ここでそれを訊く勇気も無かった。
数分後、駆けつけた警察によって、男は逮捕された。
その後の取り調べにより、男はあたしの家への張り紙や、留守番電話のメッセージも、自分がやったことだと認めたそうである。
こうして、一連の事件は、男の逮捕によって、一応解決した。
でも、どうしても判らないことがある。
何故、あの男は、あたしを襲ったのだろうか?
あたしの記憶にある限り、あたしとあの男は、バスの中でしか接点が無い。何かあたしに恨みを持つとしたら、あのバスの中で何かあったとしか考えられない。
あのとき、男のそばには、息子さんと思われる小さな男の子がいた。
あの男があたしに付きまとい始めたときは1人だった。そして、執拗に『人殺し』と言っていた。
まるで、あたしがあの男の子を殺したとでも言いたげに。
もちろん、あたしは男の子を殺してなどいない。あのバス以外で、会った記憶も無い。
思い浮かぶのは、ニュースで見た、バスの落石事故。
まさかあの男は、あのバスの落石事故が、あたしのせいで起こった、と、思っているのだろうか?
考えられないことは無い。
走行しているバスに落石が当たる。これは、非常に運が悪かったと言える。走行する時間がほんのわずか違うだけで、結果は大きく変わっていたはずだ。あと1秒でも早く、あるいは遅く、バスがその場所を通っていたならば、落石事故に遭うことは無かっただろう。
あのとき、あたしと明奈はソボマップへ行くためにバスを降りた。その、ほんの数十秒の停車時間によって、バスは落石事故に巻き込まれた。あたしたちがバスを降りなければ、バスは落石に遭う前に現場を走行していた。あの男は、そう思ったのかもしれない。
この可能性は、あたしも考えた。
でも。
どう考えても、これはおかしい。
あたしに落石事故が予見できたはずはない。あたしたちがバスを降りたことで、あの落石事故に巻き込まれたのだとしても、それがあたしのせいだなんて、そんなのは言いがかりだ――と、そういうレベルの話ではない。
そもそも、ありえないのだ。
あたしたちがあのときバスを降りようが降りまいが、あの事故は避けられなかった。これは、断言できる。
何故なら――あたしたちは、あの落石事故に遭ったバスには、最初から乗っていないのだから。
あのニュースを見たとき、あたしは動揺して、事故に遭ったのはさっきまで乗っていたバスだ、と、勝手に思ってしまった。
でも、落ち着いて考えると、それは思い違いだった。
あたしたちがバスを降りたのは9時45分だ。落石事故があった場所は、そこから10分ほど走った所である。バスは、10時前にはその場所を通ることになる。
しかし、事故が起こったのは11時頃だと、ニュースでは言っていた。
つまり、あたしの降りたバスは、事故発生の1時間も前に、その場所を通り過ぎているはずなのだ。
事故を起こしたのは、あたしたちの乗っていたバスより1時間も遅いバスなのだ。
だから。
あたしたちがバスを降りたことで、1時間も後に通ったバスが事故に遭う。そんなこと、ありえないのだ。
おかしいのはそれだけではない。
これは、後のニュース番組を見て判ったことだが。
そもそもあのバスの事故で、死者は、1人も出ていないのだ。
乗客の数人が救急車で搬送されたが、いずれも軽傷。運転手のみ、腕を骨折したらしいけど、それでも命にかかわるような怪我ではなかった。みんな入院すらせず、その日のうちに帰宅している。
そう。
あたしとあの男の接点は、あの日のバスの中だけだが、あたしは、事故に遭ったバスには乗っていないし、そもそもあの事故で死者は出ていない。
なのに。
あの男は、あたしを「人殺し」と呼び、そして、ナイフで襲ってきた。
一体どういうことなのか? どんなに考えても、答えは出てこない。
警察の取り調べに対し、男は、意味不明の言動を繰り返しているという――。
(都市伝説「意味が判ると怖い話」より)