――結衣のお父さんって、何してるの?
時々、この質問をされる。
その度に、あたしは笑ってごまかすけれど。
この質問をされた日は、あたしはもう笑えない。顔は笑顔を作れても、心の底からは笑えない。
これは、思い出したくない記憶。忘れたい記憶。
でも、決して忘れることができない記憶だ。
☆
あたしのお父さんは、普通の会社員だった。詳しい仕事の内容までは知らない。聞かされていたかもしれないが、あまりに子供の頃なので、もう覚えていない。何か、商品開発に携わっていたような気がするけれど、定かではない。
お母さんは、昔、大手の出版会社に勤めていたらしい。結婚、妊娠を機に退社し、あたしを出産後は、フリーのライターとして働いている。
お父さんもお母さんも、仕事よりも家庭を優先するタイプだったように思う。お父さんは、普段残業することなどほとんどなかったし、休日に出勤することもあまりなかった。お母さんの仕事の時間は決まっていないから、普段は家事の合間に取材や執筆をし、時々、大きな仕事が入ったときだけ、2、3日家を空けた。休みの日は、お父さんもお母さんもあたしとよく遊んでくれたし、家族で出かけることも多かった。絵に描いたように幸せな家族だったと思う。あの日までは。
あれは、駅前にショッピングセンターができた頃だったから、小学2年生だったと思う。当時あたしは、夜、お母さんと一緒にお風呂に入るのが日課となっていた。
その夜もお母さんと一緒にお風呂に入り、そして、その異変に気が付いた。
お母さんの右腕に、大きな痣があったのだ。
ただ、「それ、どうしたの?」と訊いても、お母さんは、「何でもない」と笑うだけだった。だからその時は、どこかにぶつけたんだろう、くらいにしか思わなかった。
だが、1週間ほどすると、痣の数が増えた。
1つや2つではない。
左腕に、右足に、背中に、わき腹に。
日に日に痣は増えていく。
そしてとうとう、お母さんの綺麗な顔にも、痣ができるようになった。
小学2年のあたしも、さすがに気が付いた。お母さんは、お父さんから暴力を受けているのではないか、と。
しかし、お父さんは、相変わらず優しい人だった。あたしにはいつも通り笑顔で接するし、お母さんにも優しく接していた。暴力を振るっているようには見えなかった。少なくとも、あたしの前では。
でも。
日に日に増える、お母さんの身体の痣。原因は、お父さんしかありえなかった。しかし、おとうさんがお母さんに暴力を振るう理由は、いくら考えても判らなかった。あの当時も、そして、今でも。
ある夜。
あたしは、トイレに行きたくて目を覚ました。部屋を出る。階段を下り、正面の扉がトイレだ。
ドアを開けようとして、1階の奥の、キッチンのドアが開いているのに気が付いた。電気も点いている。
中から。
だん!
何かを叩きつけるような音。
しばらくして、また。
だん!
それが、何度も繰り返される。
お母さんが料理でも作っているのだろうか? そう思った。夜中の2時だが、ありえない話ではない。お母さんは料理好きで、手の込んだ料理をすることも少なくない。翌日の夕飯の下ごしらえを、夜中にすることも珍しくはなかった。
しかし、それは。
だん! だん!
あまりにも激しい音が、繰り返されている。
一体なんだろう? あたしの足は、自然に台所へ向かっていた。
ゆっくりと、足音を忍ばせて。
扉の前に立ち、中を覗くと。
だん!
お父さんがいた。
こちらに背を向けて立っている。流し台の隣。お母さんがいつも、まな板の上で野菜や肉を切る場所だ。
お父さんが、左手を振り上げた。
包丁が握られていた。台所だから特に不思議ではないが、持ち方は不自然だった。逆手に持っていたのだ。
それを振り下ろす。
だん!
繰り返される音は、お父さんが、包丁を振り下ろす音だった。
包丁が振り下ろされたとき、周りに、赤い液体が飛んだ。ケチャップだろうか? そんなことを思った。
お父さんは、また、左手を振り上げた。
よく見ると、振り上げた包丁にも、ケチャップが大量についていた。
だん! 振り下ろされる。飛び散るケチャップ。
飛び散ったケチャップで、台所はかなり汚れていた。いつもお母さんがきれいに掃除しているのに、あんなに汚しちゃって、後で怒られないだろうか?
それにしても。
お父さんは、一体何を切っているのだろう?
お父さんが切っているもの――包丁を振り下ろしているものは、ちょうど、お父さんの陰に隠れて見えない。あんなに勢いよく包丁を振り下ろさないと切れないもの。振り下ろすたびに、あんなに大量のケチャップが飛び出すものを、あたしは知らなかった。
「お父……さん?」
思い切って声をかけた。
だん!!
返事は、包丁を叩きつける音だった。
あたしは、台所に入った。
遠巻きに回り込む。
ゆっくりと。
まな板の上にあるものが、お父さんが包丁を突き刺していたものが、見えた。
まな板の上には。
食材なんてなかった。
ケチャップもなかった。
ただ。
お父さんの右手があるだけだった。
そこに。
だん!
包丁が突き刺さる。
飛び散る、赤い液体。
それは、ケチャップなんかではなく。
血だ。
お父さんの右手から飛び散る、血だ。
包丁にべっとりと着いていたのも、壁に、床に、そして、お父さんの体中に飛び散っているのも。
すべて、血だ。
お父さんが、包丁を振り上げる。
血が、飛沫となって飛ぶ。
お父さんが、包丁を振り下ろす。
血が、飛沫となって飛ぶ。
それが、何度も繰り返される。何度も、何度も。
右手は、もはや右手と呼べるようなものではなかった。何度も包丁を突き刺された右手は、すでに原形をとどめていない。無傷な腕があり、その先に肉と骨と血が引き裂かれたものがあり、そしてまた、無傷の指が5本。
お父さんの包丁は、狙いを1度も外すことなく、正確に、手の甲を突き刺し続けていた。
一体何が起こっているのか、全く理解できないあたし。
このときあたしは、多分生まれて初めて。
お父さんのことを、怖いと思った。
その、包丁を右手に突き刺す行為が、ではない。
お父さんの顔が、怖かった。
その顔は、狂気に満たされていた。
目は吊りあがり、歯を向き、涙と、涎を垂らしながら。
何度も、何度も、自分の右手に包丁を振り下ろすその顔に。
いつもの、やさしい面影はない。
何かに憑かれたような顔だった。でも、それは紛れもなく、お父さんだった。
あまりの恐怖に。
あたしはその場に、ぺたんと座り込んでしまった。
お父さんが、あたしに気づいた。
狂人の顔を向ける。
目が合った。
左手の動きが止まる。
そして。
1歩、あたしに近づいた。
ずるり、びちゃ、と。
お父さんの指が、床に落ちた。
何度も包丁を振り下ろされた掌は、お父さんの指を支えるだけの力を、もう持っていなかった。
でも、お父さんはそんなことを気にすることも無く。
また1歩、あたしに近づく。
左手の包丁は、握られたままだ。
また1歩、近づいた。
あたしは、ただそこに座り込んだまま、動くことができない。
お父さんは、あたしの目の前に立ち。
そして――。
…………。
そのまま、あたしのそばを通り過ぎ。
台所を出た。
玄関の開く音が聞こえ、すぐに閉まる音が聞こえた。外に出たようだ。
台所から廊下にかけて、お父さんの血が、点々と続いていた。
あたしは、ただ茫然と、残された血の跡を見つめていた。
そしてそれが、お父さんの姿を見た最後になった。
そこから先のことは、あまり覚えていない。
気が付くと、あたしはお母さんの胸に抱かれていた。
そのまま眠ってしまったのだろう。次に目を覚ますと、病院のベッドの上だった。
大勢の大人の人が、あの夜何があったのかと、代わる代わる、何度も何度も、訊いてきた。あたしはただ、「お父さんが包丁で手を切って、それから出て行った」と答え続けた。嘘は言っていない。本当に、それだけだったのだから。
家を出て行ったお父さんがどうなったのか、今でも判らない。何故、右手を刺していたのかも、判らない。
あれだけの怪我だ。放っておいたら、出血多量で死んでもおかしくはない。
しかし、警察の人たちが徹底的に調べてくれたが、お父さんらしき人がどこかの病院に運び込まれたような記録はなく、また、右手を損傷した男性の死体も見つからなかったそうだ。
あれから、10年以上の時が流れた。
お父さんがいない――それ以外においては、特に何の問題も無く、ごく普通の家族として、幸せに暮らしているお母さんとあたし。
ただ。
お母さんはいまだに、お父さんと離婚はしていない。
1度だけ、訊いたことがある。籍を外さないのか、と。配偶者が行方不明になって7年経つと、失踪が認められ、離婚ができるようになるはずだ。
しかし、お母さんは、あいまいに笑ってごまかしただけだった。
あたしとお母さんは、今でも、同じ家に住んでいる。
お母さんは、お父さんが帰って来るのを待っているのではないか? そう思う。
そうでなければ、離婚しない理由も、家を出て行かない理由も、説明がつかない。
そして、お母さんは、お父さんに暴力を振るわれた理由を、お父さんが右手を包丁で刺し続けた理由を、知っているのではないか? そんな気がする。
でも。
あたしにそれを訊くことはできない。
それを訊いてしまうと。
何故だろう? 今の幸せな生活が、崩れてしまうような気がするのだ。
今日もお母さんは、きっと、お父さんの帰りを待っているはずだ――。
(作者オリジナル)