矢留です。
更新がだいぶ空いてしまって申し訳ない。
「久しぶりだね。墜ちたチャンピオン、アオイちゃん。」
その一言で、私の脳内に格納されていた古い記憶が還ってきた。
輝かしい日々の崩壊。
大好きだった人たちとの別れ。
故郷の追放。
孤独な冬の朝。
私の意識の底に、まるで森の奥深くに咲く巨大な毒草のように暗い過去が花開く。
「ブスジマ…!!そうやって自分の姿は見せずにコソコソ動くの、昔から変わんないわね!」
私は、目の前で気色の悪い笑みを浮かべるヤドランを射抜くようににらみつける。
こいつはただのガラルヤドランなんかじゃない。ブスジマの意図をその身に宿したヤドランだ。そのボケッとした表情の奥に、15年前に私の人生をめちゃくちゃにした人間の意識がちゃんと存在するのだ。
ガラルヤドランを介したテレコミュニケーション。ブスジマの常套手段だ。
無機質なコンクリートの壁に私たちの声が反響して、金属的な緊張感が部屋を伝ってゆく。
「しょうがない。私も忙しいものでね…。本当は私の顔を直々に君に見せてあげたいのだけれど。それとも私の顔など君は見たくないかな?」
「安心しなさいよ。見たくて見たくてたまらないわ。そのガラルの死んだ海みたいな顔にソウルクラッシュをぶち込むことだけを考えて生きてきたんだから。」
気付けば私は、ボールを手に取って空中へと投擲していた。
脳と身体を結ぶ回路が切断されたように、流動的に腕が動く。ダークボールは硬質な部屋の残響を切り裂いて、正確に私の3m前方で球を割った。
そして私の敵意が花開くように、そのポケモンは私とヤドランの間に身を結ぶ。
鍛えあげられた黒曜の肉体。
大きくせり出した深緑の角。
ビルドアップポケモン。オーロンゲだ。
だけど、ブスジマはヤドランで応戦しようとせずにマツブサに話しかける。
そんなものに興味はないとでも言いたげだった。
「別に今日は戦いに来たわけでもないんだ。マツブサ、君に用事があって来た。」
ヤドランの目がぐるぐると回転している。
こちらの精神まで侵されそうな、不安をあおるような目だ。
マツブサは、やれやれといった様子でヤドランを向きなおす。
「フン、何だ。まさかまたべにいろのたまではグラードンの復活は望めないというのではないだろうな?」
「安心してくれ。べにいろのたまはグラードン復活に関わる超重要アイテムであることは確定みたいだよ。」
「だったら何なのだ。もったいぶらずに答えろ。」
マツブサは苛立ちを帯びた声で言う。
えんとつ山の一件でも、今回と同じような状況だったのだろう。
その時の様子はヒイラギと社長から聞いている。
ブスジマはこういったイベントの後に現れては、マツブサに指示を出しているのだ。彼を操っているみたいに。
ブスジマは、ゆっくりと口を開く。
「ああ、そうだな。これは先ほど私の個人的な裁量に基づいて決定されたことなのだがね。」
その瞬間だけ、室内の空気が重く、硬質さを増したように感じた。
次にブスジマの口から出てくるであろう言葉はきっと、今後の世界の在り方を揺るがし、私たちの行く先を浮雲で覆い隠す致命的な一言になる。
なぜだか、そういう確信があった。
ごくり、という嚥下の音が、不吉に誇張されて聞こえる。
そして実際その一言は、この場を一瞬にして薄雲色へ塗り替えたのだ。
「我々ブスジマ組は、現時点を以てマグマ団プロジェクトより撤退。マグマ団のバックアップを行わないこととした。」
「なん…だと…?」
時限爆弾の炸裂だった。
ブスジマ組が何らかの思惑をもってマグマ団を利用していることなど、両組織が関係を持っていると知ったときから予想はついていた。
ヤ〇ザであるブスジマ組が、ただのケツ持ちとしてこんなお粗末な組織に関与しているはずがない。しかるべき時が来たら簡単にマグマ団を切るだろうと。
それが今だったのだ。
だけど、マツブサはそんなことを露ほどにも疑っていなかったのだろう。
驚愕と困惑に顔を歪ませ、半歩下がってヤドランの顔を見つめた。
「我々はべにいろのたまを手に入れたことによって、ある計画の最終段階へと移行するに至った。そしてこうなった以上、君たちに利用価値はない。べにいろのたまを入手してくれた時点で、君たちの仕事は終わったのだよ。」
「…初めから、我々を利用するつもりだったというわけか。」
「そういうことだ。まあ今更気付いたところでどうしようもないのだがね。べにいろのたまは我々が預かっているのだから。」
マツブサは眼鏡を外して、静かに首を振った。
今、彼は何を思っているのだろうか。
悔恨。
悲哀。
絶望。
諦観…。
そのすべての感情を併せ持ったようにも見えるし、どんな感情も抱いていないようにも見える。
「ねえ、あんたたちの目的って一体何なの?形式的にとはいえ、ブスジマ組はマグマ団に雇われる関係として動いていた。そこまでして何がしたいの?」
私はヤドランの意識の糸をたどってブスジマに話しかける。
べにいろのたまを手に入れるだけならば、ブスジマ組が自ら出向いて手に入れればよいだけの話だ。わざわざ人の手を借りるまでもない。
だけど、ブスジマにとってはべにいろのたま入手を外注してまで、やらなければならないことがあったんだろう。
なにか、重大な意図が持ち上がろうとしている。
「我々の目的…ねえ。」
ブスジマは話すべきかどうか迷っているようだった。その声が、ふわふわと横に揺れている。それに合わせてヤドランの丸い耳が細かく揺れた。
「詳しく話せばお楽しみがなくなるから話したくはないが…。いいだろう。せっかくの再会だ。今日は大盤振る舞いと行こうか。」
ブスジマの口から、ついに真の目的が語られる。
ヒイラギもヤドランの口を一心に見つめ、意識のすべてを集中させているように見えた。
「我々の目的はね、毒タイプを最強にすることだよ。そしてそのための足掛かりとして、まずは最強の毒ポケモンを作る。グラードンにはその先駆けとなってもらう。」
ブスジマの声が、びりびりと壁を震わせて反響する。
その不協和音が鼓膜へ伝染して、私の脳を内側から穢していくようだった。
最強の毒タイプを作るというのは、どういうことなのだろう。
既存のポケモンに改良を加えるのか。
新しいポケモンを作り出すのか。
けれど、ブスジマはそれ以上のことを語りはしなかった。
これ以上はネタバレになると、そう言ったのだ。
「マグマ団の皆さんは良く働いてくれたよ。我々が自らの計画を進める傍らで、お手伝いをしてくれたのだからね。だいぶ手間が省けたよ。」
「我々を騙して利用しているだけだったというわけか…?ブスジマ。」
弱弱しく、マツブサは問いかけた。
その姿が、濡れた羽を懸命に羽ばたかせようとして地に墜ちる蜻蛉と重なって、私は目を逸らした。
かわいそうだと思った。
利用されるだけ利用されて、後は簡単に捨てられる。
マツブサはたぶん、ビジネスパートナーとしてブスジマを心から信用していたのだろう。彼の取り乱しようを見て、そう思った。
ブスジマが最低な野郎であることを差し置いても、マツブサは救いようがなくかわいそうな男だった。
「少し違うな。我々の目的は、途中までは君たちマグマ団と一緒だった。グラードン復活という目的はね。我々は確かに協力者という関係を取り持っていたんだよ。それは嘘じゃないだろう?」
ブスジマはそんなマツブサを見て、あきれたようにため息をついてそう言い放つ。
「結果的には騙す形になったかもしれない。ただ、世の中にはね、予期せずして正しくない結果がもたらされることが往々にしてあるのだよ。水を与えすぎた草が腐ってゆくようにね。君はマグマ団のリーダーを任されていながら、そんなことも知らなかったのかな?私が君を騙しているという可能性を、全く考えていなかったのかな?だとすれば、それは君の落ち度だ。リスクの管理もできずに、マグマ団の利益をみすみす失うような真似をした。」
ヤドランは冷たい床に座り込み、あくびをしてくつろいでいた。
ブスジマの言葉とヤドランの行動がかみ合っていないのが、余計に不気味だった。
「だがそんなものはもうどうでもいい。起きてしまったことは起きてしまったことなのだからね。我々が君たちを騙したのか騙していないかなんて、これから起こることに比べれば、大したことじゃない。」
「これからだと?ここにある潜水艇なしにどうやってグラードンのもとに行くというのだ。あの海底洞窟には…。」
「おやおや、君は秘伝マシン『ダイビング』すら知らないのかね?これだから田舎者は…。」
ブスジマはやれやれと首を振った。
正確には、首を振ったのはヤドランだけれど。
海底洞窟と、ブスジマはそう言った。
トクサネを南に下った海底のどこかに、そんな洞窟があると聞いたことがある。
ブスジマはそこでべにいろのたまを使い、グラードンを復活させようとしている。
最強の毒タイプとグラードンとの間にどんな関係があるのかはわからない。それでも、今グラードンが復活すればこのホウエン地方が、いや、下手をすれば世界が終わってしまう。
だから、私たちは海底洞窟に行ってブスジマ組を止めなければならない。
そしてその前に、せめてこのヤドランだけでも倒してブスジマの戦力を削いでおかなければ。
私はヒイラギと目を合わせた。
こいつは、私にやらせて。
「あんたは私が潰す。二度とコソコソとみっともない真似ができないように、あんたのラジコンぶっ壊してやるわ。」
私は再びオーロンゲへと視線を向け、身体の内側から戦闘の気概を湧き上がらせる。
必ずこいつを倒し、海底洞窟へ向かってブスジマ組を止めるんだ。
そう心に誓って。
だけど、ヤドランは一向に戦闘の意欲を見せなかった。
むしろリラックスしたように床に寝そべっている。
その悠長さが逆に不気味で、私は攻め始めるタイミングを失っていた。
何をしてくるのか、全く読めない。
「私としては別にかまわないのだが…。そんなことに時間を使っていて大丈夫なのかな?」
ブスジマは、私たちの様子をしばらく観察した後でそう言った。
「どういうこと…?」
「ああ、気付いていないみたいだね。」
湿った笑い声が、空気を震わせる。
悪意を含んだ危険な話し方だ。
15年前の、あの日の記憶が蘇ってくる。
あの日も彼はこんな話し方をしたのだ。
今、ここで、なにかが起ころうとしている。
身震いがした。
「おかしいと思わなかったのかい?ここにブスジマ組の組員が一人もいないことを。」
そこで私は気付いた。
そう。私たちはここに来るまで、ブスジマ組と一度もエンカウントしていない。
もっと早くに気付くべきだった。
アジトの守りが手薄すぎることに。
ではなぜブスジマは組員をここに配置しなかったのか?
…答えは簡単だ。
ブスジマは、ここを消す気つもりだ!!
「ショータイムと行こうか。」
ストップモーション。
潜水艦の沈む水際が一瞬だけ、真っ白に光った。
水平線の彼方から登る東の光。
幾億の朝をかき集めても足りないほどの、神々しささえ感じる閃光。
「オーロンゲ!!リフレクター!!」
私はすぐにオーロンゲに指示をして、一瞬遅れてやってくるであろう爆風に備える。輝く壁が私たちの前に現れると、間もなく押しつぶされるような突風が到達して、天災すら凌駕する科学の暴虐が辺りを破壊し始めた。
「組長!!」
「ヒイラギ!来ちゃダメ!!離れて!!」
「でも…!!」
リフレクターは限界だった。そこら中にひびが入り、ミシミシと音を立てて砕けようとしている。
あと十数秒もつかどうか…。
それなのにヒイラギはここから離れようとしない。
私とオーロンゲを半泣きで見つめながら、動こうとしなかった。
ああ、もうなにやってんのよ。
あんた有給とってアローラに帰るんでしょ?
あんなかわいい子を残してここで私と死ぬつもりなの?
冗談じゃないわよ。さっさと走って逃げなさいよ。
そう言おうとした時だった。
私とヒイラギは、壁の向こう側の光へ飛び込んでゆくその姿を見てしまった。
「どうして…?」
赤髪。眼鏡。オールバック。
さっきまで死にかけの蜻蛉みたいに弱弱しかったそいつが、私たちの盾となって爆風を自ら受けているのだ。
そして何かがやわらかいものに突き刺さる鈍い音が聞こえたと同時に爆風が止んだ。
私たちはすぐにそいつのもとへと駆け寄る。
「どうしてあんたが盾になってるんだ!マツブサ!!」
マツブサの脇腹には太いパイプが深々と突き刺さっていて、真っ黒な液体が床へと滑り落ちていた。
「危ないところだったな。このパイプがリフレクターに直撃していたら、君たちが死んでいたぞ。」
「違う!僕はそんなことを聞いてるんじゃない!どうして僕らの敵だったあなたが…。」
ヒイラギはマツブサの脇腹を必死に抑えようとする。
だけど、もうどうしようもなかった。
血液は避けがたく流出を続けて、ヒイラギの両手を生暖かく濡らす。
岩礁に乗り上げたタンカーと違いなかった。
「さて、な。気づいたらこうして君たちの盾になっていた。私なりの罪滅ぼしのつもりだったのかもしれん…。結局のところ、私の敵は君たちではなかったというのに、君たちばかりを傷つけてしまった…。」
「そんなの、ブスジマが…。」
「いいさ。奴も言っていただろう。すべては無知な私の責任なのだ…。」
大きなため息をついた。
もう自分が助からないということは自分が一番わかっているのだろう。
もって10分。最期の10分だ。
「君たちに頼みたいことがある。少しだけ、私の自分語りに耳を貸してはくれぬか…。」
「…はい。もちろんです。」
マツブサは一度目を閉じて三回だけ深呼吸をすると、星を数えるような淡い声で語り始めた。
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君たちはキナギタウンという町を知っているかね?
そうだ。131番水道と132番水道に挟まれた、みすぼらしい小さな町だ。流木をかき集めて作ったろくでもない家々と、あってもなくても変わらないような情けない港。
それがあの町のすべてなのだよ。笑えるだろう?
私はそんなみすぼらしい町に生まれたみすぼらしい子供だった。
キナギタウンで一年に生まれる子供は何人か知っているかね?
答えはな、0.5人だ。0.5年に一人ではない。子供が全く生まれない年だって珍しくないのだよ。そんな町がなぜ町としての機能を維持できていると思う?
…すまない。またしても質問になってしまった。
まあ良い。
キナギタウンでは、町民が町の外へ出ることを互いに引き留めあっているからだ。
もしそうでなければ、キナギタウンは数年で滅んでしまうだろうな。何しろあんなところにいたって、娯楽はおろか満足に買い物ができるような施設だって存在しないのだ。そこら辺の海藻を一日中採り続けたり、貝殻を海に投げたり、水ポケモンを追い払ったりして一生を終えるのだ。命の無駄遣いさ。そんな民族が存在したってしなくたって、世の中にとってはなんの変化にもなりはしない。
私が生まれ育った町は、こんな恐ろしいほどに閉じた世界だったのだ。
だが、そんな私にも唯一の安らぎがあった。
幼馴染の存在だ。私が生まれた年は、奇跡的に二人の子供が生まれた年だったのだ。
彼女の名はクロマツと言った。つややかな黒髪の美しい女性だった。
彼女は生まれた瞬間から、私の許嫁となることを町長に言い渡された。
…限界集落だからな。当然だろう。
私とクロマツはうまくやっていた。
狭い世界だからな。仮にうまくいっていなかったとしても、周囲にはそう見えるように振舞っていただろうが…。だが、そんなことをしなくとも、実際に我々は健全にして100%の恋仲だったのだ。
しかし、私は同時に外の世界への興味に心を奪われていった。この海の向こうには、私の知らない世界が広がっている。私は、自分と自分の恋人の名前の由来である「マツ」という植物さえ自分の目で見たことはなかったのだ。自分についてすら知ることを許されない。こんなに悲しいことはないだろう?
私はクロマツに、外に出たいという旨を話した。私はこのまま閉じた社会の、歯車ですらない、あってもなくても変わらないような部品として人生を棒に振りたくはないと。婚約者であるあなたを置いて外に出るのは心苦しい。だがどうか待っていてくれないだろうか。いつか必ず帰って来るから、と。
彼女は生まれつき身体が弱かった。一緒にホウエンを回るとなると、身体への負担が大きすぎる。だから彼女には待っていてもらうしかなかったのだ。
彼女は私を止めはしなかった。ただ一つ、私にお遣いを頼んだだけだった。
『松雲母』というアイテムを見つけてきてほしい、と。
『本で読んだの。松という植物の皮はね、何年もかけて幾重にも層を重ねてゆくんだって。それが、雲母っていうキラキラした鉱石に似ているらしいわ。少し触れれば、一枚一枚がはらりと剥がれ落ちてゆくの。』
彼女は水平線の彼方を眺めながら、風に身を任せて髪をなびかせていた。
『そんなに素敵なものが外にあるなら、私も見てみたいわ。でも私は…。だからお願い。松雲母を私に見せて、外の世界が素晴らしさを私にも教えてほしい。』
わかった。私が必ず見つけてきてやる。
旅がうまくいかなくとも、松雲母だけは絶対に、ここに持ってくる。
私が約束しよう。
『私、待つわ。松雲母みたいに。あなたを想って層を重ねながら、何年でも待つわ。』
私たちは指を切って、沈んでゆく夕陽に誓って約束を交わした。
だが、約束を果たすことはできなかった。
私が周囲の反対を押し切って町を出た二年後のことだったな。その年は野生のサメハダーが大量発生した年だった。ただでさえキナギタウンは野生の水ポケモンの襲撃を受けやすい土地だ。何せ彼らのなわばりの上に住居を構えているわけだからな。
凶暴なサメハダーは徒党を組んでキナギタウンを襲った。町の人口の三割減ったという。
もちろん体の弱いクロマツも…。わかるであろう?
私がそのことを知ったのは、ホウエンを旅し終えてキナギに戻った後だった。
私はこのような環境を憎んだ。自然と人間の共生だと言っては、時として犠牲を当然のこととして人々に強要する。こんな下らない町を守るために、私たちを閉じ込めてまで海と共生することだって同様に。
なら、いっそ海などなくなってしまえばいいと、そう思ったのだ。そうすれば、キナギなどという腐った町が存在することもない。あんな町は、あってもなくてもかまわないのではない。あってはならない町だったのだ。
そうして私はグラードンを復活させ、陸を増やすことにしたのだ。
共生などと謳って犠牲を許容することのないように。
牢獄のように果てない海の壁で、誰かを閉じ込めることのないように。
私は、薄氷のような脆くはかない松雲母を片手に、そう誓ったのだ。
だが、悲しいかな。私はビジネスパートナーとして信頼を置いていたブスジマに騙され、結局何も成し遂げることができないまま生を終えることになってしまった。惨めなものだろう。結局私は、何も知らない田舎者で、どこにもたどり着けなかったというわけだ。
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「どうして…。どうしてあの博物館で、それを言わなかったんだ…!そんな過去があったなら、僕たちだって…。」
そう言いかけて、僕は口をつぐんだ。
マツブサのつらい過去を知っていたとして、僕に何ができたんだろうか。
同情したか?分かり合おうとしたか?それとも、気の利いた一言でも言えたのだろうか?
わからなかった。
こうして一人の人間の死を目の前にして初めて、僕は「もし」という言葉の頼りなさを痛いほどに感じていた。
「フン。男というものはな、自らの事情をそうやすやすと語ったりはしないものなのだよ…。君も男ならば覚えておくといい…。」
「だからって…!」
それでも。僕はやるせなさばかりを感じていた。
感情ばかりがあふれ出てきて、正確な言葉を形作ることができない。
マツブサは、そんな僕を暖かい目で見つめて、ポケットから何かを差し出した。
「君に、これを託そう。もう時間がないようだ。」
「これは…。」
「そう。これが松雲母だ。美しいだろう。長い歳月が幾層にも重なって…。まるで、誰かを待つという行為をそのまま具現化したようだろう。」
松雲母。
手にしてみるとその樹皮は想像以上に重く、時という流体をくりぬいて閉じ込めたような、不思議な感触がした。
『松』と『待つ』。ダジャレのようでありながら、その二つの言葉には時間の層という確かな共通点があって、クロマツさんがマツブサにこれを頼んだ意味が、少しだけわかるような気がした。
「これを、キナギタウンにあるクロマツの墓まで持って行ってはくれぬか。すべてが終わったらでよい。」
「…はい。確かに。」
そう言えたかどうかわからなかった。
マツブサはそうして、閉じられた世界から旅立っていった。
雲母の薄氷のように淡い生を、かすかに僕に託したまま。
松雲母という言葉は私が作りました。