うっかり怪人♀になってしまったっぽいが、ワンパンされたくないので全力で媚びに行きます。 作:赤谷ドルフィン
目が覚めたら、部屋が燃えていた。
それはもう、一瞬で手遅れとわかる程度には。
「っ、なんだこれ、」
熱い。煙たい。息が苦しい。
ぱっと頭に浮かんだのは『火事』の二文字だった。ただ、自分のせいかもとは思わなかった。寝煙草はもちろん、この部屋の暖房器具はエアコンしかない。火の不始末とも思いがたい。
──放火?
それも考えられたが、ここはアパートだ。近隣の部屋で出火した可能性もある。
まあ、原因なんてどうでもいいのだ。今、どうするかを考えなければ。
「どうしたら……」
逃げる。もしくは消防署に通報。
枕元、いつもスマートフォンを充電している位置に手をやる。が、
「ない、」
指先はただ、シーツを掠めただけだった。おかしい。眠る前に絶対、ここに置いたのに。
そこで、ベッド脇のテーブルに長方形の物体があることに気づく。スマホだ。とっさにそう思って取り上げたが、違和感を覚えた。
赤い手帳型のカバー。
「……俺のじゃない」
何かがおかしい。
ただ、それを考えている猶予はなさそうだ。見覚えのないスマホを放り投げて、逃げ道を探すほうへと意識をシフトさせる。
その時だった。
「セツナ、セツナ!」
誰かが誰かを呼ぶ声がした。隣の部屋だ。慌てているらしい中年女性の声が聞こえている。
火事なんだから当たり前か。妙に落ち着いてそう思った。知らない声だった。
「起きてるの!?」
しかし妙に近く聞こえる──そう感じた瞬間、開いていたドアからそれが飛び込んできた。
顔を覗かせる誰か。やはり、見知らぬ女性だった。鬼気迫ったこちらを表情で見つめている。
そして一言、
「セツナ、早く逃げなさい……!」
──セツナ? 誰だ。
後ろを振り返る。焼け焦げたカーテンが、ひらひらと夜風に揺れているだけだった。
「セツ、────きゃああッ」
その顔がいきなり横にスライドして、視界から消える。その直撃、悲鳴が上がって。
バキ、ベキン、ゴオォッ。
不吉な音がした。
アルコールを染み込ませた小枝をへし折って、火の中に放り込んで燃え盛らせたような音。ただし、壁の向こうにいるのは人間と──誰だ?
「ごほっ、」
ダメだ、頭が回らない。
何もかもが妙でおかしいのに、冷静に考える暇さえない。意識が遠くなってきた。
もうドアから逃げるのは無理だ。せめて、と開いた窓から顔を出す。煙とともに、闇夜が火花に散った。屋内より多少ましな空気を吸い込む。
ここから飛び降りられないか。
ふと思ったが、眼下は闇に飲まれて何も見えない。とてもじゃないが、そんなことをする勇気は出そうになかった。
「うっ」
その時いきなり、熱風が背中を舐めていく。生半可な温度ではなかった。激痛で息が詰まる。
何かが、近づいてきていた。
意を決して振り返る。
その先にいたのは──溶岩だった。灼熱のマグマが、人間の形をして歩いている。
体表を泡立たせ、ぼとぼとと体の一部を落としながら、こちらに近づいてきている。
「何なんだよ……!」
明らかに、ヒトではなかった。
化け物。ひどい火傷を負ったはずの背に、ぞっと寒気のようなものが走る。
『燃やせ……燃やせ……』
化け物は地の底を這うような声音で、呪詛のようなものをぶつぶつ唱えていた。こいつがこの火事を起こしたんだ。とっさに理解する。
『全部……全部だ、燃やしてやる……』
「やめろ、」
当然、聞く耳は持っていないらしい。
退路。逃げなければ。
もう一か八か、この窓から飛び降りるしか。思わず窓枠に掛けた手に、炎のムチが迫る。
「ひっ」
痛みと熱さでとっさに飛び退いたところに、化け物が覆いかぶさってきた。まずい、
『燃やせ、焦がせ、殺せ……!』
「あ゛あ゛あ゛ッ」
視界が、真っ赤に染まった。
体が、俺の体が、溶けていく。どろどろに、壁やカーテンみたいに、ぐちゃぐちゃになる。
嫌だ、
あああ熱い、熱い熱い熱い熱い!
助けて、違う、冷やさなきゃ、消さなきゃ、
この火を無くさなきゃ、
死んでしまう!
「消えろ、消えろ、消えろ……!」
火を消せ!
死にたくない、それでしか生き残れない!
何が何だかわからない、でも、こんなところで死んでいられないのは確かだった。
『は……』
きつく瞼を閉じる。
そうして、全てが真っ白になった。
──ゆっくりと目を開ける。
部屋が、凍っていた。
さっきまで、あんなに燃え盛っていたのに。
インテリアはどろどろに焼け焦げて原型を留めていなかったが、それらが全て透き通った氷に閉じ込められている様は、美しかった。
それにしても、何だかやたら窮屈に感じる。少し身動いだだけで壁にぶつかってしまう。
おっと。身を竦めたが、
『ツメタクナイ』
何も感じなかった。
思わずぼやいたが、自分のものとは思えないくらい低く、ひび割れた声が聞こえた。
あの化け物はどこに行ったのだろう。振り返った先で、氷漬けのそいつと目が合った。
少し驚いたが、動く気配はない。
『ハハ……』
俺がやったのかな、これ。
何だか妙に楽しくなってきた。もっとたくさん凍らせられるんじゃないか。
このアパート……ううん、何もかもを。
とても静かで、良いところだ。
全部、そうしたい。
『凍らせろ』
何だか体もおかしいんだ。
透き通る氷の鱗、氷柱の鉤爪、大きな口から吐く息はダイヤモンドダストのよう。
『冷やせ』
一歩踏み出すごとに地響きが鳴り、新たに床が凍りついていく。ああ、面白い。
『静かに』
いや……待てよ。
そもそも、これって何なんだ。
俺、こんなところで怪獣ごっこしてる場合なのか。何が何だかわからないっていうのに。
楽しい……いや別に楽しくもないだろ。
冷静になれ。
冷静に──ビー・クール。上手いけど、今は笑えない冗談だよな。
『チガウ……』
まだ、夢を見てるんじゃないか。
そうだ。
俺はきっとまだ夢の中で、起きたらいつもどおり大学に行って、卒論の続きを書かないと。
こんなのは絶対におかしいのだから。
覚めろ、覚めろ、覚めろ。
頭をめちゃくちゃに振りたくる。途中であちこちぶつけたが、痛みは感じなかった。
やっぱりこれは夢なのだ。
覚めろ、覚めろ、覚めろ!
ぱきん。
何かがひび割れる音がした。
──俺の体からだった。
中心に入ったひびから、ぱらぱらと、鱗が落ちて剥がれていって。“俺”が、崩れていく。
ぱきぱき、ぱき。
ばきん。
やがて真っ二つに、割れて。その中から、また“俺”の体が出てきた──ように感じた。
「……っ、あ……」
視点が、感覚が、戻ってくる。
手足を見下ろす。やたら血の気がないが、確かに人間の手のひらだった。
凍りついたままの部屋で、ぼうっと天井を仰ぐ。やはり、冷たさは感じなかった。
まだ、覚めない。
夢じゃ、ない?
「なんだ……これ……」
──そこで、意識が途切れた。