うっかり怪人♀になってしまったっぽいが、ワンパンされたくないので全力で媚びに行きます。   作:赤谷ドルフィン

15 / 28
刹那のモーメント

 目立たないようビルを足場代わりに、ようやくアパート前に戻ってきたサイタマは開口一番。

 

「うわ」

 

 何を見てそう口に出したか、考えるまでもなかった。

 道端で燃え盛る炎、それを感情のない目で見つめるサイボーグの青年──ジェノス。無事に、とは言いたくないが、一足先に戻れていたらしい。

 こちらとしても路上キャンプファイヤーがいきなり視界に入ってうわ、だった。

 

 ──結局あの後、俺のペースに合わせていると永遠にZ市へ辿り着けない、ということで。

 林を出た後も、ここまでサイタマにおぶられたままだった訳だが。さすが宇宙最強の男、今に至るまで全く体幹にブレがない。

 まあそんな恥ずかしい瑣末事は置いておいて、ジェノスのほうだ。

 

「サイタマ先生!」

 

 師を認めるなり、きりっとした顔でこちらに駆け寄ってくる見事な忠犬仕草。しかし、犬は犬でもこいつはバグったaiboだ。

 当然、サイタマは良い顔をしない。まさか彼も、この男に桃源団討伐をストーキングで監視されていたなどとは思わないだろう。

 

「お、お前またいんのかよ……」

「弟子ですので」

「取った覚えねーよ、帰れよ他人なんだから」

 

 というか、俺についてはガン無視かい。

 尾行隠蔽のために無視している場合でも、単に存在が視界に入らない場合でも、どちらにせよ好感度は上がらないパターンなのだが。

 サイタマはジェノスから、アスファルトの上で逞しく燃え上がる炎に視線を移し。

 

「で……何してんの?」

 

 同時に、再び俺の頭に戻ってくる帽子。鍔が引っ張られて視界が遮られる。サイタマに行ったり俺に戻ってきたり、お前も忙しいな。

 

「怪人の死骸がアパート前に溜まってきていたようだったので、まとめて焼却をと」

「それはいいんだけど……セツナが火とか嫌いだから、できればうちの近くでやるなよ」

 

 帽子はサイタマなりの配慮だったらしい。

 これに関しては全くの善意でやってくれているのだろうから、少し申し訳ない気もする。

 

「……何か燃えてるのを見るのがあんまり好きじゃないだけ」

 

 首に回していた手を少し振って、鎮火。残った燃えカスは凍らせて、砕く。

 炎を見て気分が悪くなったとはいえ、サイタマが運搬してくれていたおかげで、少し力を使うくらいの余裕は戻っていた。

 

「死体ならわたしが片付けるから」

 

 ジェノスはノーコメント。不満気な様子はないが、だからといって安心はできない。

 そこへ割って入ってくるサイタマ。

 

「とにかく。今の俺は重大な問題に気づいて非常にショックを受けてんだよ。傷心なの」

 

 傷心の男は女をおぶって帰ってきたりなどしないような気もする。

 が、世界の全てがサイタマを中心に回っているジェノスは今度こそ神妙な顔で、

 

「問題……? 先生ほどの人が抱える問題とは何ですか? 教えてください」

「…………知名度が低い」

 

 いや、できるからって俺を背負ったまま会話をすな。買い物袋じゃないんだぞ。

 

「知名度……」

「今日なんか……今日なんかなあ……テロリストに間違われた挙げ句『お前なんか知らん』だとよ。ハンマーヘッドは俺が倒したのに。いや桃源団に限った話じゃねえ、こんだけ活躍してるのに誰も俺のことなんか覚えちゃいない……!」

 

 迫真のトーンでこの世の不条理を訴えてみせるサイタマ。その背中で同じように震わせられている俺の存在が完全に浮いている。

 

「……ニュースでは別のヒーローが桃源団を倒したと速報がありましたが」

「マジかよ……まあそれは別にいいんだけど」

 

 いや、いいんかい。確かに、キングが「サイタマの手柄を横取りしていたかも」と告白した時も、あまり気にしていないようだったけども。

 相変わらずよくわからん人だな。

 ジェノスは真面目な顔でサイタマを見つめている。何やら考え込んでいるようでもあった。

 

「……趣味でヒーロー、……」

 

 ──そこでなぜか俺に目配せしてくる。それは一体どういう意味を含んでいるんだ。

 真意を計りかねて何もしないでいると、ジェノスは何か吹っ切れたような表情で、

 

「サイタマ先生」

「ん?」

「ヒーロー名簿というものについてご存知でしょうか」

 

 原作よりはだいぶ穏当──というか、淡々とした追及。

 しかし、それを受け止めるサイタマはやはり見事に硬直し。眉間を押さえる。

 

「え……何それ知らん……」

「はい……ヒーロー名簿とはですね──」

 

 ──全国にあるヒーロー協会の施設以下略。

 ただでさえ、ページの下半分をびっしり埋め尽くす文章量。それとジェノスの微に入り細を穿つ解説が相まって、聞いているこちらが眠くなりそうな時間が流れたものの。

 真剣な態度で聞き終えたサイタマは一言、

 

「…………知らなかった……」

 

 圧倒的、絶望。そんな雰囲気で頭を垂れる。

 それに同情したのもつかの間。

 しばらく黙ってサイタマを見守っていたジェノスがしれっと、

 

「プロのヒーローとしては例えば……サイタマ先生の背中にいるそれなどが当てはまります」

「だからそれとか……は?」

「ちょ」

 

 おいおいおい死ぬわ俺。

 いきなりの流れ弾で致命傷を負わされた。

 いやなんで……なんでやねん。

 無事瀕死になってしまったが、そこでサイタマが見逃してくれる訳もなく。

 容赦なく死体蹴りしてくる構えらしい。本気(マジ)顔で見つめてくるのが怖すぎる。

 

「セツナ……どういうことだ?」

「え、……えっとですね……」

 

 どうしてこうなった。

 なんでおんぶされてる最中に激詰めされてるんだ俺。既に生殺与奪の権を握られている。

 てかお前がどういうことだよジェノス。息を吸うように約束を反故にしてくる。もうお前とは一生口利かねえよ。嘘、サイタマが心配するし。

 何か、良い感じのことを言わねば。

 いくらサイタマとはいえ、機が熟すのを待ってましたなんてバカ正直に言ったら、色々な意味で関係に亀裂が入りかねない。

 

「わ……わたしは……今も正義感からヒーローやっている訳じゃないし……ただ、この厄介な力を何とかお金に換えられるかな……と思っていて……」

 

 真実ではあるが、エクスキューズとしては弱いか。ジェノス相手には有効だったかもしれない。

 サイタマは微妙な顔で俺を見ている。

 

「後ろめたかったのはあるし……サイタマを誘うのも違うなと思っていたし、…………」

 

 駄目だ、何を言っても嘘臭い。

 当たり前である、嘘っぱちなのだから。誤魔化しようがない。もうここはいっそ、開き直ろう。

 開き直って、サイタマを刺そう。

 

「というかサイタマが未だにヒーロー名簿を知らないなんて思わなかったから」

「え、お前……」

「思わなかったの」

 

 振り切って他責に舵を切った結果、そこそこのダメージを与えることに成功したようだ。

 取り調べをする警察官の顔から、一気にブルータスに裏切られたカエサルのような顔になったサイタマ。本当に、押しと勢いに弱い。

 

「それがサイタマのスタンスなのかと」

「ちょ……ジェノス、」

「いえ、まあ……はい。そうですね……はい」

「いやなんかフォローしろよ」

 

 ジェノスとしてもさすがに知っとるだろ……という心境だったのか、有耶無耶に終わった。

 というか、この状況でサイタマに味方して俺を責め出したりしたら本当にどつき回すぞ、というあたりである。ソニックの前に俺とお前の家庭内戦争を勃発させたろか。

 

「先ほども言いましたが、プロのヒーローが出てきたのはほんの3年ほど前の話で……」

「ふーん……」

 

 いつもの魂が抜けたような顔に戻ったサイタマは、ぼんやり空を仰いでから。

 

「……で、ジェノスは登録してんの?」

「いえ俺はいいです」

 

 隙のない否定。というか拒絶。

 常人ならばつい、そっか……などと退いてしまいそうな局面ではあるが。

 

「………………」

 

 その常識が通じないのがサイタマであり、そしてこのジェノスなのであった。

 

「セツナもしてるし、登録しようぜ! ついでに登録してくれたら弟子にしてやるから!」

「行きましょう!」

 

 ──うむ、清々しく狂人しかいない。

 しかしそのおかげで九死に一生を得たのもまた事実。変な奴らしかいなくて良かった。これが他の少年漫画だったら大体死んでた。

 とりあえず、再びぎりぎりでXdayを突破できたところで。サイタマに恐る恐る申し出る。

 

「も、……もう大丈夫、歩けるから……ここまでありがとう、サイタマ」

「ん、ああ」 

 

 軽い返事とともに、あっさり降ろしてくれた。

 いや、いつまで俺はサイタマの背中にいればいいのかと思っていたところだった。しかしこれだけ長く密着して無反応ということは、改めて『当たるモノが無い』ということでよろしいか。

 こっちも全然息苦しかったりしなかったもんな。やかましいわ。

 

 そのまますたすたとエントランスに入っていくサイタマ、なぜか立ち止まって俺を見てくるジェノス。

 何だよ裏切り者、と思うより早く、

 

「……良かったな」

「カスのマッチポンプじゃん」

 

 本日のトラブル、全部お前が引き金になってるんだが。

 

 

 

 

 ──アパート内へ戻り、何となく自室ではなくサイタマの部屋に入ってしまったが、特に家主からの咎めはなかった。それどころか、

 

「スポドリ。なんか冷蔵庫の底に残ってた」

「あ、ありがとう……」

 

 未開封のペットボトルを手渡される。

 喉が渇いているというような感覚はなかったが、とりあえずありがたく頂いておく。爽やかな甘みが体に嬉しい。

 ようやく一息ついた俺を見て、サイタマはやや真剣な顔つきで、

 

「お前、溶岩地帯とか行ったら溶けたりしそうで怖いな……」

「…………」

 

 溶岩地帯では、大抵の生物は焼けるか溶けるかしてしまうだろう。儚さの例えとしてもパンチが効きすぎており、コメントに困る。

 サイタマは当然ながら、そんな微妙な比喩に拘泥する気はないようで。俺の向かいできちんと正座するジェノスにじとっとした目を向ける。

 俺と同じように入ってきただけなのだが、こちらには引っかかりを覚えるらしい。

 

「……で、お前はまだなんか用あんの?」

「先生から強さを学ぶという、」

「あーはいはい」

 

 何の意味もなくやってきて清涼飲料水にありついている女よりはまともな理由なのだが、サイタマのハートにはさして響かないようだ。

 いや、響かれても困るが。

 

「……そういやなんか、今日変なヤツに会ったな」

 

 ジェノスを横目で見ていたサイタマが、ふと思い出したように、いきなりそんなことを言った。

 

「変なヤツ……ですか」

「うん。お前見てて思い出したわ」

 

 サイタマ氏、それはナチュラルな罵倒なのでは。

 

「何だっけ名前……ああ、音速のソニックとかいう男なんだけど。ハンマーヘッド倒した後にな」

「音速のソニック」

 

 何度聞いても芸術的な名前である。

 あの里の出身全員これなので、紅魔族とはまた違うヤバさを感じるのだが、どんな教育の賜物なのだろうか。気になるようなならないような。

 女性がおらず妙にセクシーな男ばかりというのも何となく闇の深さを感じる。

 

「……頭痛が痛いみたいな名前ですね」

 

 言いながら、それとなくこちらに視線を送ってくるジェノス。

 彼も察しているのだろう。その人物が桃源団を壊滅させた『雇われの護衛』ということに。

 

「そいつが何か?」

「よくわからん。いきなり現れたと思ったらライバル宣言して去っていった」

「先生がお困りならば俺が消しますが」

「お前も厄介だな」

 

 そこでなぜか俺に向き直り、 

 

「セツナは何か知らねーの? プロなんだろ」

 

 なるほど、そう来たか。

 

「うーん……一応、怪人以外にも賞金首の指定みたいなものはあるから、もしかしたらそこに載ってる人なのかもしれないけど。わたしは能力の都合上、そういうのはあんまり見ないからなあ」

「そうか……」

 

 これは本当。殺してはいけない案件なんて、この力には荷が重すぎる。手加減できても凍傷、低体温症などの後遺症を負わせかねないのだし。

 サイタマは案の定、感慨の薄そうな顔で相槌をうって。

 

「ま、どーでもいい話だな!」

 

 まともな話の種にもなり得なかった音速のソニック氏に、合掌。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 善は急げとばかりに、2人は最短でヒーロー試験の申し込みをしたらしく。

 そこから1週間も経たないうちに、受験日が来たというので、とりあえずその日は俺も会場までついていくことにした。

 結果がわかっているとはいえ、『試験勉強』とは無縁のスケジュールにビビらなかったと言えば嘘になる。「どういう問題がある?」みたいな質問さえ一切されなかったからな。最初からナメ方がフルスロットルだ。そんじょそこらのヤンキーとは格が違う。

 

 ──そろそろ日も落ちる、という頃。

 揃って試験会場から出てきた2人を出迎えた。2人とも、特に感慨のなさそうな顔をしている。

 

「どうだった?」

 

 尋ねると、サイタマは卒業証書並みに速攻で丸められてしまった認定書で肩を叩きつつ。

 

「合格したよ。……C級だけどな」

「そっか。おめでとう」

 

 ええっあなたがC級なんて、みたいな驚き方をするべきだっただろうか、と遅れて考える。

 しかし、合格は合格だしな。ジェノスのようなモンペ対応も何か違う気がする。

 

「お前はどのランクだったっけ?」

「わたしはB級だけど……でも、サイタマがC級ってどういうこと?」

 

 経験者としてお前はC級相当だよな、みたいな反応はアレか、と結論づけた結果。それとなく、素朴な疑問として付け加えるに留めておく。

 が、サイタマは別にこの判定自体に不満はなかったらしく、若干苦い顔で。

 

「お前もジェノスみたいなこと言うんだな……なんつーか、筆記がその……アレでな……」

「な、なるほど……?」

 

 渋かった表情が、尻切れトンボの語尾に近づくほど影を帯びていく。配慮をしたつもりが、無駄に死体を蹴ってしまっただけかもしれない。

 

「俺は今からでも関係者に直訴、」

「あー、やめい!」

 

 しかも副産物として狂信者を特殊召喚しそうになった。俺が悪かった、鎮まりたまえ。

 

「ジェ……ジェノス君は?」

 

 とりあえず話題を振って墓地に送る。

 どうせ無視されるか、サイタマへのお伺いを挟むかと思ったが、ジェノスは案外素直に、

 

「S級だ」

「え、満点だったってこと? すごいね」

「ああ」

 

 大した内容じゃなかった、普通は100点が取れるなどとは言ってこなかった。まあすぐ隣にぎりぎり合格マンがいる以上、俺を殴ってもそちらにより深くえぐり込むだけだからな。

 

「しっかし、つまんねえセミナーだったぜ。お前もよく飽きなかったな」

「まあ、うん……?」

 

 やれやれ顔で腕を組むサイタマ。

 大体の人は資格を取れた後のセミナーが退屈だからといって、ガムをくちゃくちゃやったりはしない、というようなことをどう穏便に伝えたらいいのか。

 そこへジェノスがずい、と入ってくる。

 

「サイタマ先生。……これでもう、先生も胸を張って活動できますよ。そして俺も──」 

 

 何となく、背筋に冷たいものを迸らせてくるような囁きだった。

 

「──これで正式に弟子ですね」

 

 虹彩の消えた恍惚の笑みを浮かべるジェノス、それとは対照的に顔を引きつらせるサイタマ。

 

「お、おう……」

「今後もご指導のほど、よろしくお願いします」

 

 ぺこーっと勢いよく頭を下げてくるのを引き気味に眺めるサイタマが、こちらに耳打ちしてくる。

 

「……これ、安請け合いしないほうが良かったかもしれん……」

「うーん……?」

 

 今さらっすか。

 彼の軽率っぷりは「思考回路を全て鉛筆転がしか何かに担わせているのか?」というレベルなのだが、『後悔』という感情は人並みに備わっていそうなのは正直、不思議である。

 

「ま、いいか」

 

 そのぶん諦め──というか、開き直りも異常に早いのだが。すん、と元の表情に戻ったサイタマは、気負いなくジェノスに手を振ってみせる。

 

「じゃーな、ジェノス」

「はい、先生。では、今日はこれで」

 

 いやこっちは無視かい、などと天丼のツッコミはもうしない。なぜなら俺もまた、彼にとって特別な存在ではないからです。

 

 

 

 

 ジェノスと別れて。サイタマと2人、夕暮れ時の土手を、並んで歩く。

 

「なんか」

「うん?」

「……ジェノスって実はすごいヤツだったのかもな」

「そうだね……いきなり、S級だからね」

 

 幹部は2年ぶり、と言っていたような気がするが、S級の成り立ちからして、試験でそこに振り分けられた人間はほとんどいなさそうだ。

 そもそも、C級〜B級に埋まっていた原石を発掘したものだと認識していたのだが、サイタマの処遇を見るにきちんと機能していなさそう。100点満点だけが選ばれる今の文武両道システム、おそらくアマイマスクの思想なんだろうが、S級の現状にはそぐわないのではと思う。

 まさしくサイタマのような存在を寄せ集めたチームだったはずなのに。今の試験を受けて『S』が取れる現S級が一体何人いるのやら。

 

「──なあ、」

 

 呼びかけられて、ふと我に返る。

 

「プロヒーローのことはよくわかんねーけど。……お前、これでジェノスのこと見直したりしたか?」

 

 思わず見やったサイタマの顔は、真っ直ぐ前を見据えていた。オレンジ色に照らされる横顔から視線を逸らして、俺も前を向く。

 

「……どうだろう。あんまり、考えたことなかったな」

 

 ここで大真面目に「そうだね」などと返したら単に権威主義の嫌なヤツなのだが、サイタマは別にそこを意識している訳ではなさそうだ。

 サイタマよりジェノスのほうがすごい──世間はきっとそう思う。思い続ける。

 そんなもの。そんな『当たり前』の考え、俺には何の価値もないのに。

 

「ランクや点数で、仲良くする人を決めている訳じゃないしね。わたしにとってジェノス君はジェノス君、サイタマはサイタマだもの……」

 

 その瞬間。ぬるい風が強く、吹き抜けた。

 

「あ」

 

 下ろした髪を押さえるより、キャップを押さえたほうが良かったかもしれない。

 あっという間に舞い上がり、茜色の空でくるくる踊る帽子を呆然と見上げる。

 

「帽子が……」

「あー……取りに行ってやるよ」

「ああ、いいよいいよ……ほら、あそこの植え込みに落ちたみたい」

 

 土手を下って道路を挟んだ先にある、レンガで囲われた植え込み。花が散ってしまった緑の中に、黒いスポーツキャップが引っかかっているのが見える。

 

「ごめん、ちょっと拾いに行ってくるね」

「おう」

 

 彼に背を向けて、ふと頭に浮かんだこと。

 ──サイタマとの問答でうっかり忘れそうになっていたが。

 本来ならば、スネックが新人狩りと称してサイタマを強襲しているタイミングだ。さしものスネックも俺ごとまとめてブッ潰す、などというイカれた気概は持ち合わせていなかったのか、それともイベント自体が消失してしまったか。

 サイタマには何も残るものはなかったようだが、ここで鼻っ柱が折れなかったスネックは今後どういう行動を取るのだろう。いや、どちらにせよ今後は負け続きなのだし、関係はない?

 ああ、考えるのが面倒臭い。

 

「ついてこなきゃ良かったかな……いや、冷たいヤツだと思われるか」

 

 車通りのない道路を横断して、キャップを拾い上げる。葉っぱをはたき落として──そこで、後ろから近づいてくる足音に気づいた。

 確かにこちらへ真っ直ぐ向かっているのを、振り返って確認する。

 サイタマだった。少し、驚いた。

 

「……どうしたの?」

 

 さっきの会話からして、待っている、というような雰囲気だと思ったのだが。

 あの状況で、わざわざ来るような理由があるとも思えない。しかし、俺の目の前で立ち止まったサイタマは、驚くべきことを口にした。

 

「なんか……さっき、新人狩りとかいうのに遭ったんだが」

 

 ──スネック。

 まさか、今あそこで? サイタマが一人になるのを虎視眈々と狙っていたのか、偶然か。

 どちらにせよ、さらなる驚きだった。

 

「え、大丈夫だった?」

「ああ。殴り返したら普通にどっか行ったし……」

 

 逃げたような口ぶりだが、衝撃で吹っ飛ばされただけだろう。自業自得ながら同情する。

 思いもよらない形でフラグが回収されてしまった。心配が速攻で杞憂に変わった訳だ。

 

「それより。お前こそ大丈夫だったのか?」

 

 ……どういう意味だろう。

 このタイミングで新たな疑問を提供してくれるサイタマ。意図が全く掴めない。あくまで彼は真面目に心配そうな顔をしているし。

 

「……何が?」

「新人狩りだよ、新人狩り。お前も試験に合格して、セミナーとか受けたんだろ。呼び出されたり目つけられたりしてないかって話」

 

 ああ、そういうことか。

 実際に何事もなかったので、頭の隅に追いやってしまっていた。

 

「特に、そういうのはなかったけど」

 

 サイタマとは前提条件が違いすぎるし──とは当然、言わないでおく。本気で心配してくれているらしいのは事実なのだし。

 一応、その人相を尋ねてみる。

 

「新人狩りって、どんな人? 合格者セミナーの講師の人なの?」

「そうなんだけど……えー……なんか、蛇っぽいスーツ着てたな、」

 

 それだけ見ているのならば、サイタマの人間観察としては上々のレベルだろう。

 

「蛇咬拳のスネックさんかな。A級の」

「知ってんのか」

「うん。わたしも同じ人が講師だったから」

 

 しらばっくれが板についてきた。もうこのくらいじゃ俺のステージフェイスは剥がせないぜ。

 

「でも……何もなかったよ?」

「………………」

 

 サイタマはなぜか微妙に不服顔。何かあってほしかった訳でもあるまいに、どうしてそんな顔をするんだか。よくわからない。

 

「……じゃあ……食事に誘われたりとか」

「なかったってば。若い女だからって超能力者に粉かけるような人、なかなかいないと思う」

 

 あの模擬戦闘を見てなおこちらに迫ってくるような男、逆に肝が据わっている。

 サイタマはおそらく俺をか弱い女と思っている節があり、彼からすれば何も間違っていないのだが。大抵の人間からすれば俺は『脅威』だろう、

 

「なら……新人狩りやる側か?」

「いやどうしてそういう話になるのかな?」

 

 前言撤回。別にか弱いとは思われていなかったかもしれない。じゃあ何の心配だったんだよ。

 

「やってないよ、そんなこと」

 

 サイタマの中の俺は一体どうなってるんだ。聞きたいような聞きたくないような、だ。

 

「お給料はランキングで決まるけど。順位がわたしの強さを担保してくれる訳ではないからね」

 

 ありきたりな正論で話題を濁しておく。

 それをふんふんと聞いていたサイタマは、やや首を傾げるようにして。

 

「……お前はさ。しっかりしてるよな」

「そう?」

 

 きみがちょっといきあたりばったりすぎるんじゃないのかね。

 そんなことを脳内でツッコミながら。キャップを被り直して、歩き出す。

 背後に立つサイタマは。

 

「うん……なんつーか、偉いよ」

 

 ──なぜかついてこなかった。

 数歩で足を止め、振り返った。

 ポケットに両手を入れたサイタマが、薄っすら微笑を浮かべて、俺を見つめている。

 ただ、佇んでいる。

 

「よくわかんねーくらい偉い」

 

 ふざけて言っている訳ではないようだった。優しい笑みが、夕陽に照らされている。

 レジ袋のゴミが、数メートルの距離の間を風に吹かれて転がっていく。

 数歩。また数歩、進めば詰められる距離だ。

 でも、俺は。

 

「……そう、かな」

 

 サイタマは、動く気配がない。

 俺の足も、動かなかった。

 乾くはずのない喉が、乾いていた。言葉が舌に張りついて、上手く出てこない。

 

「そんなことない……と思うけど」

 

 無価値な否定が、風に吹かれて転がっていく。

 視界が歪んで、暗くなる。

 サイタマは。俺が、何のために生きていると思っているのだろう。

 よくわかんないくらい必死こいて、頑張っているのは、何のためだと。偉い訳じゃない。偉いと思ってほしい訳でもない。そこでお前に手の届かない存在だと思われたら、何の意味も、

 

「サイタマ」

 

 彼が、眠そうな目を瞬いた。

 頬を鬱陶しく撫でていく髪の束を、手で押さえて。指先で流して、耳に掛ける。

 

「わたしはただ、サイタマがいるあのアパートに帰りたいだけなんだよ」

 

 お前を置いていくのは俺じゃない。

 お前が俺を置いていくんだ。だから。

 だから、俺は。

 

「……それだけっ」

 

 くるっと、勢いづけて背を向ける。

 それと同時に再び、

 

「──わ、」

 

 帽子がまた舞い上が、──らなかった。

 頭上で静止するスポーツキャップ。

 すぐ背後に立ったサイタマが、その鍔をしっかりキャッチしていた。

 

「今日は風が強いな」

 

 あっけらかんと言いながら、頭に戻してくれる。

 

「帰ろーぜ」

 

 メッシュ生地越しに軽くぽんぽん、と頭を叩かれる。鍔を押し上げて覗き見たサイタマの顔は、いつもどおりの気の抜けた表情だった。

 それに、何となくほっとした。

 

「あ、でも、どっかで飯食ってくか」

「……うん、」

 

 遠ざかっていく背中を、慌てて追いかける。

 ──よくわかんないくらい偉い、か。

 まあ、俺にも反省の余地はあるかもしれない。

 

 人生何事も、ほどほどが一番。




自分がぼけっとしていたのが悪いのですが、前話の誤字報告で
1.シババワ☓→シワババ○ という報告が入る
2.何も考えず修正を入れてしまう
3.当然間違っているので別の人からシワババ☓→シババワ○という新しい報告が速攻で入る
4.最初から合っていたことに気づく
というコントのような流れが起きてしまってました

“シババワ”ですね もう間違えないようにしたいです

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。