うっかり怪人♀になってしまったっぽいが、ワンパンされたくないので全力で媚びに行きます。   作:赤谷ドルフィン

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freeeeeeeeze!!

 やがて、ぽつぽつと。

 降り出した雨が本降りになるまでは、ほんの一瞬だった。

 

「やば、降ってきた」

「傘持ってないよー」

「予報だと1日晴れじゃなかった?」

 

 背後で密やかに交わされる、場違いに浮わついた会話を聞き流す。大学生とは世界一暢気で、無敵な生き物だ。数年前まで自分もそれをやっていたことは棚に上げて、そんなことを思った。

 ざあざあ降りになった雨粒が髪を濡らし、水たまりに突っ込んだスニーカーが靴下ごとぐちゃぐちゃになっても、不快感は覚えなかった。

 冷えきった体の中で、バクバクと心臓だけが駆け足のビートを刻んでいる。

 ──全員すっかり濡れねずみになったところで、ようやくドームの入口に辿り着いた。

 

「あ……シェルターだ」

「助かったぁ」

 

 ここに来て、とぼとぼと力なくついてきていたのが、いきなり元気良く追い越してくる。

 彼らの背中を見送って。なんとなく、後ろを振り返ってみたが。

 豪雨で烟る街並みには、何の姿も見えなかった。

 

 

 

 

 一歩遅れてシェルターの内部に足を踏み入れると、彼らは出入り口脇で、スタッフらしき人間にタオルを手渡されているところだった。

 東京ドーム並に広々とした空間には、既に避難してきたのであろう人々がひしめき合っており。服や髪からの湿り気が放熱で温まって、妙な蒸し暑さを醸し出していた。

 真夏のプールの更衣室、とでも言えばいいのだろうか。とにかく不快指数は高そうだ。

 

「最悪、髪ぐちゃぐちゃになっちゃった」

 

 暢気に憂う女子学生の隣を通り抜けて、内部の様子をぐるっと窺う。

 皆不安そうな顔をしているが、それでも追い詰められた様子はあまりない。見ての通り、まだ深海王の襲撃は起こっていないようだ。スネックやブンブンマンは既にやって来ているのだろうか。

 

「あの……タオル、」

「大丈夫ですから」

 

 もう一人の、黒髪ボブカットの女子学生が気を使ってタオルを差し出してくれたが。受け取っているような余裕はなかった。言葉少なに断っておく。

 濡れて額に張りつく前髪はとりあえず後ろにかき上げて、なでつけておいた。

 雑音にしか聞こえないざわめきの中でも、はっきり耳に入り込んでくる怯えた囁き。

 

「……なんか、S級がやられたんだって……」

「え、嘘、誰……?」

「災害レベルが虎から鬼に上がったとか……」

「ヤバいでしょ」

「スティンガーも負けたって聞いたけど」

 

 ──ぷりぷりプリズナー。

 もうそこまで情報が来ているのか。

 まだ全体に蔓延している訳ではないようだが、ショッキングな情報だけあって、辺りに動揺が広がり始めているのを肌で感じる。

 A級で勝てないなら、S級で勝てないなら、ここにいるB級風情に勝てる訳はない。

 それを言い出す人間はまだいないが、彼らがその事実に辿り着くのは時間の問題だろう。役立たず。そう思われるのはつらい。そんなことを脳の表面だけで思った。

 

「すみません、」

 

 呼びかけられて、振り返る。

 タオルを俺に渡しそびれた学生だった。まだ渡す気があるのかと一瞬身構えたが、

 

「変なこと……聞いていいですか」

 

 身長はほとんど同じはずなのに、やや上目遣いになりながら尋ねてくる。その胸元では、彼女の落ち着かない心境を示すように、細い10本の指が不気味に蠢いていた。

 

「ここにいれば、安全、……なんですよね?」

 

 安全。──馬鹿みたいな言葉だ、と思った。

 彼女は事実に興味がある訳ではない。ただ、俺に「そうだ」と頷いてほしいだけなのだ。

 これもヒーローの仕事なのだろうか。

 

「……もちろん、」

 

 意味もなくそれを肯定して。

 無意味な安堵の微笑みを浮かべる彼女から、そっと目を逸らした。

 

 

 ──その瞬間。

 地響きとも、地鳴りともつかない轟音が鳴り響いて。長らく掃除されていないのであろう天井から、ぱらぱらと埃や何かの破片が落ちてくる。

 それに汚い、と身を竦めるより早く。

 ふっ、と。前触れなく明かりが落ちた。

 突然暗闇に飲まれたドーム内に、きゃあ、と誰かの悲鳴が響き渡る。

 採光用の天窓がいくつかついているものの、雨が降っているだけあって、その朧気な光は地上まで届きはしない。

 

「や、やだ……!」

 

 なぜか俺にしがみついてくる女子学生。冷たくないのだろうか、と他人事じみて思った。

 誰かに抱きつかれる、それも若い女性になんて生まれて初めての経験だったが、今はそれを喜んだり噛み締めているような場合ではない。意識の隅でがたがた震える彼女を支えながら、薄暗い天井をじっと睨む。

 来る。深海王が。

 

 そして、ドゴン──最初の一撃で、屋根の一部が物の見事に吹っ飛んだ。それが見えた。

 ここからは一番遠い位置。

 安心する材料としてはあまりにチープだが、それでも仮初めの安堵感を覚える。

 やがて、崩れた瓦礫を綿埃のように払いながら、砂煙の中からのっそり現れる巨体。

 深海王。降雨のおかげで人間態の名残を欠片も残していないその瞳が、呆然と立ち竦む人間の群れを睥睨する。

 

「初めまして──さようなら」

 

 しんと静まり返っていたせいで、その死刑宣告は離れたこちらにまで聞こえていた。直後、引き攣ったどよめきがさざ波のように広がっていく。

 遠目で見てもわかる。そこいらの人間では、束になっても到底敵わないサイズだ。……学生に一際強くしがみつかれて、よろけそうになった。

 でも、今は彼女を案じている場合ではない。この次、どう出てくるか。

 

「ま──待った!」

 

 ──思った通り、声が上がった。

 想定した以上に悲痛な呼びかけだったが。

 かなり前方で、やはり姿は見えない。しかし、声の主は鮮明に思い浮かぶ。オールバックマンだ。

 

「我々は降参する! 何か要求があればその通りにしよう!」

 

 途端、背後で「降参……?」と不安げなつぶやきが聞こえた。それはそうだ。反撃する意思などない、そもそも不可能な立場だとしても、ノータイムで全ての権利を明け渡されれば不安は募る。

 

「だから……攻撃しないでくれ、」

 

 無茶な要望だ。改めて思う。彼も何か勝算があって言っている訳ではないのだろうけど。

 当然、深海王のほうも聞く耳を持つ気はさらさらないらしく。

 

「降参? してもしなくてもどのみち死ぬわよ……私が殺すもの」

 

 不気味な笑い声混じりに、そんな発言。

 極度の緊張と、深い絶望。子どもの泣き声すら上がらない、死んだような空気。

 けれど、“ヒーロー”はやってくる。大衆が望んだからではない。そういう筋書きだからだ。

  

「──はあッ!」

 

 まずは、ジェットナイスガイ。

 次にブンブンマン。

 そして、最後にスネック。

 予想した通りのメンツだった。あれから4人で海人族討伐に乗り出して、けれど災害レベルが上がったので、シェルターに避難した。原作と同じ流れを辿ったらしい。

 ヒーロー。

 おそらく一堂に会したらしい彼らに、お通夜のように静まり返っていた住人たちがにわかに活気づく。

 

「ヒーローだ!! 助かるぞ!!」

 

 そんな訳ないじゃん。

 思ったけれど、言えなかった。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──結局。

 その空元気は、数分と保たなかった。

 最後に殴り飛ばされたスネックの体が、ちょうど俺の頭上を通過して。パン生地を捏ねるように壁へ叩きつけられたところで、ジェットナイスガイの時には上がっていた悲鳴すら消え失せた。

 それをただ傍観している俺はといえば。

 心ここにあらず。気持ちばかりが急いて、意識がまったく休まらない。地面から爪先が浮いているような気さえする。

 思わず、深海王に向けて歩を進めようとしたところで。

 

「え、」

 

 ダッコちゃん人形のようにしがみついていた学生に引き戻されて、それで我に返った。

 振り返る。ビー玉のように澄んだ瞳に涙をいっぱい溜めて、彼女が俺を見上げていた。目が合って、ぎこちなく首を横に振る。

 

「む……無理ですよ、」

 

 無理。あなたじゃ無理だ。

 彼女は怯えながらもそう断言した。

 俺では深海王に敵わない。相対的なイメージか、確固たる自信があるのか。実際のところはわからないけれど、確かにそう思われている。

 憤慨はしなかった。

 落胆もしなかった。

 ただ、そうだろうな、と思った。

 

「──ええ。あなたは正しい」

 

 向き直って、彼女の両肩をやんわり掴む。潤んだその瞳を真っ直ぐに見つめ返す。息を吸って、

 

「ここに居なさい。皆が逃げ始めたらその流れに乗って外へ逃げなさい。相手は生物です。目立つ行動を取ってはいけない。瓦礫が落ちてくるかもしれないから、とにかく頭を守る姿勢を取って」

 

 一息にそれだけを言った。それくらいしか言えなかった。俺には何の責任も取れない。

 

「他の者にもそう伝えるように」

 

 言って、彼女に背を向けた。背後で、待って、と悲痛に呼び止める声が聞こえたような気がしたけれど、錯覚だということにしておいた。

 とにかく、ここで立ち止まっているとおかしくなってしまいそうだった。気分が悪かった。

 マネキンのようにその場に固定された人混みを何とかかき分けて、前に進む。

 どうしてだ?

 落ち着け。いや、落ち着いていられない。

 改めてそれを実感する。この衝動は理屈じゃない。もちろん義憤や武者震いでもない。

 これが正しい行動か、なんて考えたくない。

 多分、正しくないのだと思う。

 人混みに紛れてじっとしていれば終わる事件。俺じゃ敵わない。サイタマが助けてくれる。

 俺はずっと、そういうのを期待していたんじゃないのか?

 

 

 ガシャン、と頭上で天窓の割れる音。

 ジェノスだ、と思った。足は止まらなかった。もう何もわからない。

 

「──海人族というのはお前か、」

 

 こちらを見据えていた深海王が、振り返る。ここからではまだ彼の姿は見えない。

 

「排除する」

 

 そして、閃光。気づいたら、再びシェルターの外壁が破壊されていて。深海王の姿はもう、どこにもなかった。

 レベルが違う。──そのジェノスが敵わないのだから、俺なんかが勝てる訳がないのだ。

 

「敵は──今ので最後なのか?」

 

 深海王を吹き飛ばし、振り返ったジェノスの呼びかけに、群衆が再びわっと沸き立つ。

 けれど、そのぬか喜びはやはり長続きしない。次の瞬間にはもう、耳を塞ぎたくなるような鈍い音がして。

 

「キレたわ」

 

 空いた穴に仁王立ちする深海王が、ジェノスからもぎ取った右腕を、使い終わった爪楊枝を投げ捨てるように放り投げていた。

 

「グチャグチャにしてあげる」

 

 ボロボロの服、煮崩れたような顔。それでも深海王は余裕を崩さない。

 それだけで、一瞬で半壊まで追い込まれたジェノスは彼我の差を悟ってしまったようだった。

 もう、だいぶ近づいてきた。

 起き上がろうとする彼の体が、不吉に軋んでいるのさえ耳で捉えられる。

 

「シェルターから逃げ出せる者は今すぐ行け!

俺が勝てるとは限らない!」

 

 ヒーローの声だった。

 じくじくと、胸が締め付けられる。

 偉い。偉いよ。俺なんかよりよっぽど頑張ってるじゃないか。それこそ、よくわからないくらい。

 何だか、他人事みたいだ。

 他人事なんだよ。

 むしろ、そうであってほしい。俺は、ジェノスの復讐にもサイタマのヒーロー道にもこの世界の未来にも巻き込まれたくない。傍観者でありたかったんだ。関わり合いになりたくないんだ。

 じゃあ、何でこんな必死こいて、人混みに逆らってまで走ってんの?

 どうしようもなく泣きたい気分だった。

 自分が何をしたいかさえわからないなんて。するべきことはわかっているはずなのに。

 流れもしない汗を、涙を、拭うふりをした。

 血も汗も涙もない。

 人間じゃないんだから。

 

 ──俺には関係ない!

 

 そうだ。どうでもいいことじゃねーか、

 

「が……がんばれ、お兄ちゃん!」

 

 目の前で。

 うさぎのぬいぐるみを抱いた少女が、ジェノスを見て。そう、声を枯らして叫んだ。

 ジェノスが、深海王が、彼女を見た。

 

「──うるさい」

 

 呆れたような一言だった。それとともに、唇から噴き出す黄色がかった液体。

 ──溶解液。

 

「ガキは溶けてなさい」

 

 蹲っていたジェノスが、立ち上がって。

 でも、それより俺のほうが早かった。

 伸ばした手から空を走る能力が、宙を舞う溶解液を凍らせて。誰に掛かるでもなく、粉々に砕け散った。きらきらとその破片が煌めいて、

 

「セツ、────」

 

 その向こう側で、ジェノスが俺を見ていた。

 彼が何かを言って。

 その意味を捉えるより早く、ぶつっと。

 線でも抜いたかのように五感が途切れた。

 

 

 

 

「っ、……」

 

 深海王に、シェルターの外まで殴り飛ばされたのだ、と気づいたのは、それから少し経って。

 雨の降りしきる道路に倒れているのを知覚してからだった。

 起き上がろうとして。

 上手くできない。頭蓋が割れそうなほど脳味噌が激しく脈打っていて、気持ちが悪かった。

 まだ生きている。それが不思議なくらいだった。

 

「ごぷっ、」

 

 途端に喉の奥から迫り上がってくる鉄錆臭さ。衝動に逆らわずぶち撒けると、手のひらと濡れた地面に鮮烈な赤が広がった。

 吐血するなんて初めてだった。何だか漫画みたいだ。ぼたぼたと血を唇の端からこぼし続けながら、そんなことをぼんやり思う。

 痛くはなかったが、苦しかった。

 体が思ったように動かない。どこかの骨でも折れているのだろうか。

 ああ。

 

 ──本当、何やってるんだろうな、俺。

 

 とっさに体が動いていた。

 子どもを助けたかった。違う。

 ジェノスを助けたかった。

 違う。

 

 ──何のために?

 

 自己満足、自己満足、自己満足。

 自分の衝動を満たすための自慰行為。

 吐き気がする。あ、もう吐いてるか。

 くだらない。

 心の底から噛みしめる。

 お前なんか生きてる価値ないよ。

 そうとしか言えない。自分の人生ってものを思い返してみて、何か意味のあることを成した経験がひとつでもあるか?

 挫折さえない人生が一番つまらない。

 人に語れるようなことは何ひとつ無いんだ、本当に。運と時勢でできたレールを走る『普通』というトロッコにたまたま乗れただけ。

 それが一番良いのかもしれない。でも、それって俺が何かすごかった結果じゃないだろ?

 誇るようなことじゃない。

 だから、何が言いたいかってさ。人間って、こんな人生でも「死にたくない」って思えるんだなって。驚いてるんだよ……ちょっと。

 親の顔さえもう満足に思い出せないのに。そう。21年間世話になったはずの人間のことを、今の今まですっかり忘れていた。最低だと思う。

 なんで生きてるんだろうな。

 俺だって俺みたいなヤツは嫌いだよ。うじうじして、鬱陶しくて、自己愛だけは強い間抜け。利己的な矛盾と自己の正当化、その繰り返し。見ているだけで気分が悪くなってくる。

 死にたくない。

 馬鹿らしい。あああ、馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿、

 どうせ誰からも嫌われる勇気なんかないくせに。世界に居場所がないならいっそ死んでしまいたいと思っている。人は一人では生きられない。これは呪いだ。

 死んじまえ。

 

 ──じゃあさ。例えばの話だよ。

 

 好きな作品に転生できたら、何がしたい?

 昔はよく見たチートでハーレムとか、馬鹿っぽいなと思ったりもするけど。やっぱりそれくらいじゃないと、転生した旨味がないじゃん。

 俺は最強主人公になりたい訳で。

 楽して生きたいんだ。

 だから──今みたいな状況とか、全然望んでない。何が悲しくて殺されかけてんだよ。

 もっとさあ。もっと、なんかないの。

 ていうか、もっと上手くやれると思ってたんだよな。なんか、全然上手くいかないけどさ──

 

「また鬱陶しいのが出てきたわね」

 

 深海王が、優雅に道路へ降り立つ。

 でも、そんなのはもうどうでもいいんだ。

 

 ──俺、小さい頃ヒーローになりたかったんだよ。

 

 誰かが言った。スーツ姿の誰かだった。

 そっか。俺はなりたくなかったよ。

 ヒーローなんかなりたくなかった。

 ずっと誰かに守ってほしかった。何の責任も負いたくなかったし。誰も助けたくなかった。

 男らしくない?

 でも、そんなの誰だって同じじゃないか。

 俺は悪くない。

 永遠に被害者でいたかった。誰かを傷つけるくらいなら俺が傷ついていたほうがマシだった。

 だってそれなら誰かが悪いことになる。

 

 深海王の巨大な手が、ねずみでもつまむように俺の体を捉えて。簡単に持ち上げる。その右手は凍りついていて、オートガード自体は作用していたんだな、とぼんやり考えた。

 至近距離で睨みつけられる。抵抗する余力も気力ももう、出てきそうになかった。

 重篤なダメージを受けたせいか、能力の出し方がよくわからなくなっている。

 

「効果が見せられなかったじゃないの」

 

 死にたくない。死んでしまいたい。

 俺の人生に価値がないなんて、俺が一番良くわかってるんだよ。だから、

 

「あなたで試してあげるわね」

 

 あーあ。死んじゃった。

 終わる時はあっさりしたもんだよ。怖いとか、死にたくないとか、案外思わないもんだ。

 死んだらどうなるんだろう。

 どこに行くんだろう。

 初めての死亡者だ。だって、深海王編ではあれだけされて誰も死んでなかったんだぜ。みんな、どう思うんだろうな。

 俺が死んだら。

 

 

 俺が死んだら、サイタマは、?

 

「──────、」

 

 まとまりも意味もない走馬灯が、そこでおもむろに打ち切られた。

 ぐっと後ろに引っ張られる感覚がして、尻から濡れたアスファルトに着地する。

 痛え。そう思った。

 一体何が。解放されたのか? 何故。

 というか、重いんだけど。何かが思いきり伸し掛かってきている。

 回らない頭で、肩口に覆いかぶさるその“何か”に目をやって──頭が真っ白になった。

 

「…………ジェノス?」

 

 びっくりするくらい、間抜けな声が出た。

 背中全体が溶け落ちて、頭蓋が露出した機械のボディが、力なく俺にもたれかかっていた。

 見覚えのある光景だった。

 そして、防いだはずの光景だった。

 深海王の溶解液──いや違う、おかしい、こんなのは有り得ないんだ。

 確かに助けたはずだ。フラグを折ったはずだ。

 それだけが俺の意味だったはずなのに。

 

 ──その彼がなぜ、今。俺の膝の上で、溶解液のダメージに苦しんでいるんだ?

 

 わからない。何も、わからなかった。

 混乱の極みの中で、未だ白煙を上げ続ける彼の体に手を伸ばそうとして。

 

「触るんじゃない、」

 

 ノイズ混じりの、けれど聞き覚えのある声で咎められる。

 ジェノスだ。本当に、ジェノスなんだ。

 馬鹿みたいな話だが、そこでようやく事態を飲み込めた。涙が出そうになった。

 ジェノスが、少女ではなく、俺を助けて。溶解液を浴びた。結末としては“原作通り”に。

 事象は収束する。

 そんな、どこかで聞いたような決まり文句さえ頭に浮かんでこなかった。何で。なんで、

 

「なんで……俺を……」

 

 口元を押さえる。また吐きそうだった。

 俺が彼から『ヒーロー』を奪ってしまった。一般人を助けてヒーローになるはずの彼だった。俺なんかを助けることで傷ついてしまった。

 違う。違うんだ。

 こんなのはおかしい。

 こんな事態を望んでいた訳じゃない。それじゃ、俺は一体、何のために。

 

「……ぉえ、」

 

 えずいても、血が数滴垂れただけだった。

 

「あなた一人ならあんな溶解液躱すくらい、簡単だったでしょうね」

 

 深海王が、淡々と呼びかけてくる。

 どこかで聞いたようなセリフだ。そう思った。

 

「まさか雑魚を庇って自滅するなんて、私も考えつかな、────」

 

 雑魚。違う。“ガキ”じゃない。

 やり直したい。何もかもやり直したかった。

 そこの席には、あの女の子が座るはずだったのに。それが彼をヒーローたらしめてくれるはずだったのに。何の価値もない、こんな──

 

『静かに』

 

 ──深海王が、突然黙った。

 否。俺が“黙らせた”。

 巨大な氷柱が閂代わりに突き刺さった間抜けな顔で、彼だか彼女だか──よくわからない、とにかく怪人が、俺を呆然と見下ろしている。

 それを真っ直ぐ、睨みつける。

 もういい。もう、わかった。

 もうじゅうぶんだ。

 

「その通りだ」

 

 そうだ。

 全部、俺が悪い。

 

「うるさいんだよ、お前」

 

 唇の血を手の甲で拭って。ジェノスの体を慎重に脇へ退けて。立ち上がる。もう、不思議と体は動くようになっていた。

 手足がはっきりと、自分の物として動く。指先まで確かに神経が通っているのがわかる。能力の網も、糸も、今ははっきり感じ取れた。

 俺が生きているこの世界と。“ワンパンマン”という原作の世界が、ゆっくり、重なり合って。

 ずれていたそれらが、ひとつになる。

 ゲームのラグがようやく直ったような感覚。

 俺は今、ここに立っている。

 

「はあ……」

 

 ぐるっと、首を大きく回す。雨は相変わらずドン引きするくらい元気に降り続いている。

 一歩、足を踏み出す。

 さざ波が広がるように、冷気が地を這って広がっていくのを感じる。踏みしめた部分から、早送りのように凍りついていく。

 深海王もこちらに身を乗り出そうとして、

 

「……あら?」

 

 その両足は、既に地面へ張りついている。あっという間に、道路一帯がスケートリンクの如く様変わりしていく。そして、

 

「……雪……?」

 

 野次馬の誰かがそう呟いた。

 急激に気温が下がったせいか。雨の代わりに、ちらちらと大気を舞い始める白いもの。

 氷柱を引き抜いた深海王が、不気味そうに顔を歪めた。

 

「何なの、あなた」

「……何なんだろうな……」

 

 俺が何者か。俺が聞きたいくらいだよ。

 ただ、凍りついた世界はどうしようもなく落ち着いて、居心地が良かった。息を吐く。雨が降っているより、燃えているより、ずっと良い。

 ただ、深海王にはあまり良くない環境なのは間違いないようだった。

 顔の傷が治りきっていない。やはり、治癒能力は周囲の環境頼りだったか。

 あとは、全身凍らせればいい。こいつは水棲生物だから、機械を相手取るより楽なはずだ。

 そう思った、けれど。

 

「っ、」

 

 手をかざした瞬間に、ずきんと、頭が痛んだ。

 慣れてしまったいつもの頭痛。

 こんな時に。

 まだ始めたばかりじゃないか。せっかく、こんな、タイミングが悪すぎる。苦い気持ちになる。

 能力を使いすぎた。それとも、ここに至るまでにダメージを受けすぎたか?

 こんなふうじゃこいつを倒しきれない。

 いつもよりずっとハイペースで頭痛が襲ってくる。目眩がする。思わずふらついた。

 深海王が侮蔑したように鼻を鳴らしたのがぼんやり聞こえた。

 

「……具合悪そうじゃない」

「お前もな、」

 

 最悪の根比べだ。

 こいつがくたばるのが先か、俺がダウンするのが先か。とにかく気温を保ち続けなければ、こいつの再生能力に太刀打ちできないのに。

 

「う……」

 

 我慢。我慢だ、耐えろ。

 ここを凌ぎさえすれば、もう何でもいいんだから。こいつを倒すだけ。今の俺にとっては赤子の手をひねるようなものじゃないか。

 

「……っ、」

 

 手のひらにぬるっとした感触が広がる。

 いつの間にか、鼻血が出ていた。

 痛い。頭だけではない、もはや全身くまなく。立っているのが不思議なくらいだ。

 ガンガンと、頭蓋に大音量のスピーカーを貼りつけたような、耐え難い痛みが襲い続けている。

 頭そのものが脈打っている。

 ぐにゃぐにゃと視界が歪んで、全く焦点が定まらない。嘔吐感と目眩が交互にやってくる。

 絶望が、胸の内側で膨らんでいく。

 ここで俺がヤツに勝てないのも、シナリオ通りだと?

 

 ──……ろ…………

 

 そこで。

 どくどくざあざあと、ノイズのような血流の音に混じって、何かが聞こえてくることに気づいた。こんな経験は初めてだった。

 何だ。わざわざ耳を澄ますまでもなく、その声だけがみるみるクリアになっていく。

 

『凍らせろ』

 

 淡々とした、命令口調。

 どこかで聞いたような声だ、と思った。

 ──俺の声だった。

 

『冷やせ』

 

 俺に言っているのか。呼びかけているというよりは、ただ繰り返しているような調子。でも、その呼びかけはどんどん大きくなっていく。

 

『静かに』

 

 もう、何も聞こえない。周囲の音は何ひとつ耳に入ってこない。この呟きだけが。

 内なる自分、なんて綺麗なものではない。

 あの、怪物が。キャパシティの向こう側から顔を覗かせて、俺に語りかけている。

 

『何もかもを』

 

 途端、フラッシュバックするあの景色。

 燃え盛るアパートの一室。近づいてくるマグマ人間。どうして。終わったことなのに。

 嫌だ、

 

 あああ熱い、熱い熱い熱い熱い!

 助けて、違う、冷やさなきゃ、消さなきゃ、

 この火を無くさなきゃ、

 死んでしまう!

 

「消えろ、消えろ、消えろ……」

 

 火を消せ! 

 死にたくない、それでしか生き残れない。

 だから、違う!

 

「うるさい、」

『殺せ!』

 

 殺せ、殺せ、殺せ。

 最終的には、壊れたレコードのように、それしか繰り返さなくなった。

 怪人になれ!

 そして殺せ。

 何を。何もかもを。──人間を?

 

 

「──ジャスティスクラッシュ!」

 

 その瞬間。ふっ、と。

 その叫び声が、耳に飛び込んできた。何の前触れもなく、いきなりのことだった。

 沈み込んでいた意識が内側から外側へ、勢いよく引き戻されて。ようやく静かになった五感で、声の主を捉えた。

 緑色のヘルメット。ゴーグル。黒いスーツ。

 それが、深海王を見据えていた。すうっと、深く息を吸い込んで、

 

「正義の自転車乗り、無免ライダー参上!!」

 

 無免ライダーだ。

 無免ライダーが来てくれた。

 戦いを見守っていたらしい住民の誰かが、震える声でそう口に出した。

 でも。

 

「加勢に来たぞ!」

 

 彼──無免ライダーは俺を見て、頷き。それだけをはっきりした声で告げた。

 

「加勢……」

 

 加勢。ヒーローに、ヒーローとして。

 そんな資格ない。俺はヒーローじゃない。それはわかっていても、どうしようもなく安堵する自分がいた。紛れもない事実だった。

 無免ライダーが、優しい笑みを浮かべてみせる。

 

「もう、大丈夫だ。俺に任せてくれ」

 

 ただ、面白くないのが深海王だ。俺という異分子の登場で、明らかに原作より追い詰められた様子の彼は苛立った様子で舌打ちをする。

 

「……また使えなさそうなのが、」「黙れ」

 

 無免ライダーのおかげで、少し冷静になれた。減らず口を叩こうとする口を、最後の力を絞って再び氷柱で縫いつけてやる。

 

「口を開けば罵倒に嘲笑。王の器じゃねーな」

 

 その口枷を牙で噛み砕いて処理しながら、わかりやすく青筋を立てる深海王。ああ。お前がここまで平常心を失った姿が見られるなら、やってきたことは無駄じゃなかったと思うよ。

 

「何を、」

「とうッ!」

 

 俺に気を取られたところで、深海王の背後を取って殴りかかる無免ライダー。

 

「鬱陶しいのよッ」

「ぐふっ」

 

 しかし、残念ながら彼我の差は冷静さを失った程度で埋められるようなものではなく。羽虫を払うような一撃で、地に沈むその姿。

 そこからさらにアスファルトへ叩きつけ、最終的に天へと殴り飛ばす。明らかにオーバーキルだった。

 肩をいからす深海王はこちらに向き直り、

 

「まず……あなたから殺、」

 

 その死刑宣告が、中途半端に途切れた。深海王が、ゆっくりと肩越しに背後を振り返る。

 

「あう、ううぅ……」

 

 ズタボロの無免ライダーが、それでもがっちりとその腰にしがみついていた。 

 

「……期待されてないのは、わかってるんだ……っぷ、」

 

 再び、一撃で弾き飛ばされる。けれど、無免ライダーの語りは止まらない。

 ──C級ヒーローが大して役に立たないなんてこと、俺が一番良くわかってるんだ。

 特別な力も何もない。

 俺じゃB級で通用しない。

 

「──自分が弱いって事は、ちゃんとわかってるんだ!」

 

 彼の吠える声が、鉛色の空に響く。

 胸が痛かった。

 何度も見たセリフだ。反復したセリフだ。

 『感動の名場面』だとかラベリングして、好き勝手に消費していたワンシーンだ。手垢がついて擦り切れたと思い込んでいた場面だった。

 

「俺がお前に勝てないなんて事は、ッ……俺が、一番、よくわかってるんだよぉッ……!」

 

 地面を叩いて。震える手足で、体を起こす。

 

「それでも……やるしかないんだ、」

 

 立ち上がろうとする。──立ち上がる。

 ああ。弱いよ。俺は弱い。

 どうしようもなく弱いんだ。そんなこと、言われなくてもわかってる。

 

「彼女と同じだ、……勝てる勝てないじゃない、ここで俺は、お前に立ち向かわなくちゃいけないんだ!」

 

 いつの間にか、再び降り出した雨に濡れて。

 無免ライダーは確かに、そう叫んだ。

 

「……無免ライダー!」

 

 思わず、俺が叫んだのを皮切りに。

 

「……頑張れええ!」「そいつをやっつけてくれええ!」「あんたが頼りなんだよおお!」「無免ライダー!」「口から吐く液に気をつけてぇえ!」

 

 ──恐ろしいほどの大合唱になった。

 隕石落下の時と同じだ。人の気持ちは、どうとでもなるものなのだ。それは失望ではなく、希望だった。

 深海王が再び舌を打って、そちらに意識が引き戻される。

 

「だから無駄だって、」

「無駄」

 

 彼に向かって振り下ろそうとした拳を、凍りつかせる。

 もう余力なんてない。ほとんど絞りカス、最後の意地だった。どうしてもムカついた。何の権利があってお前がそんなことを言ってるんだ。

 

「無駄、無駄、無駄……!」

 

 無駄。何が無駄?

 無駄なのはお前のほうだ。

 怪人なんて、

 

「怪人なんて誰でもできるくせに」

 

 誰だってなれる。なりたくなくたってなれる。

 電気の紐でシャドーボクシングしているだけで、警察官に逆恨みしただけで、死にたくなかっただけで。それだけで、簡単になれてしまう。

 こいつはいわゆる怪人じゃないが、それでも自分の意志で勝手に地上へ乗り出してきただけだ。そんなこと誰だって考えつく。

 それが。そんなものが。ヒーローより素晴らしいなんて、今の俺にはどうしても思えなかった。

 なんも偉くねーんだよ、そんなもん。

 何が王だよ馬鹿馬鹿しい、誰でもできる無駄なことで他人見下して。

 本当に気持ち悪いよ、お前。

 

「……はァ?」

「ふふ……ははっ、……ああ……」

 

 怪人にはなりたくなかったよ。

 誰かにずっと守られていたかった。

 ヒーローにはなりたかった……のかもしれない。本当は。

 でも、俺にはもう無理だ。俺は間違いだらけで、自分さえ良ければ本当にそれで良いんだ。

 ジェノスは偉い。俺なんかよりずっと偉い。無免ライダーもスネックもブンブンマンもジェットナイスガイもオールバックマンも、本当に偉い。

 怪人なんかより、ずっと尊いものだった。

 今、なんとなくそう思った。

 

「よくやった」

 

 ──そうして、“彼”が現れる。

 

「ナイスファイト」

 

 ふらふらだった無免ライダーをしっかり背後で支える、マントにヒーロースーツ姿のスキンヘッド。まだ意識があったらしい彼が、その姿を見上げて小さく息を呑んだ。

 

「きみは、……」

「おう」

 

 軽い調子で答えてから、地面に蹲るジェノスに視線をやって、目を剥く。

 

「お、おいジェノス、おま……生きてんのかそれ!?」

「先……生……」

 

 それから、膝をついた俺を見て。

 

「……セツナ、」

 

 少し、驚いたようだった。いや、違うかもしれない。何と形容したらいいのかわからない顔をして。

 誤魔化すように、スキンヘッドを掻いて。

 

「まあ……心配すんな。ちょっと待ってろ」

 

 サイタマ。サイタマが何か言っている。

 でも、もう限界だった。顔を見たら、どっと疲れが出たような気がする。座っているのももうしんどいくらいで。

 

「今。海珍族とやらをぶっ飛ばすからな」

 

 意識があったのは、そこまでだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──気づいたら、全てが終わっていて。

 腹に風穴の空いた深海王は地面で干乾び、群衆はサイタマを遠巻きに冷めた目で眺めていた。

 それで、俺は。なぜか、そのサイタマの膝を枕にした状態で、目が覚めた。

 

「セツナ」

 

 目が合って。サイタマが、ほっとしたような声音で俺の名前を呼んだ。グローブの指が、体液で酷いことになっているだろう頬を撫でる。

 濡れた地面に座って嫌じゃないのかとか、一番大事な時に味方になってやれなくてごめんとか、色々言いたいことはあったけれど。

 

「スーツ、……汚れる……」

「何言ってんだ」

 

 軽く笑い飛ばされて、よいしょ、と。何の予備動作もなく、横抱きの姿勢で抱き上げられた。

 

「ジェノスも無事だったよ」

 

 それは良かった。

 良かったけれど、彼は俺のせいで。

 

「……帰ろうぜ、」

 

 支える手に、少しだけ力がこもった気がしたけれど。それを意識するより早く、サイタマが晴れ晴れとした顔で、青が広がる空を仰ぐ。

 

「よし。雨も止んだな」

 

 つられて、空を見た。

 数時間ぶりの陽射しが、刺すように目に染みたけれど。もう、涙も出なかった。





超能力者が鼻血出すの好きなんですよね

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