うっかり怪人♀になってしまったっぽいが、ワンパンされたくないので全力で媚びに行きます。   作:赤谷ドルフィン

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泥濘に堕つ

 ──夢を見た。

 

 コンクリートの長い階段。その天辺にある車止めに腰掛けて、女が街を見下ろしている。

 白い長髪が風に揺れていた。景色に不釣り合いな、縞模様のパジャマ姿を身に着けていた。

 鉛色に鈍く陰った空の欠片が剥がれ落ちて、はらはらと宙を舞っている。

 ぶらぶらと、裸足の爪先が揺れる。

 何の迷いも憂いもなさげに。

 

『──────、』

 

 白い街。冷たい街。静かな街。

 自らで作り出した芸術作品を、満ち足りた気持ちで眺め回す。今まで味わったことのない充足感だった。

 ああ。良い気分だ。

 二度と晴れることのない空を仰いで、研ぎ澄まされた刃のような空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。

 素敵だ。素晴らしい景色だ。

 

『────せ、』

 

 もう、何もつらいことはない。

 悲しいことも、頭を悩ますようなこともない。全て、凍って無くなってしまった。

 これまで何に苦しんできたのだろう。本当に馬鹿げた時間だった。

 そこで、はたと我に返る。

 いや、待てよ。

 どうして“俺”はこんな気持ちに?

 

 

 ──女が、ゆらりとこちらを振り返る。

 “目が合った”。

 血の気のない唇を真一文字につぐみ。凍りついたような無表情のまま、瞬きもせずにじっと、その目で射抜いてくる。

 青い瞳。透き通ったアイスブルーの虹彩。不気味に光り輝くそれが、“俺”を見て。

 薄い唇が、

 

『殺せ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ、」

 

 そこで──おもむろに意識が浮上した。

 びくっと、雷に打たれでもしたかのように跳ね上がる手足。それを思考の外で知覚した。

 ぼやけたようだった五感が、四肢の感触が、自らのものとしてはっきりと感じられる。

 真っ暗な部屋。そのベッドの中で、体を丸めている。

 一瞬混乱しそうになって、すぐに思い出した。

 深海王をサイタマが倒して──あの後。

 ヒーロー協会から「病院に行け」というような旨の連絡が来たけれど、断った。当然だ。ただ生活しているだけでひやひやしているのに、あれこれ体を検査されたりしてはたまらない。

 それから、サイタマとZ市まで帰ってきた。

 

「…………ゆめ、」

 

 夢。思わず、呟いていた。

 そうであれ、と祈る響きがこもっていた。

 気持ちの悪いほどリアルな夢だった。握りしめた、錆でざらついた車止めの感覚がまだ手に残っている。いや。違う。あの女は俺じゃない。

 頭を振って、掻き消す。

 ──大丈夫。

 大丈夫。あれは夢。現実じゃない。

 大丈夫のはず、なのに、

 

「う……」 

 

 口元を押さえる。

 頭が重い。視界が安定しない。

 何だか、ものすごく気持ち悪かった。アパートに辿り着いてからの記憶がないが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 気分が悪い。じっとしていられない。

 言語化できない焦燥感に突き動かされて、這うようにしてベッドから出る。

 今は何時なのだろう。

 ええと、それで、何だっけ──

 

『殺せ』

 

 ざっと。頭の中にノイズが走った。

 また、“あの声”だった。

 

「違う、」

 

 ぞわり、背筋が戦慄く。

 悪寒と、目眩。

 よろけて、壁に手をついた。そこで、ぼんやりとした違和感を覚えた。壁紙の触り心地が、やたらとなめらかに感じる。

 まず、手のひらを見て。何ら変わりないそれから目を離し、ふと壁に目をやって。

 ぎょっとした。

 

「……なんだこれ、」

 

 ──部屋が、凍っている。

 そうとしか形容のできない景色で。何度目か、見覚えのある風景だった。

 固く閉ざされたカーテン、白く粉をまぶされたようなインテリア。死んだような空気。

 吐きそうになりながら、明らかに異質な室内を恐る恐る見渡す。

 俺がやったのか、無意識のうちに。

 覚えがあるゆえに、気分が悪い。楽しいなんて微塵も思わなかった。

 

「っ……」

 

 掴んだ寝間着の胸元から、生地が凍っていく。

 今までこんなことなかったのに。そんな焦りが微かに脳の表面をよぎって、気分の悪さですぐに押し流されていく。

 縞模様がさらさらと、砂のように崩れていくのを呆然と見守って。考えが追いつかないのに、おぞましい現状だけが次々と視界に流れ込んでくる。

 

『凍らせろ』

「やめろ……」

 

 侵食は止まらない。ついに、身に着けていたものが全て氷屑と化して。露わになった自分の体が何ともないのが、不思議なくらいだった。

 一糸纏わぬ姿になってしまったが、今さらそれに対する気恥ずかしさは感じなかった。この状態では新しい服を探しても無駄だろうし、それ以上の恐怖が胸を占めていた。

 部屋の外は──どうなってる? 街は?

 とっさに想像して、怖気が走った。

 もし。もし、既に街さえ凍らせてしまっていたとしたら。俺が昔、思い浮かべた通りに。

 夢と同じ風景に。

 心の底から望んだように。

 

『冷やせ』

 

 原因はわかっている。

 能力が暴走した。

 何故、と困惑はしなかった。原因はわかっている。既に前例があるのだから。

 深海王の一件で、つい力を使いすぎた。そのしっぺ返しが来たということだ。

 なんで。どうして。いや、全ては自業自得だ。

 悔やんだって全ては手遅れ。

 

 ──もう、戻れないかもしれない。

 

 それを今さら知覚して、呼吸が荒くなる。ジェノスの姿が、無免ライダーの顔が、泡のように浮かんでは消えていく。昨日のことなのに、もはや遠い昔のように感じられた。

 

「ヒーロー、」

 

 うわ言のように繰り返す。

 ヒーロー。ヒーロー、ヒーロー……馬鹿げてる。なれる訳ないだろ、こんな体で。

 なりたかったよ。

 でも、俺じゃなれない。期待や努力を超えた次元での諦めが、喉につっかえて飲み込めない。

 心構えや勇気の問題じゃない。

 俺は普通じゃない。怪人なんだから。

 頑張るんじゃなかった。あんな、何のために俺は。違う、こんなこと考えたくない。

 放っておけばよかった。

 違う。

 

「嫌だ……」

 

 もう、何もかもがぐちゃぐちゃだった。

 その場で蹲り。

 思わず、頭を抱えて。

 

「──────、」

 

 そのこめかみから伸びる違和感に、叫び出しそうになった。

 鏡を覗くまでもない。そんなレベルではもはや収まっていなかった。側頭部から髪をかき分けて生えた──ねじくれたツノ。

 到底隠せるようなサイズではない。キャップでさえ誤魔化せそうにはなかった。

 もちろん、ここまで肥大化したことなんてない。元に戻るかさえわからなかった。

 

「あ、ぁあ」

 

 掠れて引き攣れた悲鳴が、喉奥から漏れた。

 落ち着け。落ち着いてなんかいられない。

 冷静に──ビー・クール。笑えない冗談だ。改めてそう思った。

 ツノ。ツノが。どうしよう。

 このまま戻らなかったらどうしよう。本当に怪物になってしまったらどうしよう。

 冷え切って沈黙した部屋の中で、ばくばくと心臓だけが落ち着きなく脈打っている。

 

『静かに』

「違う」

 

 寒くなんてないのに震えが止まらない。両肩を抱いて、がたがた震える。

 違う。こんなのはおかしい。

 おかしいんだ。

 俺が望んだ現実じゃない。

 

「……覚めろ、」

 

 気づけば、そう口に出していた。

 そうだ。これこそが忌むべき悪夢。俺が本当に目覚めなければいけない暗闇なのだ。

 背中を丸めて、ひたすら自らの頭を拳で叩く。気が狂ったとしか思えない光景だったが、そうでもしないと正気を失ってしまいそうだった。

 否、もうおかしくなっているのかもしれない。

 

「覚めろ、覚めろ、覚めろ……」

 

 呪文のようにぶつぶつ呟く。

 夢ならどうか覚めてくれ。何もかも、悪い夢の延長線上であってほしかった。

 ああ、ほら。

 俺はこんなにも弱い。

 いっそ狂えてしまえば良かったのに。

 

 

 

 

 ──そんな調子だったので、扉の外から気配が近づいてきていたのに、全く気づけなかった。

 

「………………」

 

 嘆くのにも、いい加減疲れ果て。

 ふと顔を上げたところで、ようやく外で、話し声のようなものがしているのに気づいたけれど。

 時すでに遅し。

 ばこっ、と鈍い音がした。

 

「あっ、…………」

 

 そして、「やべっ」みたいな声。

 暗闇に近かった室内に、さあっと四角形の光が降り注ぐ。それが爪先を掠めて、投げ出していた足をとっさに引っ込めた。

 何事だ。閉じこもっていた殻を強引に剥かれて壊された気分で、出入り口方面に目をやる。

 誰かが、立っていた。

 大きな長方形を片手に佇む人影。逆光で、顔がよく見えない。その人影はゆらりと面を上げ、

 

「い──いや! 別にそんな……壊して入ろうと思った訳じゃねーぞ!? 鍵かかってないのにやたら重いからちょっと引っ張ったらそれで、」

 

 慌てた様子で言葉を紡ぐ。

 サイタマ──彼にドアを破壊されたのだ。そこでやっと状況を理解した。

 鍵をかけた覚えは確かに無かったが、霜が張った影響で開かなくなってしまっていたのだろう。

 ちょっと引っ張った程度で扉が蝶番もろとも取れるかよ、とか、どう直すんだ、とか、言うべきことは色々あるのかもしれないけれど。今は、そのどれも口に出す余裕はなかった。

 サイタマが。サイタマが来てしまった。

 

 ──何故。いや、わざわざ探るような理由なんかないのか。あれだけボロボロで、治療を拒否したら当然のように心配する?

 

 そんなことはどうでもいい。

 どうしよう、どうしたらいい。

 見られたら。この姿が、知れたら。どうしても頭をよぎるワード。

 

 ──怪人。

 

 言い逃れしようがない。排除すべき危険分子。殺される。殺される、殺される、

 ただでさえ落ち着かなかった心拍が、ますますテンポを上げていく。胸を押さえる。

 

「…………セツナ?」

 

 異変に気づいてしまったらしい彼が、いつもより慎重な口ぶりで俺の名前を呼んだ。

 やめろ。帰ってくれ、頼むから。

 どうしたら、彼を穏便に追い出せるだろう。駄目だ、頭が回らない。そんな魔法みたいな解決方法が存在するとも思えなかった。

 

「そんなとこで何やってんだよ」

 

 のんびりと、気の抜けた呼びかけ。普段なら安心するはずのそれに、今は恐怖しか覚えない。 

 殺される。つい、頭をよぎる。

 死にたくない、死にたくない、死にたくない、

 

「ていうかこれ、」「来るな」

 

 ──思った以上に冷たい声が出て。

 ざくざくと、テンポ良く霜を踏みしだいていた足音が不自然に止まった。

 発言を宙ぶらりんにしたまま、サイタマが俺の背後に立ち竦んでいる。

 怖い。恐ろしい。……惨めだった。

 怪人だとか、バレたら殺されるかもしれないとか関係なく。こんな惨めな姿、見せられない。

 見てほしくない。

 死んでしまいたい。

 

「……見ないで、」

 

 せめてもの抵抗で、頭を抱え込むように、より深く背を丸めていく。

 サイタマはまだ黙っている。

 嫌われたのかもしれない。そりゃそうだ、幻滅されても、不気味がられても仕方ないだろう。

 

「……はあ」

 

 低く、息を吐き出す響き。それだけで、むりやりちぢこめた肩が勝手に跳ねる。

 けれど。サイタマは、その場から踵を返すことも、俺を罵ることもしなかった。

 その代わりに、

 

「なんかさ、」

 

 不自然に弾んだ声が、虚空に木霊する。空元気を出そうとして、強引にトーンを上げたような響きだった。

 

「冷凍庫みてーだな。俺、スーパーでバイトしてた時期あってさ。こういうとこから品出しとかしてた……今、ちょっと思い出したわ」

 

 言いながら、再び足音が近づいてくる。ほっと胸を撫で下ろすと同時に、恐ろしさを覚えた。

 サイタマは、何を考えているんだ。これから何をするつもりなんだ。全くわからない。

 今の俺は、普通じゃない。

 いや、ずっとなんだ。

 平気になったふりをして、実のところ、何も大丈夫なんかじゃなかった。3年前からずっと。

 変わってきたふりをしてきただけだ。

 

「サイタマ、」

 

 目的が、意味がわからない。恐ろしい。

 咎める意味を込めて呼びかけても、サイタマはとうとう止まってはくれなかった。

 恐ろしくて──惨めだった。どこまでも。

 負の感情がごちゃ混ぜになって、思考回路がぐちゃぐちゃに腐り落ちていく。

 嫌がっていようが関係ない、俺の意思なんてどうでもいいと思ってるんだろ。違う、どうして俺はこんな卑屈なこと考えてるんだ?

 どうなってでも生きていたい気持ちと、こんな恥を晒してまで生きていたくない気持ちと。

 耐えきれないから殺してくれ。

 嫌だ、死にたくない。

 サイタマなんて嫌いだ。

 サイタマだけじゃない、ジェノスも、ヒーローも、この世界も、みんなみんな大ッ嫌い──自分の居場所が見つけられないからガキ臭く拗ねてるだけだ、そんなこと俺が一番よくわかってる、

 

「ぉぼぁ」

 

 ──サイタマの濁った叫びで、我に返った。

 とっさに顔を上げる。彼が、グローブの両手で目元を覆った半端な格好で仰け反っていた。

 何、と身を竦ませるより早く、

 

「ぉ……おま、なんつー格好、」

 

 らしくもなく上ずって震えた声。

 それで、見当がついた。そういえば、着ていた寝間着がボロボロになって、裸同然なのだっけ。今さら他人事のように認識する。

 でも、そんな表層的な羞恥心は、この精神状態では響いてこなかった。今、恥ずかしい、見せたくない、と思うのは、もっと深い部分。アイデンティティとしての悲惨さ。

 とはいえ、サイタマとしてはまったくそうではないようで。

 

「ちょ、ちょっと待て!」

 

 勢いよく背を向けて、何かいそいそと作業していたかと思えば。ふわりと視界を覆う白。

 

「と、……とりあえず、これで、いいだろ……」

 

 肩から被さった布──彼が、ヒーロースーツの一部として身につけていたマントだった。

 わざわざ肩当てから外して、簡易的な着衣として貸し与えてくれたらしい。ひとまず、緩く掛かっていただけだったそれの前を軽く合わせて、一応前面を隠す。

 すっぽり包まる形になって、それでようやく見るに耐える格好になったらしい。わざとらしく壁を見上げていたサイタマが、俺に向き直る。

 ……何となく、こちらも拍子抜けというか。毒気を抜かれたような気分になってしまった。

 微妙な空気の中、頬を掻きながら、

 

「あー……えっと、」

 

 気まずそうに呼びかけてくる。けれど、改めて俺と目を合わせて、眉を下げてみせた。

 何か言いかけて、口をつぐんで。音にならないそれを数回繰り返して。

 最終的に、ぎこちない仕草で、しかし自然にこちらの肩を引き寄せてきた。壊れ物に触れるような手つきだった。

 しかし。

 ──触れ合うことに、反射的に強い恐怖心を抱いたのが良くなかったのだろうか。

 サイタマのグローブにさあっと霜が張り。その首筋に、氷の蔦が這う。その現象を間近で目の当たりにして、背筋が粟立った。

 存在しているだけで生まれる加害性。

 生きていることが害。呼吸することが悪。

 あのノイズが一瞬で脳を埋め尽くす。

 

 ──殺してしまう!

 

「嫌だ、」「セツナ」

 

 離れなければ。強迫観念に駆られて。

 とっさに飛び退いたところで、背後から強い語気で名前を呼ばれた。

 結局、足がもつれてその場に倒れ込む。そこに勢いよく重なってくる影。俺に覆いかぶさったサイタマが、間近でこちらを見下ろしていた。

 緊張で乱れた呼吸が整わないまま、彼を見上げる。いつもよりは引き締まったサイタマの表情。

 

「大丈夫だから。……生きてるだろ?」

 

 見つめ合ったまま、噛んで含めるように呼びかけられて、少しだけ平静を取り戻す。

 大丈夫。サイタマは無事で、生きている。

 まだ、触れるのは怖かった。しかし、ここからさらに抵抗するのも気が引けた。

 悩んでいるうちに、彼は俺を慎重に抱き起こし。その肩口にもたれかからせてしまう。

 触れて、しまった。

 

「平気だって」

 

 まだ、体が強張っているのがわかるのだろう。なだめるようにそう囁いてきた。

 そう言う彼の触れ方だって、おっかなびっくりがあからさまなものだ。まるで初めて赤ん坊に触る子どもみたいな動き。

 緊張をほぐすように、輪郭を撫で、髪を梳いてくる。

 

「だから……もう泣くな」

 

 ──泣いてないよ。

 言い返す気力もなかった。ただ、脱力して、こわごわといったふうにあやしてくる彼の手に身を任せるだけ。

 恐怖も、羞恥ももはやどこにもなく。今はただ、ひたすらに疲れていた。

 

「ほら」

 

 彼が、グローブを取った左手で、投げ出していた俺の右手を掬い上げる。目線の高さまで持ち上げて、ゆっくり指を絡めてくる。

 今度は、凍らなかった。

 

「冷たくない。な?」

 

 数度、感覚を確かめるように握り返す。

 深く指を組むと、手の甲まで覆えてしまいそうだった。大きな手。3年前と同じことを思った。

 重なった手越しに、目が合って。なぜか、得意げに微笑まれた。

 

「………………」

 

 組んでいた指をほどき。

 恐る恐る手を伸ばして、その頬に触れる。普通の人間と何ら変わりないように見える肌。だから、壊してしまうんじゃないかと怖かった。

 けれど。サイタマはただ、くすぐったそうに三白眼を細めただけだった。

 生きている。

 そっと指を滑らせて、首筋に当てた。とくとくと、皮膚の下で脈打つ血の流れを感じる。

 温かった。この世の果てのようなこの部屋の中で、サイタマは平然と、いつもどおりに息をしている。彼が。彼だけが。

 

「……サイタマ」

「おう」

 

 ごく短いやり取り。それだけでじゅうぶんだった。満ち足りていた。

 それ以降は、沈黙だけが流れた。

 サイタマの肩に半身を預けて目を閉じて、どれだけそうしていたのか。

 先に動いたのは、彼のほうだった。慎重な動作で体を離したかと思えば、こめかみ辺りに触れてくる。ずっと気になっていたが、口に出す機会がなかったのかもしれないもの。

 

「これ……何だ? ツノ?」

 

 ──どきりとした。

 誤魔化しようがないほど成長したそれに触れるサイタマの口調は、単純に興味深そうなだけであったが。それでも、収まりかけていた焦燥感と怯えが、再びぐつりと沸き上がるのを感じた。

 何もかも、このツノが悪い。

 こんなものがあるからいけないのだ。

 これのせいで俺は。

 胸の内で渦巻くその感情は、今さらどうにも抑えられそうになかった。衝動に任せて、告げる。

 

「折って」

 

 無くなりさえすれば、少しはマシになる。

 化け物の姿からは解放される。

 そんな安直な考えだったが、当然というべきか、サイタマの反応は鈍かった。

 

「え、」

「これ……」

 

 ツノに触れるサイタマの手に、自分の手をさらに重ねて、握らせる。感覚はやはり薄く、例えて言うなら毛先に触られているのと同じような、それよりももっと鈍いレベルだ。

 

「折る、って……お前から生えてるヤツだろ」

 

 漠然とした口ぶり。怪人化とか、そういったレイヤーにまで到達していなさそうな軽さだった。

 予想以上に、サイタマはこのツノの理由について深く考える気はないらしい。考え込まれても困るが、怪しいくらい拍子抜けだった。単なる動力源くらいに思っているのだろうか。

 まあ、今はそれについて色々と思考を巡らすのはよそう。すぐに面倒なことにはならない。

 とりあえず、それだけでいい。

 

「こんな、……いらない、」

 

 そんなサイタマにも、俺の迫真の訴えはそれなりに響いたらしい。明らかに気が進まないようではありつつ、しかし、拒む様子も見せなかった。

 日常生活に支障がありそうだから、というようなぼんやりした理由なのか、それとも俺の剣幕を汲んでの話なのか。それはわからないが。

 ふう、とひとつ息を吐いてから、感触を確かめる以上の強さでツノを握り込んでくる。首に負担が掛からないようにするためか、もう片方の手で頭をしっかり胸元に抱き込まれて、少しどきりとした。

 

「血ぃとか通ってないよな」

 

 ぶつぶつと、小声で呟いたかと思えば。ぐっと頭部に衝撃が走り──ぽきん。

 

「……折れたぞ」「っ、…………」

 

 ごく軽い音とともに、なぜか全身を襲い来る異常な倦怠感。やはり力の源的な部分ではあったのか、いきなり四肢に力が入らない。

 

「結構、根元から綺麗に……痛かったか?」

 

 突然もたれかかってきたのを何と捉えたのか、気遣わしげに顔を覗き込んでくるサイタマ。

 それは有り難いのだが、ここまで来たからにはちゃっちゃと済ませてほしい。サイタマの手のひらに載ったツノは、ただのねじれた氷柱に見えた。彼はそれをぽい、と床に気軽な仕草で投げ捨てる。

 何となく、ほっとした。

 

「だいじょう、ぶ……残った、ほうも」

「お、おお……」

 

 息も絶え絶えになりながら訴えた結果、もう片方も無事にぽきん、と除去された。

 少し触っただけでもわかる、単なる氷ではない材質と強度だったのだが、随分と簡単に折れたものだ。いや、これはサイタマだからこそ、だったのだろうか。もしかすると、普通の人間や器具には歯も立たない硬度だったのかもしれない。

 とりあえず、悩みの種はなくなった。

 これで、見た目だけでも人間に戻れた。

 それはいい、のだが──

 

「セツナ?」

「……ねむい……」

 

 そうか。これは眠気、だ。

 ようやくぴんと来る。

 3年以上、原始的な欲求とは無縁の生活をしていたせいで、この特徴的な脱力感が一体何なのかをすっかり忘れていた。

 全てを放り出して目を閉じてしまいたい強烈な欲求。抗いがたい衝動。久しぶりに覚える。

 

「………………」

 

 人間らしく、それに逆らわず、瞼を下ろしてサイタマに寄りかかったところで。

 

「……とりあえず」

「わ、」

 

 突如全身を襲った浮遊感に、意識が勢いよく浮上した。──サイタマに、マントに包まれたまま横抱きで抱きかかえられていた。

 これも昨日ぶりか、とどこか他人事じみて捉える。眠たいとはいえ昨日の満身創痍よりは覚醒した状況で、こんな運搬のされ方は恥ずかしい。

 しかも、マントがあるとはいえ俺は全裸なのだ。恥ずかしいはずなのに、上手く口に出せなかった。

 

「こんなとこじゃ気分も休まらねーだろ」

 

 薄暗く、死んだように静かな部屋を見渡して、サイタマはそんなコメント。

 それから、唯一の光源である、プライバシーをかなぐり捨てた出入り口を見やって。

 

「ドア…………壊しちゃったしな」

 

 いや、冷静になってみれば、本当に明日からこれはどうすればいいんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まあ、ちょっとここで休んどけよ」

「あ、ありがとう……」

 

 結局。サイタマの部屋までやってきて、敷きっぱなしだったらしい布団に寝かされた。

 他人の布団にほぼ全裸で入る、人生で未だかつてない、そして今後も起こらないで(いてほしい)あろう経験だった。とはいえ、今さら「ちょっと」などと抵抗するのは逆に厚かましいだろう。

 できる限り何も意識しないようにしつつ、掛け布団を首元まで引き上げる。

 当のサイタマは、その枕元に胡座をかいて。

 

「……冷気も落ち着いたみたいだな」

 

 崩れた前髪を慎重な手つきでかき上げて、その下の表情を覗き込んでくる。

 

「お前いっつも顔色悪いから、調子良いんだか悪いんだかよくわかんねー」

 

 からからと、軽妙に笑い飛ばしてくれるその空気が有り難くて。……てっきり、もう少し話してくれるものだと勝手に期待していた。

 母親が熱心に看病してくれるものだと信じ込んでいる、風邪っぴきの子どもみたいに。

 

「ま、ゆっくり寝ろって」

 

 でも、サイタマは躊躇なく腰を上げて。俺に背を向けて離れていこうとする。その手を──

 

「行かないで」

 

 ──思わず、掴んで引き留めていた。その肌に爪が食い込むほど強く。

 そうせざるを得なかった。

 そうしないと、死んでしまう。

 少しは落ち着いたのかもしれない、と思った。サイタマも、そう思っていたのだろう。やや驚いたような顔で、肩越しに俺を見た。

 でも、駄目だった。

 一人にされると思うと、怖くて、焦って、眠るどころじゃなくなってしまう気がした。

 もう大丈夫、と思っていた不安が、ちょっとしたことで一気に噴出して、心の表面を覆う。急転直下の不安定ぶりに、自分でも驚いているくらいだった。

 惨めで、女々しい。25にもなろうかという男が抱くような不安ではない。わかってはいても、もはやどうしようもできなかった。

 恐ろしいのだ。到底、一人なんかで立ってはいられない。自分じゃ何も考えられない。

 

「怖いよ」

 

 ──怖い。

 

 思わず漏れたその一言に、サイタマが静かに目を細めた──ような気がした。

 ゆっくり、踵を返して。再び、元いた位置に腰を下ろす。それだけで、どうしようもなく安堵している自分がいた。

 半端な位置で掴んだ手を、しっかり握り直して。そうして、彼は穏やかに尋ねてきた。落ち着いた、大人の男の声だった。

 

「……お前は、何が怖いんだ?」

 

 何が? ……何もかもが。

 怖い。

 怪人協会が。サイコスが。ガロウが。アマイマスクが。ヒーロー協会が。ジェノスが。

 俺の体を受け入れない人間たちが。

 俺の魂が座る席のないこの世界が。

 ありとあらゆる全てが。

 怖くて怖くてたまらない。

 死んでしまいたい。

 

「どうしたら、お前を安心させてやれる?」

 

 ──どうしたら。

 そんなの、決まっている。

 重い瞼を上げて、彼の目を見つめ返す。

 確かな光の灯った、ヒーローの瞳を。その輝きはとても眩くて、これさえあれば、どんな暗闇でも生きていけるんじゃないかと思った。

 彼さえいれば。

 握られた手を、強く強く、握り返す。

 

「サイタマがそばにいてくれたら」

 

 それでいい。それだけがいい。

 人々から、世界から。

 俺の全てを守って。助けて。壊してくれ──俺のヒーロー、ワンパンマン。

 

 この世界で俺の手を握っていられるのはもう、お前しかいない。





短くなりそう(〜5000字くらい?)と思ってたら全然2倍近くあったので書き終わりませんでした。
サブのスマホがいきなり起動しなくなって病んでました。そんな感じです。
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