うっかり怪人♀になってしまったっぽいが、ワンパンされたくないので全力で媚びに行きます。 作:赤谷ドルフィン
──夢を見た。
コンクリートの長い階段。その天辺にある車止めに腰掛けて、女が街を見下ろしている。
白い長髪が風に揺れていた。景色に不釣り合いな、縞模様のパジャマ姿を身に着けていた。
鉛色に鈍く陰った空の欠片が剥がれ落ちて、はらはらと宙を舞っている。
ぶらぶらと、裸足の爪先が揺れる。
何の迷いも憂いもなさげに。
『──────、』
白い街。冷たい街。静かな街。
自らで作り出した芸術作品を、満ち足りた気持ちで眺め回す。今まで味わったことのない充足感だった。
ああ。良い気分だ。
二度と晴れることのない空を仰いで、研ぎ澄まされた刃のような空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
素敵だ。素晴らしい景色だ。
『────せ、』
もう、何もつらいことはない。
悲しいことも、頭を悩ますようなこともない。全て、凍って無くなってしまった。
これまで何に苦しんできたのだろう。本当に馬鹿げた時間だった。
そこで、はたと我に返る。
いや、待てよ。
どうして“俺”はこんな気持ちに?
──女が、ゆらりとこちらを振り返る。
“目が合った”。
血の気のない唇を真一文字につぐみ。凍りついたような無表情のまま、瞬きもせずにじっと、その目で射抜いてくる。
青い瞳。透き通ったアイスブルーの虹彩。不気味に光り輝くそれが、“俺”を見て。
薄い唇が、
『殺せ』
「ッ、」
そこで──おもむろに意識が浮上した。
びくっと、雷に打たれでもしたかのように跳ね上がる手足。それを思考の外で知覚した。
ぼやけたようだった五感が、四肢の感触が、自らのものとしてはっきりと感じられる。
真っ暗な部屋。そのベッドの中で、体を丸めている。
一瞬混乱しそうになって、すぐに思い出した。
深海王をサイタマが倒して──あの後。
ヒーロー協会から「病院に行け」というような旨の連絡が来たけれど、断った。当然だ。ただ生活しているだけでひやひやしているのに、あれこれ体を検査されたりしてはたまらない。
それから、サイタマとZ市まで帰ってきた。
「…………ゆめ、」
夢。思わず、呟いていた。
そうであれ、と祈る響きがこもっていた。
気持ちの悪いほどリアルな夢だった。握りしめた、錆でざらついた車止めの感覚がまだ手に残っている。いや。違う。あの女は俺じゃない。
頭を振って、掻き消す。
──大丈夫。
大丈夫。あれは夢。現実じゃない。
大丈夫のはず、なのに、
「う……」
口元を押さえる。
頭が重い。視界が安定しない。
何だか、ものすごく気持ち悪かった。アパートに辿り着いてからの記憶がないが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
気分が悪い。じっとしていられない。
言語化できない焦燥感に突き動かされて、這うようにしてベッドから出る。
今は何時なのだろう。
ええと、それで、何だっけ──
『殺せ』
ざっと。頭の中にノイズが走った。
また、“あの声”だった。
「違う、」
ぞわり、背筋が戦慄く。
悪寒と、目眩。
よろけて、壁に手をついた。そこで、ぼんやりとした違和感を覚えた。壁紙の触り心地が、やたらとなめらかに感じる。
まず、手のひらを見て。何ら変わりないそれから目を離し、ふと壁に目をやって。
ぎょっとした。
「……なんだこれ、」
──部屋が、凍っている。
そうとしか形容のできない景色で。何度目か、見覚えのある風景だった。
固く閉ざされたカーテン、白く粉をまぶされたようなインテリア。死んだような空気。
吐きそうになりながら、明らかに異質な室内を恐る恐る見渡す。
俺がやったのか、無意識のうちに。
覚えがあるゆえに、気分が悪い。楽しいなんて微塵も思わなかった。
「っ……」
掴んだ寝間着の胸元から、生地が凍っていく。
今までこんなことなかったのに。そんな焦りが微かに脳の表面をよぎって、気分の悪さですぐに押し流されていく。
縞模様がさらさらと、砂のように崩れていくのを呆然と見守って。考えが追いつかないのに、おぞましい現状だけが次々と視界に流れ込んでくる。
『凍らせろ』
「やめろ……」
侵食は止まらない。ついに、身に着けていたものが全て氷屑と化して。露わになった自分の体が何ともないのが、不思議なくらいだった。
一糸纏わぬ姿になってしまったが、今さらそれに対する気恥ずかしさは感じなかった。この状態では新しい服を探しても無駄だろうし、それ以上の恐怖が胸を占めていた。
部屋の外は──どうなってる? 街は?
とっさに想像して、怖気が走った。
もし。もし、既に街さえ凍らせてしまっていたとしたら。俺が昔、思い浮かべた通りに。
夢と同じ風景に。
心の底から望んだように。
『冷やせ』
原因はわかっている。
能力が暴走した。
何故、と困惑はしなかった。原因はわかっている。既に前例があるのだから。
深海王の一件で、つい力を使いすぎた。そのしっぺ返しが来たということだ。
なんで。どうして。いや、全ては自業自得だ。
悔やんだって全ては手遅れ。
──もう、戻れないかもしれない。
それを今さら知覚して、呼吸が荒くなる。ジェノスの姿が、無免ライダーの顔が、泡のように浮かんでは消えていく。昨日のことなのに、もはや遠い昔のように感じられた。
「ヒーロー、」
うわ言のように繰り返す。
ヒーロー。ヒーロー、ヒーロー……馬鹿げてる。なれる訳ないだろ、こんな体で。
なりたかったよ。
でも、俺じゃなれない。期待や努力を超えた次元での諦めが、喉につっかえて飲み込めない。
心構えや勇気の問題じゃない。
俺は普通じゃない。怪人なんだから。
頑張るんじゃなかった。あんな、何のために俺は。違う、こんなこと考えたくない。
放っておけばよかった。
違う。
「嫌だ……」
もう、何もかもがぐちゃぐちゃだった。
その場で蹲り。
思わず、頭を抱えて。
「──────、」
そのこめかみから伸びる違和感に、叫び出しそうになった。
鏡を覗くまでもない。そんなレベルではもはや収まっていなかった。側頭部から髪をかき分けて生えた──ねじくれたツノ。
到底隠せるようなサイズではない。キャップでさえ誤魔化せそうにはなかった。
もちろん、ここまで肥大化したことなんてない。元に戻るかさえわからなかった。
「あ、ぁあ」
掠れて引き攣れた悲鳴が、喉奥から漏れた。
落ち着け。落ち着いてなんかいられない。
冷静に──ビー・クール。笑えない冗談だ。改めてそう思った。
ツノ。ツノが。どうしよう。
このまま戻らなかったらどうしよう。本当に怪物になってしまったらどうしよう。
冷え切って沈黙した部屋の中で、ばくばくと心臓だけが落ち着きなく脈打っている。
『静かに』
「違う」
寒くなんてないのに震えが止まらない。両肩を抱いて、がたがた震える。
違う。こんなのはおかしい。
おかしいんだ。
俺が望んだ現実じゃない。
「……覚めろ、」
気づけば、そう口に出していた。
そうだ。これこそが忌むべき悪夢。俺が本当に目覚めなければいけない暗闇なのだ。
背中を丸めて、ひたすら自らの頭を拳で叩く。気が狂ったとしか思えない光景だったが、そうでもしないと正気を失ってしまいそうだった。
否、もうおかしくなっているのかもしれない。
「覚めろ、覚めろ、覚めろ……」
呪文のようにぶつぶつ呟く。
夢ならどうか覚めてくれ。何もかも、悪い夢の延長線上であってほしかった。
ああ、ほら。
俺はこんなにも弱い。
いっそ狂えてしまえば良かったのに。
──そんな調子だったので、扉の外から気配が近づいてきていたのに、全く気づけなかった。
「………………」
嘆くのにも、いい加減疲れ果て。
ふと顔を上げたところで、ようやく外で、話し声のようなものがしているのに気づいたけれど。
時すでに遅し。
ばこっ、と鈍い音がした。
「あっ、…………」
そして、「やべっ」みたいな声。
暗闇に近かった室内に、さあっと四角形の光が降り注ぐ。それが爪先を掠めて、投げ出していた足をとっさに引っ込めた。
何事だ。閉じこもっていた殻を強引に剥かれて壊された気分で、出入り口方面に目をやる。
誰かが、立っていた。
大きな長方形を片手に佇む人影。逆光で、顔がよく見えない。その人影はゆらりと面を上げ、
「い──いや! 別にそんな……壊して入ろうと思った訳じゃねーぞ!? 鍵かかってないのにやたら重いからちょっと引っ張ったらそれで、」
慌てた様子で言葉を紡ぐ。
サイタマ──彼にドアを破壊されたのだ。そこでやっと状況を理解した。
鍵をかけた覚えは確かに無かったが、霜が張った影響で開かなくなってしまっていたのだろう。
ちょっと引っ張った程度で扉が蝶番もろとも取れるかよ、とか、どう直すんだ、とか、言うべきことは色々あるのかもしれないけれど。今は、そのどれも口に出す余裕はなかった。
サイタマが。サイタマが来てしまった。
──何故。いや、わざわざ探るような理由なんかないのか。あれだけボロボロで、治療を拒否したら当然のように心配する?
そんなことはどうでもいい。
どうしよう、どうしたらいい。
見られたら。この姿が、知れたら。どうしても頭をよぎるワード。
──怪人。
言い逃れしようがない。排除すべき危険分子。殺される。殺される、殺される、
ただでさえ落ち着かなかった心拍が、ますますテンポを上げていく。胸を押さえる。
「…………セツナ?」
異変に気づいてしまったらしい彼が、いつもより慎重な口ぶりで俺の名前を呼んだ。
やめろ。帰ってくれ、頼むから。
どうしたら、彼を穏便に追い出せるだろう。駄目だ、頭が回らない。そんな魔法みたいな解決方法が存在するとも思えなかった。
「そんなとこで何やってんだよ」
のんびりと、気の抜けた呼びかけ。普段なら安心するはずのそれに、今は恐怖しか覚えない。
殺される。つい、頭をよぎる。
死にたくない、死にたくない、死にたくない、
「ていうかこれ、」「来るな」
──思った以上に冷たい声が出て。
ざくざくと、テンポ良く霜を踏みしだいていた足音が不自然に止まった。
発言を宙ぶらりんにしたまま、サイタマが俺の背後に立ち竦んでいる。
怖い。恐ろしい。……惨めだった。
怪人だとか、バレたら殺されるかもしれないとか関係なく。こんな惨めな姿、見せられない。
見てほしくない。
死んでしまいたい。
「……見ないで、」
せめてもの抵抗で、頭を抱え込むように、より深く背を丸めていく。
サイタマはまだ黙っている。
嫌われたのかもしれない。そりゃそうだ、幻滅されても、不気味がられても仕方ないだろう。
「……はあ」
低く、息を吐き出す響き。それだけで、むりやりちぢこめた肩が勝手に跳ねる。
けれど。サイタマは、その場から踵を返すことも、俺を罵ることもしなかった。
その代わりに、
「なんかさ、」
不自然に弾んだ声が、虚空に木霊する。空元気を出そうとして、強引にトーンを上げたような響きだった。
「冷凍庫みてーだな。俺、スーパーでバイトしてた時期あってさ。こういうとこから品出しとかしてた……今、ちょっと思い出したわ」
言いながら、再び足音が近づいてくる。ほっと胸を撫で下ろすと同時に、恐ろしさを覚えた。
サイタマは、何を考えているんだ。これから何をするつもりなんだ。全くわからない。
今の俺は、普通じゃない。
いや、ずっとなんだ。
平気になったふりをして、実のところ、何も大丈夫なんかじゃなかった。3年前からずっと。
変わってきたふりをしてきただけだ。
「サイタマ、」
目的が、意味がわからない。恐ろしい。
咎める意味を込めて呼びかけても、サイタマはとうとう止まってはくれなかった。
恐ろしくて──惨めだった。どこまでも。
負の感情がごちゃ混ぜになって、思考回路がぐちゃぐちゃに腐り落ちていく。
嫌がっていようが関係ない、俺の意思なんてどうでもいいと思ってるんだろ。違う、どうして俺はこんな卑屈なこと考えてるんだ?
どうなってでも生きていたい気持ちと、こんな恥を晒してまで生きていたくない気持ちと。
耐えきれないから殺してくれ。
嫌だ、死にたくない。
サイタマなんて嫌いだ。
サイタマだけじゃない、ジェノスも、ヒーローも、この世界も、みんなみんな大ッ嫌い──自分の居場所が見つけられないからガキ臭く拗ねてるだけだ、そんなこと俺が一番よくわかってる、
「ぉぼぁ」
──サイタマの濁った叫びで、我に返った。
とっさに顔を上げる。彼が、グローブの両手で目元を覆った半端な格好で仰け反っていた。
何、と身を竦ませるより早く、
「ぉ……おま、なんつー格好、」
らしくもなく上ずって震えた声。
それで、見当がついた。そういえば、着ていた寝間着がボロボロになって、裸同然なのだっけ。今さら他人事のように認識する。
でも、そんな表層的な羞恥心は、この精神状態では響いてこなかった。今、恥ずかしい、見せたくない、と思うのは、もっと深い部分。アイデンティティとしての悲惨さ。
とはいえ、サイタマとしてはまったくそうではないようで。
「ちょ、ちょっと待て!」
勢いよく背を向けて、何かいそいそと作業していたかと思えば。ふわりと視界を覆う白。
「と、……とりあえず、これで、いいだろ……」
肩から被さった布──彼が、ヒーロースーツの一部として身につけていたマントだった。
わざわざ肩当てから外して、簡易的な着衣として貸し与えてくれたらしい。ひとまず、緩く掛かっていただけだったそれの前を軽く合わせて、一応前面を隠す。
すっぽり包まる形になって、それでようやく見るに耐える格好になったらしい。わざとらしく壁を見上げていたサイタマが、俺に向き直る。
……何となく、こちらも拍子抜けというか。毒気を抜かれたような気分になってしまった。
微妙な空気の中、頬を掻きながら、
「あー……えっと、」
気まずそうに呼びかけてくる。けれど、改めて俺と目を合わせて、眉を下げてみせた。
何か言いかけて、口をつぐんで。音にならないそれを数回繰り返して。
最終的に、ぎこちない仕草で、しかし自然にこちらの肩を引き寄せてきた。壊れ物に触れるような手つきだった。
しかし。
──触れ合うことに、反射的に強い恐怖心を抱いたのが良くなかったのだろうか。
サイタマのグローブにさあっと霜が張り。その首筋に、氷の蔦が這う。その現象を間近で目の当たりにして、背筋が粟立った。
存在しているだけで生まれる加害性。
生きていることが害。呼吸することが悪。
あのノイズが一瞬で脳を埋め尽くす。
──殺してしまう!
「嫌だ、」「セツナ」
離れなければ。強迫観念に駆られて。
とっさに飛び退いたところで、背後から強い語気で名前を呼ばれた。
結局、足がもつれてその場に倒れ込む。そこに勢いよく重なってくる影。俺に覆いかぶさったサイタマが、間近でこちらを見下ろしていた。
緊張で乱れた呼吸が整わないまま、彼を見上げる。いつもよりは引き締まったサイタマの表情。
「大丈夫だから。……生きてるだろ?」
見つめ合ったまま、噛んで含めるように呼びかけられて、少しだけ平静を取り戻す。
大丈夫。サイタマは無事で、生きている。
まだ、触れるのは怖かった。しかし、ここからさらに抵抗するのも気が引けた。
悩んでいるうちに、彼は俺を慎重に抱き起こし。その肩口にもたれかからせてしまう。
触れて、しまった。
「平気だって」
まだ、体が強張っているのがわかるのだろう。なだめるようにそう囁いてきた。
そう言う彼の触れ方だって、おっかなびっくりがあからさまなものだ。まるで初めて赤ん坊に触る子どもみたいな動き。
緊張をほぐすように、輪郭を撫で、髪を梳いてくる。
「だから……もう泣くな」
──泣いてないよ。
言い返す気力もなかった。ただ、脱力して、こわごわといったふうにあやしてくる彼の手に身を任せるだけ。
恐怖も、羞恥ももはやどこにもなく。今はただ、ひたすらに疲れていた。
「ほら」
彼が、グローブを取った左手で、投げ出していた俺の右手を掬い上げる。目線の高さまで持ち上げて、ゆっくり指を絡めてくる。
今度は、凍らなかった。
「冷たくない。な?」
数度、感覚を確かめるように握り返す。
深く指を組むと、手の甲まで覆えてしまいそうだった。大きな手。3年前と同じことを思った。
重なった手越しに、目が合って。なぜか、得意げに微笑まれた。
「………………」
組んでいた指をほどき。
恐る恐る手を伸ばして、その頬に触れる。普通の人間と何ら変わりないように見える肌。だから、壊してしまうんじゃないかと怖かった。
けれど。サイタマはただ、くすぐったそうに三白眼を細めただけだった。
生きている。
そっと指を滑らせて、首筋に当てた。とくとくと、皮膚の下で脈打つ血の流れを感じる。
温かった。この世の果てのようなこの部屋の中で、サイタマは平然と、いつもどおりに息をしている。彼が。彼だけが。
「……サイタマ」
「おう」
ごく短いやり取り。それだけでじゅうぶんだった。満ち足りていた。
それ以降は、沈黙だけが流れた。
サイタマの肩に半身を預けて目を閉じて、どれだけそうしていたのか。
先に動いたのは、彼のほうだった。慎重な動作で体を離したかと思えば、こめかみ辺りに触れてくる。ずっと気になっていたが、口に出す機会がなかったのかもしれないもの。
「これ……何だ? ツノ?」
──どきりとした。
誤魔化しようがないほど成長したそれに触れるサイタマの口調は、単純に興味深そうなだけであったが。それでも、収まりかけていた焦燥感と怯えが、再びぐつりと沸き上がるのを感じた。
何もかも、このツノが悪い。
こんなものがあるからいけないのだ。
これのせいで俺は。
胸の内で渦巻くその感情は、今さらどうにも抑えられそうになかった。衝動に任せて、告げる。
「折って」
無くなりさえすれば、少しはマシになる。
化け物の姿からは解放される。
そんな安直な考えだったが、当然というべきか、サイタマの反応は鈍かった。
「え、」
「これ……」
ツノに触れるサイタマの手に、自分の手をさらに重ねて、握らせる。感覚はやはり薄く、例えて言うなら毛先に触られているのと同じような、それよりももっと鈍いレベルだ。
「折る、って……お前から生えてるヤツだろ」
漠然とした口ぶり。怪人化とか、そういったレイヤーにまで到達していなさそうな軽さだった。
予想以上に、サイタマはこのツノの理由について深く考える気はないらしい。考え込まれても困るが、怪しいくらい拍子抜けだった。単なる動力源くらいに思っているのだろうか。
まあ、今はそれについて色々と思考を巡らすのはよそう。すぐに面倒なことにはならない。
とりあえず、それだけでいい。
「こんな、……いらない、」
そんなサイタマにも、俺の迫真の訴えはそれなりに響いたらしい。明らかに気が進まないようではありつつ、しかし、拒む様子も見せなかった。
日常生活に支障がありそうだから、というようなぼんやりした理由なのか、それとも俺の剣幕を汲んでの話なのか。それはわからないが。
ふう、とひとつ息を吐いてから、感触を確かめる以上の強さでツノを握り込んでくる。首に負担が掛からないようにするためか、もう片方の手で頭をしっかり胸元に抱き込まれて、少しどきりとした。
「血ぃとか通ってないよな」
ぶつぶつと、小声で呟いたかと思えば。ぐっと頭部に衝撃が走り──ぽきん。
「……折れたぞ」「っ、…………」
ごく軽い音とともに、なぜか全身を襲い来る異常な倦怠感。やはり力の源的な部分ではあったのか、いきなり四肢に力が入らない。
「結構、根元から綺麗に……痛かったか?」
突然もたれかかってきたのを何と捉えたのか、気遣わしげに顔を覗き込んでくるサイタマ。
それは有り難いのだが、ここまで来たからにはちゃっちゃと済ませてほしい。サイタマの手のひらに載ったツノは、ただのねじれた氷柱に見えた。彼はそれをぽい、と床に気軽な仕草で投げ捨てる。
何となく、ほっとした。
「だいじょう、ぶ……残った、ほうも」
「お、おお……」
息も絶え絶えになりながら訴えた結果、もう片方も無事にぽきん、と除去された。
少し触っただけでもわかる、単なる氷ではない材質と強度だったのだが、随分と簡単に折れたものだ。いや、これはサイタマだからこそ、だったのだろうか。もしかすると、普通の人間や器具には歯も立たない硬度だったのかもしれない。
とりあえず、悩みの種はなくなった。
これで、見た目だけでも人間に戻れた。
それはいい、のだが──
「セツナ?」
「……ねむい……」
そうか。これは眠気、だ。
ようやくぴんと来る。
3年以上、原始的な欲求とは無縁の生活をしていたせいで、この特徴的な脱力感が一体何なのかをすっかり忘れていた。
全てを放り出して目を閉じてしまいたい強烈な欲求。抗いがたい衝動。久しぶりに覚える。
「………………」
人間らしく、それに逆らわず、瞼を下ろしてサイタマに寄りかかったところで。
「……とりあえず」
「わ、」
突如全身を襲った浮遊感に、意識が勢いよく浮上した。──サイタマに、マントに包まれたまま横抱きで抱きかかえられていた。
これも昨日ぶりか、とどこか他人事じみて捉える。眠たいとはいえ昨日の満身創痍よりは覚醒した状況で、こんな運搬のされ方は恥ずかしい。
しかも、マントがあるとはいえ俺は全裸なのだ。恥ずかしいはずなのに、上手く口に出せなかった。
「こんなとこじゃ気分も休まらねーだろ」
薄暗く、死んだように静かな部屋を見渡して、サイタマはそんなコメント。
それから、唯一の光源である、プライバシーをかなぐり捨てた出入り口を見やって。
「ドア…………壊しちゃったしな」
いや、冷静になってみれば、本当に明日からこれはどうすればいいんだよ。
「まあ、ちょっとここで休んどけよ」
「あ、ありがとう……」
結局。サイタマの部屋までやってきて、敷きっぱなしだったらしい布団に寝かされた。
他人の布団にほぼ全裸で入る、人生で未だかつてない、そして今後も起こらないで(いてほしい)あろう経験だった。とはいえ、今さら「ちょっと」などと抵抗するのは逆に厚かましいだろう。
できる限り何も意識しないようにしつつ、掛け布団を首元まで引き上げる。
当のサイタマは、その枕元に胡座をかいて。
「……冷気も落ち着いたみたいだな」
崩れた前髪を慎重な手つきでかき上げて、その下の表情を覗き込んでくる。
「お前いっつも顔色悪いから、調子良いんだか悪いんだかよくわかんねー」
からからと、軽妙に笑い飛ばしてくれるその空気が有り難くて。……てっきり、もう少し話してくれるものだと勝手に期待していた。
母親が熱心に看病してくれるものだと信じ込んでいる、風邪っぴきの子どもみたいに。
「ま、ゆっくり寝ろって」
でも、サイタマは躊躇なく腰を上げて。俺に背を向けて離れていこうとする。その手を──
「行かないで」
──思わず、掴んで引き留めていた。その肌に爪が食い込むほど強く。
そうせざるを得なかった。
そうしないと、死んでしまう。
少しは落ち着いたのかもしれない、と思った。サイタマも、そう思っていたのだろう。やや驚いたような顔で、肩越しに俺を見た。
でも、駄目だった。
一人にされると思うと、怖くて、焦って、眠るどころじゃなくなってしまう気がした。
もう大丈夫、と思っていた不安が、ちょっとしたことで一気に噴出して、心の表面を覆う。急転直下の不安定ぶりに、自分でも驚いているくらいだった。
惨めで、女々しい。25にもなろうかという男が抱くような不安ではない。わかってはいても、もはやどうしようもできなかった。
恐ろしいのだ。到底、一人なんかで立ってはいられない。自分じゃ何も考えられない。
「怖いよ」
──怖い。
思わず漏れたその一言に、サイタマが静かに目を細めた──ような気がした。
ゆっくり、踵を返して。再び、元いた位置に腰を下ろす。それだけで、どうしようもなく安堵している自分がいた。
半端な位置で掴んだ手を、しっかり握り直して。そうして、彼は穏やかに尋ねてきた。落ち着いた、大人の男の声だった。
「……お前は、何が怖いんだ?」
何が? ……何もかもが。
怖い。
怪人協会が。サイコスが。ガロウが。アマイマスクが。ヒーロー協会が。ジェノスが。
俺の体を受け入れない人間たちが。
俺の魂が座る席のないこの世界が。
ありとあらゆる全てが。
怖くて怖くてたまらない。
死んでしまいたい。
「どうしたら、お前を安心させてやれる?」
──どうしたら。
そんなの、決まっている。
重い瞼を上げて、彼の目を見つめ返す。
確かな光の灯った、ヒーローの瞳を。その輝きはとても眩くて、これさえあれば、どんな暗闇でも生きていけるんじゃないかと思った。
彼さえいれば。
握られた手を、強く強く、握り返す。
「サイタマがそばにいてくれたら」
それでいい。それだけがいい。
人々から、世界から。
俺の全てを守って。助けて。壊してくれ──俺のヒーロー、ワンパンマン。
この世界で俺の手を握っていられるのはもう、お前しかいない。
短くなりそう(〜5000字くらい?)と思ってたら全然2倍近くあったので書き終わりませんでした。
サブのスマホがいきなり起動しなくなって病んでました。そんな感じです。