うっかり怪人♀になってしまったっぽいが、ワンパンされたくないので全力で媚びに行きます。 作:赤谷ドルフィン
あれから、何事もなく数日が過ぎてしまい。
サイタマの手がかりを失った俺は、例の児童公園でぼうっと時間を潰す日々を送っていた。
本当に、何もしない。
朝、ネットカフェで目を覚ましてから、日が暮れるまで、ただベンチに座っているだけ。
虚無の極みのような毎日だったが、それ以外に何かする気にもなれなかった。
「………………」
ほとんど人が通らない道を眺めるのにも飽きて。じっと、血の気を失った手を見つめる。
不思議なことに。
あれからほとんど飲み食いしていないが、腹が空いた感じはしない。たまに口寂しくなってドリンクバーを使ったりはしたが、それだけだ。今も何となく自販機で買ったミネラルウォーターのボトルが手元にあるが、栓を開ける気もしない。
なのに、体が弱っている感覚もない。
こんなのは、明らかに変だ。
おかしい。
飲む、食う、出す。人間に必要なはずの生理現象が、失われている。それに加えて何となく夜は寝ているが、眠らなくてもきっと平気。
「金がかからないのは、いいけど……」
腹に手を当ててみる。そこでふと、思った。みぞおちの下辺りにやっていた手を、さらに下へ。
食欲、睡眠欲──そして、性欲。
三大欲求から連想したが、したいかどうかではない。その『機能』があるか。
「……無くなってそうだなあ……」
そして、“セツナ”に対する再びの罪悪感。
体を勝手に乗っ取っておいてこんな下世話な想像までして、本当に申し訳ないです。
「はあ」
……今日はもう、帰ろうかな。
ネットカフェに引きこもっていると頭が云々は確かにそうなのだが、だからといって、こんな寂れた公園で来るともしれない人を(一方的に)待ち続けるのもなかなか精神的にきつい。
漫画が読みたかった。
幸い、ネカフェに帰れば、漫画はいくらでも読み放題だ。心置きなく世界に浸れる。
アクション漫画が良い、できれば不快感ない主人公が無双するヤツ……ああ、俺、もしかしてまた持病を発症しかけてる?
「……ん?」
──そこで、代わり映えしなかった景色に新たな登場人物が現れたことに気づいた。
出入口付近に、ジャージ姿の男が立っていた。それが、なぜか真っ直ぐ近づいてくる。こっちには自動販売機もないし、トイレもないのだが。
何なんだ、一体。
「あんた、」
その過程で呼びかけられて、ようやく身元に合点がいった。そして、だいぶ驚いた。
まさか、まさかの、
「この間の、だろ」
サイタマだった。
服装は先日と違ったが。
小走り程度だった歩調をだんだんと緩めて、自然に俺の目の前で立ち止まる。肩に垂らしたタオルでこめかみの汗を拭う。
「サ、…………さ、サラリーマン志望のひと」
「なんじゃそりゃ。就活中だったけどさ」
危ねえ、気が動転して名前呼びそうになった。まだ教えられてもないのに。
慌てて軌道修正したが、無理がある気がした。幸いサイタマはさらっと流してくれたが。
「よく……覚えてましたね」
「まーな。その見た目のおかげかもだ。あんた、結構目立つし」
「う、」
思わずキャップの鍔を引っ張る。
この髪色と肌の白さのせいだろう。人混みで写真に写り込んだら心霊現象扱いになるかも。
そのままうつむき加減で当たり障りない話題を振っておく。
「……ランニング中ですか?」
「ああ、トレーニング……始めたんだ」
腹筋100回、腕立て伏せ100回、スクワット100回、ランニング10キロ……だっけ。
ジェノスはこれを『普通』と罵ったし、サイタマの強さがこれのおかげだけとも思わないが、よく考えなくても面倒臭い運動量だと思う。
「就活はやめた。ヒーローになる」
そのためのトレーニング。
にっと、歯を見せて笑ってみせる。実に誇らしげな笑顔だった。
「まずは体力つけねーとな」
玉の汗が浮かぶ健康的な顔。そこで、手をつけていないミネラルウォーターのことを思い出した。
「あの、これ……どうぞ」
手慰みと化していたそのボトルを差し出す。しばらく膝に乗せていたが、体温が低いおかげで温まったりはしていないはず。
「まだ開けてないので……」
「いいのか?」
サイタマのほうは遠慮するでもなく、躊躇なく受け取ってくれた。
「くれるんなら、有り難くいただくけどな」
キャップを捻って中身を豪快に呷る。1/3ほど飲み干してから、口元を雑に拭って、
「俺、サイタマ。あんたは?」
ようやく情報開示された。その前にうっかり「サイタマさん」と呼んで怪しまれる事態は回避できた訳だ。
そこでふと、その後ろにくっついた疑問符に意識が行く。聞いているのか。俺に、名前を。
「お、……わ、わたし……」
滑った口を慌てて軌道修正する。
一人称「俺」はちょっと、マズイだろう。
俺が目指したいのは、若い女性の平均値だ。多数派を演じていきたいのだ。目指せ量産系。
──で、名前のほうだが。
捏造する? まさか前世(仮)の本名を名乗る訳にもいかないだろう。性別が違う、と言ってもこの世界の命名センスは明らかにそういうものを下地にしていなさそうだが。しばらく迷って、
「セツナ、です」
結局、元の名前を名乗った。
好感度が上がりそうな響きがとっさに思い浮かばなかったのもあるし、『清楚な女性』の仮面を被って演じる上では都合が良い気もした。
「セツナ」
サイタマは淡々と繰り返して、それで、なぜかベンチの隣に腰掛けてくる。
「あんた、この辺りに住んでるのか?」
興味を持ってくれたのか。
何となく、不思議な感じがした。本編時のサイタマはほとんど他人に無関心、住み込みの弟子として献身的なジェノスをたまに気遣っているくらいで、まあ、それも受け身の姿勢だ。
3年前まではわりと積極的だった、という解釈でいいのだろうか。
「いや……」
しかし、自分の話か。
どこまで話すべきだろう。
一瞬悩んだが、同情は引けるだけ引いておいたほうがいい。悲惨な境遇は事実なのだから。
「実は……怪人災害で家も、家族も……」
隣で、サイタマが微かに息を詰めたのが聞こえた。
ジェノスの件を鑑みるに、「フーン」程度で済ませそうなイメージを持っていたが、随分と良い反応をしてくれるものだ。そんな不謹慎なことを考える。
「……今はネットカフェで夜を過ごしてますが、これから、どうしたらいいのか……」
続けて口にしたこの悩みは、本心だった。
「でも、何もする気になれなくて……」
これも、本心。
困っている。怖い。つらい。
一部では、“赤井佑太”の苦痛と“セツナ”の苦痛は重なっている。何もかもを突然奪われて、迫害されるべき存在になってしまったという点では。
そこで一旦、サイタマに目を向ける。
「……それで、…………」
サイタマは、何か言いかけて、わかりやすく言い淀んで。がりがりと荒っぽく髪を掻いた。
「あー……その、なんだ、セツナ」
もどかしそうに呼びかけられる。改めて彼の顔を見返したが、視線は逸らされてしまった。
「なんかまた、困ったことあったら言えよ。俺、これから毎日この辺走るからさ」
──思いもよらない申し出に、さすがに二の句が継げなかった。
その場しのぎで投げかけられた訳ではない、確かな重みを感じる言葉。まさか、サイタマからこんな人間味溢れるセリフが聞けるなんて。
衝撃を受けたことによる俺の沈黙を何と取ったのか、サイタマはぎょっと目を見開いて、
「いや、他意はねーぞ!? 俺はこう、純然たるヒーロー志望の若者としてだな、」
わかりやすい弁明。
出会って早々に下心かよ引くわ、と心的距離を置いたと思われたらしい。
もしサイタマに疚しさがあったとして、今の俺は到底彼を非難できる立場にないのだが。
「……ありがとう、」
とりあえず、礼だけをつぶやくと。
ロボットダンスのように両腕をばたつかせていたサイタマの動きが、はたと止まり。その置き場所にさんざん迷う様子を見せてから、
「……おう」
最終的に、照れ臭そうに頬を掻くだけに留まった。
それから、脇に置いていたペットボトルのキャップを開けるなり、ごぼごぼと浴びる勢いで中身を飲み干して。すっくと立ち上がり。
「じゃ!」
そう叫んで、ランニングというには大振りな動作で公園を出ていった。……ちなみに、空のボトルはきちんとゴミ箱にシュートされた。
その一連の動作を見た俺はといえば。
「……すごい人間人間してるなー……」
どうこう思う以前に、そんなナメた感想しか出てこなかった。いや、あんな情緒が彼に備わっているとは思っていなかったもので。
犬にお手を命じたらいきなり喋り出したかのような未知の衝撃を得ている。失礼すぎるか。
「ラッキー……ではあるよな」
サイタマからわざわざ接触してくれたのだ。これを逃す手はないだろう。
「まあ、今日はとりあえず──」
ネカフェに帰って、主人公が無双するタイプの長編アクション漫画が読みたい。
それから、この児童公園で何となく落ち合う日々がスタートした訳だが。
最初はただラッキー、と思っていたのが、日が経つに連れて、だんだん不安になってきた。
だって、都合が良すぎるだろう。
たまたまサイタマに会えたまではいい。
その後、何事もなかったのにこんなにあっさりと関係性が続いていることに、違和感しかない。それを単なる幸運で済ませられるほど、今の俺の脳内は平和ではなかったのだ。
今日も今日とて、サイタマは当たり前のように俺の隣に座って、雑談を振ってくる。
それに不安を覚える。
しかし、言うべきではないことかもしれない。わざと見ないふりをするべき、わざと放っておくべき要素なのかもしれない。少なくとも、サイタマに面と向かって問うようなことでは。
──そう、わかってはいても。
わかってはいるのだが。
不安定な計画の上に成り立った俺の精神は、そのひずみには耐えきれそうになかった。この疑問を解決しないことには、前に進めそうにはない。
「そんで、」
「サイタマさんは」
慎重に、彼のセリフを遮って。
「わたしのことを、変だと思わないんですか?」
できるだけ穏当なワードを並べて、核心に切り込んでみる。お前が俺を気にかける理由とは。捨て置いて構わない一般市民だったはずだ。
しかし、サイタマは、
「……なんて?」
何とも微妙な表情をしただけだった。端的に言うなら、意味不明。そんな顔つきだった。
「だからその……不気味だとか」
「別に……思わねーよ」
「そうでしょうか」
「なぁんで食い下がる」
彼は軽く呆れているようだったが、俺には重大な疑問だった。
「わたしは“わたし”を不気味だと思うからです」
俺に近づくサイタマが変なら、それを拒まない俺自身もまた、不気味で奇怪な存在だ。
どうして怪しまないのか。どうして放っておかなかったのか。今の“セツナ”に、そこまでの価値があるとは思えなかった。
「うーん」
が、サイタマは、またもや曖昧な受け答え。生返事と唸り声の中間のような声を出しながら、ぐるんと大きく首を捻って。
──そこで、何かを思い出したようだった。
「……あんた見てるとさ、」
虚空を仰いで、自身の記憶に浸る表情。やがて、閉じていた瞼をゆっくり開いて、
「ブタの貯金箱思い出すんだよな」
「ブタの貯金箱」
予想外のワードに、思わず硬直。
ブタの貯金箱。ブタの貯金箱って、
「いや、悪口とかじゃねーから!」
「悪口以前に脳内で人間とブタの貯金箱が結びつくイメージが浮かばないんですが……」
慌てた様子でフォローが入ったが、それ以上に不可解な点が多すぎる。サイタマの家のインテリアにブタの貯金箱なんてあったっけな。
「ブタの貯金箱かぁ……」
「だから、見た目の話じゃねーって」
例えそのものに引っかかっている訳ではなく、どうして『サイタマ』の口からそんなワードが飛び出してきたのかを探っていたのだが。
まあ、そんな超個人的な思考回路を曝け出す訳にもいかず、黙っていたところに。
サイタマの、思い出話が始まった。
「あれは……中学生になったばっかの時期だったかな。あの頃の俺、社会ってつまんねーことばっかりだと思ってた」
──あ。どこかで見たようなセリフ。
「宿題忘れて教師に目ぇつけられるし、不良にボコられるし、カツアゲはされるし」
指を折りながら、当時の苦行を述べていくサイタマ。それで確信が得られた。
「でも、社会ってそーゆーもんなんだよな。それで他の奴らは上手く立ち回ってんのにさ。俺は全然上手くやれなかった。負け続きだったよ」
番外編として収録されていた、サイタマの中学生時代。その話を、彼はしているのだ。
「……何の話だっけ。そうそう、入学早々宿題忘れて、放課後職員室に呼び出されたところで不良にボコられて、200円取られて──」
それで、ブタの貯金箱の怪人に会った。
「──で、ブタの貯金箱に会った」
ほらね。何となく誇らしい気分になる。
「貯金箱っつっても、怪人だけどさ。人間の手足が生えてて、キモかった。名前は……忘れた。俺をボコった先輩をボコったそいつを、俺は何でか追いかけてったんだよな」
結局、普通に返り討ちにあったし、俺の200円は返ってこなかったけど。
一瞬苦い顔になりつつも、すぐに表情を緩めて。ベンチの背もたれに体を預ける。
で、どうしてサイタマはそんな話を。
そのイベントについてはまだいい、問題は、どうしてそれを俺に結びつけ──
「なんか……そん時の気持ちだな。思い出すの」
──暴力的な納得が、理解より先にみぞおちに抉り込んできて、呼吸ができなくなった。
サイタマは。怪人を追いかける彼は。
あの時、一体どんな独白をした?
「つまんねー日常の外側からやってきた。俺は、そういうモノを求めてたんだ」
退屈な日常の外側。
そこからやってきた存在。
単純な比喩表現だったのだろうが、俺は息が止まるかと思った。日常の外側──目新しさや特別と言えば聞こえはいいが、つまりは異物だ。
この世界を“ワンパンマン”と名づけられた創作物として消費し、今もなおメタ的に捉えている俺。
サイタマはそんな俺を『日常に混入した異物』と認識して、あまつさえそこに惹かれている。
おそらく、無意識ながらに。
ぞっとした。
「あんたの見た目じゃなくて……もっとこう……ダメだな、上手く言えねー」
サイタマ自身はその肝心な正体を、上手く掴めていないようだったが。
頼むから、そのままでいてくれと思うほかない。ノートの入ったリュックをきつく抱き締める。
「だから……まあ、少なくとも、不気味とは思わないって。気にすんなよ、………………」
彼の的外れな慰めが、宙ぶらりんになる。
ああ、今の俺は、一体どんな顔を。
「……セツナ?」
異物。異物か。
深く息を吸い込んで、吐き出す。
「…………わたしも、同じ気持ちです」
それならそれで、構わない。
元より俺は彼をどうこう言える立場ではないのだ。開き直りを込めて、その目を見つめ返す。
「サイタマさんは……わたしに何か、特別なものをくれる気がして」
「特別ぅ?」
暢気に、素っ頓狂な声を上げるサイタマ。
彼はまだ、何も知らないのだ。いや、3年後の彼が“それ”に自覚的であるとも思わないが。
「特別ったって、なんも持ってねーぞ。……あ、200円ならあるけど」
「お気持ちだけ受け取っておきますね」
あなたがくれる、特別なもの。
世界で一番、安全な場所。
サイタマが本能で望む『世界の外側』を、俺は見せてやることはできないだろう。なぜならきっと、世界そのものが壊れてしまうから。
彼はそれでもいいと思うのかもしれない。
けれど、俺は困るのだ。
このまま彼の望みを利用するのは、騙しているようで気が引けたが。
「サイタマさん」
「うん?」
今さら、後には引けないのだ。
できる限り優しく、微笑みかける。
“セツナ”の笑みを思い浮かべて。
「あなたに会えて、良かったです」
打算…ッ!圧倒的打算…ッ!